第三十六話 天鐘通の過去④
「…………ここは…………」
俺の意識が覚醒して目が覚めたら自室のベッドの上だった。どうやら俺は泣き疲れてそのまま眠りに落ちていたらしい。
「?」
不意に俺の左手に温かい感触が触れた。
「起きた?」
母さんの手だった。
「とおる、お風呂入ってらっしゃい」
時間を見ると二十二時をまわろうとしていた。
俺は言われた通り入浴を終えて、パジャマに着替えてリビングに入ったら。
力強く抱きしめられた。
父さんが運ばれた日のように抵抗できない力でだきしめられていた。
「とおる……今までほっといてごめんね…………お母さん、どうかしていたの。駄目なお母さんを許して」
「ううん、誰も悪くない、お母さんは悪くないよ!」
うなじに手を回されて、母の温もりを感じて少しだけ涙が出た。帰りの車内でずっと泣いていたのに。
「今日からまた昔みたいに一緒に寝ましょ?」
「うん」
俺は涙を拭い去って母と一緒に両親が眠っていた寝室に入る。新しい写真たてには笑顔の三人とミッキー、ミニーが左右に並んで来園を歓迎するように手を広げた場面を写したのが飾ってあった。
「新しいのあるね」
「候補が沢山あったから選ぶのに苦労したのよ?」
親子で旅行先のことを話し、母がラベンダーのアロマを焚き、落ち着く香りが室内に漂ってから照明を消して、俺は父が寝ていたダブルベッドの場所に横になる。
母も隣で同じように横になった。
「ねえ、母さん」
「なあに?」
アロマに灯された光がランプの役割をして、母の顔がぼんやりとした光のなか照らし出された。そこに悲しみの満ちた表情はどこにもなかった。
「今日ね、鋼と鋼のお爺さんから俺が知らなかったこと沢山教えてもらったんだ」
俺の目を離さないで覗き込み、続きを催促して笑った母は、いつもの生活で俺に見せる表情そのものだった。日常が俺のもとに戻ってきた感じがした。
それが堪らなく嬉しくて、言葉が後から後へと繋がり言葉のバトンタッチがいつまでも続く。
「とおる。今日、宿題を先生に提出しなかったんだって? 鋼君から聞いたわよ」
「げえぇ!! 母さん! 今日の宿題まだ俺やってなかったよ!」
今日は本当にイベントが目白押しで、すっかり頭から抜け落ちていた。流石に二日連続はまずいと半身を起こすが母に止められた。
「いいの。とおるは今日、勉強するより大事なものを学んだんだから、それに担任から注意もされなかったんでしょ」
「うん……されなかったけど……」
『俺は毎日真面目にこなしていたから一回ならと許されただけで』とは言えない。実の母に話せるわけがない。
「立派な職務放棄ね。これはPTAの会長さんに話を通す必要があるわ」
PTA? 話通す? 何の話? この時の俺には関係のない『用語』で母が何をしようとしているのか分からなかった。ただ、担任が酷い目にあうのは薄々感じた。
楽しいひとときが過ぎ、十二時になってしまったので会話を止めて就寝することに集中していると母が手を差し伸べてきた。
「とおる、手を握っててくれない? そうしたら母さん――――明日から頑張れるから」
「うん、いいよ」
この日、俺は悪夢にうなされることなく久しぶりに熟睡できた。母との溝は完全に埋まり、父がいない平日が足早に過ぎ去っていく。
再入院してから三度目の週末、生きていた父が迎えた最後の六月の日曜日。目は窪み顔色には生気がなく、肉体も骨と皮だけでいつ死んでもおかしくない。
それでも全身を病に侵された父は俺の前では笑顔を絶やさず、終始穏やかで――――決して弱音を吐くことはなかった。
その日、同階のトイレに行く最中に看護婦の会話が偶然にも耳に入ってきて、悔しくて、唇の震えが収まらない。
「昇さん、まだ三十になったばかりでしょ? 息子さんも育ち盛りだし可哀想よねぇ~」
「奥さんも家庭の用事を済ませたら、毎晩通い詰めて個室で寄り添って一緒に涙を流してるって小耳にはさんだわよ。本当に健気で、あ~いう人たちこそ幸せになるべきなのに」
「死ぬに死にきれない。昇さん、さぞかし無念でしょうね――――私なら孫の顔を拝んでから亡くなりたいわ」
「その前にいい人見つけないと妄想で終わるわよ?」
「はぁ~、病院内のイケメンな患者さんが、言い寄ってきてくれないかな~」
父の世話をしてくれている看護師たちが、父が亡くなるのは揺るがない確定事項と断じ、他人事みたいに談笑して、俺に気づかず横を通り抜けていく。
母が面会時間ギリギリまで病院に滞在して、父が俺には決して見せたことがない涙を流していると聞いて「俺は父と真正面から向き合い真剣に会話をしたあの日」を境に変わっていった。父との約束を厳守し、母に迷惑をかけないようにここまで己を律して生きてきた。
ダンジョン沼に入る以前から底なし沼に囚われていた俺が、進んで沼に落ちていく皮肉が利いた、なんとも滑稽な人生。
そこに来て病神クレハと名乗る宇宙人から、母に対してこのような横暴と読み取れる理不尽な仕打ち。仮にも神と名乗り、名称しているのが俺の癇に障り、はらわたが煮えくり返る。
そしてあれから七年の歳月を経て成長した今なら、当時の母が思い知った半身を失った悲しみをより深く実感できる。
(あんな悔しい想い、もう二度とゴメンだ)
絶対に助けると心に誓いを立てた後、トゥエルカ地下洞穴五層の地面に足が付いた感触で到着したのを身体で感じ取り、俺は閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
次の一章開幕から三人称視点に戻ります。




