糸
白く淡いものが空から舞降りて来た。クレトはそれが落ちて来た頭上を見上げた。そこには黒い壁と、その先の真ん中にぽっかりと開いた白い空が見える。その白く淡いものは、その真ん中の穴から落ちてきて、クレトの手の上で消えて行った。
『まるでアイナの命と同じだ』
クレトはいくつかの雪が自分の手の上に落ちてきては消えていくのを眺めながら、先日死んだ自分の妹に思いを馳せた。ここの多くの者と同様に彼女は肺をやられていた。だが最後に彼女が死んだのは肺の病気ではない。飢えだった。そしてクレトは天涯孤独になった。
擦り切れた上着のポケットに手をやると、アイナが大事にしていた、ゴミの中から拾ってきた人形が指先に触れた。大分色あせているし、その顔は少し黒ずんでいるが、黄色い髪に青い目、そして赤の上着に青いスカート。そしてどうしてかは分からないが、背中には小さな羽の様なものが生えていた。
アイナはこの穴の上では、きっとこんなかわいい子共達が仲良く遊んでいるのだとずっと信じていた。そしてこの羽があれば、この穴の底から空に飛んでいけるのだと夢想していた。そしていつになったら羽が生えてくるんだと、クレトにしつこく聞いて来ては困らせた。だがアイナが少しだけ大きくなると、いつの間にかそんな事を尋ねる事も無くなった。
自分達が穴の底と呼ぶこの地は本当に地獄のようなところだ。この地の人々は天井の円く開いた穴から落ちてくるものをただ漁って生きている。落ちてくるもののほとんどは、単なるごみだ。食べ物になり得る様なものは限りなく少ない。
まれに寒くなる前や、温かくなった頃にまともな食べ物、小麦や肉などが落ちてくることがあるが、その時以外はほとんど食べ物らしきものはない。それでもここの人々は積みあがるゴミの中から、少しでも口に入れられそうなものを日々必死に漁り続けている。
当然、そこでは争いも起きる。食べ物を得る前に、その争いで命を落とす者も少なくは無かった。クレトは天高くそびえる黒い壁に目をやった。それは硝子のように滑らかで、天に向かって内側に反っている。そしてここにある、ありとあらゆる物を使っても傷一つつける事は出来ない。
大分昔に、ここに居る人間達が結束して上へと向かおうとしたことがあったらしい。無駄な努力だ。単に大勢の命を失うような大惨事を引き起こしただけだった。ここの地面は一定以上の重さがかかると、重みを掛けているものは地面の中へ沈み、そして最後は消えてしまう。
上から延々とゴミが降ってきても、この穴の底が一杯にならないのはそのせいだった。そして今日もそろそろゴミが落ちてくる時間だ。先に漁るのには穴の下に近い方がいいが、近づきすぎれば上から落ちて来たゴミが直撃して命を落とす。どこまで近づくかは、切実さと恐怖とのせめぎあいで決まる。
「そろそろ時間だな」
クレトの背後から声が掛かった。クレトが振り返ると、そこには自分よりも頭が一つ分以上大きな男が立っている。この地で唯一自分が友達と呼べそうな男、オーバンだ。彼はこの地の住人としては珍しく、背が高く屈強な男でもある。彼には二コラという妹がいて、アイナと二コラはとても仲良しだった。
ある意味、クレトがここまで飢え死にすることなく、なんとか生きてこれたのは、オーバンが居たからとも言えた。彼のおかげで、クレトが見つけた食べられそうな何かを誰かが横取りしようとはしなかった。間接的にオーバンと問題を起こすのを避ける為だ。
「二コラの様子は?」
クレトはオーバンに対して、彼がこよなく愛している妹の様子を聞いた。二コラもアイナ同様に肺をやられている。そしてそれは日に日に悪化しているようにしか見えなかった。
「良くない。おそらくこのままだと、両手両足は到底持たないだろう。明日死んでもおかしくないくらいだ」
クレトの問にオーバンは率直に答えた。クレトから見ても、二コラの咳の出方を見る限り、やはり両手両足など持たない、持ったらそれは奇跡としか言えない状態に思える。
「せめて、何か少しでも栄養になるようなものが落ちて来ればいいのだが」
オーバンはそう言うと、白く見える穴の向こうに目をやった。気が付くといつの間にか白いものは止んでいる。せめて雨でも降ってくれれば、この底の塵も少しは地に落ちて、二コラの咳も良くなるだろうに。ここでは考える事全てが無い物ねだりばかりだ。
「どうやら時間だぞ。今日は少し下がった方が良さそうだ」
オーバンが穴を指さした。白い背景に黒い粒の様なものが見える。それは視界の中で急激に大きくなっていった。今日もここに、穴からゴミが降ってくるのだ。
* * *
その日のゴミの量はいつもより少しばかり多かった。それにどうやら食べられそうなものも混じっていたらしい。最初にそれを見つけた者が出た後で、いつもの様に奪い合いが起こり、そして次に降ってくるゴミの中にも食べ物が混じっているかもしれないと期待した何人かが、まだゴミが落ちている最中に飛び出し、その中の何人かがゴミに押しつぶされた。
いつもの光景だ。
見あげた穴はすでに暗さをましている。もうすぐ夜の帳が落ちる。ついさっきまで、諦めきれない何人かがゴミの山を漁っていたが、その姿ももうない。クレトは落ちて来た箱の様な形のゴミの上で、ぼんやりと積み上がったゴミの山を眺めていた。
その高さは昼に眺めた時より既に三分二程度になっている。限界を超えた分が地面へと沈んで行ったのだ。周囲の暗がりの何か所かで、炎の赤い光がいくつか灯り、そこから上がった灰色の煙が穴の上の方へと上がっている。
アイナが生きていた時は必至になってゴミを漁り、何とか食べ物を、そして彼女の体を少しでも温めてやれそうなものを探した。でもアイナが一番喜んだのは食べ物ではなく、クレトがふと開けた箱の中に入っていた人形だった。彼女は本当にそれを大事にしていた。そして誰からも奪われないようにそれを隠し持っていた。アイナがそれを見せたのは、二コラに対してだけだった。
クレトがアイナの喜ぶ笑顔と、そして肺を病んでからそれに苦しむ姿と、最後に静かに息を引き取るときまでの姿を心に思い出しながら、ゴミの上に座ったままで涙を流した。
クレトはアイナがここではないどこかで、出来れば穴の上の空の向こうで、母と幸せに居ることを心から願った。それに自分がアイナのところに行くのもそう遠い話ではない。ここでは長生き出来る者などはほとんどいないからだ。
ほぼ真っ黒になりつつある穴から何か白いものが落ちて来た。それは昼の時とは違って次々と上から降ってくる。珍しい事だ。もしかしたらこれは積もるのかもしれない。
クレトは子供の時に一度だけ、この地に雪がつもって、黒いゴミや塵をすべて覆い隠したのを見たことがあった。まるで別の世界へ行ったかの様だったが、それは半日もしないうちに溶けて、塵が泥となり、より酷い世界へと変わっただけだった。
こう冷えると、体力が落ちている二コラにはつらいだろうな。クレトはそんな事を思いながら、立ち上がって自分が寝床にしている、板と布で周りを囲っているだけの住処へと戻ろうとした。
「何だ?」
普段は寡黙なクレトの口から言葉が漏れた。舞い降りて来た雪の一欠片がしばしの間、宙に止まっていたように見えたのだ。目の錯覚だろうか?クレトは目を閉じて頭を振った。再び目を開くと、暗くなっていく中で微かに見える白い雪片が、再び同じところで不意に止まった。
『何かがそこにある』
クレトは自分が居た小さなゴミの山を何歩か降りると、その不思議な場所へと足を運んだ。いくら目を凝らしても何もそこにあるようには見えないし、何もおかしそうなところもない。だが急激に闇へと落ち込んでいく中で、雪がある場所に留まっては落ちていくのが見える。
クレトは思い切ってその場所に手を伸ばしてみた。クレトの手に何かが触れる。慌てて手を引いて、ボロボロの手袋から出ている自分の指先を見た。どこもおかしくなっているところはない。確かに何か布のようなすべすべしているが、すこしざらついているような気もする何かに触れた。
再び手を伸ばしてみる。その人差し指と親指の間に、先ほどと同じ感触が得られた。全く目には見えないが、確かに何かがそこにある。クレトは勇気を振り絞って、それを右手で思いっきり掴んだ。それはクレトの手の中に納まった。いや違う。クレトの手はその一部を握っていた。
クレトは左腕を差し出すと、右手の上へと持っていった。今度は左手の甲が何かに触れる。クレトは左手を少し引いて、慎重に右手の真上に持っていくと、そこには右手が感じているものと同じものがあった。今度は左手でそれを掴んだ。左手で掴んだ衝撃が右手にも伝わる。
クレトは慌てて上を、もう既に真っ暗でよく分からないがそこにあるはずの穴を見あげた。そして恐る恐る、右手と左手に力を込めてそれを地面に向かって引いてみた。力をこめてから数秒がすぎ、何十秒かがすぎ、そして数分が過ぎた。だが上から何かが落ちてくるような気配はない。雪がとけた水が目に染みるだけだ。
「縄?」
いや、手にした感触はもっとすべすべしている。むしろこれは「糸」とでも言うべきものかもしれない。この上には何もない。それでいて引っ張れるという事は、この糸は上まで、穴のところまで続いているのだろうか?
クレトは急にこの得体の知れないものに対して、心の底からの恐怖を感じると、その透明な糸のようなものから手を離した。そしてそれから逃げる様に、自分の寝床へ向かって、ゴミの山の上を駆け下りて行った。
* * *
「兄ちゃん!」
クレトの頭の上から大量のごみが落ちてきて、辺りに轟音を立てる。少し離れたところからアイナがこちらに声を掛けてくれていて、そちらに逃げようとしているのだが体が言う事を聞かない。自分の体がまるで石になったみたいだった。頭の上からはゴミが落ち続けている。自分の足元に大きな影が映った。まずい、このままだと。
「アイナ!」
灰色の薄汚れた布が目に入った。自分の寝床の天井代わりの布だ。自分の口から洩れた息が白い蒸気となってその布の方へと漂っていく。そうか、昨日は急に怖くなって、この寝床に逃げ込んで頭から布を被った。そしていつの間にか寝てしまっていたらしい。クレトは溜息を一つつくと、寝床から上半身を起こした。
「ゲホゲホ、ゲホ」
どこかからか乾いた咳が聞こえてくる。クレトは寝床から這い出ると、入り口の布を開けて外へと出た。昨日、自分がここに戻ってくるまではあれほど降っていた雪はすぐに止んだらしい。その名残は僅かに地面の上の塵が湿っているぐらいしか無かった。
クレトの寝床よりは少しだけましな布や板で作られたテントの前にオーバンが立っていた。そして、入り口から奥を心配そうに見ている。さっきの激しい咳は二コラの苦しむ音だった。
「クレトか?昨日は遅かったな。何か見つけられたか?」
クレトはオーバンに向かって首を横に振った。
「何も無しだ」
「そうか。この時期はほとんど何もないからな」
「ゲホっ、ゲホ」
オーバンの側にいくと、寝床の中でうつぶせになりながら、身をよじって咳をする二コラが見えた。
「せめて咳だけでも何とかしてやりたいのだがな」
オーバンの言葉にクレトも頷いてみせた。クレトもアイナが死ぬ直前に同じことを思っていた。そしてアイナがその息を止めた時には、これでこれ以上苦しむことは無いのだと思って、安堵したぐらいだった。
「おとぎ話みたいに、穴の上から神様とやらが救いに来てくれはしないのだろうか?」
オーバンが真面目な顔でクレトに向かってそう告げた。
「俺は子供の頃、朝が来るたびに今日こそは救われると信じていたんだがな」
そう告げたオーバンの目に涙が光っていた。強面で周りの男達から恐れられているオーバンの目にだ。
「お兄ちゃん、私は大丈夫」
テントの中から消え入りそうな微かな声が聞こえて来た。アイナ同様にこの子も兄思いの健気な子だ。この子がアイナと仲良しだったのもよく分かる。
「だから、、ゲホっ、ゲホ」
「二コラ、待っていろ。今日こそは何かお前が喜ぶようなものを見つけてきてやる」
オーバンは妹に向かってそう優しく語った。だが言っている本人もほとんど何も期待できないことは分かっているはずだ。今は冬なのだ。兄を心配させないようにしようと、布を口に当てて、必死に咳を抑えこもうとしている二コラの姿を見て、クレトは決心した。
「オーバン、君に話がある」
* * *
「いつ見つけたんだ」
オーバンが例の糸を恐る恐る引っ張りながらこちらに聞いてきた。まだゴミが落ちてくる時間には早いので、辺りに人影はない。
「昨日の日が落ちる直前だよ。もっと前からあったのかもしれない。昨日それに雪が付いたのを見て気が付いたんだ」
「この位置と言う事は」
「おそらく、上は穴の縁だと思う。そこからここまで垂れてきているとしか考えられない」
「そうだな。そうしか考えられないな」
「オーバン、上までどのぐらいあるか分からないし、端とは言え、振ってくるゴミに全く当たらない位置という訳でもない。それでも君なら上まで登れるかもしれない。上まで行けば、そこには二コラを救う方法があるのかもしれない」
「クレト」
「確かなことは何もない。でも二コラの容態を考えると、これに掛けるのなら早い方がいい。邪魔が入ると面倒だから、今日のゴミが落ちて、日が落ちる前に登り始めるのが一番いいと思う」
「分かった。クレト、本当に感謝する」
「それは君が無事に登り終えて、二コラが助かってから言ってくれ。僕もアイナも君にはとても助けられたからそのせめてもの恩返しさ。それにこれは僕がたまたま見つけただけの話だ。君が信じていた『救い』というのが叶ったんだよ」
オーバンはクレトの言葉に頷いて見せた。
「ああ、そうだな。これは救いだよ。ずっと待っていたものだ。俺の腕で、体で、二コラを救ってやる。絶対にだ」
二人は頷くと、寝床に向かって駆け戻った。悠長にしている時間はない。登る時に必要な体を支えるための紐や、オーバンが二コラを背負うための布やらを二人で準備した。自分の寝床を壊しているオーバンとクレトの姿を見て、周りに住んでいる者達が不思議そうな顔をしていたが、クレトもオーバンもそんな視線は一切無視して準備に没頭した。
準備している間にも、ゴミが底へと落ちてくる轟音と、そこから上がる黒い塵が辺りに舞っている。それらが終わってしばらく経ち、今日は青く見えていた空が黄色い光を宿す頃になって、やっとオーバンの準備が終わった。
オーバンが登るための装備を、クレトが二コラをおぶって二人は糸がある位置まで走った。二人ともゴミが落ちた後で、それがまだ残っているか気が気でなかったのだ。オーバンが新しく落ちて来たゴミの間を抜け、糸があるはずの位置で、両手を振り回しながらその存在を探っている。
クレトは背中に背負った二コラの身の軽さと、その体を支える自分の腕に彼女の骨が直接感じられる事に、アイナの最後を思い出して、心を痛めながらオーバンの姿を見つめていた。
「あった!まだあったぞ!」
オーバンが目に見えない何かを右手でしっかりと掴みながら歓喜の声を上げた。そして急いで背中に背負っていたものを下ろして登るための準備を始める。クレトは二コラを背中におぶったまま、その準備が整うのを待った。オーバンが腰や股に何重かにした紐を巻き、それに引っ掛ける形で肩から腰へと紐を巻いた。そして慎重に目に見えない糸をその間へと通していく。
「準備できた」
オーバンがクレトに向かって声を掛けた。クレトは足元に気を付けながらオーバンのところまで向かうと、赤子のように布でくるんで背中に背負っていた二コラを、オーバンの背中の布の中へ、ゆっくりと慎重に移した。二コラが薄く目を開けてクレトの方を見る。
「クレト兄さん、ありがとう」
彼女が小さくクレトに声を掛けた。そう言えば彼女の咳は止まっている様だ。これはもう彼女にはほとんど時間が残されていないことを示している。
「二コラ。アイナの人形だ」
クレトはポケットから人形を取り出すと、アイナをくるむ布の胸元へとそっとおいてやった。二コラが驚いた顔をしてクレトを見た。
「クレト兄さん、でも……」
「どうかアイナの代わりに上まで持っていってくれないか?」
二コラの目から涙が流れた。そしてクレトの言葉に小さく頷いて見せる。
「クレト、では行ってくる」
「ああ、気をつけてな」
「お前も後から登ってこい」
「いや、僕はいい。ここにはアイナが眠っているからな」
「そうか」
オーバンはそう一言告げると、力強くその見えない糸を手繰り寄せた。オーバンが腕と足を使って体を上へ上へと持ち上げていく。クレトは登っていくオーバンと、彼が向かおうとしている先を見た。
そこには夜の帳が落ちる直前の紺色の穴が広がっていた。
* * *
「何だあれは?」
急に耳に届いた叫び声と、それに続くざわめきに、クレトは目を覚ました。人々が上を指さして口々に何かをしゃべっている。
昨日、夜の帳が落ちた後はオーバンと二コラの姿は直ぐに闇に包まれて、何も見えなくなった。それでもクレトは上を見あげ続けていたが、いつの間にか寝てしまったらしい。クレトは痛む首筋に手をやりながら彼らが指さす先を見た。そこには黒い米粒の様な何かが、少しずつ上へと昇っている姿があった。
「空を飛んでいるのか?」
「いや、何かに掴っているように見えるが……」
「紐のようなものは何も見えないぞ」
一体どれぐらい寝てしまったのだろうか?クレトは穴から入る光が黒い壁に作る、光の線の位置を確かめた。それはほとんど穴の底へと近づいている。まずい。もうすぐゴミが落ちてくる時間だ。オーバン、二コラは間に合うだろうか?
見あげるとオーバンの姿は、穴の縁の手前にある。ここからだとオーバンの位置から穴の縁迄どれぐらいなのか、距離感がいまいち分からない。それにオーバンがどれぐらいの速さで登っているのかもだ。クレトは自分が身を預けていた板の切れ端から飛びあがると、彼らが良く見えるように、少しでも高い位置へ移動しようとした。
「クレト!そんなところで何をしているんだ!ゴミが落ちてくる時間だぞ!」
背後から誰かの声があがった。穴の縁の手前から登っているオーバンを見あげている一人で、近くに住む顔見知りがクレトに声を掛けて来た。
ゴミが落ちてくる前の、上からの風が吹き始めた。その風は穴の底にぶつかり、今度は上への風となって辺りの塵を巻き上げる。クレトは慌ててゴミの山を駆け降りると、穴の縁のぎりぎりから、再びオーバンがどうしているかを見上げた。だが縁の陰になってその姿はよく分からない。だが縁の陰になっているという事は、もうほとんど縁にたどり着きつつあると言う事だ。
パラパラ……
ゴミが落ちてくる前の露払いの、細かな破片のようなものも上から降って来る。クレトはオーバンの姿を確かめようと穴の方へ体を移動させようとした。
「危ないぞ!」
誰かに首元を引かれて、クレトの体が後ろへのけぞった。
ズドン!ズガン!ゴーン!ズドン!
次の瞬間には地面が打ち震え、さっきまでクレトがいた辺りにはごみの山が次々と落ちて来ていた。今日はいつもより量が多い。辺りには真っ黒な塵が舞い上がり、視界はおろか、息すらつけないほどになる。クレトは慌ててポケットから布を取り出すと、三角にして口の周りに巻いた。
ズドン!、ドカン!、ドカン!、ズズズ!
ゴミが落ちてくる轟音が鳴り続いている。さらにそこには積み重なったゴミの山が崩れ落ちる音も混じっていた。
ドゴン!ズズズズズゥゥゥ!
ひときわ大きな振動が鳴り響き、何かが大きく崩れる音を最後に辺りに静寂が訪れた。だが周りには依然と黒い塵が舞い上がっていて何も見えない。気が付くと、クレトの周りにも落下によって跳ね飛ばされたらしいゴミの破片が散らばっていた。
「痛え!畜生が!」
誰かが叫び声を上げながら、地面を転がるような音がした。運の悪い奴が破片の直撃を受けたらしい。いつもだったらこの塵の中でも何人もの人間が危険を冒して、ゴミの山に向かうのだが、今日は誰も動こうとはしなかった。皆が固唾をのんで塵が晴れるのを待っている。
塵がゆっくりと落ちていき、頭の上の方がわずかに明るくなって来た。やがて薄曇りの柔らかい日差しがその塵の間から差し込んで来たと思ったら、頭の上の穴が、薄い煙のように残る細かい塵の向こうから姿を現した。
「まだ居るぞ!」
誰かが叫んだ。クレトはさっきオーバンが居たと思しき辺りに目をやった。そして必死に目を凝らすと、そこには黒い小さな染みのようなものが浮かんでいる。そしてそれは、穴の縁へと達したと思ったら、もう何も見えなくなった。
「やったな、オーバン」
クレトは周りの人間が口々に何かを叫んでいる横で、小さく、とても小さく呟いた。
* * *
あれから何日もが過ぎた。
クレトの日々は大して変わらない。ゴミが落ちてくるのを待ち、その中にあるわずかに食べられるものを得て命だけを繋いでいる。
最初の何日かは、オーバンが戻ってくるのではないか、あるいは落ちてきたりしないだろうかと、毎朝朝早く、穴の下へと向かっていた。オーバンが戻ってくる気配も、ゴミ以外のものが落ちてくる気配も無かった。
クレトだけではない、他にも大勢の者が穴の下に集まっては上を見上げていた。最初の数日間は、それがどうなって行われたかについて、ひそひそと相談する声もあったが、全てが忘れられたかのように、朝に集まる者の数は次第に少なくなっていった。
しかしながら、人々の口には直接上っては来なくても、誰もが何かが変わったことを感じているようでもあった。この穴の底から外の世界へと抜け出たものがいるのだ。
「クレト、ちょっと顔を貸せ」
穴の下から戻って寝床に潜り込もうとしていたクレトを、数人の男達が待っていた。その態度はどう見ても友好的なものには見えない。
「今日は疲れているから、明日にしてもらえないかな?」
「そうはいかない。今すぐ来い!」
周りのねぐらからは息を潜めてこちらを見てる気配はあるが、誰も自分を助けてくれそうな気配はない。クレトはここから逃げ出すことをあきらめた。
男達はクレトを囲むと、引きずるように底の端の方にある、他よりは少しばかり高い瘤の様なところまで引きずっていった。その瘤の上には他よりはちょっとはましに見える、廃材で建てられた小屋の様なものが建っている。クレトは男達に小突かれながら、小屋の中へと放り込まれた。
中では小さな暖炉の様なものの前で、腕周りも太いが腹回りも太い、頭の毛が薄い男が立っていた。この辺りの顔役のマルクだ。男の脂ぎった顔が暖炉の火に赤々と照らされている。背後から誰かに蹴飛ばされて、クレトはマルクの前の床に膝をついた。
「マルクさん、何の……」
「ダン!」
クレトが何かをしゃべるより早く、マルクによって頭を床に押し付けられ、そのまま足で頭を押さえつけられた。床にぶつかった衝撃と、頭を踏みつけられた痛みに、クレトは目の前に何か黄色い光が見えたような気がした。どうやら脳震盪を起こしたらしく、頭がぼーっとして、体をまともに動かすことも出来ない。
「クレト、オーバンはどうやって上まで登って行ったんだ?」
「オ、オーバン?」
「しらばっくれるんじゃない!」
マルクの足が再び持ち上げられて、すぐにクレトの後頭部に再び押し付けられた。その痛みに頭をかきむしって転がりたいぐらいだったが、未だに体は言う事を効かない。
「登って行ったのはオーバンとその妹だろう。二人ともあの日以来行方知らずだ。それにその前日にお前とオーバンで自分達の寝床をぶっ壊して、布やら、紐の準備をしていたのも分かっている。どう考えても、登るための準備をしていた以外はない」
「な、なにも――」
「なあクレト。おれは別にお前をばらそうとか思っている訳じゃない。オーバンがどうやって上まで登れたのか、その方法を教えてくれと言っているだけだ。だが言うまでは殺してくれと言っても、絶対に殺してなんてやらない。後で言うか、今言うかの違いだけだ」
「だ、だから――」
「クレト、お前は演技なんてできる玉じゃないんだ」
再びマルクが足を持ち上げた。どれだけ自分の頭は持つだろうか。
「マルクさん!」
「何だ、今は忙しいんだ!」
「み、見つけました。やっぱりありました。縄です」
「縄?」
「はい。どうやら目に見えない縄がありました」
「オーバンはそれを使って登ったのか?」
「はい。そうだと思います」
「おい、他の奴らが嗅ぎつける前に行くぞ!」
「はい、マルクさん。こいつはどうします?」
「もう何も用はない。その辺に放り出してこい」
クレトは男の一人に引きずられ、小屋の外へと連れ出された。そしてそのまま蹴り飛ばされて地面の塵の上へと顔を突っ込んだ。
「運がいいな。お前の相手などしている時間はないとさ。さっさと帰って寝ろ」
自分を引きずって行った男がクレトにそう声を掛けると、扉を閉めた。クレトはよろよろと立ち上がり、言う事を聞かない体を引きずって、自分の寝床へ向かって必死に足を前へと進めた。
* * *
気がつくともう次の日の朝だった。
クレトは外での騒ぎに痛む頭を抱えながら起き上がった。手にはまだ乾ききっていない血がついている。それでも騒ぎを確かめるべく、クレトは這う様に寝床の外へ出た。
騒ぎの原因はすぐに分かった。穴の縁から下に向かって、まるで蟻の列の様な黒い点々があった。間違いない。あの糸を見つけたマルク達が穴の上に向かって登っているのだ。何人もの人間で登っているせいか、その動きは上に向かうだけでなく、人の動きに合わせて、右に左に揺れている様にも見える。
「あっ!」
近くで見ていた男が声を上げた。
黒い点の一つの動きがおかしい。どうやら手を滑らせて上体が下向きに向いてしまったらしい。その黒い粒から生えている小さな線、おそらく人の腕をばたばたとさせていたが、やがて何かが剥がれ落ちるかのように、下へと落ちていく。それはその下に居たもう一つの粒にぶつかると、二つとも真っ逆さまに底に向かって落ちていった。
「お、落ちたぞ」
隣の男から声が上がり、女の物らしい小さな悲鳴もあがった。だが落ちた者を気にする様子もなく、残りの粒は上を目指して上がっていく。そして最初の粒が一番上まで登り切った。
「やったか!?」
隣の男から声が上がった。
「ここから逃げ出すんだ!」
声を上げた男は振り返ると、自分の寝床にしていたテントの支柱を足でけり倒して、屋根にしていた布を切り裂き、紐を作りだした。それを見た他の者も、お互いに一瞬顔を見合わせると、男と同じ行動をとり始めた。上まで登る体力などないであろう、小さな子供達がその様子を不安げに見ている。
クレトは頭の痛みに耐えながら、あの糸がある場所、穴の縁の真下へと向かった。そこではクレトが今までに見たことがない喧騒が展開されていた。
どうやら最初はマルクの手下が近づく者達を排除しようとしていたみたいだが、殺到する者達をとても抑えられるような状況じゃ無かった。足元には上から落ちて来たらしい者の、赤く飛び散った染みがあったが、誰もそんなものを気にしている様子はない。人々は我先にその糸に飛びついて上へ登ろうとしていた。
さっき寝床から見た時は黒い点々がある様に見えたが、今は塵にそまった黒い人々が作る、一本の線の様なものになっている。そして途中で止まっているところでは、その後ろから追いついた男が、前で止まっている男を邪魔だとばかりに引きはがそうとしていた。
「危ないぞ!」
誰かの声と共に、上から引きずり落とされた人間が落ちて来た。落ちてきた者が地面に新しい赤い染みを作る。それだけでは無かった。下に居たもの数名がそれに巻き込まれる。巻き込まれた者の一人、即死で無かったものが折った骨か何かの痛みに叫びを上げながら、地面の上をのたうち回っている。
だが糸に殺到している人達はそんな痛みに転がる男すら一顧だにしないで、糸に向かって殺到していた。転がっていた男は糸に群がる人々の足に踏みつけられ、やがて動かなくなった。
『どうして、みんなそんなに焦っているんだ?』
クレトは不思議に思った。だが人々の目にはここから抜け出す希望と言うより、恐怖の色に満ちている。自分が登る前に、この目に見えない糸が消えてしまうのではないかと恐れているのだ。確かにこの糸は見えないのだから、いつ何時失われてしまってもおかしくはない。
また誰かが落ちてきて、地面の塵を巻き上げ赤い染みを作る。そしてそれにまた何人かが巻き込まれた。だが人々は、これを登れると信じている者達が止まることはなかった。お互いの体を押し合い、例え相手の頭を踏み台にしても、いち早く上へあがろうと、皆が必死に手を伸ばしている。
その眺めにクレトは吐き気を覚えた。そして実際に何も入っていない胃から胃液が上がってくるのを止める事が出来なかった。自分の胃液が喉を焼き、口の中から地面へとこぼれる。だが誰もクレトを気にするものなどいない。誰もが上を目指し、他人を蹴落としてでも、いち早く上へ登ろうとしていた。
クレトはその喧騒から目を背けると、自分の寝床へ向かって走った。そして僅かばかりの布を被ると目を閉じて、耳を塞ぎ、ただ体を震わせた。
* * *
あの喧騒から幾日かが過ぎた。
登れるものは登り、落ちる者は落ちた。そして登れる体力が無いものだけが、この底に残っている。そして日々落ちてくるゴミは、この透明な糸の下にあった赤い染みを黒い塵で覆い、やがてゴミの山と一緒に地面の奥底へと引きずり込んでいった。糸があるこの位置には、大勢の者が落ちていった気配すらない。
クレトは色々な者が目印につけた布が結んである場所を避けて、何もないところに手を伸ばした。初めて見つけた時と同じく、すべすべした、だけどそれでいてざらつきもある様な不思議な感触が手の平に伝わった。糸はまだここにある。そしてクレトはそれが繋がっているであろう上を仰いだ。ここ数日間は霞のような灰色の雲がかかり、その先を見る事が出来ずにいたが、久しぶりに青みがかかった空が穴の向こうに見える。
一体どれだけの人数が上までたどり着けたのかは分からないが、間違いなく最初の一人だったはずのオーバンを含め、この糸をたどって戻ってきた者は誰もいない。穴の上では何がどうなっているのだろうか?二コラは助かったのだろうか?
『それを確かめるにはこれを登るしかない』
クレトは自分の肩と腰にある布で作った紐に手をやった。登る補助になる紐を作れる素材になりそうなものは、ほぼ誰かが自分が登るために持っていった。中には他人が寝床の屋根に使っているのを勝手に持って行こうとするやつすらいたくらいだった。
クレトはそれを自分の衣服の一部と、大切に隠しておいたアイナの服で作った。そして昨日からこうして糸の前まで来ているのだが、まだ登る自信がない。体力的に自信がないのもあったが、それ以上にこれを登った先に何が待っているのか、それを自分が知ることに耐えられるのかについて自信が無かった。
クレトは溜息を一つつくと、透明な糸から手を離した。いくら何かを確かめたいと思っていても、未だに自分は色々なものを恐れている。クレトは空を見上げている事に恥ずかしさを覚えて、視線を地面に戻した。視線の先にあるのは、青い空ではなく、黒い塵に覆われたゴミがあるだけだ。
だがその黒い塵の中に、わずかに赤い色があるのが見えた。知らない間に誰かが登ろうとして落ちた跡だろうか。いやそういう暗い赤ではない。それは穴からの光にわずかな光沢を放っていた。そしてクレトにはその色に見覚えがある。
クレトは慌ててそこに向かうと、屈みこんで辺りの塵を払った。そこにはアイナが持っていた人形とそっくりの人形がいた。だが黄色いはずの髪の半分は焼けこげ、そして背中にあった羽は両方とも失われている。クレトは震える手でその足の裏を覗き見た。
『アイナ』
そこには妹の名前が、妹が唯一知っていた字が刻み込まれている。間違いない。これはアイナが持っていた、そして二コラに渡した人形だ。これがゴミと一緒に落ちて来ている。
『一体どういうことだ?』
クレトはその人形をポケットの中に入れると、意を決して透明な糸を掴んだ。
「登りなさるのかい?」
背後から不意に声が掛かった。ここではとても珍しい白髪の人物が立っていた。ここ穴の底では、ほとんどの者は髪が白くなる前に死んでいく。
「はい」
「申し訳ないが、一つ頼まれて欲しいことがあるのだが?」
老人はとてもすまなさそうな顔をして、クレトの方を見ている。
「なんでしょう?」
「もし上に行って、カールという男に会う事があったら、オーサは無事だ、そして帰りを待っていると伝えてくれないだろうか。その男の、わしの息子の嫁だ」
登った者も、落ちた者も、残った者も、それぞれがこの糸に様々な思いを抱き、そして思いを掛けている。自分は一体何の為にこの糸に身を託すのだろうか?オーバンやニコラの無事を確かめる為?クレトは自分の中にその答えを見つけられなかった。
「分かりました。会えたらそう伝えます」
「あんたが上まで無事にたどり着くことを祈っている」
「ありがとうございます」
クレトは糸を手繰り寄せると、自分の肩から尻の方へとそれを回して、腕と足を使ってゆっくりと上へ向かって登り始めると、後ははただ一心に上を見ながら腕と足を動かし続けた。
手足を動かしていくうちに日が暮れて、辺りは暗闇に包まれた。どちらが上でどちらが下かも分からなくなるような感覚に襲われる。だがよく目を凝らせば、穴の向こうには小さく光る星のきらめきが、足元には所々から上がる炎の赤い光も見える。完全な闇ではない。それが僅かばかりの勇気をクレトに与えてくれた。
もう腕にも足にも何も感覚はない。痛みすらもどこかにいってしまったような気がする。自分が登っているのか、じつは滑り落ちているのかさえもよく分からなかった。ただ目にはアイナの人形の半分焼けこげて翼を失った姿と、アイナが最後に息を引き取った時の姿が重なって映っていた。クレトはその姿を追い求めるかのように、目の前の見えない何かに向かって腕を上げ、それを握り続けた。
一体どれだけそれを続けただろうか?
わずかに明るさを増していく空が、その丸く開いた穴の存在を指し示した。それはクレトが穴の底から見ていたときよりはるかに巨大に見える。そしてまだ真っ黒な穴の底、クレトが這いまわるように暮らしていた底に見える小さな炎の明かりは、夜の星より小さく小さく見えた。
クレトはその白んでいく穴の明かりに導かれるように必死に腕を動かした。何も見えないはずなのに、クレトにはその透明な糸がはっきりと見えるように思えた。糸が自分を呼んでいる、そんな気すらしていた。
穴はより巨大に見え、その全貌が分からぬくらいになっていく。完璧な円としてそこに存在するかのように見えた穴の縁が、実は岩の様なもので出来ていて、そこには小さなひび割れの様なものもあり、そこから木の根のようなものがぶら下がっている場所すらあるのも分かるぐらいになっていた。
穴からの明かりはいつの間にか昼の気配を示し、穴から差し込んでくる光の線が底に続く黒い壁を照らしながら、まるで壺の中に手を伸ばすかのように底へ底へと伸びていくのが見えた。その光にクレトは焦りと恐怖を感じた。この光が底まで達したとき、上からゴミが落ちてくる。その時、この穴の中では突風も吹き荒れる。
オーバンはそれに耐えられたが、自分などはまるで紙屑のように翻弄されて、穴の底へと落ちてしまうだろう。実際に、この糸を登ろうとした多くの者が、ゴミが落ちてくる際の突風やゴミの直撃を受けて、穴の底へと叩き落されていた。
『あと少しだ。本当にあと少しなんだ。だから頑張ってくれ!』
クレトは自分の心の中で自分の体に向かって叫んだ。もう穴の周りにある岩の割れ目などははっきりと分かるくらいなのだ。
『あと少し、あと少し』
気が付けば、自分の手や太もも、そして尻の辺りの皮が剥けて血が出ている。だがクレトには痛みを感じている余裕はない。ただひたすら腕をあげ、足を動かし、上へ、上へと登り続けた。穴の縁までもう少しだ。あと自分の背丈ぐらい登ればいい。その時だった、クレトの顔に何かの影が映った。黒い影、様々な形をした黒い影が上から自分の方へ向かってくる。
『ゴミだ……』
あと少し、あと少しなのに。その影はみるみる大きくなり、クレトの体はその影に完全に隠れた。耳には轟音も響いてくる。どうする。掴って耐えるか。いや自分の体ごとちぎれてしまう。ならば少しでも上へ、前へと進むべきだ。
「アイナ、兄ちゃんに力を貸してくれ!」
クレトはそう叫ぶと最後の力を振り絞った。だがその手が穴の縁に届く前に、クレトの体の横を通り過ぎていった巨大な何かが引き起こした突風に、クレトの体はもみくちゃにされた。クレトの耳に次々とゴミが落ちてくる轟音と、その勢いに自分が糸を通していた布の縄が次々にちぎれていく音がした。
* * *
クレトはアイナの手を引いて上を見上げていた。そこには穴があり、穴の向こうに小さな星の瞬きが見えた。
「あそこにお母ちゃんはいるの?」
アイナがクレトの手をそっと引いて聞いた。
「ああ、そうだよ。あそこに居るんだ」
「いっぱいあってどれがお母ちゃんか分からないよ」
「よく見てごらん。あそこに一番大きくて、明るく光っている星が見えるだろう」
「うん」
「あれが、お母ちゃんだよ」
「そうか、あれがお母ちゃんか!」
アイナが飛び上がって喜んだ。
「でも兄ちゃん。お父ちゃんの星はどこにあるのかな?」
クレトは言葉に困った。クレトも父親は知らない。アイナの父親が誰かも知らない。誰だか知らない者の星など見つける事は出来るのだろうか?
「どれかな?一緒に探してみようか?」
「うん!」
目の前には明るい青い空が広がっていた。肌にはひんやりとした冬の空気が感じられる。一体自分はどうしたんだろう。あと少し、あと少しのところで縁に届かなかったのでは?もしかしたら自分はもう死んで生きていないのだろうか?
だが体中、特に手や太ももや脛からの鋭い痛みがクレトを現実へと引き戻した。両手の皮は剥けて、そこから赤黒い何かが見えている。クレトは辺りを見回した。少なくともここは底ではない。黒い塵もゴミの山も、布を連ねた寝床もない。
何よりもはるかに明るい。自分が居るところは黒い塵の代わりに、茶色い砂、いや土らしきもので覆われている。そこには信じられないくらい大量に、辺り一面に草も生えていた。底でもごくわずかに緑の草が生える事はある。だがそれらは、すぐに誰かの口へと入れられた。
クレトは上を見た。眩しいくらいに明るいそこにはやっぱり穴があった。だがその穴は底で見ていた時よりはるかに大きい。空の半分以上を占めているように見える。そしてその縁は真っ黒な壁ではなく、明るいわずかに灰色が掛かった壁だった。
クレトは後ろを振り返った。そこには何もなかった。いや遠く向こうには前方と同じ様な明るい灰色の壁が見える。クレトは恐る恐る、その何もないように思える所に四つん這いで近づいていった。そしてその先に顔を出して、すぐにひっこめた。登っていた時には感じていなかったが、手が足が震えそうになる。そこにあったのは穴だった。そして、一瞬だけ覗いた先には、真っ黒な何かが広がっていた。
『底だ……』
クレトは思った。どうやら自分の体はゴミが落ちるときの突風に吹き飛ばされて、偶然にもこの穴の上に飛ばされたらしい。クレトは意を決すると、再び四つん這いで穴の縁迄行って、その下にむかって必死に手を入れて探った。手には何も触れない。糸は、糸は何処に行ってしまったんだろう。
目には見えなくても登ってくるときにはあんなにはっきりと、確実に存在していたのに。クレトは自分の体が思ったより遠くまで飛ばされたのかもしれないと思い、縁に沿って移動しながら手を動かして探って見た。だが相当に広い範囲を探ってみても手には何も触れなかった。
これが登って行った者達が誰も底へは戻ってこない理由なんだろうか。もしかしたらあの糸は底から上に上がることはできても、下に下ることは出来ないのかもしれない。もともと目に見えないものだったのだから、何があっても不思議ではない。
クレトは糸を探すのをあきらめると立ち上がった。立ち上がってみると、色々なものがクレトの目に入ってくる。あちらこちらで煙のようなものが上がっていた。そして鼻腔には饐えたような、腐ったような、なんとも言えない悪臭も漂ってきた。煙が上がっているという事はそこに誰かが居て、そこで火を使っているという事だ。クレトは一番近い煙の方へ向かって二歩、三歩と進んだ。
カラカラカラ
何か小さなものがぶつかるような音がクレトの耳に聞こえた。クレトが驚いてそちらを見ると、人の背丈の半分ほどもありそうな草の陰で、倒れた木の上に座っている男が居るのが見えた。男は片手で持てるぐらいの小さな銀色の箱を手にしており、それを耳元で小さく振っている。その箱が動くたびに、中から「カラカラ」と小さな音が響いていた。クレトはその姿を見て驚いた。
「オーバン!」
オーバンは座ったまま、クレトの方をちらりと見ると、再びその小さな箱を耳元で動かした。
カラカラカラ
再び箱の中で何かがぶつかる音と、もっと小さい「ザザザ」という音も聞こえてくる。
「クレトか、そろそろ登ってくる頃だと思っていたよ」
「オーバン、無事でよかった。二コラは、二コラは無事なのか?」
「二コラか。ニコラならここに居るよ」
そう言うと、オーバンは手にした銀色の箱をクレトの方へと差し出した。
「ここ?」
「そうだ。人は焼かれて骨になって、その骨を粉にすると、こんな小さな箱にも十分収まるんだよ」
「亡くなったのか?」
オーバンはクレトの問いに頷いて見せた。
「中で音を立てているのが何か分かるか?」
クレトはオーバンに対して首を横に振った。オーバンはおもむろに箱に手を掛けるとその蓋らしきものを外して見せる。そして手を伸ばして箱をひっくり返すとその中に入っていた物を全て、地面へとぶちまけた。箱から白い粉らしきものが大地へとまかれ、その上に小さな白い石の様な、いや石にしては少し細長いようなものがいくつか転がっていった。
「二コラの奥歯だ。これは固くてな。粉にはならないらしい」
二人の間を吹き抜けていった風が、その白い粉をどこかへと持ち去り、後にはオーバンが歯と言った白い小さな石の様なものだけが残った。そしてその風がクレトの鼻を先ほどから刺激し続けている悪臭をより濃厚に運んできた。空っぽの胃がその刺激に何かをクレトの喉元へと押し出そうとしている。
「二コラは本当に残念だった。オーバン、これはニコラとは関係ない話だけど、さっきからしているこの悪臭は一体何なんだ?」
「俺の鼻はもうだいぶ慣れてしまったけどな。お前はここに来たばかりだから気になるか。あちらこちらに死体が山ほどあって腐ってきているからその悪臭だな」
「死体!?」
「ああ、そこにも一つある」
オーバンは自分の横合いにある草むらを指さした。クレトがそちらを見ると、そこには肉が半分溶けかかっており、そこから骨が見えている何かがあった。動物じゃない。そこには手らしきものや、足らしきもの、そして金色の頭髪の名残りらしきものがあった。そして、その背中と思しきあたりには、何やら白いものが飛び出している様に見える。骨、だろうか。いやそうは見えなかった。小さな、とても小さな翼だ。
「うっ!」
クレトは耐え切れずに、胃からこみ上げて来たものを近くの草むらの上に吐き出した。
「オーバン、これは?」
「何なんだろうな。俺も良くは分からない。俺達と少しばかり違うのは確かだ。それに言葉も通じなかった。でもいい奴らだったよ。もうほとんど死にかけていた二コラに「リ」「ン」「ゴ」とか言うとてもいい匂いのものをくれた。それをすりおろした物をニコラに食べさせてくれた。二コラはそれを口にして、こんなおいしいものがあるなんてと、涙を流して喜んだよ」
「そうか、それは良かったな」
「ああ、本当によかった。この背中に羽がある連中は二コラの遺体を炎で焼いて、その骨を粉にして俺に渡してくれた。そして泣いている俺と一緒に涙も流してくれた。本当に、本当にいい奴らだったんだ」
そう言うと、オーバンは急に立ち上がって、クレトの胸元をいきなり掴んだ。
「春と秋に、まともな食いもんが降ってくるだろう。あれは誰が落としてくれていたか知っているか?こいつらだ。こいつらが育てた食べ物を落としてくれていたんだ。それが今はどうなったか分かるか?」
クレトはオーバンの迫力に圧倒されながら首を振った。
「後から上がって来た連中がみんな殺しまくりやがった。食べ物を奪うためだ。こいつらが大事にしていた種もみもだ。そいつも全部食っちまった。もう誰も食べ物を育てる者もいなければ、その元になる種もない。あの煙が見えるか?あれは、こいつらを襲った奴らがつけた火だ。そして今は底の者同士が食べ物を奪い合って、殺し合ってつけている火だ!」
オーバンはそう言うと、少し遠くに上がっている煙を指さした。
「俺も目についたやつらを、片っ端から殺してやった。こいつらの復讐のためだ。だがクレト、俺はもう疲れたよ。そしてやっと分かったんだ」
そう言うと、オーバンはその黒い瞳でじっとクレトを見つめた。クレトの目には、オーバンの瞳の中で、とてもうろたえている自分が映っているのが見える。
「お前はおれがここを目指した時に、『救い』が叶ったって言ったな?」
「ああ、おとぎ話で信じていたと言った話だろう?」
「そうだ。俺もここにたどり着いて、二コラが幸せそうな顔をして息を引き取った時に、救われたと思った。子供の頃から信じていた『救い』というのはあったんだと。だけどこれは、『救い』なんかじゃない」
「じゃ、一体何だと?」
「これは『試し』だ。俺達は何かは良く分からないが誰かによって試されたんだ。見ろ、その結果がこれだったんだ」
オーバンは草むらに横たわる遺骸を指さした。
「俺達は穴から出てはいけなかったんだ。ずっと穴の底に居るべき者達だったんだよ」
オーバンはクレトの胸元を掴んだまま、一歩一歩、前へ進んでいく。クレトの体はその力に押し出されるように、一歩一歩後ろへ下がっていった。
「だからクレト、俺達は自分達が居るべき場所へ、穴の底へ帰ろう」
「オーバン!」
クレトはオーバンに向かって叫んだ。だが、オーバンはその叫びに耳を貸すことなく、クレトの体を突き飛ばした。クレトの体は何にも触れることなく、宙を舞っていく。そしてクレトが見上げた宙の先では、オーバンの体らしきものがクレトと同じように宙を舞っているのが見えた。
そしてクレトは見上げている空が急に暗くなっていくのを感じた。穴が、穴が閉じられていく。何かが穴に蓋をするかのように、黒い何かで穴を覆ってしまおうとしているのが見える。
『アイナ!』
クレトは心の中で妹に呼びかけた。
『兄ちゃんはお前のところまでたどり着けないかもしれない。でもお前はきっと兄ちゃんとは違う、高いところに、お母ちゃんの居るところまでたどり着けたと思う。お前の魂はここが開いているうちに、穴の底から旅立てたのだから!』
真の暗闇がクレトの周りを覆った。
この小説は芥川龍之介氏の「蜘蛛の糸」を参考にさせて頂きました。