17:かの国から敬愛すべき姫を奪ってしまった
国と民の安寧を願い、そのためにかつて剣を向けてきた国の花嫁となることさえ厭わない。そんな彼女の統治がもしも叶ったならば、それは民にとって幸いとなっただろう。玉座につくことがなかったとしても、彼女の存在は、王家を支え国を支えたに違いない。
それを思えば、自分たちはかの国から敬愛すべき姫を奪ってしまったのかもしれないと、僅かな後ろめたさにセドリックは表情を翳らせた。
「貴女をエクスダリアに奪ったと、今頃彼らは、僕たちを恨んでいるでしょうね」
軽口は彼が意図したほどには軽くなく、その声音も苦かった。
その、いずれ帝国の宰相となる青年の甘すぎる感傷に、リスティニカは複雑な微笑を返した。
苦笑に似た、けれど少しだけ、寂しげな笑みを。
「わたくしが慕われていたのは、多分に貴妃様の御威光のせいです」
「貴妃というと、姫のご生母の」
「ええ。貴妃様は二十年前のエクスダリア抗戦の折、自ら剣を取り前線に立たれたお方。その姿で兵と民を鼓舞されたと聞いております。ヴェルディッド家の姫巫女としても貴妃としても、それは民に慕われていたと。わたくしなど、その娘というだけで」
自嘲を含んだリスティニカの言葉に、セドリックは眉根を寄せた。
それまで凛とした矜持を貫いてきた彼女に似つかわしくない卑屈とも取れる言いように加え、自らの母を語るものとは思えない他人行儀な物言いを訝しく思う。
リスティニカの生母であるシュリアーナ貴妃についての逸話は、エクスダリアまで聞こえている。
エクスダリア・ランスフォード交戦の折、女の身でありながら剣を取り、兵を率いた、ランスフォードの名門家の姫。エクスダリアの大軍から祖国を守り抜いた救国の戦乙女と呼ばれ、その功績と美しさを見初めた王に乞われ、戦役の後には後宮に入り貴妃となった。
姫を産んで後、身罷られたそうだが、死してなお──或いはよりいっそう、民の敬愛を集めていると聞く。
あまりにも人々に愛される母を持つことは、その子供にとっては辛いものがあるのかもしれない。
しかしそれにしても、その時リスティニカが見せた表情は、母を慕う娘のそれではなかったように、セドリックには思えた。
羨望でも思慕でもなく、彼女の表情に垣間見えたのは、明確な彼我の隔たり。まるで、決して手の届かない、遠く隔たった相手を見るような、諦念にも似た色を宿した瞳。その表情も、声音も、言葉遣いからさえ、貴妃への敬意は感じられても、母であるはずのその女性への親しみが、感じられない。
いや、親愛の情が見られないのではなく──そう、それはまるで、臣下が君主に対するような──
(馬鹿な。リスティニカ姫が、実の母君に対して臣下の礼をとるなど)
そんな必要がどこにある。側室の娘でも、リスティニカはれっきとした『王家の姫』だ。たとえ義母たる皇后に対してさえ、君臣の礼をとる必要はない。まして、実母に対して。
しかし、リスティニカが自らの母に対してなにかしらの隔意を抱いているのは、確かなようだ。或いはそれは、確執と呼ぶようなものではなく、幼い頃に亡くした母への屈折した感情なのかもしれない。
「シュリアーナ貴妃の名は、エクスダリアにも聞こえています。貴女は、その娘に恥じぬ姫君だと思いますよ? そう、貴女ならば善き王となったと、僕は思います」
慰めでも世辞でもなく、セドリックはそう言った。少なくともセドリックは、リスティニカの治世を見てみたいと、本心から思ったのだ。それが決して叶わないことだからこそ、だとしても。
しかし、それに対してリスティニカは、喜ぶでも照れるでもなく、ただ寂しげに頭を振った。
「わたくしがかの国の玉座につくことは、決してなかったでしょう。それは、わたくしが他国に嫁がず、国に残っていたとしても」
「なぜです?」
「后妃様にはお二人、お子様がいらっしゃいます。継承順位もわたくしより上ですし、后妃様の薫陶を受け、お二人とも玉座に相応しいお人柄です。わたくしの出る幕などございませんわ」
リスティニカの口調は穏やかで、含みを持たせるようなものではなかった。だからこそ、セドリックの胸には疑念が波紋を刻んだ。
彼女の口調は、義母と、腹違いとはいえ兄姉に対して、あまりに丁寧で、仰々しい。はっきり言って他人行儀だ。
一夫一婦制のエクスダリアでは嫡出子と庶子を明確に区別するし、国教が婚姻関係にない男女が通じることを禁じていることもあり、表向き庶子の存在自体が認められていない。当然、庶子に相続権はない。
しかし、ランスフォードでは王族や貴族が複数の妻を持つことは認められていて、その子供にも相続権が認められている。リスティニカの生母は正室ではないが、『貴妃』という位を与えられたれっきとした〝王の妻〟であり、その娘であるリスティニカの立場は、正室である后妃の産んだ子供と変わらない、正式な〝王家の姫〟だ。
なのに彼女は、異母兄や異母姉に対して、或いは義母である后妃に対して、必要以上と思えるほどへりくだった言葉遣いで語る。彼女自身が、そこに明確な線を引いているように。
そんなふうに考えて、セドリックは気づいた。
彼女が線を引いているのは、后妃や異母兄姉に対してだけではない。実母であるはずのシュリアーナ貴妃に対してもだ。
彼女は、后妃や異母兄姉に対してというよりも、王家、或いはそこに属する者に対して、明らかに一線を画している。しかもそれは、『壁』というよりは『崖』だ。彼女は崖下に立ち、その上にいる者たちを見るように、后妃を、異母兄姉を、貴妃を語る。
何故? 彼女とて、間違いなく王家のひとりであるはずなのに。