2030年6月17日 名古屋市中川区
物心ついた時にはもう世界には罅が入っていた。目に見えるほとんどの建物は半壊したり焼き焦げていて、形を留めている建造物にも大きな罅がいくつもあった。けれどそんな頼りない建物から危険だからと出してもらえず、子供の頃は直接日の光を浴びることが少なかったように思う。
けれどそんな建物すらも今は希少だ。あれから十年、一切の補修もされることのなかった建造物の多くは倒壊して形を留めているものは僅かだ。さらにその中から崩れる危険のない建物となると滅多にないレベルだ。それでも安全の為にはその滅多にない場所を見つけて確保する必要がある。
「空」
そんなことを考えながら歩いていると不意に名前を呼ばれた。見やれば彼の仲間である少年が呆れた表情を浮かべている。歳の頃は自分と同じで15ほど。見た目は細く優男に見えるが体幹がしっかりしていることはその背負うリュックの大きさから見てわかる。
「外だってのに気を抜き過ぎじゃない?」
「あー、悪い海…………いい天気だったから廃墟が良く見えてな」
名前を呼び返して謝罪する。一瞬の判断の遅れで致命に繋がるのが今の世界の現状なのだから天気云々は言い訳にもなってない。
「そんなんじゃキャスターひっかけて転ぶよ?」
海のその視線の先には空が手で引くスーツケースがあった。改造されたと思わしきそのスーツケースの側面には、何の冗談か刀身が二メートル近くはあろうかという大剣が、取り外しが容易になるよう工夫されたカバーで括りつけられていた。空の身長は年齢にしては高いが172,3といったところでありまともに振るえるような代物ではない。
「そこまで間抜けじゃねえよ」
そう返しながらも空は視線をやや先に向けて地面の状態を確認する。昔はアスファルトで綺麗に舗装されていた地面も今は荒れ放題となっている。アスファルトはところどころ剥がれて段差を作っているし、方々から伸びた草や転がった瓦礫が彩を作っている。スーツケースのキャスターは踏破性を考えて大きめのものに付け替えてあるが、それより大きな瓦礫や段差に引っかかれば当然つんのめることだろう。
「しかし今回の探索はイマイチだったな」
話題を変えるように空は口を開く。
「食料は最初から期待してなかったが物資も少ない」
「この辺りも探し尽くしてきたからしょうがないよ」
「場所の替え時か…………」
その場所もあるかどうか、考えるに空は渋い表情を浮かべた。十年前のサハラ砂漠での女王竜を巡る最終決戦は人類の勝利に終わったと聞いている。けれどそれで残る戦力の大半を失った各国は国土の大幅な縮小を宣言した…………シェルターに収まる僅かな人数を除いてほとんどの国民を見捨てたのだ。
その結果多くの人々がドラゴンの跋扈する世界に庇護もなく放り出された。女王竜は討伐されたが以前将竜は世界各地に存在し、その将竜が上位竜を生み、上位竜が兵竜を生む。
いずれ将竜が寿命を迎えれば連鎖的にドラゴンが滅ぶと甘いことを政府は言っていたらしいが、そんな脆弱な生態の生き物がここまで人類を追い詰めたと考えるのは楽観し過ぎだろうと空は考えている…………まあ、だからと言って自分にどうこうできることではないが。
「手付かずの探索場所となるとやっぱり駅付近になるな…………」
当然だが物資は探索しやすい場所から無くなっていく。生産が止まって十年経っていることを考えれば安全な場所に物資はほぼ残っていない…………残っているのは危険だから人が近寄らない場所だけだ。
「配給まで我慢できないことはないと思うけど」
「…………ちっ」
海の口にした配給という言葉に思わず空は舌打ちする。
「忌々しいがあいつらに頼るしかねえのか」
「どのみち探索場所が枯渇してなくても武器弾薬はどうにもならないしね」
同意する海の声色も苦々しいものだった。
「今の世界でまともに物資を生産できるのは城塞都市の連中だけだから」
「腹立たしいことにな」
城塞都市、その言葉に空は悪態を吐く。それは今の日本に三つだけ存在する大規模な地下シェルターの通称だ。その内部には住居などの生活空間のみならず、食料や様々な物資を生産する施設も備えられている。危険な外に一切出ることなくドラゴンが滅ぶまで生活することができるというのがそのシェルターの触れ込みだった。
地下シェルターでありながら城塞都市と呼ばれているのは、その周辺一帯を高い塀によって囲っているからだ。それは表向き兵竜などを遮るためと言われているが、実際は政府から見捨てられた大多数の国民を寄せ付けないためなのは明らかだ。
だがそれでも施設で生産された物資を定期的に周辺の人々へ配給はしている…………だがそれも。
「あいつらも囮が死に絶えるのは困るんだろうさ」
配給はせめてもの善意ではなくそれが理由だと空は考えている。女王竜の討伐以降ドラゴンの活動は沈静化したが、完全に活動を停止したわけではない。城塞都市以外の人々が死に絶えれば当然獲物を求めたドラゴンたちは城塞都市に殺到する。それを分散するためにほどほどに外の人々にも生き残って欲しいのだと空は邪推していた。
「流石に穿ち過ぎだと思うけどね」
「どうだか」
国民の大半を見捨てる選択をした連中なのだからやりかなねい。
「それでも僕らは頼るしかないんだよ」
「…………わかってる」
感情と現実はまた別のものだ。相手の思惑がどうであれ貰える物を放棄できるほど空達の生活に余裕はない。特に配給でしか補充できない武器弾薬は今の世界で生き残るにはとても重要な物なのだから。
「なあ、西の方の工業地帯で工場を稼働させたって話本当だと思うか?」
「この前来た行商人の人に聞いたやつ? でもあの人も直接見たわけじゃないみたいだし」
噂のまた聞きのまた聞きだと言っていたので真偽のほどは確かじゃない。
「それに僕らだけならともかくみんなで移動は無理だよ」
「…………確認しに行くにもやっぱりあいつをどうにかしないと無理か」
忌々し気に空は先ほど口にした駅のある方向を見やる。
「ドームがまだ使える内に倒す算段を立てたほうが安全かもね」
「だな、そうでなくともそろそろ活動期に入ってもおかしく…………」
「空?」
言葉の途中で止まった彼を海が訝しげに見る。
「…………ああ」
次に彼の見る方角に自身も視線を向けて海は納得したように呟く。
「兵竜」
活動期、その単語を裏付けるように兵竜が五体…………こちらに向かっていた。
◇
兵竜との距離はそれなりにあったので逃げるという選択肢も二人にはあった。ドラゴンの出現から十年以上経ってっていることもありその生態もかなり判明している。兵竜の視力はそれほどでもないが嗅覚は敏感だ。
逆に言えば臭いをごまかすことさえできれば撒くことはそう難しいことではない…………だが今はその時ではないと二人は判断した。危険な獣は確実に排除できるならしておくに限る。
五頭の兵竜は連なるように二人に向かって走って来る。先頭に一匹、それに従うように二匹ずつ左右に走ってくる。
「いつも通りやるから援護よろしく」
「了解」
海の返答を聞くと同時に空は大剣をスーツケースに括り付けているカバーを外す。次いで柄を握るとそれだけでずっしりとした重量を感じた。そのまま体を前に出して腰に持ち手を構えて兵竜の接近を待つ…………十メートル、五メートル。疾駆して迫るそれに対して焦る事無く彼は力を解き放つタイミングを精査する。
「…………ふっ!」
呼気と共に体重を利用して大剣を前へと振り抜く。後方から斜めに振り上げられた大剣は戦闘の兵竜の首筋から入り込んでその首を宙へと舞い上げた…………問題はここからだ。
振り上げた大剣をそのまま振り下ろそうとすれば当然一旦止める必要がある。しかしそれには勢いよく振り上げられた大剣の勢いと重量を全て腕で受け止めなくてはならない。
だが鍛えられていてもまだ年若い空の腕はそれに耐えられるようには傍からは見えない。
「よっ、と!」
振り上げられた大剣を止めることなく空は後方へとぶん廻す。そしてその勢いのまま体ごと回転して大剣を迫る兵竜の二頭目へと水平に振り抜く…………大剣はまともに扱うには重すぎるが、遠心力を利用すればそれを握ったまま砲丸投げのように回り続けることはできる。
後はその回転に相手を巻き込みさえすればその威力を存分に叩き込めるのだ。
くるり、くるり、宙が廻るごとに兵竜の首が飛ぶ。
もちろん回転し続けなくてはいけないというのは空から柔軟な対応を奪っている。回転を止められないということは確実に相手から視界を離すタイミングがあるということだ…………だがその隙を海が埋めている。
その手にしたクロスボウから放たれる矢は的確に兵竜の関節を撃ち抜いてその動きを止めていた。
「さ、い、ご、だっ!」
地面すれすれを擦るように頂点へと大剣を回しあげ、最後の一頭目掛けて振り下ろす。無論それではこれ以上回転させることも出来ず、大剣は兵竜を両断した後は地面へと叩きつけられる…………故にその衝撃が両手に伝わることのないように空は兵竜の頭を二つに割った時点でその手を離した。
ずだんっ
凄まじい轟音と共に目の前で土煙が上がる。空の眼前には頭頂部から首筋の先までを両断されて開きになった兵竜と、地面に突き刺さってそそり立つ大剣の姿。そして思い出したように熱を持った体が汗を掻き、大きな疲労を吐き出すように空は息を吐いた。
「お疲れ」
「おう」
後ろから歩いてきた海に声を返す。
「矢の回収するから空は休んでなよ」
「頼む」
頷いて空はその場に腰を下ろす。クロスボウの矢は銃と違って再利用できるのが利点だ。もちろん深く突き刺さった矢を改修するのは容易ではないし破損もする。しかし物資の補充が容易でない現状において再利用できるものをしないという選択肢はない。
「あー、一応血も取っといてくれ」
「構わないけど…………薬にするなら茜に頼まないとだよ?」
「…………わかってる」
「小言程度で済むといいけどね」
海は肩を竦めながら兵竜の死体へと近づいていく。
「別に俺だって無駄に使うつもりはないのにあいつは煩いんだよ」
「そりゃ乱用するようなら僕だって止めるよ」
話しながら海はナイフを取り出して死体からクロスボウの矢を抉り出す。
「しねえよ」
「まあ、今の戦闘を見る限りは必要なさそうだよね」
兵竜五頭を五分足らずで全滅させているのだし。
「そりゃあいつらくらいならな」
「あの人の腕前に随分近づいたんじゃない?」
「……………師匠には全然遠い」
謙遜でもなく事実だというように空は否定する。
「あの人なら素で上位竜くらいなら殺せるんじゃねえかな」
「あはは、それを否定できないのがあの人の怖いところだよね」
同一の人物を思い浮かべて二人は乾いた笑みを浮かべる。今しがた空の見せた剣術とも呼べない何かは偶々彼らの拠点にやって来た一人の男から教わったものだ。
「今ごろどのあたりにいるんだろうね、あの人」
「まあ、変わらず正義の味方をやってるだろ」
当の昔に瓦解したはずの警察官の格好をした師匠の姿が空の頭に浮かぶ。嫌々やっていたはずなのにめんどくさい先輩のせいで辞められなくなったと本人は言っていた。それが謙遜でもなく本心に見えたのに行動は一貫して正義の味方やってるのだから本当に変わった人だった。
「その大剣も銃弾が手に入りにくくなったからじゃなくてその方が手っ取り早いからだっけ」
「警官時代に自腹で発注して作ったとか言ってたな」
滅茶苦茶な話であるが当人にそれを実現できる才能があったのが恐らく周りにとっても厄介だったことだろう。
「なんかあの人の先輩って人の気持ちが僕はわかりそう」
「…………俺は師匠ほどの無茶はしてないぞ」
「それが正しければ茜も文句は言わないんじゃない?」
「…………」
海の返しに空は無言で返した。
「さ、話してるしてる間にやることは終わったしそろそろ帰ろうか」
それ以上の追及はしないというように海が振り返って空を見やる。
「僕らの家にさ」
「…………そうだな」
頷いて、空も立ち上がった。
都合の悪いことは、とりあえず忘れておこうと考えながら。