2:顔も知らない花嫁の到着を、心待ちには
「なにをしているんだい、クロエ」
離宮の自室から無為に庭を眺めていたクロエは、背後からかけられた声に視線を向けた。
部屋の入口に立っているのは、彼の異母兄、エクスダリア帝国第一皇子、リオラント。クロエにとってあまり居心地のよくない宮城の中で、数少ない心を許せる相手だ。
「兄上」
「随分と黄昏ているね。二日後に婚姻式を控えている花婿が」
すでに妻を迎えている兄の笑顔を見やりながら、クロエは思った。婚姻式の前夜、兄はどんな気分だったのだろうか、と。
一般的には、期待と不安が綯い交ぜに高まるのだろうが、残念ながらその一般論は、クロエには当てはまらない。
なんと言っても、クロエの花嫁は、会ったこともない隣国の姫だ。肖像画でしか顔を知らない、性格も気性も知らない相手との婚姻を目前にして、どんな感慨を抱けと言うのか。
クロエの表情からその内心を読んだのだろう、リオラントは苦笑を零した。
「そんな顔をするのじゃないよ、クロエ。君とかの姫との婚姻は、我が帝国にとっても有益なものだ。それは分かっているだろう?」
そのことに関しては、婚姻が決まるまでに散々──それこそ周囲によってたかって説明された。
ランスフォードは小国ながら、豊富な自然資源と呪術を有し、その保有戦力も決して侮れない。二十年前の戦役の後、停戦協定が結ばれてはいるが、今も一定の緊張状態が続いている隣国であり、同時に重要な取引相手国でもある。
ランスフォード産出の自然資源、その取引を止められれば、エクスダリアは少なからず打撃を受ける。彼我の国力、軍事力を鑑みれば、ランスフォードがエクスダリアに剣を向けることは考えにくいが、敵に回ろうと構わないと、捨て置くには危険な相手だ。
二十年前、王都攻防に限ってのこととはいえエクスダリア軍の猛攻を凌ぎきったランスフォードの底力と、王都を攻め落とせなかった記憶は、いまだ当時を知る軍関係者はもとより廷臣たちにも、苦いものとして刻まれている。
休戦時に結ばれたままの停戦協定を友好条約へと進め、後顧の憂いを払拭すべきというのが、現状のエクスダリアの総意だ。
アルドゥール大陸と海峡を隔てる北のルデア大陸の王国が、温暖な南の地を求めて南下を企てているという情報もある。ランスフォードがその王国に取り込まれエクスダリアに剣を向けるなら、それはエクスダリアにとって脅威となるだろう。逆に、同盟を結べれば北の大陸への牽制の剣となる。
だからこそランスフォードを平和裏に取り込もうという算段であり、そのためには、王族同士の婚姻というのは常套手段。国同士の結びつきと友好を示す、最も分かりやすい手だ。
ランスフォードにすれば姫を人質同然に差し出す心地かもしれないが、エクスダリアとしては皇子の妃としてきちんと遇するつもりでいる。
エクスダリアは当面、ランスフォードと事を構えるつもりはなく、むしろ手を握り合っていたいのだから。
「敵対とまでは言わずとも、緊張関係にある国に嫁いでくるんだ。姫はさぞ心細く思っていることだろう。花婿のお前がそんな顔で出迎えては、姫の不安をなおいっそう煽ろうというもの。エクスダリアはランスフォードの姫を正当に遇するという態度を、お前が示さなければならないのだよ」
「それは分かっています。妃として不遇に扱うつもりはありませんよ。しかし、顔も知らない花嫁の到着を、心待ちにはできません」
そこが、クロエとリオラントとの違いだ。
リオラントの妻はエクスダリアの貴族の出で、現宰相の娘だ。婚約の前からその姿は夜会で知られていたし、互いに面識もあっただろう。『宰相家の薔薇』とも称された娘を娶るのだ、リオラントは婚姻を心待ちにもできたろうが、クロエの場合はそんな感覚とは無縁だ。
なにしろ、会ったこともない、言葉を交わしたこともない(そもそも言葉の違う異国から嫁いでくる相手だ、言葉が通じるのかというところから心配しなければならない)、顔も知らない相手と婚姻を結び、妃として正当に遇さなければならないのだ。
確かにエクスダリアにとって重要な婚姻ではあるのだろうが、クロエにとっては憂鬱なばかり。
「肖像画が贈られてきただろう? 私も見させてもらったが、なかなか美しい姫君じゃないか」
リオラントのおっとりとしたとりなしに、しかしクロエはいっそう表情を苦くした。
国境をまたいだ王族同士の婚姻では、互いに顔を合わせる見合いは難しい。特に、微妙な関係の両国では。
代わりに交わされるのが肖像画で、互いに己の肖像画を贈り、相手の肖像画を見て、婚約を交わすのが常道とされている。
贈られてきた肖像画に描かれていたのは、異国情緒たっぷりの美しい姫だった。エクスダリアでは見ることのない異国の衣装に身を包み、長い黒髪を背に流した、幼いながらも気品漂う姫君。
あの肖像画だけで判断するならば、相手の容姿に文句はない。漆黒の髪と瞳はエクスダリアではまず見ない色彩で、いかにも異国人然としているが、そこにさえ目を瞑れば確かに「美しい」と表現できる容姿の姫だった。
しかし、肖像画は所詮、肖像画。クロエも相手に贈った自身の肖像画を見たが、二割増し程度に描かれていると感じた。相手の肖像画で同じ現象が起きていないと、誰に言えるだろう。
言葉としては反論せず、しかし表情で雄弁に不満を語る異母弟に、リオラントは「仕方ないな」と言うように嘆息し、言葉を継いだ。
「クロエ、君の不満も分からないじゃないけれどね。君はエクスダリアの皇子で、そうである以上、責務を負わねばならない。ランスフォードの姫との婚姻は、まさにそれだ。君はエクスダリア皇家の皇子として、ランスフォードの王女を妃とし、たとえ相手を愛せなくとも、夫婦として両国に新たに結ばれた絆を、示し続けなければならないのだよ」
「……分かっています、兄上。大丈夫、姫を迎える時には笑ってみせますよ」
血筋だけは正しいお飾りの第二皇子。宮廷で自分がそう呼ばれていることは知っている。その評価を不当とも思わない。
自分は第二皇子として、異母兄であるリオラントの邪魔にならないように、息を潜めていなければならない。母や、野心ある廷臣たちが、自分を担ぎ出さないように。
いずれ帝位を継ぐリオラントの、その治世の役に立てないならばせめて、邪魔にならぬように。
ランスフォードの姫との婚姻が、エクスダリアのためであり、いずれ訪れるリオラントの治世の役に立つのなら、会ったこともない異国の姫を、花嫁として笑顔で迎えることくらいしてみせる。
帝位への野心がないことを示すため、政治への無関心を貫かねばならない自分には、それくらいしかできないのだから。
クロエが帝国の皇子としては卑屈な決意を固めたところで、廊下に響く足音が聞こえた。
離宮とはいえエクスダリア帝国宮城の内、皇族の住まいでそんな無作法を働く使用人はいない。そもそもその足音には、逼迫したなにかが感じられた。
何事かと二人して視線を向けた先で、開け放されたままだった扉をノックするのももどかしげに、人影が室内を覗いた。
「クロエ殿下!──リオラント殿下もおいででしたか」
息せき切って顔を見せたのは、宰相家の息子、セドリックだ。クロエにとっては幼馴染と言っていい間柄だが、そのセドリックがいつになく青い顔で、どこからどう駆けつけたのか上がった息を整えることもなく、言葉を継いだ。
「リオラント殿下、クロエ殿下、急ぎ宮城にお越しください。──皇帝陛下がお倒れになったそうです」