15:婚約者殿が退屈されることのないようにお相手を
リスティニカに焚きつけられたクロエが覚悟を決めた、その翌日。セドリックはひとりでリスティニカの離宮を訪ねた。
「今日はおひとりなのですね」と、ハミル夫人とリスティニカとに、まったく同じせりふながら正反対の対応を受け、客間の椅子に腰を下ろす。
「まずはご報告を。クロエ殿下は今頃、朝議に出席しておいでです。──貴女のおかげですよ」
「お覚悟なされ、行動されたのはクロエ殿下ですわ。わたくしはなにも」
「ご謙遜を。分かっていても踏み出せなかったものを、その背を押したのは貴女ですよ。貴女の言葉がなければ、殿下が動かれることはなかった」
そう言って目礼するセドリックに、リスティニカはゆるりと頭を振った。
「殿下の背を押されたのは、セドリック様ですわ。セドリック様の助けは、殿下にとってお心強いでしょう。──それに、このままではいけないと、殿下は分かっておいででしたわ。わたくしがなにも言わずとも、いずれは行動なされたでしょう」
その穏やかな声音と微笑に、リスティニカのクロエへ寄せる感情が垣間見えた。
婚約が結ばれた経緯が政略であり、相手の顔も人柄も知らぬまま進められた話であったのは、リスティニカにとっても同じ。当初、クロエがその婚姻を疎んじたように、彼女もまた、異国人の婚約者を厭ってもおかしくなかったのだろうが──少なくとも今は、リスティニカはクロエに対して、好ましい感情を抱いているように思われた。
そのことに、セドリックは安堵を覚えた。
政略であっても、或いはだからこそ、互いが互いに好ましい感情を持てるのは喜ばしいことだ。臣下としても友人としても、セドリックはクロエの幸福を願っている。たとえ政略の婚姻でも、それがクロエにとって幸いなものであってほしいと願っていた。
求められて嫁いだはずの姉とリオラントとの、ほとんど没交渉ともいえる夫婦関係を知っているだけに、なおさら。異国から迎えた姫を愛しく思えること、その姫に愛しく思ってもらえることは、本当に幸運なことなのだと思うから。
「それで、今日はその報告に?」
「それもあります。建前としては、クロエ殿下より、婚約者殿が退屈されることのないようにお相手を申し付かりました。本当は、姉を伴えればよかったのですが……」
宰相家の息子でありクロエの友人ではあるが、セドリックは未婚の男だ。皇子の婚約者たる姫の滞在する離宮をひとりで訪ねるというのは、少々外聞が悪い。出迎えたハミル夫人の厭味は、それを指してのことだろう。
姉のリュシエンヌを伴えれば、姫君の交友を広げるという言い訳が立ったのだが──
「セドリック様の姉上様といえば、リオラント殿下に嫁がれた?」
「ええ。まあ、姉を連れてきたところで、姫の話し相手になるとも思えないのですが……」
セドリックの姉でありリオラントの妃であるリュシエンヌは、夫より賜った離宮で気に入りの取り巻きたちだけを相手に日々を過ごしている。公式行事や皇家主催のパーティーでは妃然としてリオラントの隣に立つが、それ以外には公務なども務めず、自由気ままに過ごしている。
時間は持て余しているはずだからと、ともにランスフォードの姫を訪ねないかと誘いの手紙を送ってはみたのだが、すげなく断られた。
尤も、彼女を連れてきたところで、リスティニカ姫と話が合うとも思えないのだが。
姉が興味があるのは、社交界の華やかなうわべだけだ。ドレスや髪型の流行、ダンスに楽器の演奏に詩の暗唱、貴族の娘や上級召使のゴシップ。腹の探りあいや駆け引きとは縁のない、華やかで楽しいだけの会話。日がな一日、取り巻きたちを侍らせて、自分たちが楽しいだけのおしゃべりに興じ、それこそが社交だと思っている。
そんな姉に、この姫の相手が務まるとは到底思えないセドリックだった。
「姉上様にはいずれお会いする機会がございましょう。それより、『建前』と申されましたね。『本音』のほうは?」
穏やかな微笑で促され、セドリックは苦笑した。
「姫君と、お話がしたかったのですよ。クロエ殿下がいて困る内容ではありませんが、真面目に朝議に顔を出すようになった殿下が離宮に来られるような時間に、僕が同行するわけにもいきませんので」
朝議は基本的には昼までには終わる。長引いても夕方までとはならない。しかし、朝議が終わったからといって皇帝の仕事が終わるわけではなく、摂政を務めるリオラントの仕事についても同様だ。その補佐をすると決め、行動を起こしたクロエが、朝議に出席するだけで良しとはすまい。
実際クロエは、セドリックを通して宰相サリエルに、「今の自分にも可能な範囲で執務を行いたい」と昨夜のうちに打診した。父のことだ、早速補佐官を手配し、クロエにも仕事を割り振っているだろう。クロエもクロエで、生来真面目な性格だから、求められる以上の成果を己に課して邁進するに違いない。そうなると逆に、適度なところで切り上げることができるかどうかが心配で、夕刻にはクロエの執務室を訪ねようと思っている。
その時に姫君の様子を語り、なんなら離宮を訪ねろとけしかけるつもりでいるが、それにセドリックが同行するのはいささかまずいだろう。
夕刻やそれ以降の訪問も、婚約者たるクロエなら文句は言われないだろうが(ハミル夫人の厭味はその限りではないだろうが)、セドリックではそうもいかない。厭味どころではないハミル夫人の口撃に晒されたあげく門前払いされるのがおちだろう。
クロエの訪問がなければ、今のところリスティニカの離宮を訪れる者はいなくなる。リスティニカの交友に関しては、クロエやセドリックが間に立って追い追い広げていくとして、当座は以前のように過ごしてもらうしかない。リスティニカはそれで構わないと言うのだろうが、一度誼を結んでしまったクロエとしては、彼女を独りにしてしまうことには罪悪感があるだろうし、なにより姫の様子が気になるだろう。
結果、宮廷に役職をもたないセドリックが、クロエの代わりの話し相手を言い付かった。セドリックとしても、博識なうえ自分たちと異なる視点を持つ異国の姫との会話は、楽しみ以上に勉強になる。
ハミル夫人の明らかな監視の目は肌に痛いほどだが、まぁ我慢しよう。
「よろしければ、お付き合いいただきたいのです。姫君との議論は、実に勉強になりますからね」
そう言うセドリックに、リスティニカはほのかに笑んで、頷いた。