第1章 緑の国と7色に分かれた世界
太陽が昇り始めると、「緑の国」にある全てが目を覚ます。
それは草木も、人も、獣も、神も光を受けて、静かに朝を迎える。
豊かな田畑が広がるこの土地は、忙しない他国と比べて、
時の流れがゆっくりと過ぎていく。緑の国の産業は、農業や林業が
占める割合がほとんどで、近代化からは程遠い。そうして守られてきた
美しい緑色の中には、ぽつりぽつりと慎ましやかに民家が点在している。
そして、その先へと目をよく凝らして見つかるのは、穏やかに
広がるヴェルデ湖。山から流れる清らかな水を湛えたそれは
「緑の国」の象徴の一つであり、自然の恵みで暮らす国民達の
生活を支えている。
ヴェルデ湖の中心には、小さな浮島がある。
そこは、中心に行けば行くほど深い霧に包まれていて、浮島に
何があるのか分からない。だが、湖を小舟で渡り、緑の浮島に上がれば、
薄っすらと古い城が現れる。
その城は、王族の暮らす居城。
代々緑の国の王族が暮らす場所として遥か昔に建てられたが、
雨が降ればバケツが必要になり、風が吹けば隙間からヒューヒュー音がする。
それでも修繕を繰り返しながら、なんとかその役割を果たし、今では全体が
蔓草に覆われて、遺跡のような佇まいすら感じられる。
この城に門はなく、警備する者もいない。その代わり、入り口の近くには
大きな犬小屋があり、年老いた番犬が居眠りをしている。
いつものように、濃い霧の隙間から古城へ、朝日が小さく降り注いだ。
すると、城の塔の一つから、窓を開ける小さな音が聞こえてくる。その音に、
のっそりと犬は目を覚ますと、窓辺を見つめて小さく尻尾を振る。
柔らかな朝日が差し込む窓から顔を出したのは、一人の女性だった。
深緑色の長い髪が、柔らかく風にそよぐ。その女性は、少しの間
犬を見つめていたかと思うと、スッと部屋へと姿を消して、今度は
城の裏手にある扉が小さく開く。
現れたのは先ほどの女性で、上着を羽織り、頬には軽い化粧が済んでいる。
女性が微笑み、歩き出すと、犬は嬉しそうに駆け寄っていく。
女性を守るようにして犬がすぐ隣を歩き、穏やかな湖の側をゆっくりと
歩いていく。晴れることのない霧の中から、風に乗って優しい香りがする。
そうして歩き続けて、段々と浮かび上がるのは、色とりどりの花々の
庭だった。浮島の隅に作られたこの花畑が目的地であり、彼女達が毎朝
訪れる、特別な場所だった。
ピタリと足を止めると、彼女は大きく息を吸った。
そして隣でじっと主人を見つめる犬と目が合うと、
彼女は態度を一変させた。
「おはよう!アフダル!うぇえええぃぃいいーーーい!」
謎のテンションで名前を呼ばれたアフダルは嬉し過ぎて、
飛び跳ねるように花畑を駆け出す。それを見て、女性も同じく
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら「ううぅいいぃいぃぃーーー!」と
感情のまま声を上げていた。尻尾を左右に大きく振りながら
アフダルが戻ってくると、彼女はそれを抱きとめて、わしゃわしゃと
全力で撫でまわす。
「ぬぬううぅう~可愛すぎるぞこいつぅうう~!世界一可愛い!
最高に可愛い!たった今、あなたは宇宙一可愛い毛むくじゃらに
選ばれました!私によって!」
そうして褒めまくると、アフダルは再び草花の隙間を疾走する。
楽しそうに愛犬が走りまわる姿を眺め、女性は声を上げて笑った。
朗らかに笑う彼女は「ヴェール=ヴィヒレア」26歳、この緑の国の
王女である。国民からは「まるで月光に咲く花のよう」と称されるほどの
凛々しい美しさを備えている。そのためヴェール王女は、王族としての
イメージを崩さないよう、常に細心の注意を払って人前に立ち、
常に品格ある王女として振舞っていた。
だが、誰もいないこの時間、この場所でだけ、ヴェールは自分を
取り繕うことなく感情を素直にさらけ出すことができる。愛犬のアフダルは、
ヴェールが生まれた時からずっと一緒に暮らしてきた家族であり、彼女に
とって大きな癒しだった。日々のストレスから解放されるこの瞬間が
あるからこそ、彼女は挫けずに、王家の務めを果たして来ることができた。
だが一国の王女として、もし万が一、誰かにこんな姿を見られたら
恥ずかしくて生きてはいけないとも思う。
緑の国は広大な領土を持つ割に、人口が少ない。繁栄の進む他国と
比べると、もはや「国」と呼ぶよりも、「村」と呼んだほうが
似つかわしい気さえする。緑の国民は不変を好み、先祖代々
受け継いできた土地を管理し、農耕で暮らしている者が多い。
だが、他国との外交は活発なため、国内はそれなりに潤っており、
目立った領地の争いもなければ、信心深くて欲も少ない。たまに、
隣にある賑やかな「赤の国」に遊びに行くことや、「青の国」まで
出向いて物を売買することが、国民達のささやかな楽しみだった。
変化を求めず、平穏を愛する彼らにとって、豊穣、健康、世界平和は、
何よりも守るべきものであるからこそ、神への祈りを奉げることは
生活の一部として深く根づいている。
緑の国の王族は、神の使者という肩書を担いながら、様々な問題を解決し、
民意をまとめ、時には外交によってその暮らしを守ってきた。特に、
現国王である「ウィリディス=ヴィヒレア」は人格者であり、国民からの
支持も厚く、父親としてもヴェールは尊敬していた。
だが課題は、自国民からの支持だけではない。ヴェールは一国の
王女として、他国との外交にも携わる。だが、発展よりも不変を
望みがちな緑の国は、他国よりも外交力の面で劣っているのが現状だ。
そのため、万が一、弱い立場の緑の王族が、他の王族に失礼をしてしまった際、
嫌がらせでどんな制裁を受けるかは分からない。それを防ぐため、ヴェールは
王族同士の集まりに出席すると、会話、表情、マナー、タイミング、程良い
お世辞など、途轍もなく気を遣う。極力行きたくはないと、王である父親には
伝えてある。だが、どうしても大きな式典や会議には出席しなければならない。
どんなに苦痛で、不安と恐怖で押しつぶされそうになっても、それが彼女の
務めである以上、逃げることはできなかった。仕方なく他国へ赴く時は、夜、
布団に独り包まって「わぁああーーー行きたくないよーーー明日起きたら
世界が滅んでいればいいのに!でも本当に滅んだら嫌!」と叫び、なかなか
寝付けないほどであった。それでも、朝が来れば何事もないかのように気持ちを
切り替えて、「緑の国の王女」になる。誰も気づいてはくれないけれど、
ベッドから起き上がる時、ひっそりと自分自身を褒めてやりたい気持ちになる。
神々によって世界が創られた時から、国は7色に分けられている。
「自然豊かな緑の国」、「エネルギー溢れる赤の国」「海を支配する青の国」
「才能集まる金の国」「文明開化の桜の国」「天国の白の国」「地獄の黒の国」
この7色は大昔から定められ、絶対の不可侵条約が結ばれている。
不思議なことに、それぞれの領土の地面を見れば、その国の色が薄っすらと
認識することができる。そのため、どこからどこまでが自国の領域か明白で、
つまらない国境争いもない。
遥か昔、とある強欲な「金の国」の王が、戦争によって「緑の国」の
領土を手に入れようとしたことがある。だが、どんなに強い塗料で自国の
金色を塗っても、敵味方関係なしに鮮やかな血を浴びせても、淡い緑色を
したその土地の色は変わることはなかったという。
その後、全ての国王が絶対に集まらなければならないという
「7色会議」が開かれ、「他国を汚した大罪人」として金の国王は裁かれ、
黒の国王に処刑された。それが歴史に残っている最後の戦争で、それから
現在に至るおおよそ3百年間、7色全てが集まるような大会議は開かれていない。
正確に言うと、3年に一度開かれる「王族会合」があるのだが、集まるのは
いつも、緑、赤、青、金、桜の5色だけだった。最後の戦争以来、「白の国」と
「黒の国」の王族は欠席を続けているのだが、幼い頃から「決してそのことに
触れてはいけないよ」と、ヴェールは父親に教わっていた。
ヴェールは8歳を迎えた時から、「緑の国の王女」としての責務を背負い、
他国の王族と交流を重ねてきた。今は平和な時代ではあるが、強い権力を持つ
金の国や、桜の国が出席する時は、いつも以上に緊張してしまう。
立場が弱い緑の国は、王族が顔を出さないことによって他国から批判を
受けることを避けている。小さい頃、どんなに行きたくないと泣いても、
お腹が痛いと言っても許してもらえなかったので、抵抗することをヴェールは
もう諦めた。だが、大人になった今でも、特別な場合しか顔を出さないことが
多い「金の国」や「桜の国」の王子達が羨ましいとは常々思っている。
ヴェールが9歳の頃、どうしても晩餐会に出席したくなくて、母親である
王妃につい「金の国に生まれればよかった」とふてくされて言ったことがある。
すると王妃は「そんなこと言うなら今すぐ王女をやめて、金の国のメイドに
なって働きなさい」と厳しく諭された。ヴェールが泣きじゃくりながら謝ると、
王妃は耳元でこっそりと「ママも晩餐会、大嫌いなんだけどね。明日帰ったら
パパとアフダルも一緒に、お庭でケーキを食べましょう」と言って、
キラキラと笑った。そして「さぁ行きましょう」とヴェールの手を引き、
美しいドレスを着こなして凛々しく歩く母の姿が忘れられなかった。
王族として、どんなに悲しくても笑わなければならない時がある。
生まれながらに国を背負う者として、誰と接しても恥ずかしくない振舞いを、
ヴェールは、女王である母から教わった。まだまだ恥ずかしい思いを
することもあるけれど、時に褒められ、周りに感心してもらえた時は、
王女としての自信に繋がっていった。
花畑の中央には、小さな石碑がある。頑張っている自分の姿を、
母にいつまでも見ていてほしかった。ここに王妃の名前が刻まれたのは、
ヴェールがまだ10歳の時だった。突然の別れから、もう16年が経つ。
どうしようもなく悲しくて、泣いてばかりだったせいか、当時のことは
よく思い出せない。それでも毎日こうして会いに来ることで、どうにか
前に進むことができている。ヴェールは瞳を閉じて、いつものように
ほんの少しの間だけ、亡き母への祈りを奉げた。
「……よおぉーーーっし!今日もやってやろうじゃないですか!」
ヴェールはそう言って花畑に背を向けると、あの頃の母の姿を
思い出しながら、不敵に笑って歩き出す。アフダルがその姿を追いかけて、
彼女達は意気揚々と城へと戻っていった。
「おはようパパ」
キッチンで新聞を読む父に声をかけると、「あぁおはよう」と
返事が聞こえる。そして、散歩から帰ったアフダルの足を拭くために
王は立ち上がり、王女は朝食作りに取り掛かる。この城に住み込みの
メイドはおらず、他国から来客がある時や、特別な支度が必要な時だけ
臨時にメイドを雇い、普段の生活は自分達だけで済ませていた。
2人だけでは広すぎる城だが、アフダルがいてくれるので不満はなかった。
ヴェールが手際よく朝食を作り終えると、2人と1匹はキッチンで一緒に
食事をとる。本当は長いテーブルのある立派なダイニングがあるのだが、
掃除が面倒なので給仕室のキッチンの隅にある、4人掛けの小さなテーブルで
十分だった。
「予報だと今日から夏らしくなってくるようだね。体調はどうだい?」
「大丈夫だよ」
ヴェールの言葉に、父は頷く。
ヴェールにとってはあまり思い出したくない記憶ではあるが、
今から12年ほど前の夏、彼女が14歳の時に「青の国」と
合同の盛大な祭りが開催された。それは、青と緑の2人の王が
共に海を泳ぎ、友好を誓ってから、ちょうど200年を祝う祭りだった。
ヴェールも王と共に青の国に赴いて、炎天下の中、青の王と緑の王が海で
泳ぐ儀式を見守っていた。だが、青の国の国民は、人型よりも長い時間を
生きる獣型の者が多く、時間の感覚が曖昧だ。式典は百年に一度ということも
あり、朝から晩まで行われて、最後にはとうとうヴェールが脱水症状になって
倒れてしまった。
そのため夏が近づくと、ヴィヒレア王は、王女の体調を気遣うことが増えた。
母親がいない部分を埋めようと、父なりに考え、フォローしてくれていることは
ヴェールとしても分かっている。だが、もうあれから10年以上が経って、
自分も大人になったのだから心配しないでほしいという気持ちもある。
だが、それを伝えるのもどこか可哀想な気がして、素直に返事をし続けていた。
「昼から雨が降るらしい。出掛けるなら傘を忘れないように」
「はーい。そういえばパパ、昨日の夜ずっと研究室にいたでしょ。
あんまり夜更かしすると、体壊しちゃうよ」
「はは!ばれてしまったか。ありがとう、気をつけるよ」
ヴィヒレア王は緑の国の王でありながら、研究者でもあった。
新種の作物の研究開発に取り組んでいたが、ここ数年は機械ばかりを
いじっていることが多く、ヴェール王女には不思議だった。
「…そういえば、ヴェールにちょっと話があるんだ」
その言葉に、ヴェールはチラッと父親を見る。
まるでヴェルデ湖のように穏やかな笑顔。この顔の時は、臨時で他国の
会合に出席して欲しいとか、少し言いにくいことを伝える時の顔だ。
ヴェールはため息混じりに聞いてみる。
「何?」
「実は昨日の夕食会で、フランセ公爵の甥を紹介されてね、是非話を
したいと言っていたよ。ヴェールと年も近いし、とても好青年だった。
学業も十分積んできたようだし、仕事にも熱心に取り組んでいる。
興味があれば、一度会ってみたらどうだろう」
ヴェールは内心(またその話ーーー!)とツッコミを入れつつ、
(…まぁ、私の年齢を考えたら、親が心配するのも仕方がないか)と
少しだけ落ち込む。
ヴェールは現在26歳。緑の国民は早婚が多く、男女ともに
18歳になれば、学業に打ち込むもの以外は、そのほとんどが結婚し、
女性は10代もしくは20歳前半で子どもを授かる。自分もそろそろ
結婚相手を探す必要があると考えてはいたが、ヴェールが25歳の
誕生日を迎えた頃から、王はこうして縁談の話を持ち掛けるようになった。
これも、王女として逃げてはいられない課題の一つである。なぜなら、
国王である父に心配されるだけでなく、国民からもかなり期待されているからだ。
「あらあら王女様、少し見ないうちにお美しくなられて!良い人は
いらっしゃるんですか?じゃあうちの息子はどうでしょう?なんちゃって!」
みたいな冗談が飛んでくるから、プレッシャーがすごい。
最近は苦笑いが増えたような気がするし、このままではシワも増えて、
「高嶺の花」から、「結婚できない王女」のレッテルを張られてしまうのも
時間の問題である。だが、焦りとともに、ヴェールにはどうしても
拭いきれない迷いがあった。
「…やはり、緑の国民では駄目かい?」
父の言葉に、ヴェールは目を逸らす。ヴェールにとって、この国の民達は
守るべき存在であり、幼い頃から全ての国民を家族のように想ってきた。
そのせいなのか、緑の国の男性相手だと、どうしても自分を取り繕ってしまい、
全てをさらけ出すような素直な気持ちで恋愛ができずにいた。かといって、
他国の人ではなおさら「素晴らしいヴェール王女」の仮面をつけてしまうだろう。
そもそも、それが王女として、正しいあり方なのではないかとも思う。
どんなに仲睦まじい夫婦であっても秘密があるように、王家の者として、
綺麗な部分だけを相手に見せることが求められていることも、頭では
分かっている。ヴェールは、父と母が喧嘩する姿を一度も見たことが
なかった。それほどまでに、お互いを深く愛していたのだろう。
先々代女王である祖母がまだ生きていた頃、ヴェールが聞いた話では、
緑の国に唯一ある大学で父と母は出会い、すぐに意気投合したとういう。
そして4年間交際を続け、卒業を迎えた20歳のタイミングで結婚した。
そして、母はすぐにヴェールを産んだという。26歳になっても不器用な
自分にため息をつきながら、ヴェール王女は「ご馳走様」と席を立つ。
「ヴェール」
父に呼ばれて、振り返る。
「君は私の自慢の娘だ。君が決めたことに、私は文句を言わない。
だから、後悔しないよう十分悩みなさい」
父はそう言って、いつもと変わらず優しく微笑んではいるが、
少しだけ寂し気なその表情に、ヴェールの心はズキリと痛む。
「…はーい、パパ。行ってきます」
ヴェールは自室に戻り、パタンと扉を閉じると、鏡の前で一つだけ、
大きなため息をついた。そして、「よし!」とすぐさま気持ちを切り替える。
この瞬間からは、「ヴェール」ではなく「ヴェール王女」としての振る舞いに
努める。悲しい個人的な悩みも、静かに心の隅っこに寄せておかなければならない。
そして当然、王の呼び方は「パパ」から「お父様」に変わり、
ちゃんと敬語も使う。純白のミサ専用の衣装に着替えて、姿見の前で
身だしなみをチェックする。真っ白なドレスに、ヴェールの美しく
伸びた髪がサラリと揺れる。この前は後ろ髪がピョンと跳ねていて、
寝ぐせになっていたことに後で気づき、顔から火が出るかと思った。
王は「そんなに気にならないよ」と笑っていたけれど、普段の些細な
出来事ことで相手に与える印象は大きく変わってしまうからこそ、
常に配慮を怠ることはできない。いつだってヴェールは、国民が
抱いている「気品あるヴェール王女」のイメージを壊してはいけない。
「…ばっちり、ってことにしましょう!」
そうして準備を済ませると王女は部屋を出て、城の近くにある
教会へと向かう。この教会も、城と同じく歴史ある建物だが、
外観は細やかな装飾に溢れ、神聖さと共に、荘厳な雰囲気がある。
歴代の王族の意向として、住まいである城は質素であっても構わないが、
神を祀る神殿であるこの教会に対しては絶対に妥協してはいけないと
いう決まりがあった。霧の中、優雅に構えられたその内部に入ると、
白色、水色、ピンク色の淡い色合いの華やかな造りが、繊細な金の
装飾で縁取られ、訪れた者に天国を想像させる。
この場所で王妃の代わりに、王女であるヴェールは毎日ミサを開く。
信仰深い緑の国民達は、このミサに週に一回は参加する。毎日400人
ほどの国民が集まり、ぞろぞろと舟に乗ってヴェルデ湖を渡り、浮島の
教会へと歩いていく。天国のように尊い色に包まれた教会の内部では、
中央に設置された巨大なパイプオルガンをヴェールが演奏し、参列した
全ての人が祈りの歌を神に奉げる。その様子は例えようもなく美しく、
他国で刊行される旅行雑誌で「一生に一度は訪れたい観光スポット」
として紹介されるほどだ。
歌が終わり、白い花で飾られた壇上で、
ヴェール王女は祈りの言葉を奉げる。
「皆様の安寧を、心より願います」
そして、国民達はまるでヴェールにその想いを託すように、
一斉に深い祈りを奉げる。まるで神の使いのように崇められることも、
王女は真摯に受け止め、自らの大きな使命であると感じていた。
そうして無事に務めを終えたヴェールが城へと戻ると、太陽はもう
真上に昇り、ちょうど昼になっていた。ヴェールは急いで着替えを済ませ、
城の地下にある研究室に向かう。そこではいつものように、作業着姿の王が
一人で、研究に取り組んでいた。王は即位する前、大学に通っていた。
そして植物学の研究をしていた時に、王妃と出会ったという。成婚し、
ヴェールが産まれてからも、この研究室で2人は研究を続けていた。
だが、女王が亡くなって以来、王は公務の合間や誰もが寝静まった夜中、
よくこの研究室に籠もるようになっていった。心配する王女が尋ねても、
「やり残したことがあるんだ、大丈夫だよ」と、何を研究しているのかは
教えてはもらえない。王女はそっと、王の背中に向けて声を掛ける。
「行ってまいります」
王は振り返ってゴーグルを外し、にこりと微笑んだ。
「あぁ、気を付けて行っておいで。アフダルも一緒にね」
緑の国は小国とはいえ、王族を狙う存在は少なくないことを
王女は知っている。外出する時は、どんな時であろうとアフダルを
絶対に連れていかなければならないと、小さい頃からの大事な約束の
一つだった。王女はいつものように「はい」と微笑み、外へと出る。
「行こう!アフダル!」と犬小屋に声を掛けると、アフダルはのっそりと
姿を現し、大きな体で飛ぶようにして駆け寄ってくる。その姿が愛らしくて、
やはりいつものようにヴェールは笑い、待ち合わせ場所へと向かった。
待ち合わせ場所の、緑の国の城下町にあるカフェに到着すると、
その女性は他の客席から少し離れた場所で、美味しそうにコーヒーを
飲んでいた。どうやら気づいたようで、彼女はパッと笑顔になって手を振る。
「お疲れ様、ヴェール」
「遅くなってごめんなさい、ルージュ」
ルージュと呼ばれたその女性は「構わないわ」と優雅に答える。
彼女は「ルージュ=クラースヌイ」、赤の国の王女である。そして、
ヴェールとルージュは唯一無二の親友でもあった。
「アフダルも元気そうね」
ルージュに撫でられて、アフダルも嬉しそうに尻尾を振る。
こうして2人と1匹は集まって、どんなに忙しくても3ケ月に1回は、
世界のどこかでランチを楽しんでいる。今日は緑の国に新しくできた
カフェに訪れていた。2人の席が、他の客席からは見えにくく、
会話も聞こえない配置になっているのは、ルージュのSPによる配慮だった。
今日もいつものように客の誰かになりすまして、4、5人が、赤の国の王女を
どこからか見守っている。普通の生活を過ごす人であれば、その大半が、
常に監視され続ける生活に耐えきれなくなってしまうだろう。だが、
幼少期から人前に立ち、背筋を伸ばして生きてきた王女達にとって、
それは全く気になることではなかった。2人は朗らかに笑い合って、
友人同士の時間を楽しむ。
「毎日ミサで大変ね。あら、このカナッペは鹿肉かしら、美味しいわ」
「慣れているから、そんなに大変じゃないよ。
ん!このタマネギのマリネもすごく美味しい」
彼女達は王族同士だが、そこに堅苦しい会話もなく、その関係性は
まるで幼馴染、もしくは姉妹に近い。出会いは10年以上も前になり、
物心ついてすぐのタイミングで知り合った。
ヴェールが初めて王族の集まりに出席すると、既に社交の場に
出ていた1歳年上のルージュが、ヴェールを引っ張っていく形で
自然と打ち解けていった。大人になった今でも、こうしてお互いの
立場や身分を気にすることはなく、プライベートのことまで相談している。
彼女達が話すのは、最近興味があること、美味しい食べ物のこと、
そして恋愛のこと。
「…今朝、またお父様に、結婚相手を紹介されたの…
やっぱり会わないと駄目かな」
パスタをフォークで巻きながら、ヴェールがため息混じりに呟くと、
ルージュは嬉しそうに頷く。
「会ったほうがいいわ!その人が運命の人かもしれないじゃない!」
ルージュは恋愛が大好きで、いつも恋人を欠かすことがなかった。
エネルギッシュで情熱的な「赤の国」の国民性もあるが、女性としても
人としても魅力的で、相手を愛することを恐れないルージュの姿に、
ヴェールは憧れていた。
「…でも、私には自信がないし、もし振られてしまったらと思うと…」
ネガティブな発言をするヴェールに、ルージュのいつものお説教が始まる。
「そこがヴェールの悪い所よ!あなたが8歳の時から隣で見ているけど、
あなたはプライドが高すぎるのよ」
「うーん…別に、プライドは、高くないと思うけど…
ちょっと失敗したくないだけで…」
「聞いて。あなたが王女として、理想の自分を守ることも大切だと思うわ。
だけど、そのせいで身動き取れなくなっているのなら、これから先
どうするの?若いうちにもっと自分の幅を広げないと、後々つらく
なるんじゃない?もっと自分は強いって、信じてあげないと」
「…そうだね…でもルージュは、何でもできるから簡単にそう言えるんだよ。
私は王女としての自分しかないから…だから、それを失うのが怖いんだよ」
「…でも、変わらなくちゃ。私も27歳、ヴェールも26歳になったし、
もうそんなこと言っている年齢じゃないでしょう。ヴェールは大学に
通っていた時も、周りに素敵な男性がたくさんいたのに関わりを
避けていたじゃない。あの頃は学業第一だからって言っていたけど、
今はもう、きちんと向き合うべき時期だと思うわ。…飛び立つのが怖くて、
いつまでも蛹から出てこられない芋虫ちゃん」
ルージュはそう言って、ヴェールの口元にニンジンのピクルスを差し出す。
ヴェールはそれをぱくりと口にした。もぐもぐと咀嚼し、飲み込んでから、
ヴェールは返事をする。
「ルージュも、何年経ってもニンジン食べられないじゃない」
「あら、ばれちゃったかしら?」
いつもの会話に2人が笑い合い、「そういえば!」と再び話を始めると、
後ろからザワザワとした物音が聞こえてきた。ヴェールとルージュが目を
向けると、一般人の女の子があたふたしていた。
「ご、ごめんなさい!私、ルージュ様に挨拶したかっただけなんです!」
どうやらルージュに気づいた客の一人が近づこうとして、SPに
止められたようだった。ルージュは赤の国の王女であり、世界で活躍する
人気歌手でもある。彼女は公務の合間に各国でコンサートを開催し、
緑の国にもファンは多く、名実ともに稀代の歌姫だった。
「通してあげて」
ルージュの言葉に、SPは安全を確認し終えると、サッと素早く離れた。
そして、少し泣きそうになっている女性客にルージュは近づくと、
「ごめんなさいね、怖い思いをさせてしまって。でも声を掛けてくれて
嬉しいわ」と優しく微笑んだ。
「あの、私、ルージュ様の大ファンなんです!この前のコンサートも
行って、すごく素敵でした!あの、握手してもらえますか?」
「もちろん」と、ルージュがその手を取ると、女の子は感激の声を上げて、
その手に触れた。そして、隣にいたヴェールにハッと気づき、
「あ!申し訳ありませんヴェール王女!お食事中に大変失礼しました!」と、
そそくさと去っていった。ルージュと一緒にいると、こうした場面によく
立ち会うため、ヴェールは慣れていた。だが自分の国で、他国の王女の方が先に
国民に気づかれるのには、少々つらいものがあったが、笑顔でそっと隠す。
この騒ぎで店中の客が2人の存在に気づき、王女達は手を振って人々に
応えた。あまりに人目につきすぎると、SPの負担も大きくなってしまうので、
デザートを待たずに2人は店を出ることにした。
天は二物を与えず、という言葉があるけれど、それはルージュには
当てはまらないと、すぐ側で見つめてきたヴェールは常々感じていた。
歌の才能があり、社交的で明るく、美しさと気品に満ち溢れている。
「憧れ」や、「羨ましい」という気持ちはあるが、どう頑張っても
彼女とは同じにはなれない、自分にはオーラがないとヴェールには
分かっていた。そのため、ルージュに対して「妬ましい」、
「失敗すればいい」といった暗い感情を抱いたことは一度もなかった。
それよりも、こんな自分と仲良くしてくれる彼女の存在がとても心強く、
友達として彼女の隣にいても恥ずかしくない存在になりたいとも思う。
以前、ヴェールがルージュにその話をした時、ルージュは
「私もヴェールと同じ気持ちよ!周りの人は私のことを、
『生まれが良いから、私とあなたは違う』とか『王女なのに、
人前で歌なんて』ってすぐに距離をとろうとするの。でも、
あなたは、私のことを『人』として見てくれる。すごいって
心から褒めてくれて、自分も頑張ろうって思ってくれるから、
好きなの。まぁ、ちょっと自分自身を責め過ぎてしまう所が
あるけれど。あとは、もっと恋愛に対しても前向きになって
くれれば最高ね」と言われていた。
2人は店を出ると、アフダルを連れて街を散歩することにした。
赤の国のような最先端のオシャレな物はないが、緑の国の店で
売られているのは手間を掛けて作られたものばかりで、
心惹かれる物が多い。
「これ綺麗ね、ほら、ヴェールに似合うわ」
「ちょっと派手じゃない?ほら見て、こっちの方が私は好き」
「そうね…可愛いけど、地味。却下よ」
そうして笑いながら、2人は陽が暮れるまで
他愛のない話をして過ごした。ルージュがふと思い出し、
隣を歩くヴェールに話しかける。
「そういえば、明後日は青の国でお泊り会ね、楽しみだわ」
「シーニィと会うのは半年ぶりだね。水に濡れても
美味しいお土産、持って行かなきゃ」
青の国の王女であるシーニィは、ヴェールやルージュのような
「人型」ではなく、「人獣型」、つまりは美しい人魚で、海でしか
会うことができない。そのため彼女と知り合ったのも、ほんの
6年前のことだった。だが、シーニィは非常に白黒はっきりした性格で、
価値観も独創的で面白く、気づけば自然と2人の輪に加わっていた。
そうして3人でお茶会、もとい王女会をするようになり、昼間だけでは
話足りないので、半年に一回は、青の国でお泊り会を開催している。
ヴェールとルージュは明後日、再び青の国で会う約束し、
手を振って別れる。すっかり日が暮れて、ヴェールはアフダルと
一緒に帰りながら、ふと考える。こうしてルージュと遊ぶ時間は
楽しいが、もしお互いに結婚して子どもが生まれれば、会うこと
自体が少なくなるだろうということ。結婚する相手が誰であれ、
自分は変わる必要があること。そして、それはきっと、それほど
遠い未来でもないということを。
「…アフダルは、ずっと一緒にいてくれるよね?」
ヴェールの不安そうな問いに、アフダルは「ワン!」と力強く答えた。
夜、布団に包まりながら、ヴェールは今朝父に紹介された
男性の写真を眺めていた。映っているのは歯の白い、快活そうな男性で、
育ちの良さが滲み出ている。きっと、こういう男性と結婚すれば幸せに
なれるのだろうと、ヴェールは自分の将来を想像してみる。心身ともに
健康な貴族の男性と結婚し、可愛い子ども達に囲まれて、緑の国の女王
として生きる自分の姿。幾度となく想像してきたというのに、どこか
現実味を帯びないのはどうしてなのか、ヴェールには分からなかった。
(…もしかして私って、自分より上の男性としか付き合えないのかな)
ふと悪い予感が浮かび、そんなはずはないと首を振る。正しい人間は
身分や肩書などではなく、相手の心そのものを愛するのだろう。だが、
心のどこかで、高い理想を夢みる自分がいることも否定できない。
ルージュのアドバイスに従い、少し感情論は置いておいて、現実的に
状況を整理する必要があるのかもしれないと、ヴェールは一人考え込む。
緑の国の跡継ぎはヴェール王女一人しかいないため、もし万が一、
他国の王子と結婚する場合は、男性側が国を継がない前提が必要となる。
王族同士の結婚が駄目だという決まりは無いが、王と女王がそれぞれ
別の国を治めることは現実的に不可能だろう。
そして今の時代、政略結婚の話など聞いたこともないので、王位を
継承しない他国の王子と婚姻を結ぶ可能性も、限りなく低い。そうした
デリケートな問題には国同士が極力関与しないことになっていた。
そもそも、会合で見かけたことのある金の国の王子も、桜の国の王子も
ピンとくることはなかったし、恋愛対象にはならなそうだった。
「もう!誰と結婚すればいいの~」
ふてくされながら、もう一度、ヴェールは写真の男性に目を向ける。
そしてその、何も悩みの無さそうな笑顔に、深いため息をついた。
「…離婚したらどうしよう…いや、付き合う前に無理って言われて、
幻滅したって言われたら立ち直れないよ絶対…でも、理由もなく
断るのも悪いよね…何か良い言い訳ないかな」
時計に目をやると、もう寝る時間になってしまった。どうして
1日は24時間しかないのだろうと悩みながらヴェールは電気を
消して、良い案も浮かばないまま眠りについた。
その夜、ヴェールは自分が、どこかの広い草原で羊飼いに
なる夢を見た。爽やかな風が草原を走り、アフダルが羊を
追いかけるのを、ぼんやりと眺めていた。
だが目が覚めれば、王女である事実は変わらず、昨日と同じように
朝は来てしまう。霧に包まれた柔らかな光を感じて、ヴェールは
ベッドからゆっくりと体を起こした。弱い自分に負けて、再び布団に
倒れそうになったら、頭の中でルージュの歌声を流すことで、なんとか
持ちこたえる。そうしてミイラのように立ち上がると、そっと、
窓辺から外を眺める。
(…今日はいつもより霧が濃いな)
あくび混じりにそう考えながら、まだ蒼色に近い景色が広がる
窓を開けて、顔を出してアフダルの姿を探す。だが、犬小屋の近く、
城の庭、裏口にも、アフダルがどこにもいない。眠気が一気に覚め、
ヴェールがいくら身を乗り出しても見つからない。初めての出来事に
ヴェールは驚き、「アフダル」と思わず名前を呼んだが、愛犬が
戻ってくる気配は全くなかった。ヴェールは慌てて上着を羽織ると、
化粧もせずに裏口から駆け出した。何度も名前を呼びながら浮島を走って、
朝の散歩コースである花畑に辿り着く。すると霧の中からいつもの
花の香りと、何か、別の知らない香りがふわりと漂ってきた。
(…煙のような、少し苦い香り…)
ヴェールがゆっくりと足を止め、目を凝らす。
すると霧の向こう側から、動く影が近づいてくる。
「アフダル!」
足元に駆け付けるその影は、愛犬のアフダルに間違いなかった。
とても嬉しそうに飛び跳ねている。
「どこ行ってたのーーー!すごく心配んだよ!」
怒るヴェールの周りをアフダルはぐるぐると走り、
再び霧の向こうへと姿を消した。安堵したヴェールが前を向くと、
アフダルが戻ってくる影と、もう一つ、大きな影が浮かび上がってくる。
ギクリと、ヴェールは体を硬直させた。
ゆっくりと霧の中から現れたのは、一人の男性だった。だが、
番犬であるはずのアフダルは警戒する様子もなく、何食わぬ顔で
その隣を歩いている。この一瞬で、ヴェールは脳内に記憶された
国民リストを勢いよくめくった。
(細身、背が高い、黒髪、黒い瞳、耳にピアス、煙たい香り)
だが、いくら脳内でページをめくってみても、どこにもこの姿の
人物は見当たらない。つまり、十中八九、この男は他国の人だ。
ばっちりとお互いの目が合い、一瞬にしてヴェールはパニックに陥る。
(なんで?誰この人?この時間に人と会ったことなんてないのに!
しかも他国の人?観光?湖の渡し舟はまだ運航していないはずだから、
既にいるってことは昨日からいるってこと?でもこの浮島は、
王族以外は夕方に出て行く決まりだから…)
「ここは霧が深くて困る。…お前は、人か?」
ぶっきらぼうな声だった。だが、男性が発したその言葉の
意味を理解する前に、ヴェールはくるりと背を向けて、その場から
ダッシュで逃げ出した。全速力で走りながら、動揺を隠せない
ヴェールは心の中で叫んだ。
(なんで?どうして私逃げちゃったの?だってあの人知らない人だし!
怖い人かもしれないし!私こんな格好だし!とても人と話せる
状態じゃないから!だから無理!)
必死になったヴェールは息を切らしながらも、なんとか
城まで走り切った。その時ようやく後ろを振り返ったが、
アフダルも、あの男性の姿もない。ほっとしたヴェールが、
急いで城の中にいる父に伝えようとした時、後ろから
「ワン!」と声がした。
風に乗ってふわりと、またあの煙たい香りがした。
(…終わった)
ヴェールはそう心の中で呟いた。こういった不意の出来事に
対する適応力の無さは、自分の大きな欠点だと、幼い頃から
自覚していた。走馬灯のように、過去の自分の失敗が思い出される。
あれは確か4年前のこと、ヴェールの22歳の誕生日を祝う
晩餐会で起きたハプニングだった。当時、誕生会に招かれた貴族の中に、
家督を継いで、初めてこの城を訪れた青年がいた。その就任を祝う会でも
あったのだが、彼はあまりにも緊張し過ぎてしまい、手を洗うための
フィンガーボールの水を誤って飲んでしまった。一応正式な場であった
ため、周りの人もさすがに笑い飛ばすこともできずフォローに困り、
青年も飲んだ後で失態に気づき、取り返しのつかないことをして
しまったと顔を赤らめた。
だが、それを見ても、ヴェールは全く微笑みを崩すことはなかった。
表面的には。
(ええぇぇーーー!なんで飲んだの?喉乾いていたの?でも
やっちゃったって顔しているから違うよね?え!え?こういう時って
どうすればいいの?)
穏やかな笑顔の裏側で、ヴェールはパニックに陥っていた。
一瞬、近くに王様に目を向けるが、どうやら男性の失敗に全く
気づかなかったようで、スープを美味しそうに飲んでいた。
ここで王が「ヴェルデ湖の水は、どんなスープよりも美味しい
ですからな、はっはっは」と、機転を利かせてくれたら難なく
収まるのだが、王女がそれを言う立場ではない。
だが、貴族達はどこか気まずそうに目を逸らし、やらかした
男性もかなり落ち込んでいた。やはり自分が、どうにかしなければ
ならない。必死に考えを巡らせても、王女としてどう対応するのが
正解か分からない。それでも、なんとかこの場を誤魔化さなくては、
という自覚はあった。
(よし!郷に入っては郷に従え作戦よ!)
ヴェールは咄嗟に手元のフィンガーボールをつかむと、
貴族の青年と同じく、その水を勢いよく飲んだ。
「…やはりヴェルデ湖の水に勝るものはありませんね」
驚いた全員がじっと見つめる中、彼女はそう言い放ち、
平然と微笑んでみせた。それを皮切りに、口をつぐんでいた
貴族達が一斉に言葉を添える。
「いやーーー全くその通り!」「この国では富める者も貧しい者も、
同じ水を飲みますからね」「このスープが美味しいのもヴェルデ湖のお陰!」
「我々も、もっと自然の恵みに感謝しなければ!」
この貴族達の必死のフォローがなければ、ヴェールは精神的に
死んでいただろう。王は「そんなに喉が渇いていたのかい?」と、
水差しを手に取り、王女のグラスに水を注いでくれた。その後、
緑の国の食事会にはフィンガーボールではなく、濡れた布と、
ヴェルデ湖の水がたっぷり入る大きめのグラスが配られるようになった。
ヴェールはそのことについて、何も触れなかった。
あの時と同じく、一体どうすれば正しいのかは全く分からないが、
ヴェールは覚悟を決めると、霧の向こうから姿を現す人影を待ち構えた。
だが、目の前に現れたのは、先ほどの黒髪の男性とは違う人物だった。
紳士らしい穏やかな微笑みを湛えたその人は、ゆっくりと優雅に
近づいてくる。だが、黒い男性と同様、ヴェールはその人物と一度も
会ったことがなかった。そして、2人とも同じ香りがする。
「全く、ここは光が届きにくくて困ります」
銀色の髪に、白いスーツ姿の男性はそう言って、ヴェールに
つまらなそうに微笑んでみせた。それを見たヴェールはあっけに
取られながらも、すぐさま鋭い視線を男性に向ける。
「私は、この国の王女、ヴェール=ヴィヒレアと申します。
この浮島が王族の居住地と知っての振る舞いですか」
王女として侮られまいと、強気に問いただすヴェールの足元で、
アフダルが呑気にあくびをしている。男性は肩をすくめ、小さく呟いた。
「さっきは逃げたのに、今度は怒りを露わにして…
まるで小さな動物のようですね」
「…!!!」
不意打ちだった。年齢もさほど変わらない男性に、こうして
からかわれたことは初めてだった。その言葉にヴェールは混乱しつつも、
何か言い返そうとした。しかしその瞬間、キィと、裏口が開く音が聞こえた。
騒ぎを聞きつけた王が出てきたようで、ラフな格好のままだが、
向かい合う2人を見据えながら近づいてくる。そして、ヴェールの足元で
伏せをしているアフダルに目をやると、そっと男性に向かって右手を差し出す。
「このような姿で失礼します。私はウィリディス=ヴィヒレア、この国の王です。
ようこそ緑の国へお越しくださいました。他国の王族の方とお見受けしましたが、
差し障りなければ、あなたの名前と、どこからいらっしゃったのか教えて
いただけますか」
王のこの発言から、ヴェールは目の前にいる、この無礼極まりない男が
王族と知り、小さく息をのんだ。王と握手を交わし、男性は礼儀正しく答える。
「こちらこそ失礼をいたしました、ウィリディス陛下。私は白の国から
参りました、ヴァイス=ブランです。この霧でうっかり迷っていた所を、
王女様と賢い番犬に助けていただき、深く感謝いたします」
王は頷くと、「それは大変でしたね。よろしければお茶はいかがですか。
使用人もおらず、大したもてなしはできませんが」と笑い、ヴァイスを
城の中へ招こうとした。
「お誘いいただき大変恐縮ですが、あいにく連れがいまして。
また、近いうちに改めて」
そう言って、微笑みを浮かべたヴァイスは、王に深く頭を下げると、
「それでは失礼」とヴェールにもニコッと笑顔を向け、霧の中へと歩き出す。
王は、伏せをしているアフダルに「桟橋までお見送りを」と伝え、ヴァイスと
アフダルが静かに霧の中へと消えていくのを見つめていた。
それがすっかり見えなくなると、王と王女は何も言葉を交わさないまま、
城の中へと戻った。キッチンで父が淹れてくれたコーヒーを飲みながらも、
ヴェールはひどく落ち込んだ様子だった。
「朝からすごい客人だったね」
王はゆっくりと語りかける。
「私がなぜ、ヴァイス殿が他国の王族だと分かったか、知りたいかい?」
ヴェールは少しの間黙っていたが、素直に「はい」と小さく頷いた。
ヴェール本人としては聞きたくなかったが、王女として聞かずには
いられなかった。
「この世界には、6種類の種族がいることは知っているね。人型、獣型、
神型の、純粋な魂を持つ存在。その中で、私達は人型に分類されている。
この他には、魂の混ざり合った、人獣型、神獣型、神人型が存在している。
そして、アフダルは神獣型に分類され、特別な力を持っているんだ。
あれはもう、500年は生きている。だから、私達が知らない他国の
王族の匂いも、覚えているんだね。アフダルがあれだけ警戒しないのは、
彼が単なる観光者ではなく、余程の存在だと思ったから、ただそれだけさ。
…つまりはヴェール、君には何も落ち度はなく、時には知識や経験が
ものをいう、ということだ」
王の言葉に、王女は静かに頷いた。玄関から「ワン」と、
アフダルが呼ぶ声がして、王は立ち上がる。一人になり、
ヴェールは家族の朝食を作り始める。目玉焼きを焼きながら、
さっきの男達の顔を思い出し、もやもやとした気持ちになる。
こうした時、ヴェールは王に怒られたことがない。それでも、
こうして反省会のように自分の失敗を見直すことは、決して
辛いことではなかった。本当に辛いのは、失敗を責められるだけで、
味方をしてもらえないこと。ただただ間違っていると指摘されるのでは、
後悔ばかりが募ってしまっていただろう。確かに、重責を担う者としての
自覚を促すため、厳しさを持って乗り越えさせることも必要と言う人も
いるが、心を挫けなさせないことの大切さを、王は知っていた。
それは、ヴェールがもう、精一杯頑張っていると分かっているからだった。
自分の失態にヴェールは落ち込みながら、ふと気づけば、普段よりも
作り過ぎてしまった料理を食卓に並べた。2人と1匹でそれをなんとか
平らげ、言葉少なに食事を終えると、ヴェールは自室へと戻った。
静かにドアを閉め、ベッドに倒れこむ。
そして枕に顔をうずめると、くぐもった声で叫んだ。
「やっちゃったああぁぁーーー!もうダメだああああぁあーーー
!恥ずかしいいいいいぃぃぃいいーーーあんなのひどい!騙された!
許せない!もう終わりだああぁぁーーー」
体をよじらせながら、そうしてひとしきり感情のままに叫んでいたが、
もうミサの時間が来てしまうので、仕方なくゾンビのように立ち上がり、
のろのろと準備を進める。休めるものなら、誰にも会いたくないので布団に
包まって、ずっと自分の犯した間違いを呪っていたい。
だが、こんな自分を待っていてくれる国民がいてくれるから、王女は
泣きそうになりながらも、鏡の前に向かう。誰にも期待されていないのなら、
もう辞めたっていい。でも、周りが自分に価値を感じてくれる限り、
価値ある自分を演じたていたい。
その期待に応えたい一心で、ヴェールは弱い自分を奮い立たせる。
そしていつもより厚めの化粧と、ひきつった笑顔で必死に隠し、
一人ミサへと出掛けた。