10:そんな思惑を抱いた頃、変化は起きた。
事態というのはどう転ぶか分からない。
馬車の中、クロエの横顔を見つめながら、セドリックはつくづく考えた。現実というものはそうそう思い通りにいかないものだが、それがいい方向に転がることもあるのだと。
あれほど異国の姫に会いに行くのを渋っていたというのに、無事顔合わせを済ませた日から、クロエはセドリックの誘いに対して渋るそぶりすら見せなくなった。五日間も放置していた後ろめたさか、にもかかわらずあっさりと態度を翻すことへの気恥ずかしさか、未だ自発的に姫の滞在する離宮へ足を運ぼうとはしないが、セドリックが誘えばあっさりと頷く。
初日にはぶつくさと文句を言っていたのが嘘のように、道中の馬車内ではうっすら笑みを浮かべるほどの変わりようだ。
そんなクロエの変化を微笑ましく見やり、世のままならなさに思いを馳せはしたが、実のところセドリックは、クロエの豹変も当然だと感じている。
人嫌いというか人間不信というか、自分に寄ってくる相手に対して(おそらくは無意識なのだろうが)身構えるところがクロエにはある。それは、彼の生まれや育ちを考えれば致し方ないところもあるのだろうが、相手の示す、特に好意に類する感情を、素直に信じられないのだろう。
政略の婚姻相手など、その真意を信じられない筆頭のような相手だが、それでもクロエは、かの姫君に好感を持ったようだ。それが愛情に類するものかはセドリックには判断できないが、それでも嬉しい驚きだった。
しかし、実際には驚くことではないのだろう。かの姫君は実に愛らしく、人柄も申し分なさそうだ。
僅かに数時間、ともに過ごし言葉を交わしただけでも、ある程度の人柄というものは分かるものだ。その言動の端々に、性格や人格というものは垣間見える。
生まれや立場を鼻にかけず、価値観や思想の異なる相手を拒絶せず見下しもしない。女官をはじめ召使たちにも柔らかな態度を崩さず、口を開けば慇懃に厭味を言うハミル夫人さえもうまくいなしていた。間違っていると思うことははっきりと指摘するが、そうでなければ頭ごなしに相手を否定することはせず、自分に非があればそれを認める。
それは、セドリックが抱いていた『王家の姫』のイメージとは違っていた。
一国の王家の姫君だ。まして、まだ十五歳の娘。多少わがままであったり高飛車であっても、責められはしないだろう。そう思っていたのだが、実際にはまったく違った。
イメージを裏切られたのはおそらくクロエも同じで、セドリックが姫に興味を抱いているのと同じように、クロエも興味をそそられているのだろう。なにせかの姫君といったら、その教養においても、セドリックの予想を軽く陵駕していたのだ。
クロエは普段から、他人に対する興味が薄いふうを装っているが、本当に本心から他人に興味がないわけではない。まして相手は自分の婚約者であり、遠からず妻になる女性だ。その姫が、こちらの勝手な想像で作り上げていたイメージとはいえ、それを小気味好いほど見事に打ち破ってくれたとあっては、興味を抱かないはずがない。
まず、リスティニカ姫はとかく博識だ。
王族の姫であり、自国の歴史だからといって、建国からの主だった出来事を諳んじられるというのは、控えめに言って尋常ではない。
少なくともセドリックは、帝国の歴史をそこまで詳しく語ることはできない。もちろん、初代皇帝の功績や建国の逸話、良くも悪くも歴史に名を遺す皇帝の名と彼らの成したこと、そして現皇帝の武勇くらいは諳んじられるが、リスティニカ姫はそんなレベルを軽く超えていた。自国のみならず、隣国とはいえ他国であるエクスダリアの歴史的事件にも相当詳しい。尋ねたことはないが、他の周辺国についても同様ではないかと思われる。
その知識は、エクスダリアの女子には考えられないものだ。
エクスダリアの皇家、貴族では、家督継承権のない女子に対して施される教育は、淑女に求められる教養の範囲を超えることはない。
例えば語学について言えば、自国語の読み書きは当然として、宮廷語については会話ができれば十分と考えられている。実際、政治に関わることのない女性にとって宮廷語の利便性は、他国の宮廷人と通訳なしで話せるという程度だ。他国に嫁ぐ可能性のある皇女であれば、周辺国の公用語の会話がそれに加わるが、基本はその程度だ。
対してリスティニカ姫はと言えば、祖国であるランスフォードの公用語であるフォード語はもちろん、宮廷語に加えて、エクスダリアの公用語であるエクス語も、会話のみならず読み書きも完璧に修得している。
その語学力を生かして読破していく書物といえば、歴史書に伝承・民話集、世俗風俗に関するものやエクスダリアの風土に関するものまで、どちらかというと研究書の趣を持つ書籍ばかりだ。
エクス語と時に宮廷語で記されたそれらの書物を難なく読み進め、そのうち離宮図書室の蔵書を読み尽くしてしまうのではないかと、半ば本気で考えてしまう。
事実、姫は昨日、ついに古語で記された書物を手に取った。
さすがに読めはしないようだったが、興味深げにページを繰っていた。そのうち、辞書を片手に読み始めるのではないかと思ったほどだ。
正直、関心を通り越して呆れてしまった。
帝国第一皇子に嫁いだセドリックの姉は、宰相家の娘として、いずれ皇子に嫁ぐことを視野に入れ、帝国の女性としてはかなり高度な教育を施されたと思うが、それでも宮廷語は話すだけ。他国の言語は、南に隣接する大国、アングラードの公用語を、これも話すだけ。
文字として読み、書き取れるのは自国語だけで、その自国語で記された書物であっても、好んで読むのは詩集や甘ったるい物語ばかり。帝国や大陸の歴史も一通りは習っているはずだが、身についているかどうかは甚だ疑問で、少なくともセドリックの姉は、歴史書など手に取りもしないだろう。
聞けばリスティニカ姫は、エクス語のみならず、アングラード、そして大陸北方のもう一国、ザンブルグの公用語も習得しているという。当然のように読み書きまで含めて。
エクスダリアに関する知識の中には、離宮図書館の書籍から得たものもあるのだろうが、もちろんそればかりでもあるまい。エクスダリアへの輿入れが決まってからの付け焼刃でもなく、彼女はもっと幼い頃から、様々な教育を受けてきたのだ。そして、姫自身、相当な熱心さで与えられるものを吸収し、或いは自ら手を伸ばしてきたのだろう。
そう得心すると同時に、セドリックは疑問にも思った。いくら王族とはいえ、姫である彼女に、そこまでの教育が必要だったのか。
考えて、思い至る。そういえばかの国では、女子であっても王位を継げたはず。つまり彼女は、王家の姫としてだけでなく、いずれ王位を継ぐかもしれない者としての教育を、受けてきたのだ。
ならば、そんな姫と関わることは、クロエにとってもいい刺激になるだろう。
セドリックがそんな思惑を抱いた頃、変化は起きた。