14:心強いお味方がいらっしゃるではありませんか。
唇を噛むクロエに、リスティニカはその眼差しを緩め、語りかける。
「背を向け、ただ待っているだけでは、争い事はなくなりませんわ。自ら治めなければ」
「知った風な口を──」
「わたくしとて王家の生まれ。朝廷に陰謀や策略の根深いことは、承知しております」
感情にまかせたクロエの言葉を、リスティニカはぴしゃりと遮った。
「殿下の、帝位を望まず、兄上様との対立を望まないというお心は、尊重いたしますわ。けれど、朝廷に背を向けているばかりでは、殿下の望むものは手に入らないと思いますの」
静かなリスティニカの言葉は、クロエの胸に刺さった。
彼自身、それは感じていたことだ。無用な継承争いを起こさせないためには、自分が一貫して帝位継承を拒むしかない。しかし、その手段として宮廷に背を向け、政治に関わることを拒み続けていては、兄を助けたいという彼自身の望みは、永遠に叶わない。
クロエを擁立しようとしている貴族たちには、次子であるクロエを推すことで恩を売りその後の恩恵を受けようという思惑がまずあるのだろうが、根底でリオラントの出自を蔑んでいる者も多い。地方貴族出の皇妃を母とする皇帝に、忠誠など誓えぬ、と。
逆に、そうした血統至上主義に反発し、リオラントの才覚を認める官吏たちはリオラントの帝位継承を望み、宮廷では今、官吏と貴族の溝も深まっている。
たとえリオラントが帝位に就いたとして、それを境に両者の溝が埋まり対立が消えるわけでも、クロエ派の野望が消えるわけでもないだろう。
しかしそれでは、リオラントが皇帝となり、その立場を磐石のものとするまで、クロエは兄の手助けをなにひとつ、できないことになってしまう。それどころか、リオラントの立場を揺るぎなきものとする条件の一つに、クロエが宮廷から──或いは宮城から去ることが含まれるかもしれないのだ。
「ならば、どうすればいい?」
口をついて出た弱音とも取れる呟きに、リスティニカはほんの少し瞳を和ませ、
「殿下が帝位を望まず、争いを望まず、その上でお父上や兄上様の助けとなりたいと望むのなら、それが可能な土壌を作るべきですわ」
さらりと言うが、それは言葉で言うほど容易いことではない。
宮廷に向き合い、政治に関わり、なおかつクロエ派を抑えて己はあくまで補佐に徹する。言葉で言うのは簡単だが、実行するには相応の力が要る。己自身の能力もだが、人脈を初めとする政治力が。少なくとも、今のクロエにはそんな力はない。
項垂れるクロエに、リスティニカは「そんなことはありませんわ」と微笑んだ。
「人脈ならば、殿下には心強いお味方がいらっしゃるではありませんか」
言われて視線を上げると、彼女はクロエの隣へと視線を向けていた。つられてそちらを見ると、セドリックと視線が合う。瞬間、セドリックは僅かに笑って頷いた。
そうだ。これまでクロエはセドリックのことを、宮城内で唯一、気の許せる友人としか思っていなかった。それにしたって、セドリックの背後には宰相がいる。内心のすべてを隠さず曝け出すことはできないとも思っていた。──知っていたのだ。セドリックが宰相の息子だと。知っていたのに、その先にまで思いは至らなかった。
セドリックは宰相の息子だ。今はまだどんな役職も持たず、父親の補佐を私的に行っている程度だが、宰相は彼に後を継がせるつもりであちこち連れ歩いているとも聞いている。
セドリックには、クロエにはない宮廷内の人脈がある。
「僕はツヴェルフ家の人間だ。君が僕を信用しきれない気持ちも分かるけれど、もうちょっと頼ってくれてもいいんじゃないかな。──僕だって、宮廷に波乱を望まない。君が宮廷に静穏を望むのなら、手伝えるよ」
セドリックが言うと、クロエは一瞬、泣きそうに顔を歪めた。
この宮城の中で、セドリックは誰よりクロエの近くにいた。きっかけこそ父の言いつけだったが、今ではセドリック自身の意思で、クロエの善き友でありたいと思っている。
だからこそ、セドリックの背景を気にしてクロエがその心情のすべてを吐き出せないことも、クロエの望みを叶えるためにセドリックに助力を求めないことも、歯痒く思っていた。
きつく目を閉じ、唇を引き結んで、そうして溢れそうだった感情を押し戻し、クロエはまっすぐにセドリックを見て、言った。
「手伝ってくれるか、セドリック」
「もちろんだよ、クロエ」
ずっと、諦めていた。自分が兄の邪魔にならないためには、すべてに背を向けて、逃げるしかないのだと、クロエは思っていたのだ。彼を利用しようと目論む存在は、力なきクロエにとってはあまりに強大で、到底太刀打ちできないと思っていた。
それに対抗し、それを抑えるほどの力など、自分にはないと。
けれど、自分はなにも持っていないわけではなかった。
できるかどうかはわからない。けれど、やる前から『できるわけがない』と努力さえ放棄するのは、敵前逃亡もいいところだ。そうして言い訳ばかりを連ねるのでは、『意気地なし』と誹られても言い返せもしない。異国に嫁ぎ、なお己の務めを果たそうと努力を重ねるリスティニカの姿を見れば、なおさらそう思う。
彼女が王族の責務に忠実であるなら、その夫となる自分も、皇族の責務を果たさなければならないだろう。──誇り高き妻に嫉妬する夫になりたくないのなら。
「姫の努力に恥じないよう、俺も努力しよう。貴女の夫として相応しくあるために」
年下のリスティニカに見事に焚きつけられたのが癪で、お返しに彼女を動揺させてみたくて、そんなことを言ってみた。
しかしリスティニカは、その頬も白いまま、ただ嬉しそうに微笑んだだけだった。