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緑色の空 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
佐藤馨
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邂逅

 翌日の早朝、馨は宿を後にした。


 山登りよりは楽だろうと思っていたが、下りは、かなり膝に来た。

 こんな竹林に入るには軽装だったのかもしれなかった。


 鬱蒼とした竹林は、頭上から時々、鳥の声とも猿の声ともつかない、キィキィという鳴き声がして、馨は其の(たび)に、少しずつ恐怖感を募らせた。


 疲れると、座り込んで眼鏡のレンズを拭き、店なんか無いから、と言って親切にも宿の初老の女性が渡してくれた握り飯を食べた。


―こんなところに、本当に(りゅう)が居るのかな?(そもそも)、本当に人が住んでいるのかな。


 しかし、(そもそも)、此処に龍顕が居るのか、という事自体を疑ってしまうと、体の力が抜けて此れ以上歩けなくなりそうだった。


 此処で死んだら遺体すらも長い間発見されないのでは、などと思うと、恐怖で、更に足が動かなくなりそうだったので、馨は必死に考えを打ち消し、歩いた。




 馨は、歩きながら、龍顕の事を思い出していた。


 龍顕は、某有名私大を大学受験し、アッサリ合格して、此の春からも、練馬の馨の家から、横浜に在る理工学部のキャンパスに通う事になっていた。


 龍顕の成績だと、もっと上の大学でも行けた(はず)だから、誰もが龍顕の合格を当然の事だと思っていた。


 龍顕は、かなり運動も出来るのに、そういった事には参加したがらず、しょっちゅう何か調べ物をしていた。


 学年が違うので、正確な事は馨には分からないが、所謂(いわゆる)、当たり障りなく人と付き合うタイプで、友達自体は多かった様子だ。

 何をするにも、そつが無かった。


 派手な容姿なのに、不思議な程周りから浮かない奴なのだ。

 彼女が居るという話も聞かなかったが、居ても不思議は無い、という風な見方はされていた。


 眼鏡を掛けて以降、自身の容姿が、地味か派手かで言うと、地味の方に分類される事に自覚の有る馨には、羨ましい限りの話である。


 彼女の話については、他人に真偽を正されると、龍顕は芝居がかった口調で『故郷に婚約者が居るから』などと言っていた。

 其の絶妙な()()()(かた)に皆笑って、何時(いつ)も其の話は終わってしまっていた。


 まさか誰も、本当の事などとは思うまい。


 祖父の話だと、『水配り(ミックバイ)』とかいう謎の婚姻統制で、龍顕には集落の(おさ)に結婚相手を決められる可能性が有る、との事だった。


 馨は昔、出会ったばかりの龍顕に、勉強のコツを聞いた事もあった。


 龍顕は、『目標を持つ事』と言った。


 目標が、良い成績を取りたい、成績を上げたい、という目先の話では具体的ではないと言われた。


 どの(よう)な職業に就きたいか、という(よう)な先の事から逆算していくのがコツだ、と言われたのである。そうすると、自ずと、どの学校に通うのが良いのか、という事が分かってくるのだ、と。


 大学なのか、専門学校なのか、高専なのか、どの学校かは其れによって変わってくる。

 そうすると次は、志望校、志望学科が決まってくる。

 其れに向けて、合格するのに必要な要素を項目として洗い出す。

 そして、其の中の、自分の得意な項目は磨き、苦手な項目を潰していく。


 そうすると、学校の成績は、自然に上がっている、と。

 過去問とは(まさ)に其の為の物だと。


 馨は、そういうものか、と思って、勉強して、龍顕と同じ中学を受験して、運良く受かった。


 周囲からは、信じられないと言われた。

 中学校受験というのは、六年生から、何とは無しに受験しても上手くいかない、もっと、小学校三年とか四年とかから、塾に行って準備するものだと散々言われた。


 此れについては、馨は、よく分からない。

 行きたいと言ってみたら、親が塾に行かせてくれて、受験させてくれたから、としか言い(よう)がない。


 しかし、合格してみれば、龍顕の(よう)な考え方をする生徒は、あまり多くなかった。


 何とか勉強して成績を上げて、自分の成績の中から、行ける学校を探して、其処に受かってから、其処から行けそうな就職先を選んで就職活動をして、何とか糊口(ここう)を凌ごうと思っている様だった。


 馨は、其れは其れで目から鱗だった。

 其れだって全く悪くない。流された先に天職が在るのかもしれない。


 馨は、そうして暫く勉強していると、頑張っても苦手な項目が潰せなかったら如何(どう)するのだろうと思ったので、龍顕に、そう聞いた。


 すると、目標に向かって遣ってみて、早いうちに適性が無い事が分かれば、違う道を模索する事も出来るし、そうすると成績の方は、やはり、何かを目指して勉強する前よりは上がっているだろうという返答をされた。

 立て板に水であった。


 今にして思うと、進学校で成績上位の大学現役合格者に聞いたのが悪かったのだが、御陰様(おかげさま)で馨は、中学高校と、何とか遣ってこられた。


 しかし、次は大学受験なのに、志望は(いま)だ定まらない。

 春休みが終われば高校二年生である事を思い出す(たび)、馨は暗澹(あんたん)たる気持ちになる。


 しかし()(かく)、中学生の時点で、そんな事を言う人間が、()()り大学進学を蹴って行方を(くら)ますなどという事が、馨には信じられない。

 だから探しに来た。

 そして、絶対、もう一度会う。


 だから頑張るのだ。




 馨は、黙々と歩いて、やっと明るい場所に出た。


―やった、屋敷の裏に出たのかも。


 頑張って、竹林を抜け、這い出すと、急に視界が開けた。

 何かの建物の裏に出る事には成功したらしい。


 ホッと安堵の溜息を一つついて辺りを見渡すと、誰かが立っていた。




 其処には、何だか、肌も髪も、全体的に色素の薄い、浮世離れした容貌の華奢な女の子が居た。


髪も非常に長く、何だか少し、絵本の『かぐや姫』みたいな恰好をしているな、と馨は思った。


 泣いていたのだろうか、長い(まつげ)で囲われた瞳は、少し赤くなっている。


 人形の(よう)な、白い子猫の(よう)な、何処か儚い容姿だが、年の頃は高校生くらい、というところだろうか。


 陽光に淡く光る、美しい髪と白い肌を見ながら、馨は何故か、(えんじゅ)の花の事を思い出した。


 そして、見詰め返された相手の目に吸い込まれそうで、馨は戸惑った。


 淡く紅を塗られた、小振りな、形の良い唇が、何かを言い掛けた。


 叫ばれると非常に不味い、と、馨は焦った。


 此処は一応、他所(よそ)(さま)の敷地内である。

 態々(わざわざ)裏山から現れて、筍泥棒(たけのこどろぼう)と思われても無理も無い登場の仕方をしたのだから、馨に非が有る。


「あの、俺、怪しい者ではありません。人を探しています。俺、佐藤(さとう)(かおる)といいます」


「佐藤?あ、宇子(たかこ)さんの」

 女の子の青白いまでの頬に、さっと赤みが差した。


「え、もしかして…佐織ちゃん?」


 見開かれた瞳から、ボロボロと涙が零れたので、馨は更に戸惑った。


「信じられない。(かおる)お兄ちゃんなの?まさか此処で会えるなんて。如何(どう)して、如何(どう)やって此処に?あ、あの、宇子さんは、宇子さんは元気ですか」


 一気に、まるで、今、話し方を思い出したかの様に佐織は喋りだした。


 泣きながら微笑んでいる女の子にズイッと近寄られ、馨は非常に戸惑った。


 自分を見返す、佐織の()栗鼠(りす)(よう)(まる)い瞳が輝いていて、大変心臓に悪い。


「ああ、母さんは大丈夫。家に居る」


 実際は無事(こともなし)とは言い(がた)い状態で帰宅したのだが、流石に今は、そう言わない方が良い、と、判断したので、馨は『大丈夫』の部分を、やや強調して言った。


「良かった」

 佐織は、顔を覆って、もっと泣いた。


 絹の着物を重ねて着ているのに、随分細く見える肩が、震えていた。




「馬鹿、御前、何で!」


 其処に、大急ぎで駆けてきた和服の男が、馨の肩を掴み、小声で、そう語りかけた。


「龍、御前!」

「馬鹿、馨!静かにしろ!」


 暗い色の和服を着ているせいで、一瞬誰だか分らなかったが、紛れもなく、龍顕だった。


 龍顕は、佐織に向かって、目配せした。

「此の事は誰にも言わないで」


 そう言うと、龍顕は、馨の腕を掴んで、竹林の中に入っていこうとした。

「馨、こっちに来てくれ。見付かると不味い」


 もう一度竹林に入るのは嫌だったが、馨は其れに従う事にした。


 振り返ると、佐織が不安げに此方(こちら)を見ていた。


 少し離れがたい気持ちになっている自分に驚いて、馨は、慌てて龍顕の後を追った。


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