2018年3月11日 首都
厳密に言えばそれが目覚めたのはその日ではない。それは人が知る遠い昔に目覚めてその力を蓄えていた…………人がそれに対処できなくなるほどに。
そしてついに満を持して世界にその姿をそれは現わしたのがその日だった。
始まりの日。
それが世界にその姿を現し、人の心に強くその存在を刻み込んだ日。
それは人類の長い戦いが始まった日。
◇
人々の賑わう海沿いの街。時折海風の匂いこそするものの、人の増えすぎたその街には自然とは程遠い高いビルが立ち並んでいる。
その日はちょうど休日だったのか駅前の繁華街は多くの人で賑わっている…………その中で最初にそれに気づいたのはまだ小さな男の子だった。
「おかーさん、おっきな鳥がいるよ?」
空を見上げて呟いた男の子にその母親も空を見上げる。そこには確かに息子の言う通り鳥のように見える大きな黒い影があった…………けれど気づく。まだ知識に乏しい子供と違いそれなりの経験を積んでいた彼女にはそれが鳥でないことがすぐにわかった。
鳥ではない。
鳥にしては大きすぎる。
けれど飛行機のような人工物ではない。
それは生き物のように羽ばたいていた。
「たーくんっ!」
咄嗟に息子を抱き寄せたのは本能的なものだった。それがなんであるかを母親は理解できていない。彼女が知る限りあんな生き物はこの世には存在しないはずだ…………けれど、ただ一つだけわかっていることがあった。
影は、少しずつ大きくなっている…………まるでこちらに迫ってきているように。
「なんだあれっ!?」
「おい、あれって!?」
「やばくないか!?」
今頃になってようやく周囲も騒ぎ出す。けれど息子を強く抱きしめてしゃがみこむ母親にはもはや周りの状況はわからない。きっと真っ先に気づいたその時点で逃げてしまうのが正解だったのだろう。
けれど本能の奥底で感じとったその恐怖は彼女の足から逃げる力を奪い…………ただできるのはせめて我が子を守ろうと抱きしめるだけ。
それに、逃げ出したところで助かったかどうかはわからない。
その数は一つではなく、いよいよその姿が露わになって人々は驚愕にその足を止めてしまう。
ドラゴン
そう呼ばれるものがそこに居た。
「なんだよ、あれ?」
誰かがポツリとつぶやく。理解できるけれど、理解できない。その感情が一瞬の静寂をその場にもたらす…………けれどそんなことは空から舞い降りるそれらには全く関係ない。
長く裂けたその口が大きく開かれてその牙を露わにし
紅蓮の炎が彼らの眼前を覆い尽くした。
◇
人間は大地を歩く生き物だ。いくら文明が発達してもそれは変わらず、多くの人は自らの身体だけでは地面を歩く事しかできない。
しかし例え目の前に脅威が現れたとしても、それが同じ地を歩く存在なら人には対処の方法がいくつもある。逃げることも可能だろうし、素手で立ち向かう事だって不可能ではない…………同じ大地を歩く相手なら人に可能性は残されている。
けれど、だ。相手が空を飛ぶ相手であったならその可能性すらない。人間は武器を持たねば空を飛ぶ生き物には対処できない…………ただ逃げる事すらも難しい。
故にそこで行われていたのは一方的な虐殺だった。
◇
見える範囲の何処かしこからも悲鳴が上がっていた。恐らくその中の誰もが状況を理解できていないだろう…………しかし同時にその全員が同じ事実を共有していた。
逃げなければ死ぬ
それはシンプルで本能を突き動かす事実だった。だがどこをどう逃げれば助かるのかがわからず誰もが方向が定まらず出鱈目に逃げている。追いかけられているのならその反対に逃げるのが普通だ…………けれど相手のその視線が空からのものであれば話は別だ。その視界は自分達の見るそれとは大きく違ってとても幅広く、どの方向へ逃げたとしてもあまり差がない。
「はっ、はぁ…………ぜ、はっ」
青年はその事実にいち早く気付いたから物陰に身を潜めていた。下手に走って逃げるよりも空からの死角になる位置に身を潜めたほうが正解だと思ったのだ。
青年がいるのはシャッターの閉まった商店の僅かに飛び出た壁の隅。雨よけのひさしが飛び出しているから、そこに蹲れば空の上からは完全に死角になるはずだった。
「ふ、ふう、くふっくふう」
口を手で抑えてその息を必死で抑え込む。本来相手は空の上なのだから息を潜める必要はない…………けれど自然と粗くなる呼吸を抑えない方が青年にとっては不安だった。
周りに誰もいないことも彼の不安を大きくしている。だが誰も居なかったからこそ彼はこの場所を選んだのだ…………人がいればいるだけ見つかる危険性は高まる。
恐らく一番の正解はどこかの店の奥にでも潜り込むことだったのだろう。けれどその時の青年の目にはこの場所しか映らなかったし、一度落ち着いてしまった今となっては動く事すらままならなかった。
向こうからこちらが見えないという事はこちらからも相手が見えないのだ…………下手に動いて見つかってしまう事の方が青年には恐ろしかった。
「そ、そうだ! スマホっ!」
ようやく落ち着いたのかその存在を思い出し青年は慌てて取り出す。
「た、助けは…………け、警察?」
しかし警察にどうにかできるのだろうかと青年は疑問に思う。あれに対処できるのはどう考えても軍隊だ…………でも軍隊ってどうやって呼ぶのだろうか? そう考えた時に青年はそもそも携帯のアンテナが圏外になっていることに気づいた。この非常事態だから回線がパンクしてしまっているのだろう…………それともこの付近のアンテナが破壊されたのかもしれない。
しかし青年にはそんなことを考える暇は与えられなかった。
ブワッ
「うわっ!?」
不意に叩きつけられた突風に青年は悲鳴を上げて身を固くする。その拍子にスマホは手から落ちてアスファルトへとぶつかりガチャリと音を立てた。
ドスンッ
そしてその直後に鳴り響いた振動に青年はその身を僅かに浮かせた。何が起こった変わらず青年はさらに身を固くする…………が、すぐにその原因は分かった。開いた青年の視界一杯にその姿が広がって見えたのだ。
「あ、ああ…………ああああああああ」
開いた口が塞がらずに震えるような声だけが喉から漏れる。声を出してはいけないと分かってはいるものの閉じないのだから仕方ない。逃げるという考えすら頭に浮かばなかった。ただひたすらに目の前のその存在から目を離せなかったのだ。
そこにドラゴンがいた。
空を飛んでいた時にははっきりと確信できなかったが、間近で見るとそうとしか表現しようのない存在だった。アジアの龍ではなく西洋のドラゴン。全身を覆う紅い鱗に背中から伸びた蝙蝠のような翼。頭部には二本の角が生え、ワニのように長く大きく裂けた口には鋭い牙が立ち並んでいる。
そして蛇を思わせるような眼がぎょろりと周囲を見渡していた。
「ひ、ひうっ!?」
その目線に気づいて青年はひきつくような声をあげて口に手をやる。反射的に逃げようするがその考えをすぐに振り捨てる…………もしかしたらまだ見つかってはいないかもしれない。だとすればここで動くのは自分から見つかりに行くようなものだ。青年は壁に一体化しろと祈るように全力で身を縮める。
だが、現実はそれほど甘くなく残酷だ。
「ひっ!?」
明らかに青年を捉えた視線。ドラゴンがその体ごと彼へと裂けた口を向ける。その時点で即座に逃げれば望みはあったのかもしれないが、青年は恐怖を乗り越えられなかった。怯えながら壁へとひたすらに体を押し付けることしかできない。
「………………っ!?」
ゆっくりとその巨体と共にドラゴンの顔が迫ってくる。それを見ながら自分も多くの人がそうであったように焼き殺されるのかと青年は怯えた…………だがその考えは間違っていた。
空を駆るドラゴンが最初炎を吐いて人々を襲ったのは、彼らにとっても人が未知の存在であったからだ。それが自身にとって脅威になるものか判断できていなかったからまず最大の攻撃を仕掛けて反応を見た…………その結果は反撃もなく逃げ惑うだけ。それはドラゴンが人を脅威ではないと判断するには充分すぎる内容だった。
ならばここにいるのはもはやドラゴンにとっては獲物だけだ。
だからこそドラゴンは悠々と地に降りた。そこにいる弱者の血肉を喰らう為に。
「ひっ、ひ…………ひぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
硬い物を砕くような音と共に青年の絶叫が響き渡った。
そしてそれと同様の悲鳴が、街の至る所からいくつも鳴り響き始めた。