彼女の「相棒」
夜のエレベーターは、内装の沈んだ色合いと薄暗い灯りのせいでセピア色の空間をこしらえている。僕がディープグレーの壁に体を預けると、Yシャツ越しに壁材の固く毛羽立った感触が伝わってくる。扉のガラスの向こうでマンションの「内側」の無機質な光景が上から下へと流れていくのを見ながら溜息をひとつつく。それによって一部の筋肉が弛緩して、四角い床に押し付けられるような、箱に乗って持ちあげられているとき特有の感覚が胴体の奥に不快な澱になって滲み出してきて、しばらくすると溶けてなくなる。僕は開いた扉をくぐる。
誰もいない通路に、まだ多分に火照りを残した初秋の空気がたむろっている。僕の汗ばんだ頬や首筋に、微かな不快を与えながら絡みついてきて、僕はまた溜息をつく。足音が反響して1.5人分くらいに聞こえるのを耳で捉えながら、この階の一番端に向かう。
視線を上げれば、いつもと変わらず無人の廊下と夜との向こうにたくさんの誰かがつけた灯りが見える。郊外の住宅街ではいかばかりか夜が「夜らしく」暗いので、誰かの暮らしの灯が控えめな性格の3等星くらいに煌めいている。ちらりとその星々を眺め、自分の目の前に意識を戻すと、左手は既にくたびれたキーケースをポケットから取り出し、鍵を掴んでいた。手を伸ばし、鍵穴と予定された来訪者が決まりきった合い言葉をやり取りすると、その囁きのような小さな音を掻き消すように、高い音階の叫び声が扉の向こうであがる。
分かっていることなのに、僕の鼓動は苛ついたように少し早まる。重い扉を急いで開け、身を隠すように体を滑り込ませてすぐに閉じる。
声の主は既に僕の足に絡むように密着しながら、ときに押さえられない衝動を爆発させるように鋭い声を天井に向けて飛ばす。それが済むとまた重さと軽さの中間くらいの力で僕のすねに頭部を擦りつけ、尾を包む長い被毛をパタパタとぶつけてくる。そんな様子なので、小さな一歩のためだけに、その瞬間「相棒」の体の一部が自分の足の下にないかを確認する必要がある。玄関の照明のスイッチに手が届く場所まで移動するだけでも、幾らか時間がかかる。
壁に寄り掛かるように手を伸ばし、プラスチック製のスイッチが乾いた音をたて明るくなってみれば、案の定、玄関の床に薄黄色い透明な液体が飛び散り、微かに主張するアンモニアが僕の鼻腔を刺激する。この一週間、この瞬間の度に、好美が初めて出会ったとき言った「チワワは嬉しいとおしっこが出ちゃうことがあるので」という忠告を思い出す。その予想された事態のために用意したウェットティッシュの容器から数枚引き抜き、屈むと、「相棒」は僕の膝に前脚を乗せて僕の顔を舐めようとする。良くできたぬいぐるみのように正に字義通り「愛らしい」、「相棒」の顔が間近に迫ってくること自体は不快なことではないものの、僕の膝に乗せられた前脚が十中八九、彼自身の漏らした尿を踏みつけているのだろうと考えると懐いてくれて嬉しいという気持ちも湧きあがってきはしない。
玄関の床をあらかた片づけると、「相棒」を抱き上げリビングに設置されていたトイレの中に置く。彼はプラスチックでできた鶯色の箱の底面に敷き詰められたトイレシートに鼻を擦りつけ照準を定めると、四肢を少しばかり曲げて重心を低くする。おもむろにジャッジャと鋭い水音が聞こえてくる。好美は「男の子なんだけど、去勢してから女の子みたいなおしっこの仕方になっちゃったの。」と、悔やんでいるとも何とも思っていないとも察しのつけようがない表情で説明していた。
しばしの追想の間に、「相棒」の足下の染みは急速に面積を拡大し、彼の左前脚と右後ろ脚の置かれた場所まで湿らせてしまっている。一瞬の静寂の後、事を済ませた「相棒」がトイレの容器から出る前に再び抱き上げ、洗面所で彼の四肢を洗う。彼は情けない顔をして、鏡越しに少し不愉快な僕の顔を窺う。
「相棒」は、部屋に誰かがいないとオシッコができない。だから、好美なり僕なりが外出先から帰って来た時には膀胱をパンパンに膨らませていて、大量の「うれしょん」を撒き散らすし、トイレシートがあるにもかかわらず自分の足を濡らしてしまう。基本的にトイレで用を済ませることができ、故意に他ですることもない。しかし、部屋に一頭きり残された状態ではどうしても用を足せないようだった。
四本の足を全て拭き終わり、この一週間続いている「相棒」の排尿にかかる一連の儀式が終わると、僕はこれもまた儀式と化している好美への電話を試みる。リビングのソファに体を沈め、スマホを操作し始める。好美の番号を検索して通話アイコンを押す頃には、「相棒」は僕の脇腹にぴたりとくっついている。
「おかけになった電話番号は……」と、お決まりのアナウンスを確認すると、みぞおちの辺りがざわざわして、スマホを投げるようにテーブルの上に置く。「私、多分、黙って出かけちゃう人だと思う」そう言われたとき、この人と付き合うならそんな覚悟も必要なんだろうなと他人事のように考えたのを覚えている。実際に急に旅に出てしまったとき、これまでは電話が通じていたし、4日もすればこの街に帰って来ていた。しかし、今回は「相棒」と、彼のトイレや食餌に関わる一式と簡単なメモ書きだけを勝手に彼の部屋に持ちこんで、好美は一週間も行方知れずになってしまった。
「ちょっと長めの仕事に行くので、『相棒』をよろしく。えさがなくなったら、シュプレモの2kgを買って置いて下さい」
そのメモを書くとき、好美の長い黒髪をかけられていたであろう彼女の小さな白い耳と、近視のせいで力を込められていただろう大きな漆黒の瞳を想像し、僕は内側からなのか外側からなのかよく分からない、とにかく理不尽に強い圧力で心と心臓を捻じ曲げられそうになる。僕は小さな唸り声をあげ、その末尾に溜息を繋ぐ。それに反応して「相棒」が飛びかからんばかり僕の胸に前脚をかけ、全身を必死に伸ばして僕の頬を舐める。
「いいって、いいって、大丈夫だから!」
僕の両手で引き離されながら、「相棒」は真ん丸な瞳で僕を眺める。舌の先数ミリを名残惜しげに口からはみ出させたまま、お座りをしてこちらを窺う。
「そうそう、俺今日、でかい契約もらってきたんだ。丸2カ月分くらいの仕事してきたんだぞ」
気を取り直そうとそんなことを言って見るものの、「相棒」に保険営業の話など分かるはずもなく、彼は怪訝そうに首を傾げる。
「分かったふりぐらいできないのかよ。話しかけ甲斐もない」
冷蔵庫の缶ビールを出そうと思い立ち、キッチンまで行くと、「相棒」はボディーガードのように僕の真横にぴったり寄り添って着いてきた。彼は涙を貯めた大きな目をふたつ、必死に何かを訴えるように僕に向けている。
「あ、飯か……」
僕が言い終わる前に、「相棒」は左回りに回転を始め、ハフッ、ハフッと溢れ出した興奮を吐息に変えて発散している。僕は冷蔵庫の扉を閉じ、好美が置いて行ったビニール袋を開ける。「相棒」はいよいよ必死になって、二本脚立ちで僕の腿に前脚を付け、また元に戻り、また僕の腿を触る。
「分かった、分かった。適当に食っといてってわけにはいかないもんな」
そう言いつつ、好美はこれまでの旅のとき「相棒」をどうしていたのだろうか、などと取りとめもなく考える。
僕と好美は、近所の大きな公園で出会った。けやき並木と刈り込まれた芝生の緑が眩しい初夏の公園で、乾いた涼やかな風に吹かれながら、僕と好美は初めての言葉を交わした。
しかしそれは、偶然とか運命とかいう類のものではない、好美のお父さんが僕のクライアントになり好美に高額の生命保険をかけることになったので、その面接のために会ったのだ。好美のお母さんは「あの道楽娘は絵描きなんかになってちっとも嫁に行こうとしないから、あなた貰って頂戴」と笑いながら言っていた。「なんせ糸の切れた風船みたいな奴で一度逃すとなかなか捉まらないから、約束の日時はきっちり守ってね」とも念を押されていたので、僕は1分1秒たがわず好美のマンションのインターホンを鳴らした。
数回鳴らしたところで、エントランスカウンターの女性と目が合い、しばらく外に出てからまた数回鳴らす。何の反応もないので、今度は聞いておいた携帯電話番号にかけたものの、一向に出る気配がない。よもや非常事態とばかりに好美のお母さんに電話をかけた。
「きっと携帯持たずにどっかブラブラしてるのよ。多分、近所。留守番できない子供みたいで恥ずかしいわね、親の顔が見てみたいって私のことか、ア・ハ・ハッ、ごめんね。悪いんだけど、ちょっと近所を探してみてくれない?」
そんないきさつの後に、巨大な抹茶アイスにも見える、こんもりと葉を茂らせた大きな楓の木の前にカンバスを拡げて、小ぶりなパイプ椅子に掛けている好美に僕は声をかけた。
「失礼ですが、沢村好美さんですか?」
好美は話しかけられたのが自分であることを確認するような、丁寧で慎重な眼差しを僕に向けた。その脇には、腹ばいに寝そべったロングコートチワワが耳と瞳だけを僕の方に傾けている。
「あ! 保険屋さんですか? うっかりしてました、ごめんなさい」
慌てて立ちあがった好美の足元で、ワンピースの裾にデザインされたトロピカルフラワー達がさわさわ揺れているのが目に入った。遠目には頭や手足のバランスで長身に見えた好美の、エキゾチックな瞳が想定していたよりずっと低い位置から僕を見上げていた。表現は悪いものの、そのときの好美はあまりにも間の抜けた表情だったので、自然と笑みがこぼれた。
「いえいえ、お会いできて良かったです。」僕がそう言ったときに返事をしたのは「相棒」だった。
「『相棒』、うるさいよ」
「『相棒』? あの『相棒』ですか?」
「はい。よく変わってると言われますけど」
「珍しいけど、いい名前ですね」
「ンアンッッ」
「相棒」はそのとき、好美が引き締めたリードに半身を預けて、二本脚立ちで懸命に尾を振り回し僕に好意を示していた。新しい出会いへの期待を全身に現しながら、前脚で必死に僕を手繰り寄せようとしているようにも見える。僕が「可愛いなあ」と屈もうとすると、好美がそれを制した。
「やめた方がいいですよ。チワワは嬉しいとおしっこが出ちゃうことがあるので」
「うれしょんくらいなら大丈夫です。いい子だね」
僕が近づいて手を伸ばすと、『相棒』は小刻みな動きで鼻を擦りつけるようにして僕の存在を記憶し、認識しようとしているようだった。それがひとしきり済むと、リードがわずかに緩んだ隙に乗じて僕の懐に入ってきて、鼻を突きだして僕を見上げた。僕の手が彼の胴体を撫でると、身を捩って僕の右手を愛おしそうに舐めはじめ、やがて熱中し始める。
「この子、舐めるのが好きなんです。気に入った人のことは延々と舐め続けちゃうんですよ」そういって屈んだ好美と、僕は色々な話を始めた。
生命保険の仕事をしていると、保険をかける人、かけられる人、受取人に指定される人、様々な人と色々な話をする。それは、生命保険が商品で選ばれる類の売りものではなく、会社や人で選んでもらう類のものだからだ。だから僕は初めて会った人と話すことに慣れている。しかし僕は、好美とのやりとりがいつもの世間話と違うことを感じていた。そのことは、透明な青空を照り返す彼女の瞳を見るたびに確認できた。
僕と好美の話題は気まぐれな蝶のように、あちらこちらを舞い上がっては舞い落ちながらふらふらひらりと行き来した。『相棒』のさまざまな習慣のことから始まってチワワ全般の特性についての話になり、そこからチワワの原産地に近いメキシコシティの夜景のことに飛んだ。メキシコシティの夜に付き物の燃えるようなテキーラの話は、舌が痛くなるほど冷やされたウォッカを介してシベリアの永久凍土に眠るマンモスの話になる。マンモスの大きすぎた牙の話題が、密漁者に母像を殺された小象の嘆きの話になり、やがて好美は仁王立ちになって人間が地震を起こすのだと声高に主張し始めた。
「地球ってとっても不安定な『もの』なんです。それを植物も含め生き物たちがいろんな環っかを作って包んで支えているんですよ。どっかへ飛んでっちゃわないように」
好美は僕に背中を向け、楓の木と空との中間あたりに視線を向けているように見えた。両手を少し広げて両足に力を込める好美や、彼女の向こうで空の茜色に染められた枝葉を四方に伸ばした楓の木を見ると、確かに彼らが、空間と地球に必死にしがみついて両者をつなぎとめているようにも感じられた。
好美は振り返って真剣な表情で僕を凝視した。「科学的なことを分かってないわけじゃないんですよ。でも、心の世界ではそうなんです。私、不思議ちゃんではありませんから」
「はい。分かります、多分、あなたの言っていること」
「そうですか」納得した様子でまた楓の木の方に向き直った好美は、しばらくそのまま佇んでいた。彼女や楓の木や他のいろんな生き物たちが作るたくさんの環っかを無理やり引き千切ってしまったとき、地球の軌道が動揺する、多分、そんなようなことなのだろう。『相棒』はいつの間にか僕の脇に立って僕の革靴の臭いを嗅いでいた。
僕は空や公園の空気の色が沈んでいくことに不安を感じ始めた。それは仕事がなかなか終わらないことへの不安ではなく、もうすぐ保険の書類を出して仕事を済ませなければならないことに対するものだ。普段なら、保険をかけられる人と世間話をして、人間として信用してもらい、保険の内容を説明して、納得してもらったらサインをもらいその場を去る。そのときには、保険契約の成立を拒絶されなかったことにほっとしながら、仕事が無事に終わったことを喜びながら去るものだ。しかしそのとき、僕は好美に仕事の話をして、面接の手続きを終えることが嫌だった。
僕が逡巡している間に、「相棒」は僕のスラックスの裾に体を押し付けながら体を丸め、寝転がっていた。微かな風が彼の背中の毛を揺らした。
「そろそろ手続きしないといけませんね」そう言ったのは好美だった。
「はい。……ここで大丈夫ですか?」
「ええ」
僕は微かに震える手でカバンから書類を取り出し、自分でも可笑しいくらい何のアレンジもせずお決まりの文句で一通りの説明を済ませ、クリップボードに挟んだ保険契約申込書を好美に手渡した。好美は丁寧に、書写大会で金賞を取る小学生と変わらない几帳面な楷書で被保険者欄にサインをし、僕に書類を返した。僕はぎこちない動作で彼女に渡すべき書類をまとめ、封筒に詰め、彼女に渡しながら、彼女の瞳をまっすぐに見た。
「今日はお時間をいただいて、ありがとうございました」
「いえいえ、本当にご迷惑おかけしました。まだ時間あると思ってちょっと出かけたつもりが、夢中になっちゃって。こんなところまで探しに来ていただいて、ありがとうございました」
「本当にお会いできて良かったです。お父様、お母様も面接のことを心配されていたので」
僕の鼓動は無暗に早くなり、波立った精神に揺すられて声が震えるのではないかと思えて、殊更に腹に力を込めながら型どおりの別れの挨拶としての言葉を紡いだ。書類や筆記用具をカバンに詰める僕の心の中に、彼女と僕の関係について一歩踏み出したイメージがなくもなかったが、大事なクライアントの娘と個人的に次のアポイントをとるような勇気は僕には持ち合わせのないものだった。僕が迷った時間はさほど長いものではなく、薄い夕闇のフィルターの向こうから笑顔を見せてくれる好美に向けた僕のひと連なりの言葉たちはあっけなく尽きた。
「では……」と会話の末尾を閉じようとしたとき、僕の足下で静かに目を輝かせている「相棒」の姿が目に入り、愛おしくなって屈みこんだ。
「相棒」は、懸命に尾を振り回し体を捩じって僕の右手を舐めてくれた。彼の人間より高めの体温を反映した熱い舌は、僕の架空の傷を癒すように優しく指に絡みついてくる。左手で撫でる彼の背中は厚手の絨毯のように心地良く、小さな彼の温かく柔らかい体に全身を包まれているような不思議な感覚にとらわれた。
「じゃあな、『相棒』君」
僕は最後に「相棒」の頭を撫でながら立ち上り、ぼんやり僕と「相棒」を見ていた好美の方を向いた。僕の鼓動は早いままだ。平常を失って揺れる感情を振り切るように思い切って「では」と切り出そうとしたとき、好美が驚いたように小さな叫び声をあげた。
「袖におしっこが!」
慌てて確認すると、確かに僕のYシャツの右袖に、かなり派手な黄色い染みが広がりつつあった。好美と二人あたふたと、上着の袖に被害が広がらないようまくったり、近くに水道がないか探したりしている間に、周囲の宵の色は濃くなっていった。
「意外と染みが残るんです。すぐ手洗いしてクリーニングに出さないと。まずはうちまで来て下さい。」
「いやいや、大丈夫ですよ」とは、僕は言わなかった。
雨の夜、フロントガラス越しに見る玉川通りは渋滞して連なる前の車のブレーキランプ、対向車のヘッドライト、工事現場の回転灯などの灯りが水滴に乱反射して、視神経を無用に苛立たせる。僕は右手の人差指でハンドルをせわしなく叩きながら、カーナビの画面に表示された日付と時間を何度も確認し、何度となく溜息をつく。今日は早く帰ることができ、サッカーの日本代表の試合をテレビ観戦できるはずだったと思うと、激しい衝動が込み上げて来て右手でドアに八つ当たりをする。
好美の不在は今日で丸二週間となる。
彼女がスーパーのビニール袋に詰めてきた「相棒」の餌が朝になくなり、仕事帰りに近所のペットショップに寄ったとき初めて、好美に指定された「シュプレモ」というブランドがどこにでも置いてある代物ではないと知った。まあ大丈夫だろうと適当に値段の高い餌を買って「相棒」に与えてみたものの、臭いを嗅ぐばかりで全く口を付けない。そこで慌てて正規販売店を検索し、二子玉川までわざわざ買いに行った帰りにこの渋滞にはまってしまったのだった。視界の隅にはすでに自分の住むマンションが見えるものの、今の状況では身動きのとりようもない。
僕はスマホを取り出して好美を呼び出してみるが、イヤホン越しにまた例の「おかけになった電話番号は……」のアナウンスが聞こえ、今度はイヤホンに八つ当たりして助手席に放り投げる。
犬を押し付け、餌を指定した上、挙句にそれがどこにでも売っているものではないという注釈も付けない。何より二週間も音沙汰なしで、愛を語るどころか不平をぶつけることもできない。腹立たしさに任せて大きな声で叫んでみると、感情が化学変化でも起こしたかのように今度は淋しさばかりが胸中に満たされてくる。
僕は自宅まで僅かのところで足止めを食った車の中で、本当は好美に話を聞いてもらいたいのだと気付く。よく納得し満足してもらったつもりだった大きな契約が、クーリングオフされたのだ。そういうとき、自分のファイナンシャルプランナー・ライフコンサルタントとしての誇りが大きく傷つく。誰かに痛みを共有してもらいたくなる。生命保険のことなどよく分からない好美は、それでも僕の仕事の話を興味深げによく聞いてくれた。生命保険の仕事の話は、大半が要するにクライアントとの人間関係の話なのだと彼女は直感的に気付いてくれる。僕にとって最高の聞き手だった。
その好美が置いて行った「相棒」は僕の話に首を傾げるばかりで、孤独を忘れさせてくれはしない。その被毛の柔らかさ、愛らしい仕草や表情に癒されることもあったが、それより毎日玄関で繰り広げられるうれしょん祭りや足洗いの手間が、僕の大きなストレスの元になっている。他にも僕が部屋で少し慌てた様子を見せるといちいち吠えたり、ソファでぴたりとまとわりついてきて、姿勢を変えるなり、寝転がるなりする度に毎度彼の存在に配慮しないといけないことも、とても面倒に感じられるようになってきていた。
わずかな距離のためにゆうに15分はかけて、車はようやくマンションの駐車場に辿り着く。車を停め、2kgのシュプレモを脇に抱えて部屋に向かいながら、今度は急な不安に取りつかれる。不安というのはそもそも、勤めている保険代理店の社長の話が引き金だった。その話自体は好美に関係した話ではなかったが、状況が似ていたので性質の悪い油汚れのように頭に残ったのだ。社長の元妻は宝石のコンサルタントの仕事をしていたのだが、その仕事のためと出かけた出張の半分は、愛人の若い男との不倫旅行だったのだという。「お前の彼女も怪しいんじゃないか?」と社長に冗談めかして言われた時には、好美に限ってそんなことはないと思ったし、そう口にした。しかし苛立ちで感情が不安定になると、もしかしたら、という嫌な妄想が心を捕え僕を更なる不愉快の霧の中へと引きずり込んだ。
僕は蒸し暑いエレベーターの中で、ある疑念に辿り着く。それは僕と好美が付き合い始めてからこれまで3回あった短い旅の間、「相棒」はどこにいたのかという純粋な疑問から始まり、これまで「相棒」を預けていた誰かがいるとして、なぜ今回はその人物に預けられなかったのかという新しい疑問を経て、好美はこれまで「相棒」を預けていた誰かと一緒に旅をしているのではないかという仮説へと至る。そう考えると、今回ばかり携帯での連絡が全くつかないことも説明できるような気がしてきて、足の踏み場もない部屋に急に閉じ込められたような所在ない気持ちになり溜息混じりの呻き声をあげる。
自分の日常動作に精神が追い付いて行かない心地悪さを感じながら、エレベーターを降り扉を開けて靴を脱いだ。振り返って部屋の奥へと進もうというときになってはじめて、僕は異和感を覚える。短い廊下を通ってリビングの入口に立ち、照明を点ける。僕を出迎えなかった「相棒」は、部屋の隅に縮こまっていた。目を凝らすと小刻みに震えている。
「どうした、『相棒』?」
僕は「相棒」の方へ歩く。すると、彼の元まで辿りつかないうちに原因に気づく。ソファと「相棒」のトイレとのちょうど半ばの地点にあたるフローリングの床に、それなりの量の液体が拡がっていた。以前、好美といるときにも見たことのある光景だった。
身をかがませて壁沿いにそろりそろりと歩きだした「相棒」を、僕は乱暴に捕まえる。溜息に不快な感情が混じって唸り声になったのを自覚ながら、洗面台に行き、「相棒」の四肢を手荒く洗う。「相棒」は少しだけ嫌がる気配を見せたものの、結局されるがままになっている。一通り洗い終わって彼専用のタオルで拭き取ると、いつもとは異なりリビングに連れて行かず、その場に下ろす。僕が眉をしかめながらリビングの掃除をし、それを終えた時も、「相棒」は下ろされたときそのままの格好でこちらを窺っていた。
僕は「相棒」から目を反らしてソファに座り、テーブルに置いてあるリモコンでテレビの電源を入れる。サッカーの日本代表は、後半6分の時点で0-3と韓国代表にリードされていた。完全に負けパターンに陥っている様子で、中盤を潰されるからディフェンスラインからのロングフィードばかりになり、簡単にボールを失いリズムを掴めないという流れがすぐに分かる。そんな試合内容に集中できなくなり、今しがたの自分の行動を思い出し、自己嫌悪し始める。
「相棒」はいつも、僕が帰宅するとたくさんの水を飲んで排尿することを20分程の感覚を開けて数回繰り返す。今日はおそらく、僕が一度帰って来て緊張感が緩んだところですぐ出かけてしまい、尿のコントロールができなかったのだろう。粗相について怒るのは良くないと、好美との付き合い始めの頃に「相棒」と仲良くなろうと買った犬の飼い方の本に書かれていた。「相棒」自身「やってしまった」と思い震えていたのであろうに、追い打ちをかけるように僕の不機嫌に曝されどんな気持ちだっただろうかと想像すると、洗面所でしょげている彼の所へ行って抱き上げてやりたいと感じる。しかし、素直にそうさせないしこりが僕の中にあった。
思い返してみれば、こうして恋人に待たされることの多い交際をするのは今回が初めてだった。
これまでは、僕が付き合っている女の子を待たせてばかりいた。僕の仕事自体、クライアントの都合に合わせて昼夜・土日祝日関係なく駆けずり回ることが一般的であるし、クライアント、保険代理店の社長との接待ゴルフ・釣りも多い。コネクションの基本である友人関係も大切にしているので、色んなところから誘いがくる。だから今まで付き合った恋人は皆、さんざん僕に待たされて、待ちあぐねた上で僕から離れていった。
今こうして好美に待たされていると、僕が過去の交際相手に対してしてきたことを後悔する感情が芽生えてくる。恋人が自分のことを本当に見ているかどうか感じようも確かめようもない状況は、確かに僕を不安定にさせ、相手との関係を続けることに対する不安を触発した。自分が恋人を待たせていたときには、どうして愛していることを信じてくれないのだと相手の過度な不信感を責めたものだったが、自分が待たされたら途端に相手への不信感が芽生えてくる。ただ待たされるということがこんなに辛いものなのかと思うと、かつての自分はなんと無神経な人間だったのだと恥ずかしくなる。
心の水面を少し落ち着かせてその中を覗いてみれば、僕の苛立ちの全ての発端が好美の不在にあるのだとすぐ分かった。僕が必要と思った時に好美と触れ合い彼女の存在を感じることができない現状に、僕は苛立っているのだ。
それは、好美が今までの恋人よりもずっと僕にとってかけがえのない存在であるということも示しているし、一方では今までの恋人に対して僕がどれほど身勝手な態度をとってきたかということも示している。好美のように自由に飛び回ることが生存条件になっているような女性との交際は、僕には向いていないのかもしれない。
身勝手な僕が目をやると、「相棒」はまだ洗面所の暗がりの中で震えながら僕の許しを待っている。彼の瞳には、きっとたくさんの涙が湛えられているだろう。犬も感情が昂ぶれば涙を流すということを僕に教えてくれたのは彼だった。
責任を追う能力のない彼が、それでも自分に「孤独の罰」を課している様を見ると、僕は自分がいかにどうしようもない人間であるかを思い知らされる。チワワの代謝の割合が高い体や、小さな膀胱のことを思えば、彼の失禁を責めてはいけなかったのだ。それにも関わらず僕は、好美に会えない苛立ちを彼にぶつけてしまった。小さな彼はそれを一身に受け止めて、ひとりで耐えている。
「俺には向いてないかもな」
好美や「相棒」とは別れた方がいいかもしれない。そう考えた瞬間、下瞼の裏に熱を感じた。疲れのせいかもしれない、そう自分に言い訳している間に、涙が次の涙を誘い、頬に零れる。
「情けないなあ、大の男が」
そう呟いて膝を抱えると、小刻みで柔らかい足音が近づいてくるのを感じ、脛の裏に何かが擦った次の瞬間、僕の目がしらに染みるような温かさの何かが押し付けられた。驚いてのけぞった僕の膝の上に「相棒」が飛び乗り、僕の鼻の脇から眉頭までをとり憑かれたように懸命に舐めはじめた。
「おい、『相棒』……」
やめろ、と言いかけて、そう言いたくない自分に気づく。
「ごめんな、『相棒』。こんな俺で、ごめんな」
僕の涙は、流れる前に全て「相棒」のざらざらして熱い舌に掻き消されていく。彼は目を閉じたりうっすら開けたりしながら、小さな体の内から限りなく溢れ出す愛情を僕の毛羽立った感情に優しく塗りつけ、包んでくれる。彼の必死になって踏ん張っている後ろ脚や、肩や顔に押し付けるように当てられる前脚の爪の強い感触が、僕の懐に確かに「他者」が存在し僕に寄り添っていることを知らせている。
涙に溶けだした不安や淋しさが少しづつ小さくなる。それがやがて尽き、「相棒」の絆創膏が僕の涙の出所である心のほつれを塞ぎきろうというときになって、「相棒」の動きが突然止まり、耳と目の照準を一点に固定したのが分かった。
「相棒」は僕の腿を強く蹴って床に飛び降り、リビングから飛び出していく。すぐに僕から姿が見えなくなった彼の足音に混じって、金属の擦れる音が聞こえてくる。「相棒」の一声に被せて扉が開く音がする。
「『相棒』、元気だった?」
僕はYシャツの袖でごしごしと目の周りを擦り、玄関に向かう。好美は大きなリュックサックを背負い、両手に大きな荷物を抱えて「相棒」に話しかけていた。彼女は僕の気配に顔をあげると、肩をすぼめる仕草をする。
「遅くなってごめん。思ったより時間かかっちゃって。『相棒』のごはん間に合った?」
今日の夕方の帰宅予定だったものが夜にずれ込んだときと変わらない好美の話ぶりに、僕はどう反応していいか分からなくなる。とにかく彼女の元へ行って、両手の荷物を受け取る。
「ちょうど今朝なくなったから、今買ってきたとこ」
「かぶっちゃった! まあ、開封しなきゃ長く持つものだからいいと思って買ったんだけど」
好美が手にぶら下げていた荷物のうちひとつは、ペットショップの袋に入ったシュプレモだった。もうひとつは、近くのスーパーの袋に入った肉と野菜だった。
「もう夕ごはん食べた? 食べてなかったら、適当に拵えるから一緒に食べよ」
「うん。ところで、どこ行ってたの?」
ルブアルハリ砂漠。好美はそう答える。確かアラビア半島だったな、などと考えていると、「砂漠の月は綺麗だったよ、後で描いた画一枚プレゼントするね」と透明な声と爽やかな笑顔で何の屈託もない。
荷物をリビングの隅に山積みにして、「あー、お腹空いた」と手際よく料理を始めた好美と「相棒」を脇に抱えてソファに腰掛けた僕とは、二週間貯まっていた互いの話題を次々に共有していった。好美に聞いてもらえば、仕事の失敗はこれまで何度も経験してきたあるある話のネタに過ぎないと思えてきたし、好美の携帯は今までもよくあったように彼女のマンションに放置されているようだった。そして、これまでの旅行の時は「相棒」はペットホテルというものに預けられていたらしい。
「ちょっと長くなると思ったから、ペットホテル代も馬鹿にならないし、頼んじゃおって思って。それに、『相棒』が居た方が淋しさが紛れたでしょ?」
「まあね。好美は? 淋しくなかった?」
「淋しかったよ! 携帯忘れちゃったから、電話番号も分からないでしょ? でも、一仕事したら二人の元に帰るんだって考えたら頑張れたよ」
何かをフライパンで炒めるときの、油が撥ね金属同士がぶつかる音がキッチンから聞こえ始め、二人の会話が途切れる。僕は目を閉じ、見えていない好美の存在を明らかなものとして手で触れるように感じながら、心の底へと静かに沈んでいく安定した物質のような確かな感情があるのを自覚する。僕が目を開けると、リビングの灯りの下でテーブルに食器を並べる好美の姿があった。
「好美、結婚しよう」
「うん、いいよ」好美は僕の方を見もせずに、何か当たり前の質問をされたときのように素っ気なく応えた。
「相棒」も僕の膝の上に頭を乗せて、いつもと同じように目と耳だけをこちらに向けていた。
了