2018年3月11日 首都地下鉄駅(3)
恐竜もどきの腹を裂いてから駿には妙な高揚感があった。それまであったはずの恐怖や不安がどこかへ行ってしまったように気分が浮ついている。先行する高崎の後姿は緊張に満ちていて自分達が置かれている状況がいかに深刻かを教えている…………けれど彼の気分だけはそれに相反していた。
「駿」
「なんだ?」
呼ばれて視線を向けると茜が不安そうな表情を浮かべていた。
「大丈夫?」
「大丈夫も何も調子がいいくらいだけど」
今の駿は精神的にも肉体的にも疲労を感じていない。
「…………本当に?」
けれど茜のその視線は不安に満ちていた。それを見て駿も自身に疑問を覚える。地下鉄駅に避難するまでは空を飛ぶドラゴン相手から必死で逃げていた。駅で多少休めたとはいえその後も人の波の中を全力疾走…………売店に逃げ込んだ後も緊張の中で過ごしていたし、高崎に会うまでも疲労を感じながら進んでいたはずだった。
だが今は一切の疲労を感じずむしろ調子がいいくらいだ…………いつからだと考えればそれはあの恐竜もどきの腹を裂いた後からだろうか。
「毒とかじゃない、よね?」
「…………それは大丈夫、だと思う」
苦しさを感じるのとは逆なのだから…………だが例えばドーピングのようなものだとしたらどうだろう。一時的に有用であってもいずれは副作用に苦しむことになる。
「今実害が出てないなら考えるのは後にしろ」
前に視線を向けたまま高崎が口を挟む。
「やらせたのは俺だから何かあったら責任はとる。だが今はこの場を切り抜けて安全に病院で検査してもらうことだけを考えろ」
「…………そうですね」
思わず言い返そうとした茜を手で制し、駿はそう答えた。彼だって思う所はあるが高崎は間違った行動をしていない。あそこにもしもう一人自衛隊員が居たら高崎はそちらに中身の確認を任せただろう。彼はあの場で最適と思われる判断をして、そしてそれは駿と茜の二人を守るための判断なのだ。
「それよりそろそろ開けた場所に出るから注意しろ」
それはつまり出口が近いということでもある。先に見える階段を上ってずらりと並んだ改札口さえ抜けてしまえば外へは五分と掛からない。外にはいるドラゴンの存在を考えれば出入り口付近で隊が避難者を救護している可能性もあると高崎は言っていた…………しかし、現実はそう甘くはないらしい。
「ちっ、そこそこいやがるな」
階段から顔だけ出して遠方を見やると、改札口の向こうにたむろする恐竜もどきの姿が複数高崎の目に飛び込んで来る。どれも血に塗れていないところを見ると避難者には遭遇していない個体らしい。避難者を追った群れからはぐれたのか、それとも別の場所からやって来た個体なのか気にはなるが今は重要ではない。
「戻りますか?」
「いや、もう一方の階段に回る」
改札口に繋がる階段は少し離れた場所にもう一か所ある。こちらから見える数はそれほど多くないからそちらからなら気づかれず出口まで向かえるかもしれない。確かに戻って他の道に戻る方が安全に思えるが、そちらでより多く悪い状況で遭遇する可能性もある。それならば最悪まだ対応できそうな数のここで勝負に出たほうがいいと高崎には思えた。
だがその算段は実行する前から崩れた。不意に恐竜もどきが鼻をひくつかせ周囲を嗅ぎまわるように顔を動かしだす。そして彼らはすぐに三人のいる方向を導き出して視線を向けた。そこまでの展開があまりに早すぎて高崎が何かを挟む余地がなさ過ぎた。
「くそっ!」
引くべきかどうかを考えて高崎はその場で迎え撃つことを選択する。相手の方が速いのは明らかなのだから逃げて追いつかれてからよりも今迎撃した方が距離はある。それに何も相手を殺しきる必要まではないのだ。
「後ろから別が来ないかだけ注意して耳塞いでろ!」
二人に指示して高崎は階段の下から上半身だけを乗り出すようにしてアサルトライフルを構える。相手に対してかなり銃身が低くなるが狙う場所も低いから問題はない。すでに改札を飛び越えてこちらに向かってくる恐竜もどきは五頭。
「…………」
狙いは脚だ。片足潰せばまともに走れずこちらが逃げるには充分動きを奪える。相手の数は多いが横一列で同時に向かってくるわけではない。先頭の一頭を追うように二頭が二列。まずは先頭の一頭の左足を狙い引き金を引く…………命中。体勢を崩して転び、後列の二頭を巻き込んだ。
「次」
最後尾の二頭が転んだ三頭を飛び越えて向かってくる。その着地の硬直を狙って右側の一頭の足を狙う…………命中。そのまま崩れたそいつに目をくれず残るもう一方へと銃撃。そちらにも命中したが浅かったのか踏み止まって進みだす。
はやる気持ちはあるが焦らず冷静にライフルのマガジンを取り換える…………装填。銃撃。今度こそ転倒したそいつの後方で二頭が立ち上がり再び走り出すのが目に入る。
「ちぃっ!」
転倒から回復した二頭の動きは目に見えて変わっていた。こちらへの一直線ではなく銃弾を逸らすように不規則に左右にステップを踏みながら進んで来る。もちろん動的目標に対する訓練も積んでいるから当たりはする…………だが多少の損傷では恐竜もどきは止まらない。しっかりと脚を撃ち抜いた三頭すらもその脚が壊れていることなど気にしないように立ち上がり出した。
「退くぞ! 向こう側の階段まで走れ!」
横一列に銃弾をばら撒いてから高崎が振り返り叫ぶ。その端からすでに自身も走り出している…………最短で迫るだろう二頭をどうにかする算段を頭の中で組み立てながら。
負傷した三頭について高崎は気にしていなかった。あの場に留まるならともかくこちらは階段を下りて逃げ出している。あの脚で無理に階段を降りようとするなら碌な目には遇わない事だろう。
「茜!」
「駿!」
互いの名前を呼び合いながら二人も走り出す。二人にできるのは言われるまま走ることだけだ。後ろを振り返らず全力で通路を走ってもう一方の階段へと辿り着く。そのまま駆け上がろうとしたところで高崎が振り返ってその場に留まるのが見えた。
「高崎さん!」
「中頃まで上がれ! 俺がやられたらそのまま逃げろ!」
無傷の二頭に階段で追いつかれるのは困る。なにせ人間は体勢を崩して階段から落ちるだけで死ぬ可能性があるくらいには貧弱だ…………だからこの場で仕留める。先に出口に向かわせないのはそこまでに他の恐竜もどきがいないとも限らないからだ。
ライフルを構え直した時点で彼我の距離はすでに7メートル。近いが向こうは銃弾を躱すために左右にステップを振りながら近づいてくる分遅くなる…………そして近ければ例え左右に振ろうがこちらの命中率は高くなる。
相手は二頭…………だから確実に一頭を仕留める必要があった。そのことだけに集中して高崎は狙いを定める。
「…………」
集中力が時間を止める。訓練では覚えたことのない実戦だからこその感覚。ゆっくりと動くように見える恐竜もどきへと狙いを定める。ミリ単位で誤差を修正。ここしかないというタイミングで引き金を引き…………時間の感覚が戻る。眉間を撃ち抜かれた恐竜もどきが後ろへと跳ねて体勢を崩す。
そして残るもう一頭がこちらへと飛び掛かるのが見えた…………それも予想の範疇。
「ぐうっ!?」
盾代わりに横に構えたライフルごと押し倒される。押し返そうにも何とかその牙と前足を防ぐのが精一杯で腰の拳銃を引き抜く余裕もない。後はどちらの体力が先に尽きるかだがそんなものの結果は最初から見えている。
「高崎さんっ!」
何ができるでもないが反射的に駿は階段を駆け下りた。それに高崎を襲っていた恐竜もどきが顔をあげて視線を向ける…………その隙を彼は見逃さなかった。恐竜もどきの爪を抑えるライフルから右腕を話して素早く腰の拳銃を抜く。そのまま目の前の恐竜もどきの胸の中心へと銃口を押し付けて引き金を引いた。
銃声は三回。自分へと倒れ込もうとする恐竜もどきを高崎は全力で横へ押しやった。見た目ほどの重さは無かったおかげで下敷きにされる無様な姿はさらさずに済んだ…………何よりまだ終わっていない。
上体を起こすと同時に高崎はライフルを構える。銃口の先には階段を飛び降りたであろう恐竜もどきが三頭。二頭は負傷した足で着地の衝撃を受け止めきれず床で全身を強打したのかピクリとも動かない。しかし残る一頭は立ち上がってこちらへと視線を向けていた。
「…………」
狙いを定めて引き金を引く。俊敏さが失われた相手であれば急所を狙うのは造作もない。マガジンの残りの弾丸を全てその胸元に叩き込むとそいつも倒れて動かなくなった。
「…………ふう」
息を吐く。それと同時に痛みを思い出して高崎は顔をしかめた。
「大丈夫ですか!」
駿と茜は階段を下りて高崎へと駆け寄る。だが彼の腹部に広がっていく赤い染みを見て思わずその足を止めた。彼は恐竜もどきの前足と牙はしっかりと防いでいたが、飛び掛かられた際にその後ろ脚が彼の腹部を捉えていたのだ。
「大丈夫じゃないが大丈夫だ」
高崎が傷口を左手で抑えながら立ち上がる。だがその表情は明らかに苦痛を堪えていて、何とか立ち上がったその足も今にも崩れそうに見えた。
「悪いがちょっと肩を貸してくれ」
「は、はい!」
駿は慌てて駆け寄って高崎を支える。そしてそのまま通路の端まで移動させると壁にもたれるように座らせた。
「悪いが俺はここまでだ」
「!?」
「別に死にゃあしねえから安心しろ」
顔を青くする駿と茜に高崎は続ける。
「ただちょっと歩くのきついってだけの話だ。ここで傷口を抑えてじっとしてしてれば当分の間は持つ…………その間にお前達が外に出て助けを呼んでくれればいい」
「…………」
彼の言葉に駿も茜もすぐに何も答えられなかった。
「だから、そんな目で見るんじゃねえ。俺も死ぬ気はない」
呆れるように彼は片手でライフルを掲げて見せた。
「弾薬はまだ十分ある。あいつらの殺し方も分かった…………多少またやってきたところで充分返り討ちにできる」
それが強がりかどうかは駿には判断できなかった。
「それより、だ」
高崎はライフルを置いて拳銃を腰から引き抜く。そして駿を手招きして近寄らせると、さらに彼の胸ぐらをつかんで引き寄せ顔を間近にする。
「もし遭遇することがあったらお前はこれで彼女を守れ…………どう使うかは俺を見て理解してるな?」
「…………はい」
鬼気迫るようなその目に駿は頷くことしかできない。素人が拳銃を渡されてもまともに扱えるはずがない…………ましてやあの恐竜もどきが相手では。
だが、駿は今しがた高崎が恐竜もどきを仕留めるところを見ていた。自分自身に組み付かれたその体勢であれば狙う必要などない…………しかしその引き換えに自身がどうなるかは高崎自身が証明している。
「わかりました」
それでも、駿はしっかりとそう口にして拳銃を受け取った。茜を守ると他ならぬ彼自身が口にしたのだ…………それだけは絶対に守る。
「…………駿」
そんな彼を、不安げに茜は見ていた。
死なないで、少し前にそう願った言葉はけれどもう一度口にできなかった。