従兄
「成程、じゃあ、御父さんが亡くなって、一週間程してから此方に引き取られて来て、他に何も教えられていなかった、という事か。此処の事は、何も知らない?」
「はい。…母は、早くに亡くなっていて。母の事は殆ど何も教わらずに育ちました。母の名前も、最近戸籍を見て知ったくらいで。両親が、駆け落ちして家を出て以来、此の家とは疎遠だったみたいで。何故駆け落ちしたのかは此処の人達にも分からない、という事でしたが」
佐織は、此れまでの経緯を、痞えながらも話した。
何処まで上手く説明出来たかは分からないが、龍顕は根気よく聞いてくれた。
佐織は、話しながら、時々体が震えてしまった。
話しながら、急に父の事を思い出すのだ。
我ながら情緒不安定になっているな、と佐織は思った。
「両親は、上京していた親戚を頼って、東京に行った、という事みたいです。父は、仕事をしながら其処で私を育ててくれました」
龍顕は、少し目を見開いて、尋ねてきた。
榛色の瞳が、光の加減で、時々、美しい金茶色や緑色に見える。
「上京していた親戚?」
「宇子さんという人です。坂本家の。父の又従姉みたいで。…其れも最近知ったけど。とても良くしていただきました。私は、半分は宇子さんに育ててもらった様なもので…」
―宇子さん、あれから如何したかな。…ちゃんと練馬の御家に帰れたかな。
宇子が育ての親同然だ、という事を口に出してから、佐織は涙を堪えた。
母親の顔を知らない佐織にとっての宇子の存在の重さが、改めて胸に来た。
龍顕は、少し気遣う様な声音で、そうか、と言った。
「えーと、先ず、俺が知っている事を、可能な限り教えるね」
「ありがとうございます。…えっと、令一という人が、私の伯父、なんですよね?」
龍顕は、伯父、と言ってから、少し考え込む様な素振りを見せたが、続けた。
「…瀬原令一には、二人の異母妹が居た。一人は理佐、一人は早佐。此の、早佐さん、っていうのが、君の御母さんだね」
「異母妹が二人?」
佐織が思ったより、実母の育った家庭は複雑そうだった。
龍顕は親切にも、佐織の動揺が収まるまで待ってくれてから、続けた。
「前の瀬原本家当主であり、里長だった瀬原由一には、子供が三人。一人が令一で、残りが女の子。姉妹のうち、姉の理佐は実方の本家に嫁いだ。其れが俺の母親」
「え?」
「俺達は従兄妹同士なの」
佐織は驚いた。
昨日初めて会った、自身の夫になるとかいう人は、意外にも血縁だったらしい。
―…ああ、此の、色素の薄さ。成程、道理で親しみが持てる筈だわ。従兄か。…まぁ、結婚出来るは出来る、か。…あれ?でも…那花様、何か仰ってなかったかしら。
「そして、君の御母さんは、坂元家の、君の御父さんに嫁ぐ筈だった。でも、既に聞いたかと思うけど、婚姻の儀の後、二人は此の集落を出奔した。理由は分からない。普通、駆け落ちって聞くと、結婚を反対された二人が手に手を取って、というイメージだけどね。二人の場合については、此れは当て嵌らないだろうから」
此処を、両親が二人で出奔した、しかも、結婚した日に、と聞くと、確かに、よく分からない話ではある。
―…結婚した日、何かが起きたって事?
龍顕は、ゆっくりと続けてくれた。
「抑は、少し不自然な結婚だった、とは言われていたらしい」
「不自然な結婚?」
「そう、此の集落では、婚姻は厳格に統制されているから。本家の血筋の人達となると尚更だ。基本的には集落の中で婚姻を行う。なるべく血が濃くなり過ぎない様に、相手は厳選される。十六年前の婚姻…。確かに、其れは、坂元家にとっては、瀬原本家の妹と結婚出来ると考えると、悪い話では無いけど、早佐さんにとっては、他にも候補者が数人居たとか。其の人達を押しのけてまで、急に坂元本家の嫡男と結婚させる、というのは、当時は多少不自然だった、らしい。まぁ、俺も未だ赤ん坊だったから、詳しくは無いけど」
「…誰が、母の相手を父に選んだのでしょう?」
「瀬原本家の当主、つまり長だね。今の当主、令一だ。当時は既に由一という人は亡くなってたから」
其れでは、異母兄の令一が、異母妹の早佐の結婚相手を決めた、という事になる。
「誰も反対はしなかったのでしょうか」
「此処では長の決定は絶対だからね。多少は不自然でも、有り得ない組み合わせという程でも無かった。結局、長が決めた通りの相手と、長が決めた通りの日取りで、婚姻の儀は行われた」
「母は、父を如何思っていたのでしょう…」
「…そうだね、他人の俺からは分からないけど…。でも、結婚が嫌なら、婚約者ではない相手と出奔するだろうし。其れが一般的な駆け落ちじゃない?」
佐織は、一般的な駆け落ち、という妙な響きの言葉に、不覚にも笑いそうになりながらも、堪えた。
―『一般的な』駆け落ちって表現、如何なのかしら。何だろう、駆け落ち自体が、もう一般的じゃないと思うけど。…案外面白い人なのかしら、此の人。
「…確かに、普通、駆け落ちするのは、結婚を反対されている人達…ですよね?」
「そう、だから、駆け落ち、って言うと、ちょっと違う感じがするよね。早佐さんは体が弱くて、あまり外出されない方だったと聞いてたから、出奔は、余程の決心だね」
母は体が弱かったのか、と佐織は思った。
―…知らなかった。私を産んだ後に事故で亡くなった、というのは優しい嘘で、本当は御産が原因だったのかな。…どんな事故で亡くなったのかも教えてもらえなかったし。
だから父は、母について多くを語らなかったのだろうか、と思うと、佐織は、また申し訳ない気持ちになった。
佐織が其の儘黙ってしまうと、龍顕は、こう続けた。
「早佐さんの事は何も知らないの?」
「はい。父は、私が母と、よく似ていたと言ってくれていましたが。写真の一枚も、家には無かったので、顔も覚えていません」
「此処は最後に早佐さんが使っていた離れらしい。誰かに聞けば、写真くらい残っているかもしれないよ。後で、紀和さんにでも聞いてみれば?」
「本当ですか!写真が有るなら、とても嬉しいです」
母の名前も、御墓が有る事も、何も知らなかったが、せめて顔が分かるなら、佐織にとって、其れは本当に嬉しい事だった。
―…待って、そう言えば太貴とかいう人も、私とママが似ているって言ってなかった?あの人がママの顔を知っているって事は、何処かに写真くらい有るかもしれないわよね?
喜ぶ佐織の顔を見て、龍顕が、実に優しく微笑んだ。
佐織は再び、自身の頬が熱くなるのを感じたが、其れを誤魔化す様に続けた。
「あ、そう、およしさん、という御話。未だ伺っていませんでした。何か、私に関係有る事なのでしょうか」
「ああ、君に、というより、坂元家の話だね」
「坂元家の。父の家、という事でしょうか」
「そう、坂元家の本家には、昔、富さんという女性が居た。此れが、嫁ぐ前に、急に出奔した。婚約者と一緒にね」
「それって…」
「そう。君の御両親と同じだ。此れが、五つの家の、本家の血筋の人間が、此の集落を出た最初の一人になってしまった。しかも周囲には秘密、里の長にも無許可。当時としては考えられない事だった。今でこそ、ソトに働きに出たり、ソトの学校に通ったりする事は許されてるけど。当時は、本家への妬みもあってか、まるで不貞を働いたか、人でも殺したかの様に悪し様に言われたらしい。裏切り者扱いだね。お富さんは、夫と東京まで逃れて其処で定住した。坂元家の縁者に、駆け落ちの逃走を援助した者が居るのではないか、という噂は有ったらしくて、其れで、坂元家の里での立場が悪くなったとか」
「…其れが、私の父と何か関係が…」
「要は、お富さんというのは、治一さんの家から出ていった人。治一さんは、里に残った本家の人の子孫だから。ただ、そう仮定すると、御両親が出奔した時、親戚筋の、東京に居る坂元家所縁の人達、恐らく其の一人が宇子さんという人。其の人達に頼る、というのも、有り得ない話では無いよね」
―宇子さん達の御家が、そんな経緯で此の瀬原集落を出ていたなんて…。
佐織が黙ってしまうと、少し気遣う様な声音で、龍顕は続けた。
「其処で本題に入ると。此の集落で、女性や、坂元家の人間が、何か仕出かした時、其の、お富さんという人に例えられる。如何したものか、お富さん、とね」
佐織の耳に、那花の、嘲る様な、歌う様な声が蘇ってきた。
「其れは、つまり…」
「そう、坂元家の本家嫡男である治一さんが、御本家の妹の早佐さんと出奔したという事件についても、其の例えは使われたというわけ」
「どしたもんな、お富さん…」
―あれって…ああ、貴女、あの、出奔した、裏切り者の家の娘さんなのね、っていう意味だったのね。
「つまり悪口ですか」
「ハッキリ言うと、そうだね。だから、紀和さんは、口が裂けても、そんな事は言わないだろうね。もう聞かない方が良い」
「那花様が、そんな…」
―あんなに綺麗な人が。あんな、自信に溢れてて。私の欲しい物を幾つも持っている様な人が。態々そんな事、言わなくても…。世の中って不公平。
御金持ちそうな、大人っぽい美人、というだけで、大分自分より立場が上の様に感じていた那花に、父母や自身を嘲けられた事を知り、佐織は思わず俯いてしまった。
目が潤む。
しかし龍顕は、俯く佐織を慰めるでも無く、サラリと言った。
「ああ、あれはね、那花じゃない」
「え?」
佐織は驚いて、出かけた涙が引っ込んでしまった。
―此の人一体、一日に何回私を驚かせるの?
佐織は、思わず、鳩が豆鉄砲でも食らった様な顔をして顔を上げてしまった。
佐織の顔を見るなり、龍様は吹き出して、言った。
「ああ、ごめん、笑って。あれはね、本当は麻那美って名前の子なの」
「まなみ?」
「那花っていうのはね、亡くなった、あの子の双子のお姉さん。身代わりに儀式に出されてるわけだけど、名前も姉のものが態々使われてるとは、皮肉だね…。儀式に参加させるなら、本家の第一子って事にしたいのかもね。相変わらず性格悪いな、令一…」
龍顕は、令一に対しても麻那美に対しても、同じ様な表現で話すのだな、と、佐織は少し気になった。
何方かと余程親しいか、余程嫌っているのか、というところだろうかと思われたが、龍顕が其の儘話を続けたので、黙って聞く事にした。
龍顕曰く、此の集落では、双子は、後に生まれた方を里子に出す習わしが有るそうだ。
那花の妹だった麻那美の場合も、例外無く清水家の分家に養子に出された。
ところが十四歳になった頃、病弱だった那花が急逝した。
其の場合、里子に出されていた子は、本来の両親の元に戻され、亡くなった子の代わりに育てられるのが決まりだという事だ。
麻那美は其の儘清水家の本家に戻り、那花の代わりに育てられているのだという。
「麻那美は養子に行った先で、本家の子として、下にも置かない扱いを受けて育ったんだよ。見た目も、あの通りだし、周りから、かなりチヤホヤされてたわけ。御嬢様、いや、御姫さんってやつ。えーっと、御姫様扱い、って言ったら通じる?」
「あ、はい。…実際、御姫様みたいな人ですもんね」
「…でも、どんな気持ちかな、死んだ人間の身代わりに、勝手に引き戻されるなんて。あそこは、離れて育てられてはいたけど、姉妹仲も良かったしさ」
勝手に養子に出され、勝手に再び呼び戻され。気位高く育てられたのに、自分は姉の代わりでなければ、本家には帰って来られない。本当に、姉の代わりになった時、用意された名前は、自分のものではない。しかも、仲の良かった其の姉は十四で亡くなった。
其れが、龍顕の語る、麻那美という人物だった。
恵まれているだけの人、というわけでは無かったらしい。
―仲の良い双子のお姉さんが、十四歳で亡くなるなんて…。そんな若くで、家族を亡くした人だったなんて。
其れを思うと、佐織は、急に那花、もとい麻那美に親近感を覚えた。
龍顕は続けた。
「楽は、本当は、那花の婚約者だったんだ。かなり気に入ってたみたいで、那花が亡くなってから意気消沈してたらしいけど。呼び出されて里に戻ってみれば、亡くなった那花そっくりの、儀式では同じ名前で呼ばれている女の子と結婚しろと言われたわけだ。まぁ、俺から見ても、あれは嬉しそうだったね。あの二人、何回か、其れこそ楽が帰省する度に会ってた筈だけど、今回は御互い、久し振りに会う上に、『那花』として会わされたわけだからさ。格別なんじゃない?…其れも如何なの?って気はするけど…。組み合わせとしては上手くいくと思うよ。麻那美も、相手が好きみたいだし」
―ああ、最初に那花様を見た楽様の、あの表情は、そういう事。
単に彼女が美しいから一目惚れ、という状況では無かったらしい。
劣等感を刺激されて、何となく傷付いてしまっていた佐織だったが、楽の、あのウットリした様子には、其れなりの理由が有った様である。
「では、結婚すべくして結婚する二人、というわけですね」
「そう。オマケに、上手くいったら長の遺産と権威が転がり込んでくる、と。手を取り合って、大喜び、というわけ。…ま、あれで麻那美、根は真面目だから、偉い人から何か言われたから、其れを本気で遂行しようとしている、というのは有るだろうけど」
そう、子を作れ、と言われるとは抑変な条件である。
「あの…。私、如何して、此処から出ちゃ駄目とか、そういう…」
何故、此処に押し込められて子作りせよと命じられたのか、と口にするのは流石に気が引けたので、佐織は思い切り暈した言い方をしたが、龍顕は其れを察してくれたと見え、説明してくれた。
「此処では、結婚相手は長が決める。女性は十六になる歳に、男性は十八を過ぎた歳に、昨日みたいに、ああやって集められて、長に結婚相手を告げられる。女性が十六、というのは決まっているけど、男性は年齢が決まっているわけではなくて、大体、十八か十九歳くらい。偶々年頃の合う女性が居なければ、二十代前半になったりもする。後妻が欲しい人も参加するから、本当にマチマチだね。『水配り』っていう風習なんだけど」
「ミックバイ?…ああ、では、あれは…此処では普通の儀式?」
道理で周囲の大人が止めない筈だ、と思い、佐織は愕然とした。
龍顕は続ける。
「そう、毎年、其の年に合致する女子が居れば、恒例で行われる行事みたいなものだね。時期は決まってないんだけど。ソトで言うところの『結婚式』かなぁ。今回は、君が呼び寄せられるのを待って、本家の人間の分を行ったって事だろうね。…要は、あの場に揃っただけで、合同結婚式を挙げた事になっていたわけ。婚礼衣装でしょ、其れ。本家の女の子しか着ないけど。だから其れを着せられて、あの場に出席させられたわけ」
「え…。つまり私達、既に結婚済み?」
「まぁ、入籍は未だだけど、此処の決まりではね」
あまりの事に、佐織は思わず、あんぐりと口を開けてしまった。
仰天する佐織に反して、龍顕は、まぁ驚くよね、と軽く言った。
「此処の常識、ソトの非常識、だよね」
「せ、せめて、もう少し、説明が、あ、有っても。では元々、私を結婚させる為に引き取った、という事でしょうか。そんな話有ります?」
「いや、そうだと思うよ。…結婚してから、子を成すまで屋敷から出るなというのは、俺も聞いた事が無いんだけど。ソトから来た君にしてみれば、閉じ込められたみたいな形になってて不本意だよね。其れに、あまり表立って言われていないから、麻那美辺りは知らないだろうけど、坂元家には、もう君しか本家の人間は居ないから」
「え?」
「坂元本家の人達は全員、君以外亡くなって、絶えた。『水配り』』を、里の本家の人間で揃えようと思ったら、確かに、もう、君を連れてくるしかない。…揃える必要性を問われても、俺には答えてあげられないんだけど。足りなきゃ、他の分家の人で良い筈なんだけどね…」
「絶え、た」
驚きの連続である。
会った事の無い身内が亡くなったと聞かされても、佐織に実感は無いが、親に死なれて、更に、自分は家で最後の一人だなどと言われたら、急に、如何捉えて良いか分からない程の孤独感に襲われた。
そうは言っても、と龍顕は続けた。
「今の君は立場上、瀬原家の本家の子として扱われている、って事だろうね。其の衣装は、瀬原の家の物らしいから。…楽も麻那美も、混乱しただろうね。食事会で説明が有るかと思いきや、って感じだったし」
「ああ、確かに此れは、母の物だと聞きました」
「本家の女性の条件らしいからね。婚礼の際には祭祀の衣装と長い髪」
「…長い髪?」
「そう、君や麻那美みたいにね。侍女の人達は、普通の長さでしょ。那花も長かったよ。本家の血筋の未婚女性は、滅多に髪を切らない事になってる。『髪』は『神』に通ずるとかで。そういうのも祭祀の名残なのかな?でも…君、ソトに居たのに、伸ばしてたんだね」
「…此れは、父に言われて…」
「そうか。治一さんが…」
龍顕が少し意外そうな顔をしたので、佐織は慌てて言った。
「いえ、そんなに、父に強要されて髪を伸ばしていたわけでは。高校の入学式までには切ろうと思っていましたし。…あの、抑、祭祀というのは如何いったものでしょう」
「今は失われてて、よく分かってない。色々形骸化して、本家の娘さんの髪や婚礼衣装だけ、習わしとして残ったのかも」
また習わしか、と佐織は思った。
奇妙な決まり事が多過ぎて理解が追い付かない。
父も、もしかして、何らかの思惑が有って髪を伸ばす事を推奨していたのだろうか、という疑念が佐織の頭を過った。
龍顕は、大丈夫?と言ってくれた。
「一度に話し過ぎたかな?混乱させたなら、ごめん」
「いいえ、有難うございます。えっと、実方…龍顕様?」
「龍で良いよ。長ったらしい」
「…えっと、龍、様」
君は佐織だっけ、と言いながら、龍顕は、明り取りの障子を開けて、更に、大きな窓も開けた。
サワサワと竹の葉が鳴る音がした。
風が枝を渡っているのだろう。
こんなに大きな窓なのに、切り取られた風景は、ほぼ一面竹林の緑だ、と佐織は思った。
光量は充分有るし、明るいか暗いかくらいは分かるけれど、空すらも殆ど見えはしない。
―此処に居て…、住む場所を与えられて、食事を与えられて。子を作れ、と。其れが習わしで、だから納得しろ、というのは無理だけど。御蔭で少しだけ状況が見えたかしら。
佐織は何とは無しに、自分を、籠の鳥の様だと思った。
「…私の伯父の、令一という人には、子どもは居ない、という事でしたか?」
「居ない。其れどころか、結婚もしてない。血統を重んじる集落の長にしては意外だけど。結婚する様に、何度も周りが御注進したらしいけどね。理由を聞けば、ソトで麻疹に罹ったとか言って誤魔化すし、周りも其れ以上は強く言えなかったらしい」
「はしか、ですか。…六歳までに罹ると軽いとかっていう、あれですか?」
結婚しなかった理由に病名が挙げられたが、佐織にはピンと来なかった。
「…大人になってから罹るとね、良くないらしいよ。高熱が出るらしいし…」
龍顕は、そう言って、僅かばかり気不味そうに笑った。
佐織には結局意味は分からなかったが、令一が、家族も無く子供も無いと言っていたのは本当らしかった。
「で、…こど、もを、というのは」
佐織は恥ずかしくて、何と無く、切れ切れに訪ねてしまったが、龍顕は、実にサラリと答えた。
「此の儘では瀬原本家が絶えてしまう。まぁ、其れは流石に避けたいところだろう。家を誰かに継がせるにしても、なるべく良い血筋の養子が欲しいわけだ。…如何いう経緯で、二組競わせるのかは…まぁ、本人にしか分からない事情だろうけど。俺にも意味は分からない。少なくとも…『水配り』本来の慣習ではないよ」
「…其れで、生んでくれ、と」
「そう。で、猶予は一年、ってとこだね、あの場の話だと」
一年で生まれるとは限らないと思う、という言葉を、佐織は飲み込んだ。
自分自身が妊娠する、という実感も持てなければ、想像も出来ない。
―もし駄目だったら私は如何なるの?此処に引き取られる条件も満たせないとなると。此処を放り出される?…其れとも…。
佐織とて、此の若さで、誰かの子を成したいわけではないが、其の先は如何なるのだろう、と考えると、血の気が引いた。
逃げ出したい、という気持ちと、『逃げ出せない』という頭の中の声が戦う。
少し前まで、志望高校に通って就職するという、大体の目標が有った、佐織の明るい未来は、父の事故死以降、あまりにも不確定で、恐ろしい事に変わってしまった。
「其れにしても、良い生地の衣装だね。麻那美、羨ましかっただろうな」
話題を変えたかったのだろうか、龍顕が唐突に、そう言ったので、佐織は驚いた。
「羨ましい、ですか?」
「麻那美の婚礼衣装は無いから。清水本家の婚礼衣装は、那花の葬儀の時に、那花に着せて、一緒に火葬したらしい。流石に養女に出した子の分まで作らなかったって事だろうね。作るのには時間が掛かるし、そう何度も着る物じゃないし…。でも、仮にも清水家本家の出身で、ただの振袖で、あの場に臨むのは、辛い事だっただろうね。髪もさ、別に長い髪にしておく必要は無かったのに。でも、何時でも那花の代わりになれる様に、ああやって伸ばされていたみたいで。結局身代わり。しかも…其れで、肝心の、婚礼の衣装は用意されていない婚礼の儀に、ああして急に呼び出されるのは、やっぱり酷だよね」
「そんな事…」
「考えもしなかった?相手が、実は自分を羨ましがっているかもしれないなんて」
「はい…あんなに、綺麗な振袖で。よく似合ってて、私は其れが、本当に、羨ましくて。なのに…」
「まぁね、結局、此の婚礼の儀は急だったのさ、麻那美にとっても。仮にも本家の人間達にすら、内容どころか、予め日にちも指定されていないなんて、幾ら長とはいえ失礼な話だよ。長だから罷り通るというだけの話だね。『水配り』で中学卒業後結婚、という話は有っただろうけど、あんな、衆人環視で遺産取りゲームみたいな事を命じられる場に引っ張り出されるとは、あの子も、夢にも思ってなかっただろうからさ。…清水本家の顔も多少は潰れたと思うけど、まぁ、遺産が転がり込むならトントンなのかなぁ…?」
「…遺産…」
中学を卒業したばかりの自分達の娘を、こんな、ゲームを競わせる様に妊娠させる事に、多少顔を潰されても、其れでも遺産が入ってくるから反対しない、という価値観が、佐織には理解出来なかった。
―…頭痛がしてきそう。私の価値観は、此処では通用しないのかも。
「今日は、此処までにしようか」
「あ、有難うございました。…あの、ついでに、あの変な呪文の事聞いても良いですか」
「…へ?まさか…葛、楮、藤蔓、天の蚕を敷き紡ぎ結い績み織り纏いて、ってやつ?」
「あ、そう、其れです。葛、楮、藤蔓…」
「葛、楮、藤蔓、天の蚕を敷き紡ぎ結い績み織り纏いて、強き子を増やせ。田は米、海は魚得て、禍去る。姿見えぬは山の神也、姿得て、田の神となる。山の神は海の神。火を噴く山はまた神也、龍神也。地震ふる山に霾晦、霾は稲なり、霾程実る、神の田よ。月の神は山の神也、山の神は田の神也。神の田を耕せ」
「何ですか?あれ。あれを聞いた後から、変で…。何か、此処の神様に関係有るとか?」
有ると言えば有るけど、と、龍顕は気の毒そうに言った。
「成程、やっぱり君、自分の意志で此処に来たわけじゃないな」
「え?」
「こっちの話。それじゃ、またね。早佐さんの写真、有ったら良いね」
「ええ。あ、あの。理佐さんは、今、如何されていますか?」
亡くなったよ、とだけ言い残して、龍顕は、夕餉の膳が運ばれてきたのと同時に、表情も見せず、スルリと部屋から出て行ってしまった。
佐織は、龍顕に言われた言葉の意味は分からなかったが、其の去り際の龍顕の様子が、酷く気に掛った。




