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「マジかよ…」
俺は今、大勢の人がひしめき合う北桜大学の前で呆然と立っている。
ほとんどの人がスーツのことから、俺と同じ新入生だろう。
観察してみると、期待に胸を膨らましている人。緊張で顔が強張っている人。笑顔の人などその表情はさまざまで、心なしかみんな輝いて見える。
どうやら俺みたいに具合の悪そうな人は一人もいないようだ。
昨晩、蓋をしていた思い出たちが一斉に蘇ったことで俺の頭はオーバーヒート。
今日の朝方まで頭痛に悩まされ続けた。
気づけばいつもの起床時間で、その頃には頭痛も治まっていたけど今度は寝不足で体調は最悪、テンションもどん底ときた。
どうやら、入学式はこのコンディションで参加しなければいけないみたいだ。
少しは寝たら楽になれるんだろうけど、何年もの身体に染みついた生活リズムがこの時間に寝ることを許さないみたいで、早く起きろよと急かしてくる。
のそのそと起きあがって窓を開けると、まだ少しだけ冷たい風が部屋の湿っぽい空気と入れ替わった。
シャワーを浴びて無理やり身体を覚醒させ、家を出る時間にはまだ早いけど用意していたスーツに袖を通してみた。
慣れない手つきでネクタイを結び、完成した自分を鏡を見てみると、そこにはスーツが全く似合わない、目が死んだ男がボケっと立っていた。
盛大にため息をついてスマホを見るとまだ少し時間がある。朝食も食べる気にはなれなかったから、結局コーヒーを一杯だけ飲んで時間になるまでぼーっとしていた。
入り口には『北桜大学入学式』と大きな看板に達筆な文字で書かれていて、みんなそこで立ち止まってはしゃいだり写真を撮ったりしている。
そんなテンションの高い人たちを尻目に前を歩く人たちの流れに沿って『入学式会場』と書かれたとてつもなく大きい会場に足を踏み入れた。
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式は昼を回る前に滞りなく終わった。大学の入学式は、座る席が決まってなかったり、立ったり座ったりしないことを除いたら中学や高校とほぼ変わらなかった。
ただ、人数は想像以上に多く、あそこまで広い会場が人と熱気で埋め尽くされていた。
そのせいか、少しは良くなったと思っていた体調が再び悪化し、大勢の人に揉まれながらなんとか会場から脱出すると、すぐに人気のないところに移動した。
思ったより悪いみたいだ。朝食を抜いたのも良くなかったみたいで足元がおぼつかず、目の前もチカチカしてきた。
(あっ、やべ…)
そのとき、急な立ちくらみが襲ってきてバランスをくずした。
あー、これは倒れるなと、他人事みたいに思いながら地面にぶつかるのを覚悟したとき——
……ボスッ。
(……?)
柔らかな衝撃が俺を包み込んだ。
状況が飲み込めないまま徐々に意識がハッキリしてきたところで、ふわりと甘い匂いがした。
(桃のいい匂いがする…)
施設のみんなと食べた桃の香りを思い出し、落ち着く匂いだなと思ったところで、ハッとする。
どうやら、俺は倒れそうなところを誰かが受け止めてくれたらしい。
「す、すみません!!」
預けていた身体を急いで起き上がらせて一歩後ろに下がると、そこにはふわりとした優しい雰囲気をもった女性が立っていた。
長くて綺麗な黒髪をひとつに結び、スッとした鼻筋に薄いピンク色の唇。目は少し垂れ目で、あまり化粧っけのない顔とその雰囲気で幼いように感じるが、高い身長とメリハリのある体つき。それと、全てを引き込みそうな漆黒の瞳が妙な色気を放っていて思わずたじろいだ。
「大丈夫?」
心配そうな表情で問いかけてくる恩人の優しい声で再び意識を取り戻した。
「はい、もう大丈夫です。」
「でもまだ顔も赤いし、保健センターで診てもらう?」
それはあなたのせいです。
「本当にもう大丈夫ですから。助けていただいてありがとうございます。」
「助けたなんて大袈裟だよ。たまたま近くにいただけだから。」
「いえ、おかげで入学早々ケガをしなくて済みましたし、本当に助かりました。」
「そっか。大事な後輩にケガがなくてよかった。」
そう言って薄く微笑む恩人さんはとても綺麗で歳もそこまで変わらないと思うけど、なんだかすごく大人な女性に見えた。
「俺は教育学部の一年、旭 真司っていいます。」
「私は法学部の三年で院瀬見 千聡。よろしくね。」
「はい、よろしくお願いします!院瀬見先輩!」
深々とお辞儀をしてお礼を言うと、院瀬見先輩は「身体には気をつけてね。」と微笑んで背を向けた。
少し話しただけなのに、あの人の言葉はひとつひとつが優しく胸に溶け込んで安心させてくれる。
身体のだるさは未だに残ってるけど、それ以外の症状はいつの間にか消え去っていた。
(本当に不思議な人だったな。いつかまた話せる機会があれば、改めてお礼を言おう。)
身体が楽になって安心したからか、今度は猛烈な睡魔が脳と身体を襲ってきた。
(とりあえず、真っ直ぐ帰ってメシ食ったらすぐ寝るか。昼は昨日の余りでカレーうどんにするとして、晩飯は何にすっかな…)
家にある食材でなにを作ろうか考えながら歩いていると、大学内に新入生がちらほらと残っているのが見えた。
どうやら、何人かはこの入学式の後に早くも友達ができたらしい。
友達か…
平穏な生活を望んでいるとはいえ、大学生活は4年もあるんだ。やっぱり友達は欲しいよな。
贅沢は言わないけど、多少は俺のことを理解してくれていて物静かで趣味があって苦しいことも助け合えて…あれ?けっこう注文多くね?
まぁ、無理に早く作らなくても大学生活は長いんだ。こういうのは焦っても仕方ない。
そして、そろそろ正門に差し掛かろうというところで何やら騒がしい小さな人だかりができていた。
邪魔だなと思いながら横切ろうとすると、端々から「めっちゃ綺麗!」「モデルかな?」と言う声が聞こえてくる。
もしかしたら有名人でもいるのかなと、横目で人だかりの中心を見ると、そこには見覚えのある金髪の美女が、男女問わず色々な人から声をかけられていた。
(…瑠璃川!)
俺のトラウマをほじくり返し、文字通り頭痛の種となった人物が、天使のような笑顔で新入生たちを魅了していた。
そりゃ、あそこまで整った顔をしていたら周りはほっとかないだろうし、お近づきになりたいって思うのは自然だろ。俺だってそうだったし…
と、そこでお互いバッチリ目が合った。
(……ッ!)
俺は急いで目を逸らすと、早歩きですぐに大学を出た。
せっかく忘れかけていたのに、昨晩の出来事を思い出して身震いする。またあの目で見られたらと思うと、怖くて仕方なかった。
(でも、そうだ。瑠璃川から見たら俺なんて同じ大学に通うお隣さんってだけで別に親しい間柄ってわけじゃない。あの様子だと友達もいっぱいできるだろうし、そうなったら瑠璃川から俺みたいなやつに関わってくることなんかないだろ。)
強引にそう結論付けると、信号が赤になっていることに気づき、足を止める。
入学式が終わったことを施設のみんなに報告しといたほうがいいなと思い、スマホを取り出そうとしたところで後ろから肩を叩かれた。
なぜか、とてつもない悪寒がする。自分の予想が外れていて欲しいと強く願いながら
ゆっくりと振り返ってみると——
「こんにちは、入学式お疲れさま!」
スーツ姿の瑠璃川 翡翠が笑顔で立っていた。
先程の結論から10秒後の出来事だ。