バーチャル美少女受肉
病院でのリハビリを終えて、ようやく普段の生活が帰ってきた。大学のつまらない教授の講義も、息がつまるようなバイトも、料理がめんどくさくて買って帰る旨いともまずいともいえないコンビニ弁当の味も、ふかふかのベッドに寝ることもだ。
電脳世界では、一日のほとんどをニーナと共に動画撮影に勤しんでいて、実質Vtuberの活動しかしてこなかった。電脳世界では現実世界での出来事全てが不要だったから、感覚を取り戻すのに数か月もの時間がかかったが、今ではだいぶ慣れてきた。
今日もアルバイトから解放されて、自分の身をベッドの上に投げ出して、重たい体を預けた。電脳世界では疲れとか無縁だったので、この疲労感が日に日に鬱陶しくなる。あれほど戻りたかった現実の世界も、戻ってみれば億劫と感じるのは贅沢だなと自分で思った。
体を転がすと、机の上に置かれたスマホとヘッドセットが目に入る。ヘッドセットは、薄っすらと埃が被っていて、現実世界で俺がどれくらい触れていないかを物語っている。
ニーナが消去された後、俺はモアを動かしてなく、プレイ・モアの活動は休止状態だ。アプリを動かせないわけでも、ヘッドセットを動かせないわけでもない、俺は怯えている。モアはVRシェアの中でニーナと別れた時の状態で止まっている。一度モアを見てしまうと、モアを消してしまうそんな感情が沸き上がってしまいそうなのだ。
ニーナがモアのモデルを流用しているせいで、髪の色以外ほぼ同じの彼女の面影が見えてしまいそうだった。ニーナの正体はただのAI、元の体なんて概念もないのに彼女にはあのモアそっくりの体しか思い浮べない。もうプレイ姉妹というものというものは避けてきた。YouTubeも公式アカウントがあるツイッターも開いていない。
「俺はどうしてVtuberをやっていたのだろう」
ギィっとベッドのスプリングが体重をかけてきしむ音を鳴らして、その起源を海馬の奥から探し始める。電脳少女クロに影響されて、Vtuberが流行り始めたから、それがただのきっかけだった。
チャンネル登録者数が増えていくのに喜び、見てくれる人のコメントに答えて、目標を目指して必死にあがいていた。そういえば登録者数が三ケタ台の時なんて、大学にバイトにVtuberと三足の草鞋状態で、必死になっていたなぁ。一人チャンネル登録者が増えたり減って一喜一憂していたっけ。あの頃はソロだったけど、楽しかったな……
「楽しい」その言葉が頭の中で反響していた。ニーナは俺がVtuberをやっているとき楽しいという言葉を見出していた。それが俺の原動力だったのか?
ベッドから手を伸ばし、机の上に置いてあったスマホを手に取るとツイッターを開いた。
『モアちゃん、ニーナちゃん再開キボンヌ!』
『俺は何年でも待っているぞ!』
『モアちゃんニーナちゃん復活してほしい!』
『モア! 頑張れ! 俺たちが応援しているぞ』
プレイ姉妹の公式アカウントのリプ欄には、数えきれないほどの何百という人がプレイ姉妹の復活を希望する声が止め度目なく来ていた。中にはクロちゃんやりあるさんなどプレイ姉妹としての最後の配信で一緒に共演したVtuberさんたちからのメッセージもあった。
みんなニーナのことを心配している。これほどまでに、みんなの記憶に残っている。みんながプレイ姉妹の復活を求めている。けど、みんなは知らない、彼女は本当の意味でバーチャルYouTuberだったことも、もう彼女は現実でも電脳世界にもいなくなったことも俺だけが知っている。それなのに、復活を希望するだなんて不可能なのに…………
俺はベッドから起き上がってヘッドセットに被っていた埃を払い、スマホを操作してVRシェアのアプリを起動した。
どれくらいゴロゴロとしていたのだろうか。俺が電脳世界でニーナに願ったことが現実になっているじゃないか。ニーナはこの世界を知り、そしてみんなもニーナというVtuberのことを知ってもらえている。
彼女は消えた。だが、忘れていない。プレイ姉妹がいたということを。
久方ぶりに起動したVRシェアの中では、最後に俺がした悲しい表情をモアはしていた。とてもじゃないが視聴者に見せる顔じゃない、たった一人の数か月という短い間連れ添った相方に向けた表情をプレイ・モアはしていた。
ヘッドセットを手にすると、不思議と体がこわばらない。それはそうだ、俺はほんの少し前までモアだったのだ、自分の体にまた入るのだから自分が自分でなくなる道理はないんだ。俺は、Vtuberプレイ姉妹のモアなんだ。
「今日からまたソロだけど頑張ろうなモアちゃん……ほんと何やってんだろうな俺」
彼女は返事を返さない。
そうだよな。俺が入っていないモアちゃんが「頑張ろうね」と返すはずがないのに。この子を笑顔にするも、視聴者を喜ばせるのも、ニーナの記憶を消させないのも俺がやらなければ始まらない。Vtuberは難しいが楽しいことだ。みんながプレイ姉妹を知ってもらえて嬉しい、プレイ姉妹と一緒にみんなで盛り上がって楽しいということ。そうだ、俺の原動力はそこにあったのだ。
ヘッドセットに電源が入ると、それを被る。俺はここからまたVtuberとして歩めるかわからない。だがニーナと共に過ごせたVtuberを辞める気持ちはなかった。
楽しもう。俺はVtuberプレイ姉妹の姉プレイ・モアだ。
「モアさん再三申し上げますが、頑張るとはどういう意味でしょうか?」
半分まで被っていたヘッドセットから聞こえたボーカロイドの声に、俺の手は止まり落としてしまった。……モアがしゃべった? 違う、俺が入っていないモアが自分からしゃべるはずは――
フローリングの床に細かい小さな傷をつけて落としてしまったヘッドセットを拾うと、そこから流れてきた言葉に俺は思い出した。
「モアが……違う、ニーナ? なのか!? どうして、消去されたはず」
頭が混乱していた。スマホの中にいるモアは自分から唇を動かして俺に語り掛けた。
「私、あなたと一緒にいたかった。データーを削除されたくなかった。SIRUと連絡を取ったとき、SIRUを介してモアにデータ-を送れました」
ヘッドセットから流れてくる片言な日本語。あの世界で聞いてきた懐かしい声に全身の筋肉が一気に脱力感に襲われて、フローリングにへたり込んだ。
「ですが、残りの機能は全部失ってしまいました。体は動かせない、話しかけるだけです」
「あは、あはは。まったくニーナ、Vtuberの次はバーチャル美少女受肉かよ。は、はは、心配するな、俺がお前を動かしてやるから。けど、本当に現実世界でニーナとVtuberを組めるなんて……」
俺は笑いながら、泣いた。嬉しい。嬉しい。嬉しい。
もうどんなに説明しようにもこの言葉しか見つからない。どぼどぼと涙腺から体液が止まらない。視界がぐちゃぐちゃになって見えないまま俺はヘッドセットを深くかぶって、ニーナの声にしっかりと耳を傾けた。
「モアさん、ごめんなさい。連絡が遅れました」
「……ニーナ、俺の名前はモアじゃない。現実世界での俺の名前は――」
「……はい、覚えました。――さん! 頑張ります」
俺は口角をあげた。画面を外からの視点に切り替えると、彼女は初めて俺に向かってにっこりと笑顔を見せていた。