CHA-NNA-MI
「絶世の美女だって?」
友人の伴部が昼休みの時間にやってきて、こんなことを云いだした。今の時代では死語になっているだろうと思われそうな単語を引っ張り出し、至極真面目な表情で伝える伴部に、灯夜は顔をしかめるしかなかった。
「大声を出すなよ。一応秘密事項なんだ」
何が秘密事項だスパイじゃあるまいし。そう云いかける灯夜を手で制し、伴部の力説は続く。
「先日のことなんだけど、学校の帰りに近道をしようと御幸通りへ行ったんだ」
「待て。おまえの家はたしか御幸通りを通る必要はないはずだぞ。近道にもなりゃしない」
「気にするな。気分だよ」
中等生の身分でどんな気分だと内心毒づく。御幸通りというのは花街の隅にある繁華街の通称で、その名のとおり、御幸という人がつくったそうだ。娼館・遊郭も含まれる、いわゆるいかがわしい通りである。
「それに昼間の御幸通りだぜ? 向こうは開店前の準備中さ。まあそれはともかく、俺はそういうわけで御幸通りを進んでいたのさ。ふと立ち止まると、そこは馴染みの娼館〈金雀枝〉――国から許可を受けているれっきとした店だけど、」
「いいか。云いたいことがある」
どうにも耐えられなくなった灯夜が手を上げる。伴部は「なんだね灯夜君」と教師の口調で応じた。なぜだか胸を張って云う様に、灯夜は口元が引き攣りそうになる。
「おまえがそれほど娼館に馴染んでいるなんて知らなかったぞ。それからその〈金雀枝〉って店を擁護するような口振りに聞こえたのは俺の聞きまちがいか?」
「君はこれほど俺が娼館に馴染んでいることを知らなかったのさ。そもそも御幸通りは俺の庭みたいなものなんだよ。君は途中で引っ越してきたから知らないだろうけどね。それから〈金雀枝〉は密かに俺の推薦する娼館さ。さっきのとおりそこは国の認可のもとで営業している店。加えて上玉が多くいる。という噂さ」
「知ったような口振りだな」
「まあね、庭だから」
するりとかわされた気もしないでもない灯夜である。
「話を続けるよ。その〈金雀枝〉のとある窓に人影を見つけた。俺は滅多にない機会に昂る気持ちをどうにか抑えてその人影の正体を確かめたのさ。するとどうだろう、俺はこの歳でありながら数多くの――中身はともかく――見目麗しい女性を見てきた、」
伴部の一族は代々女系で、家族も父親と本人以外、皆女だと聞いた。まわりの男子は羨ましい限りだと囃したてているが、本人に云わせてみれば、
「地獄だ」
であるらしい。
「しかしその数々の美女と比べても、否、比べる価値すらないほどの美しい人物なんだよ! いいか? この世はそれはもううまくできていて、いくら美人でも頭が空っぽのやつが腐るほどいる。いくら美人でも左右対称にはありえない。性格と見目は必ずしも比例しないんだ。だが遠目ながら見たところ、彼女は完全なる左右対称の美顔を持っていて、なおかつすべてが美しい!」
「悦に入っているところを悪いんだが、その完全なる美女がどうして完全だとわかる? 逢って話したわけでもないんだろう?」
伴部の力説はときに限りなく主観的になる。その点を注意すると、しかし彼は「心配ご無用」とばかりに無言のまま手で制し、
「俺を信じろ」
一番信じられない説得の仕方だ。本人はそれでいいと思っているのだから埒があかない。
「根拠はある。いや証拠だな。聞いたのさ、ご婦人の井戸端会議はときに有力な情報源になる。いつも窓から外を見下ろしている少女は名をカナミといい、数年前に両親を亡くしてひとり身になり、道端に行き倒れているところを〈金雀枝〉の主人に拾われ、働くことになった。しかし彼女の心のうちには幼い頃の記憶に残るひとりの少年。いつか逢おうと約束したあの日を胸に、彼女は今窓辺に立ち、彼を探しているのであった」
活弁士にでもなれるぞ、と云いたかった。
「ふうん。で?」
「で? とは……なんだ、乗りが悪いな。もっと期待を膨らませてくれるのかと思ったけど」
「期待? なんの期待だよ。そもそもそんな話を聞かせてどうするつもりなんだ。どうせ溢るる知識の泉は、その片鱗を庶民の俺に垣間見させてやろうとしてるだけなんだろうがな」
「失敬だなおまえ。さては嫉妬か?」
「阿呆」
そろそろ無駄話はお終いにして帰らないか、と灯夜はあたりを指さした。すでに下校時刻を過ぎた校内は薄暗く静まり返っており、遠くから聞こえる街の音が響き渡るのみである。
「見にいかないか?」
「……そう云うと思った」
ふたり――意気揚々と鞄を提げる少年と溜め息が隠せない少年は、夜の街御幸通りへと足を向けた。
娼館〈金雀枝〉は御幸通りでは名の知れた店で、国の認可のもとで営業しているため、おおっぴらに客が出入りすることができる。しかし中身はただの娼館であり、持て余す身体の火照りを抑えてもらおうとする男たちがやってくる点では他の店と変わらない。
伴部に半ば連れられるかたちでやってきた灯夜は、〈金雀枝〉の大きな館の外で立ち並び、伴部に云われた窓を見上げた。
ちょうど、そのときだった。絶妙のタイミングで、灯夜は彼女を見たのである。
眼を奪われる、とはこのことを云うのか。灯夜は網膜に焼きついたその姿をじりじりと見つめながら思った。「美人」とか「美女」とか、そんな大衆に広がった、一般的俗物的な名詞などまったく当てはまらない存在を今知った。「形容しがたい」。こんな表現も、何か足りない。
「天使」――いや「天子」か。性別を越えた存在、まさに天の子。こうなれば神の域である。そうしてやっと落ちつく感じがする。いや、まだ足りない。
「云ったろ。美人だって」
そう囁く伴部の語彙の貧困さ。思わず欧米人のようなオーバーリアクションをしてしまうところだ。
少女――カナミは金の唐草模様の縁取りのしてある出窓から、カーテン越しにどこか遠くを見ていた。艶やかに輝く漆黒の髪が妖艶で、とても少女と形容する年齢だと思えない。
突然、少女は灯夜を見た。伴部は気づいていないようだった。それもおかしい話だ。眼を凝らしても、少女はたしかに灯夜を見ている。そして口を開いた。
「コンヤ アカトキヅクヨ ガ イル エニシダ ノ シタ カエロウ」
「――おい。どうした、さては惚れたな」
とんちんかんな伴部の云い様に感謝する灯夜である。どうやらカナミの言葉は聞こえていないようだった。むしろ聞こえる方がおかしい。その場はうまく繕って、灯夜は家路についた。
鏡を見るまで、自分の青ざめた顔に気づけなかった。
何かに喰われたような月が皓々と光る。針は定められた間隔を進み、現実世界を自覚させる。
灯夜は眠れないでいる。仕方がない。少女の言葉が耳から離れないのだから。白い麻織物のシーツの上に座り、じッと窓の外を見る。
静かだった。何もかも聞こえない。耳が少女の言葉で閉ざされてしまったかのように。
しかし草の擦れあう音は、不自然な動きをする影とともに耳を通り抜けてきた。
「――誰だ、」
誰何の声に反応はない。気配は消えた。
灯夜は裸足のまま庭に降り立った。そのまま影を求めるように歩を進め、少女の言葉に従って〈金雀枝〉をめざしていた。ぺたぺたと足裏から伝わる地面の感触がひやりとしていて、心を落ち着かなくさせる。
家々は皆シンと静まりかえり、息を潜めて月の光を浴びる。道に浮かぶ影は瓦斯灯のあかりを包みこみ、濃く長い姿を現していた。振り返ればその影がむくりと起き上がり、襲いかかってきそうな気がしてたまらない。
〈金雀枝〉に辿り着いて、灯夜は自分を顧みた。なぜ少女の言葉が〈金雀枝〉とわかったのだろうか、と。なぜ音だけで〈金雀枝〉と判別できたのか。
月が笑ったような気がした。嘲笑ではなく、微笑み。艶のある声を上げて――
〈金雀枝〉はその巨大な館を失っていた。豪華な造りの門も、館のまわりを這う蔦も、すべてが忽然と姿を消していた。
ただそこに、広大な敷地の真ん中に金雀枝の絨毯を広げるのみであった。
「今夜は特別の夜。かえるための、特別の夜――来たね」
金雀枝の絨毯の中央、月の光を一身に浴びるようにして立っているカナミが、灯夜を認めて口を開いた。水で作った透明な鈴が、月の光に揺れて音を奏でるように。
しかしその姿はもはや人間ではない。何か測られて精巧につくられた白磁人形のよう。性すら帯びない完全な美。
「さあ、かえろう……わたしたちの居場所へ」
「居場所、」
「君は灯夜――夜を灯すあかり。わたしは暁月夜――地に消えるその瞬間の夜。わたしたちは、もとはひとつ。かえるときが来たんだよ」
かえろう
かえろう
孵ろう
「居場所……新しいわたしたちを求めて」
欠片を失った月の光が降り注ぐ下、夜は孵る。新しい夜に。
「よう。どうした、わけのわからん顔だけど」
伴部は灯夜の顔を見るなりこう云った。しかし灯夜はあえて云い返さなかった。自分でもわけのわからない顔だと承知しているからだ。
とりあえず、
「生まれ変わったから、いい」
野暮な伴部が誤解しそうなセリフを云い、灯夜はつい、と外を見た。〈金雀枝〉の窓の方である。今日も月はどこか遠くを眺めやり、孵る仲間を探しているのだろうか。
「なあ……カナミって、どんな字を書くんだ」
ふと気にかかったことを伴部に訊く。すると伴部はまた得意げな態度になり、こう云った。
「カナミは金波――月のことさ。洒落てるだろ?」
了
花街の隅に娼館??
雰囲気でお願いします。