7.変わり始めた未来
最後なのにタイトルを変更しました。
「エミリア嬢!」
バンッ!
勢いよく開いた教室の扉の音と同時に発した大声に驚いた生徒達は、何事かと一斉に声の主の方を向いた。
大声を発した険しい顔つきの男子生徒は、教科書を鞄に入れて帰り支度をしていたエミリア目掛けてやって来る。
「……潰しましょうか」
「ノアール、止めて」
このあとは、学園から寮へ行かずにブティックへ採寸をしに行くため、教室までエミリアを迎えに来ていたノアも男子生徒を見て眉を顰めた。
「イーサン様? どうかされました?」
鼻息の荒いイーサンを無視して教室を出たい気持ちを押し止めて、エミリアは対外的な笑顔を作る。
「どうかされましたじゃないだろう! 俺と親しくしているからといって、シンシアに嫌がらせをするとは! どういうつもりだ!」
許可すれば、今すぐにイーサンを“潰すため”ノアが横に動くのが視界の隅に見えて、エミリアは引きつる口元を隠すため小首を傾げた。
「シンシアさん? 私が嫌がらせを、ですか? 私は嫌がらせなどしておりません。弟と同じクラスという以外に接点はありませんし、これからも関わるつもりもありませんよ」
「しらばっくれるな! 俺とシンシアが親しくしているから嫉妬しているんだろう!」
額に青筋を浮かべたイーサンは、感情のまま拳を握り締めた右手を上げた。
「きゃああ!」
周囲でやり取りを見守っていた生徒達から悲鳴が上がる。
「愚かな」
上げた腕を振り下ろされる直前、瞬く間にイーサンの背後へ回り込んだノアは彼の腕を掴み捻り上げた。
「ぐっ!?」
怒りの感情のまま、エミリアへ腕を振り下ろそうとしたイーサンは自分の身に何が起こったのか理解出来ず、突然襲って来た腕から肩にかけての激痛に呻き声を上げた。
掴まれている腕に全力で力を入れてイーサンは抵抗を試みているのに、見た目は女性、メイドにしか見えないノアの細腕は外れない。
「ノアール!?」
「女性に対してこのような乱暴な振る舞いはいかがなものかと。お嬢様から手を離していただきたい」
言葉に殺気を込めたノアは、イーサンの手首を掴む手の力を強め肩の関節に加重をかけていく。
「お前こそ放せ! シンシアが泣きながら俺に助けを求めてきた! 俺に近付くなとエミリアから言われ、嫌がらせをされたと、ぐぁっ!」
言葉途中でノアが捻り上げる力を強め、前屈みになったイーサンの顔が苦悶で歪む。
「お嬢様が誰に嫌がらせをしたと? シンシアという方の御友人達からお嬢様が受けている行為の方が問題では? シンシアという方の御友人方がお嬢様に「格が合わない。釣り合わないから婚約を解消しろ」と、御親切に忠告してくださいましたよ。ああ、「シンシアの邪魔をするな」とも言っていましたね」
「なん、だと? どういうことだ!?」
「後々のことを考えて、その時の記録とお嬢様宛ての贈り物は私が保存させてもらっています。因みに、ゼンペリオン公爵令嬢と王太子殿下もご存じですよ。ご自分の今後の心配をされた方がいいのではないでしょうか?」
苦痛で呻くイーサンを見下ろすノアは冷笑を浮かべる。
「殿下が、どういうことだ? 記録に贈り物、だと?」
大きく目を見開くイーサンの耳元へ、冷笑を浮かべたままノアは顔を近付けた。
「どんな相手と遊ぼうが、学生の内は大目に見てもらえるかもしれぬが」
一旦言葉を切ったノアは冷笑を消し、真顔になる。
「小僧。お嬢様が嫌がらせの首謀者だと言い切るのならば確固たる証拠を全て揃えてから言え。下らない妄言を吐くのならば、一生口がきけないようにしてやろう」
「なっ」
低くなったノアの声に含まれた殺気を感じ取り、上げそうになった悲鳴はイーサンの中に残っていた矜持で堪えた。
「ノアール! やりすぎよ!」
今にも“潰し”かねない殺気を感じ取ったエミリアは、慌ててイーサンを拘束しているノアの腕を引っ張った。
エミリアが腕に触れた途端、発していた殺気を消したノアは拘束していたイーサンの手首を解放する。
「イーサン様、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。加減はしましたから利き手を潰してはいません。三日程痛みで剣を握れないでしょう。ついでに、回復魔法が効かないようにしておきましたから」
にっこりと微笑んだノアの言葉に、エミリアは眩暈がしてきてフラリとよろめく。
よろめいたエミリアを片手で支えて机の上に置いてあった鞄を持ったノアは、周囲で固唾をのんで見守っていた生徒達へ会釈をした。
床に両膝をついているイーサンを振り向くことなく、顔色を悪くしたエミリアはノアに腰を抱かれて教室を出て行った。
「なん、なんなんだあのメイドは、この俺が抑えられるなんて……」
床を見詰めてブツブツ呟いているイーサンとは関わりたくないとばかりに、やり取りを見ていた生徒達は教室を出て行く。
教室に一人残ったイーサンはそっと自分の胸に手を当てた。
「だが、この胸の高鳴りは、一体……」
細身でも長身だったメイドの力は強く、彼女に捕まれた手首と捻り上げられた肩は動かす度に痛みが走り抜ける。
だが、その痛み以上にイーサンは心臓の鼓動が速くなっていくのを感じ、顔を上げて夕陽が射し込む窓を見詰めた。
***
採寸の予約を入れているブティックへ向かう馬車に乗り、ようやくエミリアは教室内でのイーサンとノアのやり取りを冷静に考えられるようになった。
(イーサン様の口ぶりから、すでにシンシア嬢と親密な関係になっているのは分かったわ。でも、親しくなるのが早くないかな? 新入生歓迎会からまだ一週間よ。前の時は、イーサン様が彼女を後輩以上の存在と想うようになるのは、図書室や郊外活動を通じて、シンシアさんが他の女子に絡まれていたのを庇ったりしてから、とにかくもう少し先だったはず……)
記憶にある展開として、落下した照明器具から助けてくれたお礼として、シンシアが料理クラブの体験で作ったクッキーをイーサンに渡して二人の関係が少し近付く、という出来事があったはず。
(クッキーを貰ったイーサン様が一方的に盛り上がってる? やっぱり展開が変わって来ているのかな? そういえば、女子に絡まれた後、私が他の女子を煽ったんだってイーサン様に怒鳴られたのよね。あの時はショックだったけれど、今なら頭の悪い男だと思うわ)
目蓋を閉じたエミリアの脳裏に、前のエミリアが話す釈明を全く聞いてくれないで怒るイーサンの形相と、真っ赤に染まった顔が浮かぶ。
「お嬢様、どうされましたか?」
先ほどの、イーサンとのやり取りなど無かったかのようなノアの声色に、エミリアは溜息を吐いた。
「さっきはありがとう。でも、学園で乱暴なことは極力しないでね」
「乱暴? 力の加減はしましたよ。ですが、お嬢様が望まれるのでしたら極力控えましょう」
怒りをあらわにしたイーサンの剣幕から、どうしても前の彼の言動を思い出す。
ノアが居なかったら確実に殴られていたと、今更ながら湧き上がってくる恐怖でエミリアの体に震えが生じる。
「……私との契約はもう終わっているのに、どうしてノアは守ってくれるの?」
学園入学までという契約期間が終わってもノアが味方で居てくれるのは嬉しい。その反面、いつか彼の目的が達成されれば傍から離れて行ってしまうのではないか、という恐怖があった。
フッと笑った音がした瞬間、向かいに座っているノアールの姿が揺らぎ、一瞬でメイドから執事のノアへと変化する。
「俺が六年かけて育てた大事な“お嬢様”を、阿呆共に傷付けさせるわけないだろう」
「え?」
きょとんとなるエミリアへ向けて、腰を浮かしたノアは手を伸ばす。
「お嬢様に嫌がらせをする相手も邪魔者も、全て俺が潰しましょう。だから、安心して学園生活を楽しんでくださいね」
「ノア?」
上半身を起こしたノアは戸惑うエミリアの手を握り、顔を近付けて彼女の手の甲へ口付けを落とした。
ブティックの着き、店員に先導されて採寸室へ入るエミリアの後ろ姿を見送った執事姿のノアは、部屋の隅へ移動してから右手を軽く握り開く。
開いた手の中には黒革の小さな手帳が出現していた。
手帳の栞を挟んだページを開き、数ページ捲り書かれている内容を確認したノアは口角を上げる。
「次は、通りがかりの娘にバケツで汚水をかける、か。ふっ、くくく、お嬢様がこんな低俗なことをやるわけがないだろう」
肩を震わせたノアが手帳を閉じると、手帳は空気に溶けるよう消えた。
馬車の中で小さな体を震わせていたエミリアを見て、完全に利き腕と精神を潰してしまえばよかったかとノアは後悔した。
滅多に動かない自分の心にも、後悔という感情があったのかと少しばかり驚く。
後悔と怒りの感情は、馬車の中で手の甲に口付けを落としただけで全身を真っ赤に染めたエミリアの姿に、お嬢様の可愛らしい反応を見ただけで昂りが萎えていったのを思い返すだけで、笑いが込み上げてきた。
六年かけてノアが愛しみ育てた、可愛い可愛いお嬢様。
初対面の冒険者へ契約を持ちかけた豪胆さを気に入り、お嬢様の提示した契約に乗ったのは興味から。
年齢のわりに早熟した精神を持つエミリアは、常に何かに怯えていた。
その怯えの一つが婚約者に対するモノだと、教室でのやり取りで分かり、目蓋を閉じたノアは脳内で今後のイーサンへの対応を組み立てていく。
「小僧は早々に潰してしまうか。そして、望み通りお嬢様には学園生活を満喫していただこう」
採寸室の扉が開く気配を感じ取り、壁に寄りかかっていたノアは姿勢を正す。
「ノア、お待たせ」
「お嬢様、お疲れでしょう。帰りにお菓子を買って戻りましょうか」
「いいの? やったぁ!」
軽く飛び上がって喜びを表したエミリアは、微笑むノアへ満面の笑顔を向けた。
無邪気に喜ぶエミリアは、自身の破滅回避のことに必死で知らなかった。
すでに、前のエミリアの歩んだ道筋は消えており、全く異なる道筋をこれから歩むことになるということ。
ノアを筆頭にしたエミリアの協力者達が裏で手を回し、お嬢様に害ある者達を秘密裏に排除しようと動いていることを、この時はまだ知る由も無かった。
これにて完結になります。
六年間、ノアに育てられたエミリアちゃんの外見は、前のエミリア(外見は痩せ気味で胸は小さい。性格は内向的で悲観的。少し卑屈)と比べても、明るく健康的でふわふわなマシュマロ美少女になっています。当然、お胸も大きい。
ゆるふわエミリアちゃんに憧れを抱く男子生徒は、裏でノアとちょっと姉に対して拗らせている愚弟の手で処理されています。
悪役令嬢の立ち位置になるイブリア嬢も、エミリアちゃんを愛でる対象と見ています。
中途半端だけど、力尽きたのでここまで。
破滅フラグをへし折ってエミリアがハッピーエンドを目指す話と、ノアが暗躍する話の続きはそのうち……出来たらいいな。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。