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緑色の空 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
瀬原集落
12/49

 其れから、佐織は、とても嬉しい、ウキウキした気持ちになった。


―誰だろう。誰が此の写真を渡してくれたのかしら。


 しかし、紀和に写真が無いと言われた手前、周囲の人間には、写真を手に入れた事は伝え(づら)い。


 だから佐織は、朝餉の後、庭に出て、コッソリ写真を眺める事にした。




 見れば見る程、写真の女の子は佐織に似ていた。

 父親に似たのか、背が高いのを気にしている佐織とは違い、小柄そうではあったが、顔も、髪の感じも、佐織そっくりだった。


―此れがママだとすると、隣の人は誰だろう。綺麗な女の子。


 赤っぽい着物の少女の唇の感じは、何と無く龍顕を思わせる。


―理佐さんかな。姉妹が一緒に写ってる写真?そうだとすると此れは、(りゅう)様が渡してくれたのかしら。…亡くなった、って言ってた、理佐さんの写真を渡してくれた、って事かな。私のママが写っているから、って。


 佐織は、ふと、龍顕と初めて会った時の、あの、目の笑い皺を思い出した。

 また、胸に、あの時の痛みが走った。


 其れは、(こま)かい(よう)な、(かゆ)(よう)な、引っ掻かれた(よう)な痛みだった。


 佐織は、突然の其の、今まで体験した事の無い感情に驚いて、其れを振り払う為に、其の(まま)歩み出し、少しだけ庭を散歩した。


 写真は、何故だか、誰にも見られてはいけない気がしてきたので、コッソリ懐に隠した。




 竹林の枝を、風が渡る音がする。

 時折、雀の声もする。


 佐織の足元には、ポツポツと、名前も知らない、小さな紫色の花が咲いていた。

 其の花は、へばり付く(よう)にして地面に咲いていて、其処だけ鮮やかで、まるで、萌黄色の和紙に、綺麗な色の絵の具を、うっかり零してしまったかの(よう)だった。


 佐織の置かれた状況と心境を除けば、実に穏やかな、春の日だった。


―…(りゅう)様に、御礼を言わないと。もし、此の写真をくれたのなら、あの人にだって、此れは大事な写真だと思うもの。




 其の日、昼餉も終え、今は三日目の昼である。


 佐織は居心地が悪くなってきた。


 何せ、此の袴である。


 そう、佐織は気付いてしまったのだ。


―ずっと、同じ色なのよね、私の袴。


 改めて考えてみると恐ろしい話なのだが、仕来りだか何だか、佐織の知らない理由で、佐織の、実に個人的な事柄である(はず)の、『夫との性交渉の有無』が、此の袴の色によって可視化されてしまっているのである。


 其れは、此の袴で会う人会う人に、夫と()だ関係を持っておりません、と、宣伝して回っているのと、ほぼ同義なのだった。


 此処に居る意義自体が、子を成す事、其れが仕事、という事は、妙な話では有るが、現状、佐織は只飯食らいなのである。


―気付いてしまったら、居心地が悪いったら無いわね。朝は、あんなに嬉しかったのに。


 子作りが仕事も何も、自身の相手とされている龍顕は、昨日話して以降、一度も顔を見せない。


 悲しいかな、望むと望まざるとに関わらず、人間は単為生殖の生物ではないので、佐織一人では悩むだけでも無駄な話なのだった。


 しかし、其の事実を理解している事と、納得している事は全くの別だった。


 再び、佐織の頭の中を『一年』という単語がグルグル回った。




 夕餉も終わって、床に入ろうとして、ふと隣の布団を見ると、其処には既に龍顕が座っていたので、佐織は心底驚いた。


―本当に、気配のしない人。如何(どう)やって入ってきたのかしら。


 障子の隙間から、猫の(よう)にスルリと入ってきてでもいるのだろうか、と佐織は(いぶか)しんだが、しかし、こうして龍顕の顔を見ていると、何だか、久し振りに会った(よう)な、懐かしい(よう)な気持ちになった。


 実際、ほぼ一日、会っていなかったわけだが。


 龍顕は、調子は如何(どう)?と、軽く聞いてきた。


「ああ、えっと、少し。居心地悪いです」


 写真の事を尋ねて、もし龍顕が渡してくれた写真だったら御礼を言おう、などと思っていたのに、佐織は日中頭に考えていた事を、つい口に出してしまった。


 余程自分は此の事ばかり考えていたのだろうと思うと、また佐織は頬が染まった。


「何、また麻那美に何か言われた?あいつ意外と、しつこいんだな」

 龍顕はキョトンとした顔で、そう言った。


「いえ、そうではなくて。袴、袴が」

 佐織は顔が益々(ますます)赤くなる。


―何を口走ってるの、私。


 もっと他に切り出し方があるだろうに、いきなり核心である。


「ああ、袴」


 龍顕は、何かを察した(よう)な表情をして、そう言った後、穏やかに微笑んだ。


―あ、あの笑い皺。


 何だか(ずる)い、と佐織は思った。


 龍顕の、何処か閉ざされた(よう)な整った顔に、其の皺が、ほんの(わず)かに、薄っすら入ると、急に優しそうに見えてしまうのだ。


 そして佐織は何も言えなくなる。


 聞きたい事が沢山有るのに(ずる)い、と、佐織は思う。

 何だか佐織は、其れを、苦しい(よう)に感じた。


 其の(まま)押し黙ってしまった佐織に、明るい声が投げ掛けられた。

「成程ね、大丈夫。上手く乗り切ろう」


「え?」


「夫の手が付いたの、付かないのなんて、聞き耳でも立てられてない限りは、自己申告だからね。紀和さん達に上手く言っておくよ。明日から、紅い袴を着せてもらったら解決。少なくとも時間は稼げるでしょ」


 佐織は何だか急に、胸にグサッとした痛みが起こり、ボロボロと泣き出してしまった。


 龍顕が、慌てた声を出した。

「何、そんなに不安だったの?」


「あ、いえ、もし、一年間此の(まま)だったら、私、如何(どう)なるのかなって。此処に此の(まま)居て、如何(どう)なっちゃうのかなって」


―いや、違う。多分私、今、其の事で泣いない。


「そうか」


 (ねぎら)(よう)な声音なのに、其の時の佐織は、完全に龍顕に子供扱いされている、と感じ、何だか其れが気に入らなかった。


 しかし龍顕は、次の瞬間、真剣な顔をして言った。


「あのね、此れから話す事、内緒にしてくれるかな」


 佐織は驚いて、泣くのを止めて、龍顕の顔をジッと見た。


 龍顕は続ける。


「俺、遣らないといけない事が有るから。其れに、あと少しで片が付く。なるべく早く済ませたいけどね…」


 龍顕は、佐織の目を見ながら、寂しそうに笑って言った。

「そしたら、此処から出られるよ」


「え?」


「良いね、絶対内緒だよ。此処から出してあげるから」


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