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6:思い出のまま、誰にも触れさせないままに

 クロエの婚約者である隣国の姫が起居しているのは、クロエが幼少の頃、母と過ごした思い出の離宮だった。


 幼い頃のクロエの記憶は、ほとんどが母親で占められている。

 父の関心が母の異なる姉と兄に注がれていることは、幼いクロエにもはっきりと分かった。それほどに、父の異母姉兄への溺愛ぶりは顕著で、母マリアンヌはクロエを顧みない父の分まで補うように、それこそあふれるほどの愛情を、幼いクロエに注いでくれた。

 今でこそ、先妃の皇子(リオラント)を嫌い、遠ざけ、それを隠そうともしない母との関係はぎくしゃくしているが、それでもクロエにとって、母は特別な存在だ。なにがあっても無条件に自分を愛してくれると信じられる、唯一の存在と言っていい。だからこそ、屈託なく母と過ごした幼い日々は大切な思い出で──我ながら子供じみた感傷と思い、他言したことはないが。

 言葉にしない分、感情は深く、時に捻じれる。

 思い出の離宮は思い出のまま、誰にも触れさせないままにしておきたかった。

 だから、婚儀が伸びたことによって客分として扱われることになった姫の滞在先にこの離宮が選ばれたことも、彼の苛立ちを誘ったのだ。


 その離宮で彼らを出迎えた女官長の対応に、クロエの苛立ちはさらに募った。


 離宮に配されている女官たちを束ねているのはハミル夫人──クロエも顔を見知っている、かつて彼の母、皇后マリアンヌに仕えていたこともある女性だ。

 気位の高い貴族の夫人で、血統を重んじ、優雅さこそ高貴な女性の最も重要な教養と信じて疑わない女性で、いかに血筋が正しかろうとその所作に気品や優雅さが見られない相手は容赦なく見下していたし、逆に、どれほど優雅に振る舞おうとも身分の低い相手は歯牙にもかけなかった。

 クロエには矛盾していると思えたその態度は本人の中では矛盾なく同居しているのだろう。その性分は、クロエの知る限り変わることなく、今に至っている。

 下級貴族出身の母を持つ第一皇子(リオラント)に対してもその態度は一貫していて、兄と自分に対する態度の違いが子供心にも不快で、クロエは彼女が苦手だった。──今でも苦手だ。


 ハミル夫人はクロエとセドリックの訪問に驚きを隠さなかった。それに関しては、訪問に際して使者を立てなかった二人の落ち度なので仕方ないが、それにしても彼女の態度は慇懃無礼を絵に描いたようだった。

 貴人に対して、訪問の際には使者を立て、訪問の意思と時間を伝え相手の許諾を得るのがマナーであり、マナー違反を犯したのはクロエ側ではあるが、クロエはこの国の皇子で、この離宮に滞在している姫はクロエの婚約者だ。予告なしの訪問とはいえ、客間に案内される間ずっと、くどくどと厭味を言われるほどのことだろうかと、つい反発してしまう。


 客間に通され、これでハミル夫人の厭味攻勢から解放されると思ったのも束の間、彼女は部屋を辞する気配もなく、どうやら姫の支度が整うまでクロエたちの相手を務めるつもりのようだ。

 放っておいてくれるほうがいいのにとクロエが思っていると、控えめなノックとともに異国の女が入ってきた。

 一瞬、かの姫かと思ったが、茶器を揃えた盆を手にしているところを見ると、リスティニカ姫が祖国より連れて来たという侍女のひとりなのだろう。よくよく見れば、歳もクロエと変わらないくらいだ。

 袖と裾の広がった衣を重ね幅広の帯で縛るランスフォードの衣装に身を包んだ黒髪の女は、盆を卓に置くと二人に一礼し、用意してきた茶器に手を伸ばした。


 給仕する侍女に視線すら向けず、ハミル夫人はセドリックとの会話を続けている。

「本当に、お待たせして申し訳なく存じます」

 まったく申し訳なく思っていなさそうな声音で言う夫人に、

「いえいえ、知らせもよこさぬまま訪ねたこちらが無作法だったのですから。ご婦人の支度は時間のかかるものですし、待たされることは致し方ないと思っておりますよ」

 セドリックは殊勝に対応する。そんなセドリックに、ハミル夫人は冷たく微笑んだ。

「支度に時間がかかっているだけならよいのですが」

 その冷ややかな口調からするに、彼女の厭味はクロエらにだけ向けられたものではなく、彼女が仕えている姫君にも向けられているようだ。


 エクスダリアとランスフォードは国境を接する隣国だが、その風俗文化は随分と異なると聞く。王家の姫であるリスティニカ姫の所作がその立場に相応しいものだとしても、ランスフォード式の所作はハミル夫人の眼鏡には適わなかったのかもしれない。

 だからといって、一国の姫君、それも自国の皇子の婚約者を見下すような言動を、婚約者たる皇子の前で見せるというのは、クロエにしてみれば品がいいとは言い難いのだが。そのあたり、ハミル夫人の感性は異なるのだろう。


「姫君は、ここのところ図書室がお気に入りのようで。今日など、朝から籠ったきり出ていらっしゃらないのです。このような折ですから社交のお誘いもないとは言え、年頃の姫君としてそのような過ごされ方はいかがなものかと、私などは思うのですが」

 あまりに明け透けな厭味に、聞いていたセドリックのほうがぎょっとした顔をした。

「ハミル夫人、そのような言い方は──」

 給仕の侍女を窺いながら諫めるセドリックに、しかしハミル夫人は意に介した風もなく、侍女のほうを見もしない。

「問題ありませんわ。あれはエクス語を解しませんから」


 そんな風に言うハミル夫人に、クロエは僅かに顔を顰めた。

 いくら言葉を解しないからと言って、姫君に仕える侍女の目の前で主のことを悪し様に評することの、どこが問題ないというのか。しかも、他者の侍女を〝あれ〟呼ばわりとは。

 姫君に明らかな非があるというのならともかく、ハミル夫人の口ぶりを聞く限りではそうとも思えない。

 読書は貴婦人の嗜みのひとつでもある。社交の誘いを断って図書室に籠っているというのなら話は変わってくるが、そうでないことはハミル夫人自身の口から語られている。

 要するに、単に彼女の美意識に適わないだけなのだろうに、自分の価値観と異なるからと相手を悪し様に貶めることは、彼女の標榜する〝貴婦人としての優雅な所作〟に恥じるところはないのだろうか。


 というようなことを言ってやりたいと思っただけで、実際にはクロエは口を噤んでいた。

 ハミル夫人のほうも、そんなクロエの性状を理解しているからこそのこの所業なのだろう。場合によっては他国の王族への不敬として咎められかねない行為だが、クロエがこの場で彼女の言動を咎めることなどないと、高を括っているのだ。

 実際、クロエは宮城の人間との摩擦を極端に回避する傾向がある。

 ハミル夫人の言動ははっきり言って不快だが、言っても無駄だという諦めが先に立つ。ハミル夫人と言い合っても不毛なだけで、徒労に終わることは過去に経験済みだ。

 そうした諦めが、ハミル夫人のような人々にクロエを侮らせる要因のひとつともなっていることは理解しているが、労力を費やしてまでどうにかしようとは、クロエは思わない。

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