2032年8月16日 岐阜県各務原市(3)
世界が崩壊して良くなったことと言えば、高いビルが崩れたおかげで朝日がよく見えるようにことくらいだろうかと高峰は思う。水平線から昇る朝日を街中で見ることなんてことはドラゴンが現れる前には絶対に出来なかったことだ。
「これも最後と思うと少し名残惜しいな」
呟きながら長らく吸ってなかったタバコを口元へと運ぶ。ドラゴンから安全圏を勝ち取れた地域では細々とだが農業も行われているようだが流石に嗜好品を作る余裕はない。そうなると崩壊前に残されたものが全てであり今やかなりの貴重品だ。
「おっちゃん!」
高峰の吐き出した煙を吹き散らかすように活力のある声が背後から響く。振り返ればそこには見慣れた少年の姿があった。
「どうしたこんな時間に」
朝日が昇る時間だから今はかなりの早朝だ。明かりを自由に使えなくなって人の生活は大昔のように朝早く起きて夜早く寝るように戻ったが、それでも少し起きるには早すぎる。
「それにしばらく工場には近づくなと言ってあっただろ」
やれやれとタバコを加えたまま高峰は肩を竦める。
「その代わりこっちの用事が済んだらシミュレーターは好きなだけ使わてやる…………そういう約束だったはずだ」
「それは、あんたがいなくなるからか?」
所有者である高峰がいなくなってそれが少年のものになる…………だから使い放題。そういう理屈なのだと少年は知っている口調だった。
「誰から聞いた?」
半ば予想はついていたが高峰は尋ねる。
「梶北のじーさん、昨日の夜に家を尋ねて来た」
「…………全く、整備長のおせっかいなところは変わってないな」
ふう、と高峰は息を吐く。
「とりあえず夜中に押しかけて来なかったのは褒めておく」
「別に、そんなんじゃねえよ」
少年はそんな冷静な判断をしたわけじゃない。
「単に聞いたことがすぐには信じられなくて…………明るくなるまで飲み込めなかった」
そしてようやく飲み込めたその事実を前に居ても立っても居られずここに来た。
「おっちゃんは…………これから死にに行くんだろう?」
「違うな」
高峰は首を振る。
「空を飛びに行くんだ」
「死ぬために飛ぶんだろっ!」
「それも違う」
窘めるようにもう一度高峰は首を振る。
「空を、取り戻しに行くんだよ」
かつて奪われたものを、取り返したつもりで取り返せなかったものを今度こそ。
「でも、最後には死ぬんじゃないか」
「そうだな」
諦めきれずに繰り返す少年に、最後には高峰も頷いた。
「だが人間は誰しもいつか死ぬ」
使い古された言葉ではあるがだからこそそれは真理だ。
「どうせ死ぬなら俺は老衰より誰かの為に命を使って死にたい」
もちろん高峰だって天寿を全うすることは尊いことだと思ってはいる…………だからこれは好みの問題だ。余生に未練が無いとは言わないがこんな風に死ぬ機会はもう巡っては来ないだろう。
「そんなの、勝手過ぎるだろう」
「そうかもしれないな」
人間は殆どの場合別の誰かと関わって生きている。僻地で人との交流を最低限にして生きていたつもりの高峰も仕事の依頼などで付き合いのある人間はいるし、その過程で目の前の少年のように深い縁を結んだ相手もいる…………その過程を一方的に打ち切ってさらに傷まで与えようというのは確かに勝手なことかもしれない。
「俺はおっちゃんに死んで欲しくない」
「嬉しいことを言ってくれるな」
そう言ってくれる相手がいることはとても幸せな事だろうと高峰は思う。
「だが俺が行かなきゃどうなるかも整備長に聞いたんじゃないか?」
「それは…………」
重苦しい表情を浮かべて少年は言葉に詰まった。
「俺が失敗したら物量で攻めるしかなくなる」
ドラゴンは学習能力が高く奇襲が通用するのは一度だけだ。高峰が失敗した場合は正攻法で攻めるしかなくなり、城塞都市も温存していた戦力を吐き出す必要に駆られるだろう…………まあ、首相を務めるあの男であれば他のプランを隠している可能性もあるが。
「将竜との正面からのぶつかり合いになれば勝っても負けても大きな被害が出る…………軍隊もだが特にこの辺りに暮らしている普通の人間に、だ」
正面から攻撃すれば将竜はその巣だけではなく周囲からも招集をかけて戦力を招集するだろう。そうして活性化した上位竜たちは目に付いた人間全てを襲い、それは将竜を倒しても止まることは無いはずだ。
そして城塞都市の戦力は将竜を倒せばその時点で撤退する…………残されるのは活性化された上位竜と無力な一般人たちになる。
「お前の家族も友人も、下手をすればみんなドラゴンに喰われる」
「…………その言い方はずるいだろ」
悔し気に少年が高峰を見る。
「大人はずるいもんだと前から言ってるだろう?」
蓄積された経験の差があり、そしてそれを使うことに躊躇いが無い故に。
「別に、おっちゃんじゃなくたって代わりに他の」
「この時代に俺ほどの腕を持ったパイロットが他にいるわけないだろう」
もちろん高峰のように自衛隊から野に下った人間はゼロではないだろう…………しかしその中で実機どころかフライトシミュレーターを所持して稼働できている人間は希少だろう。
いかに腕のあるパイロットでも何の努力もせずにその腕を維持することはできない。シミュレーターとはいえ高峰はその腕を錆びつかせないよう研鑽は続けていたし、だからこそ城塞都市も自前のパイロットではなく高峰へ話を持って来たのだ。
いくら自軍の消耗を抑えたいと考えていても、それで作戦成功率を落とすほど城塞都市を指揮する男は愚かではない。
「なら俺がっ!」
「馬鹿ぬかすな」
呆れるように高峰は少年を見やる。
「なんでだよっ! シミュレーターの成績だって最近はおっちゃんより!」
「それはまあ、認めよう」
それを認めるのは歯がゆさも感じるが、それこそ大人として高峰も認めざるを得ない。
「だがな、シミュレーターは所詮シミュレーターだ」
それはあくまでフライトシミュレーターの話でしかないのだ。
「俺なら実機だってっ!」
「実機で操縦を誤れば死ぬぞ?」
究極的な話フライトシミュレーターと実機の違いはそこだ。シミュレーターならミスしてもやり直せば済むだけだが、実機であればそれが死に直結する可能性もある…………その恐怖はシミュレーターに乗っているだけでは絶対に克服できない。
「それにシミュレーターと現実じゃあドラゴンの動きだって違う」
高峰は残されていた最新機のフライトシミュレーターを確保できたのでドラゴンとの模擬戦闘を行えるモードも搭載されている…………けれどそれはあくまでプログラムされた動きしかしないドラゴンとの戦いだ。
現実に己の命を持って戦う生き物は時には強い執念で想定とは大きく違った行動を取って来る…………それに冷静に対処するには長年の実戦経験が必要だ。
「大体お前が死んだら残された家族はどうなる」
少年の家は彼が高峰の下に遊び来れる程度に生活の余裕はあるが、それでもこの厳しい時勢の中で男手を一人失うのは大きい。そもそも彼が高峰の下に来れているのもその技術を学ぶという名目があるからで、それを生活に役立てる事を期待されているのだ。
「それに、もう俺の代わりに誰かに死なれるのは御免だ」
空で散っていった部下たちのことを高峰は思い浮かべる。明確に庇われたわけではない。けれど誰が死んでもおかしくなかったあの戦場を思えば、彼には自分の代わりに彼らが死んでいったように思えて仕方ない…………そんな思いはもう充分だ。
「それにな」
高峰は空を見上げる。
「俺はこんな状況でも空に上がれることが嬉しくてたまらん」
あの日以来、ずっと空から遠ざかっていた…………遠ざかったまま自分の人生を終えるのではないかと思っていたのだ。
「おっちゃん…………」
「俺は人を守りたくて自衛隊員になった」
遠い日を思い出すように高峰は少年を見る。
「だがな、その先でパイロットを選んだのは空が好きだからだ」
「…………」
「小鷹」
少年の名前を呼ぶ。
「お前は空が好きか?」
「…………わかんねえ」
「まあ、そうだろうな」
高峰が言っているのは見上げた空の事じゃない。もちろんフライトシミュレーターは空の上を再現しているが、あんなものは所詮作り物だ。
「だから、好きか嫌いか確かめるためにお前もいつか空に上がれ」
整備長のお墨付きをもらうのは大変だろうがな、と高峰は内心で笑いながら呟く。
「その為に、俺は空を綺麗にしておいてやる」
遠い遠い日の空のように、何物にも邪魔されない自由な空へと。
◇
「目標の穴が見えた。名残惜しいが俺の空の旅はこれで終わりだ」
「高峰…………」
「しんみりしないでください、整備長。これからあのドラゴン共を掻い潜って穴倉に突入して将竜にタッチダウンする大仕事が待ってるんですから」
「…………」
「最後が空じゃなくて地面の下ってのは皮肉ですが、気分は悪くないですよ」
「後悔は、ないのか?」
「あります」
「…………」
「ですが俺に託せるものがあって、託す相手がいた…………だからまあ、躊躇いは無いですよ」
「そう、か」
「ええ、もう数秒で巣に突入…………通信が切れます」
「よい、旅を」
「ええ、そちらも」
「ああ本当に、綺麗な空だ」