第三十四話 天鐘通の過去②
※三十四話は涙もろい人にはヘイトが高いです。ご注意ください。
一泊二日の旅行が終わった次の日。自宅で体調を崩し再入院することになった父。
俺は心配するが、治る病気と母から直接聞いたので安心して父の退院するのを自宅で待っていた。
そして迎えた今週の日曜日。
母と一緒に見舞いに訪れた病院で父の姿を瞳に入れた時、自分の目を疑った。一週間、姿を見ないあいだに父の頬が痩せこけ、顔色が土色になり、劇的に痩せ細っていたからだ。
「父さんっ!」
「おお、元気にしてたか通? 母さんに迷惑かけてるんじゃないだろうな?」
笑顔で俺の頭上に乗せる父の腕に以前のような力強さは無くて、振り払えば子供の力でも簡単に退けることができるほど衰弱しているのが、嫌でも伝わった。
この瞬間、絶対治ると信じて目を逸らしてきた現実が、俺の隣に横たわっていたのだとわかってしまった。父に残された命の蝋燭は燃え尽きようとしていると。
母が最近、目を腫らすほど泣き疲れて、寝室ではなくリビングで眠りに落ちていた意味を頭で理解して、俺は母を問い詰めた。
「なんで…………母さん! 父さんの病気は良性の癌なんでしょ!? 治る病気って俺聞いてたよ!? 嘘ついてたの!!」
目を伏せて辛そうに押し黙ってしまう母を見るや否や、父は病室でも構わずに声を張り上げ俺を射殺す視線で怒鳴り散らす。
「通、母さんを責めるな! 次、悲しませたらぶん殴るからな!!」
普段の父からは程遠い強い口調に、俺は思いっきり怯んだ。一年に一回、俺に対して怒る頻度だから余計に驚いた。
看護婦さんも声を聞きつけて入室する始末で、迷惑をかけましたと同居している患者仲間全員に父と母が平謝りしていた記憶がある。
そのあと父は相部屋から個室の部屋に移され、そこで両親から病気は悪性の癌で腫瘍が全身に転移していて、助かる見込みはないステージⅣと俺に分かりやすいように砕いて教えてくれた。
余命一カ月。事実上の死刑宣告。
それが何処から漏れたのか体格のいいクラスメイトが中心になって、父が病で苦しんでいるのをネタに小柄な俺を執拗に責めるようになる。
「おまえが何か悪いことしたからそんな目にあうんだぞ!」
「そうだ、そうだ!」
「違う! 絶対そんなことない!」
「なら、しょうめいしてみせろよ!」
「なんだとぉ――!!」
俺は冷静さを欠いて相手の挑発に乗ってしまった。結果は始まる前から頭でわかっていたのに、感情は、体は言うことを聞かない。
「何をやっている!」
誰かが先生に知らせてきてくれたおかげで、俺が一方的にやられていた喧嘩はすぐに収まった。
「とおるだいじょうぶ……じゃないか」
口の中を切って錆びた鉄の味がする。俺の口まわりは血で汚れていた。
「先生、とおるを保健室に連れてきます」
「ああ、行ってきなさい」
白髪混じりの先生は俺の顔と服に血がついているのを見つけて物凄い剣幕になった。まるで鬼の形相。
あの時の父が放った威圧感にも引けは取らず、喧嘩を煽った側が顔面蒼白になったのを見届けてから、鋼に連れられて教室を出たあと、先生の声が教室の外にも響き渡った。
「誰か! 事の発端を知っている者はいるか!!」
「先生! わたし、知っています!」
クラスで行動力のある活発な女子が名乗りを挙げた。喧嘩した相手は女の子にも暴力を振う乱暴な奴で、女子全員から目の仇にされているのを俺は知っている。
「あいつら終わったな」
「鋼が先生を呼びに行ってくれたの?」
「そうだけどごめんな、助けに入ってやれなくて」
「いいよ、気にしてないし。鋼が助けに入ってもアイツには勝てないから、先生を呼びに行ったのは正しいよ。おかげで大したケガしなかったから――――ありがと鋼」
俺はこの出来事を、鋼が助けてくれたことを生涯忘れないと思う。精神的にきつかった当時の俺には、たまらなく嬉しい出来事だった。
あの事件があった後でも、数人から両親のことで一時期からかわれていたが、辛くて挫けそうになった時に鋼が味方になり、庇い、付き添ってくれたおかげで俺は学校で泣き出すことは一度もなかった。
だが、帰宅してから学校の出された宿題をしている以外の時間。ふとしたしたきっかけで涙の珠が零れ落ちるようになった。
「どうして、どうして!」
学校で吐かれた無責任な誹謗中傷が心臓に無数に突き刺さり、無性に悔しくて感情の歯止めが利かない。
父が、母が、俺を含めた家族が、本当に何か悪いことをしただろうか? 永遠に答えが見つからない自問自答の。数種類に渡る哲学沼に足を踏み入れた気がした。
誰か、答えを知っていたら教えてほしい。
努力して治せるなら絶対に治す。
神に忠誠を誓えと言われたら迷わず誓う。
悪魔に魂を差し出せと言われたら悩むけど、覚悟して渡す。
だからお願いだ。俺が噛みしめるはずだった、抱きしめる予定だった幸福の時を返してほしい。
どんなに誰でもない誰かに、お願いをしても答えは返ってこない。わかっていた。
ただ……運に、天に、世界に見放されただけ。わかっていた。
自分の力ではどうしようもできない悲しみで胸が張り裂けそうだった。声を大にして暴れて叫びたかった。でも、何も変わらない。
わかっていた。
俺の家族の仲を引き裂かないでほしいといった祈りや希望が、諦めに染まった真っ白の願いに書き換えられ、誰にも覗き見られることなく、一日は止まることなく時を刻み、クラスメイトたちは変化がないありふれた日常を過ごしている。
それに引き換え俺は、週末に面会するたびに衰えていく父の姿を瞳に入れるのが嫌で嫌でたまらなかった。
母も辛い姿を俺に晒さないよう気丈に振る舞っているが、最近リビングで一人ノートと睨めっこして悩んでいる時間が多くなり、精神的に追い詰められて俺が話しかけても反応してくれないことが多発するようになってしまっている。
俺もここ数日悪夢でうなされるようになり、今日も寝つけず深夜に目が覚め、母の様子が気になってリビングに向かった。
「いない。よかった……」
今日は寝室で休んでいると分かって安心したが、心配性の俺は母がいるだろう寝室をこっそり覗く。
母は枕に顔を埋めてうつ伏せで寝ていた。それだけなら俺は安心して引き返したと思う。
けど母は深夜二時だと言うのに一人、真っ暗な、闇の中ですすり泣いていた。
ショックだった。
俺は今年の元旦に自分の部屋を与えられて母離れが進行していたが、恥ずかしいといった感情はこの時湧いてこず、そこにあったのは。
今、寄り添わなければ一生後悔する。
感情が瞬時に俺を支配した。理屈じゃない。これは俺の自己防衛機能が、本能が反応した結果だ。
「おかあさん」
「と、とおる!?」
俺は母の布団に潜り込んだ。けれど激しく拒絶されて…………
「ごめんね。いまは……一人でいさせて…………お願い」
俺はこのまま引き下がりたくなかった。諦めたくなかった。一緒に悩んで悲しみを分かち合いたかった。
けど、目を合わせてくれない母が嫌がっているのが読み取れて、ちっぽけな存在の俺は自室に戻り、ベッドに力なく倒れ込み母と同じうつ伏せで枕を涙で濡らして、拳を握ってベッドを叩く。
(くやしい、くやしい、くやしい!)
母の苦しみを取り除いてあげられない――――無力な自分に無性に腹が立つ。
今になって思い浮かぶ、母が俺に対して初めて吐いた弱音「うん…………ごめんね…………ごめんね」が頭にこびりついて離れない。
母が現実を拒絶した、やりきれない心の叫びが、何度も頭の中で繰り返し再生される。純粋な気持ちが踏みにじみられる。もう別れの時が近いのだと嫌というほど実感させられた!
「嫌だ、嫌だ、嫌だ!」
こんなの認められない。俺は次の日に出された宿題を生まれて初めて手をつけなかった。
担任は注意することなく事情を察して俺に何も言ってこない。
「とおるが宿題をやり忘れるなんて初めてのことじゃないか? 珍しいよな? なんかあった?」
けれど世話焼きの鋼は違った。俺の変化にいち早く気がついて話しかけてくる。
「父さんが……………………この世界からいなくなりそうなんだ」
「…………そっか…………つらいな」
俺は初めて鋼に、自分の苦しみを打ち明けた。いつも困っている時、手を差し伸べてくれる――――鋼だけになら相談してもいいと思えたからだ。
「ふんふん、それで?」
「それで母さんも病院に行って帰ってくるのが九時過ぎで…………」
「とおる、九時までのあいだ俺の家に居ろ」
「え?」
「一人で寂しいんだったら遠慮すんな。俺の家族は絶対に迷惑と考えないぞ?」
母が帰ってくるまでのあいだ、俺が孤独に押し潰されそうになっていた時に鋼から出された提案。
俺は考えることなく条件反射で首を縦に振り、母さんに報告許可をもらって食事処『鈴原』の店先までやってきて足がすくんだ。
琴線に触れるBGMを聴きながら、一章の終わりを思い浮かべて情に訴えかけてくる場面を執筆していると、自然と涙がポロポロしてしまう作者。
いつの間にここまで涙もろくなったのか自分でも驚いています。歳ですね……(笑)




