2032年7月16日 岐阜県各務原市(2)
「粗茶ですが」
高峰は自身の居住スペースとなっている事務室へと整備長を案内し、今となってはそれなりに貴重品な茶葉を使って整備長へとお茶を用意した。もちろん整備長の暮らす城塞都市では文明レベルは維持されているだろうから珍しくもあるまい…………しかしこういうものは自分にとっては貴重な物なのだと相手が理解していればいい。
「すまんな」
一言返して整備長は湯飲みを手に取る。
「それで、今は地に墜ちて空にも上がれなくなったパイロットに何の御用でしょうか」
「謙遜を抜かすな」
不機嫌そうに返しながら整備長は余所へ視線を向ける。小さな工場の事務室はその窓から整備場の状況が見えるようになっている。その視線の先はまっすぐに工場の奥へと鎮座しているものへと向けられていた。
「いつでも飛べる準備はしておるのだろう?」
「飛べるかどうかはわかりませんけどね」
少年にも言ったことだが技術も部品も燃料すらも足りてない状況で万全な整備ができるはずもない。無数の部品で構成された精密機械はたった一つの部品の不備ですら重大な呼称を誘発する可能性だってあるのだ…………使用する燃料の性質を考えればいきなり爆発する可能性はあり得る事だ。
「じゃが、お前は飛ぶつもりなのじゃろう?」
「ええ」
迷いなく高峰は頷く。
「自衛隊という組織が無くなっても私の志は自衛官の頃と変わりません…………国民を守るために必要とあれば私は空に上がります」
けれどそこまで口にしたところで高峰は整備長の顔を見てふっと顔を緩める。
「いえ、多分違うのでしょう」
そんなものが欺瞞でしかないことは高峰自身がよくわかっていた。彼が飛べるかどうかわからない機体の整備をしている間にも守るべき国民たちはドラゴン共によって襲われその命を落としている…………本業はパイロットとはいえ自衛官としての訓練を受け高峰が動けばその被害をいくらかは減らせていただろう。
だがそれでも彼は自分が飛べる可能性を残すことを選んでいた。それを正当化する理由ならいくらでも見つかるが、その全てが間違っていることが高峰自身にはよくわかっている。
「私がかつて空に残してきてしまったものを清算したい、多分それだけです」
その為だけに何とか飛べるように機体を維持し、それに足る理由がやって来ることを待ち続けていたのだ。
「お前さんが生き残ったのは腕と運が良かった、それだけの話じゃ…………先に去って行った者に対して気に病むことではない」
「…………」
整備長の言葉に高峰は唯穏やかに視線を返すのみ。それに老人はなにか口にしようとしたが、結局は言葉にすることなく一度その口を閉じた。
「…………ここへ来た目的を考えればお前を諭す資格などわしにはなかったわ」
そう自嘲する整備長の表情は年相応のようで、再会した時から見せていたかくしゃくさなどどこにもなく疲れ切って弱々しい印象へと変わってしまっていた。
「そろそろ、目的をお話しいただけますか?」
「言わずともわかっておるのじゃろう?」
「ええまあ、それ以外にわざわざ私へ会いに来る理由は無いでしょうし」
整備長の顔を見た時から高峰には概ねの予想は出来ていた。
「城塞都市はある重要な任務をこなすことのできるパイロットを求めておる…………城壁の中でぬくぬくと育った若造共には出来ぬ任務じゃ」
いや、と老人は苦み走った表情で続ける。
「単刀直入に言おう、これは生存を見込んでおらん特攻任務じゃ。生存する可能性が低いのではなく最初から生存することが検討に含まれておらん…………お前さんが候補に挙がったのは任務達成にたる実力があるのもそうじゃが、犠牲にしても城塞都市の戦力の低下には繋がらんからじゃ」
「ええまあ、そんなところでしょうね」
城塞都市の主である日本国総理は合理的な男だ。日本という国家の存続の為に大半の国民を切り捨てたことからもそれは明らかで、未だドラゴンによる脅威の落ち着かない現状においては出来る限り城塞都市の戦力を削ろうとはしないだろう…………外に消耗していい戦力があるならそれを使うのは間違いない。
「それで、私は何の為に死ぬんですか?」
「…………受けるのか?」
そう尋ねる整備長は意外という表情ではなかった。高峰が受けることは最初から彼にもわかっていたが、だからこそその理由をはっきりと聞いておきたいという顔だった。
「私はあの男の事が人間的には嫌いですが、目的のために必要な行動を見誤る人間でないことは知っています…………少なくとも、私が死ぬことに納得するだけの任務ではあるのでしょう」
そうでなくては整備長が自分のところに派遣されることも無かったはずだと高峰は思う。城塞都市には民主国家である日本が残っていると謳ってはいるが、それは実際のところ建前であり首相であるあの男による独裁と聞いている。ならば必ずこの訪問にも彼の許可が必要になるわけで、無駄に終わることへ物資や人力を消費することをあの男は許さないだろう。
「ここからそう遠くないところに将竜の巣があることはお主も知っておるじゃろう…………いや、知っているからこそお前さんはここに居を構えたのじゃろうな」
「まあ、概ね間違ってはいませんよ」
実際のところ近いというにはそれなりに距離はある…………が、戦闘機であれば一瞬とも言えるような距離だ。
「それで、将竜の話が出たという事は今更討伐することが決まったと?」
今更、と皮肉めいた言い方を高峰はあえて使った。本来であればサハラ砂漠で女王竜を討伐した後は各地の将竜を殲滅し残る上位竜たちを葬っていくというのが理想だった。
しかし現実はそうはならず戦力の減少を理由に各国政府は国土の大幅な縮小を宣言。城塞都市に入れた一部の人々除いてその保護を放棄し、女王竜を失ったドラゴンどもが自然と個体数を減らしていくまで引き籠る選択をした。
「まあ、そういうことじゃ」
「しかしなぜ急に?」
一度諦めたことを再開するなら相応の理由があるはずだ。いくら城塞都市で被害を抑えて引き籠っていたとしても当時のような戦力への回復にはまだまるで足らない…………つまりはその状態でも無理を押して将竜を討伐しなければならない理由があるはずだった。
「最近明らかになった情報でな、将竜は女王竜へと変態する可能性があるそうじゃ」
重々しい口調で整備長が告げる。
「あまり驚いてはおらんようだな」
「ええ、まあ」
もちろん平静とまでは言わないが、高峰はそれほど動揺を浮かべてはいなかった。
「正直に言えば女王竜を倒せばそれでいつかドラゴンは滅ぶなんて素直に信じられはしませんでしたから…………それでは種としてあまりに脆弱すぎるでしょう」
女王竜が外敵に殺されたら終わりだし、種としての強固さで外敵は払いのけたとしても疫病などでぽっくり死んでしまうことはあり得る…………遥か古代から現代まで生き延びた種としてそれではあまりに脆弱だ。
「蟻や蜂などの同じ女王を頂点とした種の生物は同様の性質を持ってます………むしろその可能性を今まで抱かなかったのが疑問なくらいです」
「…………信じたかったんじゃろうな」
ようやく女王竜を倒したものの残るドラゴンを葬る戦力は無く、その中から新たな女王竜が生まれる可能性があるというのは考えたくない現実だ…………少なくとも追い詰められた人類にはドラゴンに勝利したという希望が必要だった。
「それに一応残されたドラゴンの調査は行われてはおったが長い間特に変化は見受けられなかった…………それも結局はドラゴンと人の寿命の差ゆえの事じゃったようじゃが」
つまるところ人とドラゴンでは時間に対する感覚が違ったのだ。ドラゴンには長い寿命があるから女王竜が死んでも残されたドラゴンたちが滅ぶには長い猶予がある…………つまり確実に安全であることを確認してから新たな女王竜を生み出す余裕があったのだ。
そしてこの十数年はドラゴンにその安全を確信させるに至ったのだろう…………明確な戦力を持った国家は城塞都市に引きこもり、外に残された人々はドラゴンから逃げ惑うだけだったのだから。
「それでも調査の限り女王竜に変態する可能性が高いのは将竜だけじゃと判断された」
「つまり将竜を全て討伐することに決まったと」
「それが一番確実じゃからな」
ドラゴンの生態を考えれば全ての将竜が一斉に女王竜へと変態する可能性は低い。しかし女王竜へと変態する将竜を殺したところでその役目が他に移るだけだろう…………結局は全ての将竜を葬る必要があるのだ。
「しかし知っての通りそんな戦力はまだ揃っておらん」
ドラゴンの生態域は世界全てを覆い尽くしており将竜も上位竜に比べれば数は少ないとは言え日本だけでも三体の生息が確認されている。生き残っている各国と情報を共有して連携してもとてもじゃないが全てを滅ぼす戦力は世界に残されていない。
「それで特攻、ですか」
概ね高峰にはその作戦の中身が見えていた。
「うむ、ミサイルではなく小型の核爆弾を積んだ機体で将竜の巣に突入する作戦じゃ」
雷竜の電磁パルスへの対策は行われているものの、そもそも空が飛べるドラゴンに対して長距離ミサイルというのは確実性が低い。サハラ砂漠での女王竜討伐も残る戦力全てを囮にしての決死隊による巣穴への突入によって決着したのだ…………それと同じことを今度は戦闘機でやろうという話だ。
「無謀な作戦ですね」
竜の巣穴そのものは将竜の大きさもあって戦闘機で突入することが可能となっている。しかし肝心のねぐらまで到達する間での通路はそれこそ蟻の巣のように入り組んでいるし、上位竜や兵竜などのドラゴンによって警備されている…………その中を戦闘機で掻い潜って将竜の元までタッチダウンしろというのはかなりの無茶だ。
しかし同時に成功すれば宰相の犠牲で最大の戦果を得ることが出来る。もちろん核爆弾も戦闘機も希少な兵器ではあるが…………それだけで将竜を葬れるなら破格の犠牲だ。
「小型とは言え核爆弾の威力はかなりのものじゃ…………到達できずとも可能な限り接近すれば将竜を巻き込む確率は高い」
仮にそれで死なずとも生き埋めは確定だ。いくらドラゴンが地底に穴を掘って巣を作る種とは言え身動きも出来ないような生き埋めになれば自力での脱出は不可能だろう。
「お主の腕なら可能じゃあろう?」
「事前に必要な情報を頂けるなら」
「無論じゃ」
「ならば可能です」
自身の籠った声で高峰は答える。
「そうか」
整備長は肩を下すように呟く。しかしそれは安堵でなく目の前の人間の死が確定したことに対する諦観と後悔だった。
「ところで、私には報酬を要求する権利があると思うのですが」
「む、それはもちろんそうじゃが」
不意に高峰が発した一言に老人は気を取り直し、意外そうに彼を見る。
「悪く思わないで欲しいのじゃが、お前さんはそういう要求とは無縁じゃと思っておった」
作戦が失敗しても成功しても死ぬ人間だからとは言わないが、居住スペースである事務室を見れば高峰があまり他者と交流せず一人で生活していることが整備長にもわかる。報酬を約束してもそれを渡す相手がいないのでは意味がない。
「私も軍人である前に人間ですから…………それくらいの欲はありますよ」
「そうか、まあよほどのことではない限りとおるじゃろう」
整備長は頷く。
「ではまず一つ、あそこにある私のかつての愛機を万全な状態にして頂きたい」
「それは構わんが、城塞都市はお主に最新鋭機を用意しておるぞ?」
「ええ、それは貰います」
穏やかに高峰は頷く。
「貰って、どうする」
「見込みのある子がいましてね、その子に残したいんですよ」
ちらりと、今もシミュレーターに躍起になっているであろう少年へと高峰は視線を向ける。
「ほう、このご時世にそんな子がおるのか」
「ええ、まだ若すぎますけどね」
だからこそ、高峰にとって託す価値がある。
「城塞都市に入る口利きをしろというわけではないのじゃろう?」
「もちろん」
「…………そんな子供が城壁の外で機体の維持など出来ると思うのか?」
「ええ、ですからそのフォローもお願いしたい」
高峰はじっと整備長を見つめる。
「お前さんを死地に追いやっておいて…………わしには生き足掻けと?」
狼狽えるように彼を見返す整備長に、高峰は無言のまま穏やかな表情を変えなかった。
「わかった」
しばらくして整備長は頷き、先ほど高峰が向けたほうへと視線を向ける。老人にはその先にあるシミュレーターは見えないし、その中にいる少年の姿も知りはしない。
「長生き、せねばのう」
けれど己のすべきことだけは、今はっきりと見えていた。