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第5話 果竪とカジュ

 目を覚ました時、果竪は自分の私室の寝台に横たわっていた。

 部屋は暗く、外の気配から既に夜も更けている事に気づく。


「……私」


 頭が重い。

 まだ頭に靄がかかっている様だった。


 ただ、それでもーー心は落ち着いていた。



 私は誰?



 混乱し泣いていた果竪に、あの少女は温かな声で伝えてくれた。



 貴方はーー



「私は、果竪」


 本物も偽物もない。


 そしてーー



「ここは、私の住む世界とは、違う」


 何度も夢の中で少女は言っていた。

 ここは違う世界なのだと。

 貴方の生きる世界はそこでは無いのだと。


 忘れないで、思い出して。



 貴方の帰りを待っている者達が居る事を。



 夢だと思っていた。

 あちらこそが、果竪の都合の良い夢なのだと。



 けれど、あれが、夢の方が現実で、この世界が違う。


 少なくとも、今の自分にとってはこの世界こそが夢。



 そして、夢の中で見た勿忘草色の瞳を持つ果竪そっくりの少女こそがーー




 しかし、この世界が夢だと言うにはあまりにも現実的過ぎている。到底夢だと思えない。空腹も感じれば、痛みだって感じる。


 それに、夢の中に居た自分の本来の瞳を持つ少女は言っていた。



 自分こそが、こちらの世界の【偽物】だとーー。



 ならば、彼女の瞳は菫色の筈だ。

 なのに、勿忘草色の瞳を持っていた。


 そして自分が、菫色の瞳を持っている。



 果竪は一つの推測を立てた。


 それは、魂だけが別の体に入ってしまっているのではないか?と。


 次元も何もかも超えて、魂だけが別の体に入る。無いという事は無いだろう。実際、神々の世界に体を置きながら、人間界の生物に憑依した神だって居た。

 そもそも、神力というものを持つ摩訶不思議の頂点に立つような存在である神なのだから、出来ない方がある意味おかしい。


 ただし、自分の元居た世界によく似た別の世界にーーと言うのは初めて聞いたが。


 ただ、自分とこちらの【偽物】と呼ばれる彼女の魂が入れ替わってしまったと考えれば、全てに説明がつく。もちろん、入れ替わった理由は分からないけれど、とにかく今の自分が別の相手の体に入ってしまっているのだと分かっただけでも、気持ち的に大きく違った。


 本当は不安で、寂しくて、怖くて……それを必死に押し隠して日々を過ごしていた。けれど、あれだけ恋しかった夢は夢ではなくて、あちらが本当の自分の生きる世界だと知って。


 果竪の瞳からは、いつの間にか涙が流れ落ちていた。


 自分の都合の良い夢ではない。

 夢は現実。

 帰るべき世界。


「良かった……」



 俯き、泣きじゃくる果竪だったが、その耳が扉を開く音を捉えた。


「ようやく目覚めたみたいだね?」

「あ……」


 部屋に入って来たのは、朱詩だった。


「……」


 果竪の顔から血の気が引いた。

 いくら、様々な死闘や幾つもの大事件を生き抜いてきた果竪とはいえ、ついさっき殺されかけた相手の登場には流石に動揺する。その相手が、向こうでは仲の良い仲間であったとしても。


「ん?さっきのあの勝ち気で不貞不貞しい態度はどうしたの?ああ、今になって怖じ気付いた?」


 揶揄するような言い方に、果竪がこの世界の朱詩を睨み付ける。一方、睨まれた朱詩はあっという間に距離を詰めると、寝台に腰をかけて上半身を起こしていた果竪に顔を近づけた。


「傷は無いようだね」

「え?」

「良かったよ。肉体を壊したら、また一から創り直さないとならない。一体創るだけで大変だからね」


 淡々とそう告げる朱詩に、果竪は酷いと思うよりも違和感を感じた。まるでその言い方は、この体の中身だけが違っていると言わんばかりの言い草だろう。


「筆頭書記官様、あの」

「ってか、これが【別の世界の本物の果竪】ってかい?こんな、馬鹿みたいに脳天気でアホみたいに元気すぎるのが」

「脳天気で元気すぎて悪かったですね!って、筆頭書記官様は私が」

「知ってる。聞いたから。お前はカジュじゃない。別の世界から飛ばされてきた、【別の世界に生きる本物の果竪】だって」

「……」

「別の世界では、故郷の村で死なずに生き延びて陛下に保護されたその世界での【本物の果竪】」

「……誰、から」

「誰?そんなもん、決まってんじゃん」


 朱詩はケタケタと笑った。その笑みは酷く美しく、そして背筋をゾッとさせるものを含んでいた。


「お前が入っている体の持ち主だよ。ったく、弱いくせにこのボクの前に立ち塞がった」



 あの時ーー池の前で茫然自失となっていた、カジュの偽物を朱詩は本気で殺そうとした。いや、カジュの居場所を吐かせてからではあったが。

 けれど、突如意識を失って倒れる相手に反射的にその体に触れた時だった。


 気づけば、朱詩の意識だけが見知らぬ場所に立っていた。


 美しい花畑。

 黄金色の夕日に照らされ、優しい風が頬を撫でた。


 その花畑の向こうに、朱詩が捕えようとしていた相手が倒れていた。だが、近づく事は出来なかった。その間に、朱詩が居場所を求めていた相手が立っていたからだ。


 勿忘草色の瞳ではあったが、中身は確かにあのカジュである彼女が立っていた。両手を一杯に広げて、後ろに倒れる相手を守ろうとしていた。


「カジューー」


 自分を見上げる眼差しには、怯えと恐怖が混ざっていた。

 ああ、いつもと同じ。

 これが彼女だ。


 いつだって、カジュはそういう眼差しを自分達に向けていた。


 自信なさげに。

 諦観しきった瞳。

 物事に対していつもウジウジとして、卑屈に生きていた。


 元気に明るく、何事も前向きに振る舞い実行する偽物とは違う。


 同じ偽物でも、カジュと朱詩が捕えようとした偽物は何もかもが正反対だった。


 いつも他神の顔色を伺ってビクビクとしていた。

 まっすぐに相手の目を見つめ返すなんて、出来やしなかった。


 朱詩の記憶にあるカジュは、いつも下を向いていた。


 それが、カジュだった。


 なのにーー。


 確かに彼女はカジュだった。

 びくりと体を震わせる様も、その怯えた眼差しも。


 なのに、カジュはしっかりと顔を上げていた。

 朱詩を真っ正面から見つめ、必死に倒れている偽物を庇おうとする。




 そこでカジュから聞いた。




 倒れている偽物は、別の世界で生きる別の世界の【本物の果竪】である事。とあるアクシデントで、自分と彼女の魂が入れ替わってしまった事。自分は彼女の体に入り込み、そのせいで彼女の魂が自分の体に入り込んでしまった事。


「この方を、傷付けないでーー」



 悪いのは自分なのだと必死に訴え、偽物をーーいや、別の世界の【本物の果竪】を守ろうとする。



 そんなカジュに溜息をつき、朱詩は足を進めた。


「ーーとっとと帰るよ」


 連れ戻せば良い。

 今ここで、目の前で別の体に入ってしまったというカジュを捕えればそれで済む。そして、中身を強制的に叩き出し、カジュの肉体に入った魂の方も同じ様にすればーー。


 しかし、それを朱詩が実行する事は出来なかった。



 カジュに触れようとしたその時、ぐにゃりと世界は歪んだ。

 あっという間に、引き離されていく。


 何かを言う前に、朱詩はあの美しい世界から追い出され、元居た場所に立っていた。

 意識を失った相手は、そのまま池の前に倒れていた。


 その姿を見た瞬間、相手の体に宿る魂は元のままである事に気づいた。それは魂が見えたと言うよりは、直感に近いものだったのかもしれない。


 これは、カジュではない。


 色々な方面から鑑みて偽物だと断じた時とは違い、まるで電流が走るかのように朱詩は倒れている相手の中身がカジュではないと断じた。そして見た瞬間、中身が違うと自分の目と感覚からはっきりと確認出来た事に多少戸惑いもした。


 何故今になってそれが自分でも分かってしまったのか?

 まるで目の前を覆い隠していたヴェールが一気に取り払われた様な、全ての偽りが一気に霧散し隠れていた真実が露わになったーーそんな感じを覚えた。


 これは自分だけに起きた事なのだろうか?


 だとすればーー。


朱詩はしばらく、倒れたままの相手を見下ろしていた。だが、結局は溜息を漏らし、倒れた相手を抱え上げると、彼女の住まう離宮へと戻ったのだった。



「って事だよ」

「……」

「全く、本当に面倒事ばかり起こすんだから……本当に困っちゃうよ。まあーーとにかく、やる事は決まったね」

「やる、事ですか?」

「そう。君とボクのやるべき事は同じだ」


 朱詩が果竪の顎をクイッと持ち上げる。


「君は元の世界の自分の体に戻りたい。ボクは、君の体に入っているカジュをこちらに戻したい。で、それにはどうやら君の協力が必要だ」

「私の、協力?」

「そうさ。ほら、物語とかであるじゃん。魂が入れ替わった場合、入れ替わった者達が違いに協力して元の体に戻るって。それと同じ事だよ。それに、幸いな事に向こうの体と君の魂が繋がっている。それと同じく、カジュとこちらのカジュの体も繋がってる。という事は、その魂を再び入れ替える必要がある。カジュだけの魂をこちらに引っ張っても、今のカジュの体には君が居る。となれば、その体から君が出ていくしかない」

「出て行くって」

「出て元の体に戻るんだよ。ただし、それを同時に行う必要があるだろうけどーー向こうとこちらとで」

「……それは、どうしたら」

「知らない」


 は?


「そこまでは流石にボクでも分からない。カジュも、それを伝える前に消えてさ。まあーーどちらにしろ、一度見つけたんだから、また出来るだろうさ。魂と体は引き合うんだから」


 つまり、果竪の魂と果竪の体が引き合う様に、カジュの魂とカジュの体も引き合うのだと朱詩は言う。


「……」

「何?」

「いえ、その、凄く冷静だなって」


 向こうの朱詩も頭の回転が速かったけれど、こちらの朱詩は何というか……うん。


「普通、こういう事が起きたら驚くと思うんですけど」

「まあ驚いてはいるよ。けど、驚きっぱなしでいたってどうにもならないじゃん」

「……」

「それに、ボクはさっさとカジュをこちらに戻したい。そうするには、いつまでも驚いていたらどうしようもないじゃん。君だって、早く戻る方法を見つけないと、いつまでもこのままだよ。まあ、抜け殻となった体にはカジュの魂が入っているようだから、肉体が死んだりはしないだろうけどーーあんまり良くはないんじゃない?」

「よく、ない?」

「本来あるべき形と違うのは、あんまり良い影響を与えないって事だよ」


 そう言うと、朱詩は立ち上がり果竪を見下ろす。


「そういう事だから、とっとと戻る方法を探すよ。カジュの魂をこちらに、君の魂を向こうに戻す方法をね。あ、物語だと頭をぶつけたら魂が戻るとかあったっけ。とりあえずぶつけてみてよ」

「いや、それ私だけぶつけてもーー私だけ昇天するんじゃ」

「あははははは!それもそうだ。ま、そんな感じで君にも色々やってもらわないとね。それにーー君の魂と体が引き合えば、またカジュにも会えるだろうし」


 そしたら、今度こそーー


「ま、短い間だけど、宜しく頼むよ」

「あ、はい」


 差し出された手を果竪は反射的に握れば、朱詩が思わず目を瞬かせた。そして、プッと吹き出す。


「え?!なんで爆笑?!」

「あはははははは!お前もなかなかの馬鹿だよな、うん」

「誰が馬鹿?!」

「あはははははは!くくっーーああ、そうだ。安心して良いよ。夢みたいな話ではあるけれど、君の素性は判明したからさっきみたいな事はしないよ、もう」

「さっきって……」


 果竪は危うく殺られかけた時の事を思い出した。


「運が良かったね。でなきゃ、今頃君の首は体とおさらばしていたよ」

「と、とんでもない事を言わないでっ」

「別にとんでもなくないよ?不審者は潰さないと。ふふ、これでも手加減してあげたんだよ?じゃなきゃ、最初の一撃で首なんて飛んでいたし。まあ、今後も安心していいよ。君の体はカジュのものだからね。その体の首を飛ばしたら、カジュの魂はそのままあの世に召されるだろうし。例外として、君が居るべき世界に残された君の体に留まらない限りはだけどーーああ、もしカジュが君の体に留まったら、ここで体を失った君はどうなるんだろう?」

「……酷い事ばかり言うんですね」

「そうかなぁ?向こうの世界でのボクは言わない?ああ、それともそちらにはボクは居ない?」

「居ますよ」


 果竪はきっぱりと答えた。


「いつも飄々としているけれど、頼りがいがあって、優しくて面倒見が良くて」


 朱詩に厳しいと言われる果竪だが、なんだかんだ言って果竪にとって朱詩は兄貴分なのだ。どこか優しい顔をして言う果竪に、こちらの世界の朱詩が目を瞬かせる。


「優しい?面倒見が良い?何それ。変なの」

「変じゃないです!」

「変だよ。変ったら変。じゃなきゃ、向こうの世界のボクって頭がイカれてるんだね」

「イカれてないです!」

「イカれてるよ。優しいとか面倒見が良いなんて、あり得ない」


 朱詩は馬鹿にした様に笑う。


「ま、向こうの世界のボクなんて、こっちには何の関係もないけどさ」


 そう言った朱詩は、そこで目を細めて鋭く舌打ちをした。そして、くるりと果竪に背を向けて扉へと歩き出した。


「筆頭書記官様?」

「呼ばれたみたい。戻るよ」

「呼ばれ?」

「ああ、君もさ」


 朱詩は部屋から出て行く直前に、果竪を振り返った。


「あんまりやり過ぎない方が良いよ。いくら君がカジュと違って優秀だって言ってもーー君の体はカジュのもんだ。それで好き勝手しすぎるとーー手酷い目に遭うよ?」


 そう言うと、クスクスと笑いながら朱詩は「また来る」と言い残して出て行った。











 カジュ、カジュ、カジューー


「カジュ、どこに居ますの?」


 それはいつもの日常。

愛する子の名前を呼びながら、明燐は長い廊下を走る。けれど、その日は何故か探しても探しても見つからなかった。


「カジュ?」


 不安を覚えて、急く気持ちのまま外に飛び出した明燐の視界に


「カジュは此処だよ」

「ねーさま!」


 小さな手を伸ばし、きゃっきゃっと朱詩の腕の中で笑う幼子が見えた。


「カジュ!」

「あ~あ、天下の明燐様も形無しだねぇ」


 朱詩がやれやれと言った様子で苦笑しつつ、腕の中のカジュを降ろした。そしてそのまま明燐に向かってカジュが駆け寄ろうとして。



 ベシャ


「……」

「……」


 地面に倒れたカジュから、程なく大きな泣声が聞こえてきた。


「あれ?また転んだのか?」

「ちょっと。この前転んだ怪我が治ったばかりじゃない」


 兄の明睡と、仲間の茨戯が明燐の後ろから歩いてくる。


「馬鹿だな、カジュ。走るなって言ったよね?」


 子猫が鳴く様に、高い声で泣くカジュを朱詩が抱き上げる。手足に出来た擦り傷に血が滲む。


「全く……戦いに参加してるわけでもないのに、怪我ばかりしてさ」

「これはまた修羅に怒られるわね」

「消毒液持って追いかけられるな」

「大丈夫ですわ、鉄線が止めて下さいますから」


 修羅に怒られると聞いて、怯えるカジュの頭を明燐は撫でた。自分達と違う固い髪質のそれだが、明燐にとってはとても心地の良い物だった。


「しゅーおこらない?」


 兎の様に目を真っ赤にして、頬を涙で濡らしながらカジュが聞く。その余りにも悲しげな様子に、明燐は幼子を安心させるように微笑んだ。


「ええ。心配はしますけれど、わざとでないのを怒る様な心の狭い【男】ではありませんもの。だから嫌わないであげて下さいな」

「わたし、しゅーすき。ゆりあねーさまも、てっせんねーさまも」

「あら?私の事は?」

「ねーさまもすき」


 朱詩の腕の中に居たカジュを明燐は奪うように抱きしめた。


「私もですわ!」

「むぅ……明燐達ばかりずるい」

「男どもが泣くな」

「言っとくけど、修羅も体はあれだけど中身は【男】よ」

「でもね、みんなすきなの」


 明燐の腕の中でカジュがにこにこと笑う。小さな小さなカジュ。腕の中の小さな宝物。


「まあ嬉しいですわ!私達もみんな、カジュの事が大好きですわ」


 可愛いカジュ。小さなカジュ。


 自分達の様な壊れて歪んだ化け物達にも、彼女は笑いかけてくれる。自分達の歪んだ欲望のせいで産み出された存在。それなのに、どう接していいか分からず全てが手探り状態だった自分達を家族と慕ってくれる。



 愛しいーー



 最初は、敬愛する萩波の為に創り出した命だった。



 本物の代わりに創った、身代りの存在だった。



 けれどもう、彼女は自分達にとってのーー。



「カジュ、もうすぐご飯の時間ですわ。今日は何が食べたいですか?」

「今日の食事当番は忠望か」

「げっ!また変な漢方入れるんじゃないの?」

「で、薬膳料理って言い張るんだよね。美味しいから食べちゃうんだけど」

「あのね、あのね、わたしねーー」




 幸せだった。



 明燐だけではない。

 皆が幸せを感じていた。



 本物の代わりに創られた身代り。

 本物の代わりに創られた偽物。



 違う、もう、身代りでも偽物でもーー。








「……カジュ?」



 物言わぬ体。

 ボロボロの。


 惨たらしいとしか言いようのない。




 どうして?




 言ったではないですか



 返してくれるって



 約束してくれたではないですか



 返してくれるって



 この子とも約束したじゃないですか



 大神しくして言うことを聞いていれば



 帰してくれるって




 涙の跡が残った頬はもう固かった

 小さな唇は力なく開いていた



 縄の痕が残った手首

 どす黒い痣が刻まれた細い首




 けれど、一番惨たらしくあったのは






「……カジュ」






 ああ、あれが全ての悲劇の始まり

 繰り返される悲劇の一番最初



 そして




 私達は間違い続けた




「……強くなんか、ならないで」


 明燐は、小さく呟くと、揺り椅子から立ち上がった。それを、明燐付の侍女達の中でも側近中の側近と呼ばれる侍女が黙って見守る。


「カジュは、どこ?」


 彼女の主の言葉に、侍女は静かに口を開いた。








「明燐、やめろ」

「いいえ、お兄様!カジュは強くならなければならないのですわっ」


 狂った様にそう言う妹を、明睡は止められなかった。

 だから、あんな悲劇が起きたのか……いや、きっとそうなのだろう。



 今日も、妹に厳しく訓練を受けたカジュがシクシクと泣いていた。細い手足に走る擦り傷が痛々しい。


「もう休め」

「やっ」


 妹は厳しい。

 けれど、カジュもまたそんな妹にしがみつくようにして、その厳しい鍛錬を受け続ける。それでも上手くいかない自分に悔し涙を流す小さな少女に、明睡はしゃがんで視線を合わせた。その小さな頭をぽんぽんと叩き、撫でた。


「神には向き不向きがある。それにーー明燐の行っている鍛錬はお前にはまだ早い」

「やなの!やるのっ」


 泣きながら、地団駄を踏むカジュ。年齢相応の幼さと、健気さが入り交じった姿に、明睡は溜息をつきつつ苦笑した。


「カジュ、つよくなるの!!」


 強くなりなさい、カジューー


 もう二度と、誰にも貴方が傷付けられないように


 貴方を傷付けようとする者達を退けられるように



 あの日、小さな小さなカジュを喪った妹は、目の前で泣くカジュを強くする事のみに執着する様になった。


 仲間達の一部も、明燐と同じ様にカジュを強くする事に執着した。そして、それに反対する者達も居た。



 小さな小さな、まだ幼いカジュ。



 厳しい鍛錬で傷つき、悔し涙を流すカジュを庇うのは、仲間達の中でも特に武芸に特化した者達だった。彼らは、まだ幼いカジュに厳しい鍛錬を施すのを嫌がった。



「カジュは強くならなければならないのですっ」

「俺達で守れば良いだけだ」



 どちらも一歩も退かない。


 けれど結局、カジュは明燐の手を取り、自ら選んだ。



 それでもーー



「めーすいにーさま?」


 カジュの小さな体を抱き上げ、自室へと連れて行く。そして椅子に座り、自分の膝の上に座らせる。


「ジッとしてろ」



 カジュの手足に、傷薬を塗っていく。みぎゃっと悲鳴が上がるが、それも少しの事だった。


「いたい」

「傷があるんだから、当然だ」


 何故か痛みのある場所に息を吹きかけるカジュに思わず吹き出しつつ、そんな自分に頬を膨らませるカジュの頭を撫でた。


「めーすいにーさま」

「ん?」

「あのね、カジュ、いつになったらおそとにでれるの?」

「……」

「おそとにはいろいろなものがあるんでしょう?わたしも」

「お前が、強くなったらな」

「つよくなったらいいの?」


 目を輝かせるカジュの頭を明睡は優しく撫でる。


「ああ。まあ少なくともーー大将軍を一撃で倒せるぐらいは必要だな」


 なんて言ったら、後日


「宰相!貴様はカジュに何を言ったんだ!」


 と、大将軍直々の訪問を受けた。何でも、カジュは大将軍に稽古をつけて貰おうとしたらしい。長い木刀を引きずっている時点で色々と駄目な気もするが。




「カジュ、それは何だ?」

「おそとにでたらしたいこと」


 他の上層部と同じ様に、宰相の執務室を遊び場にしていたカジュは、そう言って鍛錬の無い時間は床に転がって紙に字を書く。

 そこに書かれているのは、たわいないものばかりだった。


「ーー買い物なら、行商が来るだろう」

「おみせでかいたいの!」


 店、作るかーー。


 その時、王宮に商店街を作る計画が明睡の脳裏に閃いた。


「あとね、あとね」


 カジュは満面の笑みを浮かべて言った。



「おともだちがほしいのっ」





「……」

「宰相、様?」


 宰相付き文官が、主に声をかける。


「友達なんか」



 ようやく口を開いた宰相の言葉に、文官は眉を潜める。それは怪訝と言うよりはーー。



「宰相様……」



 悲しみが入り交じった文官の声に重なる様に、明睡は吐き捨てた。



「そんなものは、必要、ない」







「筆頭書記官朱詩、陛下の召還に従い参りました」

「はい?」


 萩波の執務室に、いつもより少々荒い足取りでの入室となってしまったのは大目に見て欲しい。ただ、あまりにもタイミングが悪かったのだ。


 それでも何とか最低限の礼節を忘れずに居た朱詩は、ぽかんとした萩波に首を傾げた。


「ーーボクに、何か用事があったんですよね?」


 これで無いと言われたら、流石の朱詩でも笑えない。というか、このタイミングでそれは朱詩でもイラッと来るだろう。

 だが、萩波の顔を見ていると、どうやら違う気がする。


「陛下?」

「貴方は、あの娘の指導中ではなかったのですか?」

「そうですけど」


 時間的には、まだ教えている時間ではある。今日は、他の仕事を早めに片付けてあるので、かなりの時間を彼女に割けていた。まあーー実際には指導ではなく、口を割らせる時間としてあてていたのだが。


「今は、特に貴方への緊急性の高い物はありません。それ以外の用件は幾つかありますが、あの娘の指導中に呼び出す程の物はありませんよ」

「……緊急と伺いましたけど」


 朱詩の言葉に、萩波は笑みを消す。


「私は出していません」


 この国では、統治者たる萩波が各上層部に直接呼び出す時に使うルート及び方法というものが存在する。それは、それぞれの上層部で方法が違う。今回、朱詩はその方法でもって呼び出された。


「……この方法はもう使えませんね」


 十中八九どころか、完全に別の相手が陛下からと偽って朱詩を呼び出したのだろう。溜息をつく萩波の言葉は最もだが、それ以上に大事な事がある。


「陛下以外の誰かが、陛下の所に来るようにと偽りの命令を出したという事ですか。一体何のメリットが」



 他の命令ならばまだ分かる。しかし、陛下に会えば、それが陛下からの命令ではないという事がすぐに分かってしまうとなれば、何の役に立つというのだろうか。

 陛下の所に来させる事で、利益を得る相手。


 朱詩は考えを巡らせていく。そして、唐突に閃いた。


「っーー狙いは、あれかっ」


 本来、今の時間はあの最下位の妾妃に指導中の時間だ。そこに偽りの命令を出して朱詩を陛下の元に行かせる。つまり、言い換えれば朱詩を最下位の妾妃から引き離したという事だ。


 そして普通に考えれば、狙いは最下位の妾妃にあるとなるだろう。朱詩が居れば確実に阻まれる。ある意味、朱詩は絶対的な壁だ。その壁を取り払わなければ、その後ろにある本命にはたどり着けない。


「朱詩」

「陛下、すぐに」

「明燐が動いています」

「……あの、お転婆がっ」


 明燐という言葉に、朱詩は鋭く舌打ちをした。

 分かってしまったからだ。明燐が、偽りの命令を出したのだと。


 他の国は知らないが、この国では頂点に立つ萩波と各上層部間をつなぐ直通連絡ルートや方法は一定期間を用いて変わる。それは同じ物をずっと使用する事で、そのルートや方法を敵対する者達に見破られるのを防ぐ為だ。

 そして、萩波と各上層部それぞれの直通連絡ルートや方法は、それぞれ互いだけしか知らない。例えば、萩波と宰相である明睡の連絡手段を朱詩は知らないし、萩波と朱詩の連絡手段を明睡は知らない。


 だが、例外が居る。



 それが萩波の正妃だ。



 彼女はその立場上、緊急時を考慮して萩波と各上層部の直通の連絡ルートを教えられている。それは、萩波に何かあった時に、正妃が代わりに命令や召集をかける必要があるからだ。



 明燐はそれを利用したのだろう。



 本来なら有事の際でもない平時に、私用で使うのは許されない行為だ。職権乱用だ。ただ幸か不幸か明燐に心酔する者達が多いから、実際には罰するとなれば各方面から猛反発を食らうだろうが、それでもおいそれと簡単に行なってはならない暴挙である。


 だが、実際に明燐はそれを行なった。


 何のために?


 あの娘は馬鹿ではない。自分の立ち位置、そして手にしている力を良く理解している。今回の件が職権乱用という言葉だって念頭にある筈だ。


 だが、それでも明燐はそれを行なった。


 行なわなければ、朱詩の手からかすめ取れないから。


 そう



 朱詩を最下位の妾妃から引き離す為には。


 つまり、明燐は職権乱用をしてまでも最下位の妾妃に、あの娘に用があったという事だ。それも、普段とは違う、朱詩が居ては足せない用が。


 鋭く舌打ちをすると共に、朱詩は部屋を飛び出した。はっきりいってもう遅い。けれど、取り返しがつかなくなる前にどうにかしなければ。






 にこにこと。

 いや、もうニコニコとしか言いようのない麗しい笑みを浮かべて、テーブルを挟んで向かい合うこの国の正妃に果竪は困り果てていた。


 朱詩が居なくなった後、間もなく扉を叩く音が聞こえた。それに、朱詩が戻ってきたのかと思えば、扉の外には正妃である明燐が、数神の侍女達を伴い立っていた。

 立ち姿すら優雅で美しい、この国一番の佳神。結婚前は、国一番の美姫と言われていたらしい。宰相の手中の珠で、国王の寵愛深い寵妃にして正妃。


 向こうの世界でも麗しいが、こうして正妃として在る姿は色々な方面への美しさを発揮していた。

 というか、向こうの世界よりも清楚可憐さが極まり、深窓の姫君然とした感じだ。なんていうか、人々が考える魔王に絶対に攫われるか弱き清楚な姫君にしか見えない。


 私の目がおかしくなったのか?


 心の中で呟いた果竪だったが、すぐにそんな考えを浮かべた自分を恥じる。向こうの世界では女王様でも、こちらの世界で絶対に同じという保証は無い。


 だがーー女王様と魔王に攫われそうなか弱き姫君の差はどこで起きたのか?


 果竪は本気で考えた。


 と、そんな馬鹿な事を考えていたからかどうか。気づけばこうしてテーブルを挟んでお茶を頂く事になっている。というか、この離宮にはお茶とかお茶菓子とかいう崇高な物は存在していなかった気がするが。


 まるで侍女の鑑と言わんばかりの優雅さで、あっという間にお茶会の準備を整えてしまった侍女達は、部屋の隅に控えている。彼女達もただ立っているだけなのに、恐ろしく美しく色っぽかった。


「え、えっと」


 流石に寝間着ではーーと思い、着替えてはいた。

 一応、陛下に謁見出来るだけの衣服をーーというか、挨拶の儀式の時に身につけた衣装だが、他のに比べれば裾も袖もヒラヒラとしている。作りも、意外と良い。


 ただし、相対する明燐は、華美ではないものの清楚で上品な装いをしており、その衣装は果竪の目から見ても高級品だと分かった。

 しかも、明燐の美しさや麗しさをこれでもかと引き立てている最高級の代物だ。


 なんだろう?この気持ち。


 正に対極。

 しかも、正妃付きの侍女達もこれまた美しく、そんな華麗なる集団の中にただ一神居る地味で平凡な自分。ああ、コンプレックスが刺激される。


 色々な事があって精神的にかなり鍛えられた果竪ではあるが、それでも完全にコンプレックスが消えたわけではない。ある程度克服はされたが、それでも果竪は自分の周囲に居る超絶美形の有能集団と言う名の上層部達や夫、その妹に引け目を感じていた。


 昔のように、イジイジとばかりはしないようにしているが、それでもふとした時に思ってしまうのだ。



 私は、彼らの傍に居て良いのだろうか?



 過去にはそれが限界突破して、王妃を辞めると決め、それに固執した。にも関わらず、夫に別の女性達が近づけば嫉妬し、仲間達が多くの神達に囲まれても嫉妬した。



 彼らに相応しくない事なんて分かりきっていた。

 取るに足らない存在である事なんて、とっくの昔に理解していた。



 彼らの傍に居る事でコンプレックスが常に刺激され、卑屈になり、いつもイジイジしていた自分。前を見て歩き出す様になってからも、それは今でも、ふとした事で思ってしまうのだ。



 私は、彼らの傍に居られる様な存在ではないーーと。



 前みたいに立ち止まらず、努力し、自分の頑張りが認められるようになっても尚ーー。



 ああ、根深いなぁと思う。

 それでも、そんな風にウジウジと悩むのも含めて果竪なのだ。


 果竪が果竪である限り、きっとこれはずっと一生ついてまわるだろう。



 コンプレックスも完全に克服するのは難しいかもしれない。



 けれどーー



 それでも、頑張る事は辞めたくない。

 いや、辞めるなんて最初から考えつかない。


 走り出すと決めた。

 立ち止まっても、また走り出す。



 例え世界の誰からも必要とされなくても、自分だけは自分を肯定し続けよう。



 あの日、それを決めたのだから。



 果竪はテーブルを挟んで優雅に微笑む明燐を見る。


 そしてもう何度目になるか分からない感嘆の溜息をもらした。


 やっぱりどう見ても、魔王に攫われし姫君にしか見えない。


 果竪が本来生きる世界の明燐よりも更に上品で清楚な色香を放つ、この世界の明燐。

 向こうの世界の明燐が決して下品というわけではないーー女王様は女王様だけど、高貴なる女王様だし。しかも、常日頃から凪国国王の正妃には彼女しか居ないと言われている位だ。それに、凪国一の美姫として、降るように縁談が来続けているーー今では既婚者なのに。


 王妃に相応しい高貴さも、極められた品位も、こちらの明燐に全くひけをとらない。しかし、それでも果竪は目の前の明燐を上品で清楚だと思う。


 不思議だ。


 他の上層部は、退廃的で気怠げで淫靡な雰囲気がかなり強く漂ってたと言うのに。果竪の元居た世界の彼らよりもずっと、ずっとーー。


(まとも?!)


 とりあえず、この世界の明燐は鞭を振り回さないし、ボンデージドレスなんて着てないし。いや、その服の下に着ているかもしれない。けれど、向こうと違って脱がないし。


 向こうの明燐が、まるでアニメの変身シーンの様に、侍女服を脱ぎ捨て、その下にボンデージドレスに包まれた蠱惑的な肢体を周囲に見せつけた時には、もう。


「どうしましたの?」

「いえ、ちょっと色々と神生について考えてました」


 ほっそりとしながら、ムチムチの我が儘ボディーを布面積の小さいボンデージドレスで包んだ姿は、これでもかと言う程に色っぽかった。だが、あれで横に立たれるのは辛い。前に立たれるのも嫌だ。


 というか、よくグレなかったな、自分。


 あ、でも、今はそんな明燐でも懐かしい。


「ーー会いたいな、早く」



 ぽつりと呟いた果竪は、向かい合う明燐の顔色が変わったのに気づかなかった。ほんの一瞬だけ、明燐の顔から色が失われる。


「だから、強くなりたいのですか」

「え?」

「ーー聞きましたわ。何でも、武芸にも挑戦されているとか」

「え、あ、まあ」


 挑戦する筈だったが、実際には訓練ではなく実戦をさせられた。というか、今後の武芸の鍛錬はどうなるのだろうか?


 一応、講師は朱詩だと言うがーー今後鍛錬をしてくれるか以前に、来てくれるかどうか……いや、こちらで生きる本来のこの体の持ち主を連れ戻すと言っていたし、協力うんぬん言っていたから、確実に来るだろうが。


「そうですか……でも、危険な事はあまりしないで下さいな。怪我をしたら大変ですもの」

「あ、はいーーいやでも、自分の身ぐらい自分で守れないと」


 どうしてそこは素直に「はい」で終わらせないのか、自分。

 果竪は反論してしまう自分に思わず突っ込んだ。


「まあーー陛下の妾妃であるのですから、その様な事をせずとも警備の者達が居ますわ」


 確かに居るだろうーー最下位の妾妃以外は。果竪は、ここで暮らすようになってから、一度もそういった警備の者は見なかった。この体を守る為の専属は。巡回もここら辺りには来ていないようだし。


「いや、でも、警備が間に合わない事もあるかもしれませんし、それに陛下に仕える者としては、陛下を守れる力はあった方が良いですし」

「陛下を傷付けようとする様な輩が居るはずが無いではありませんか」

「確かに」


 むしろ拉致監禁した挙げ句に、花嫁にしようとする輩はごまんと居るだろう。それこそ、王妃も一緒に自分の妃にしようとするだろう。


 果竪は迷いなく頷いた。

 その迷いの無い瞳に、明燐は素直に喜べなかった。


「今、何かとてつもなく無礼な事を考えませんでした?」

「いえ、全く」


 考えてない。

 考えてないったら、考えてない。


「でも、やっぱり自分の身は守れないと。一応、最下位とはいえ妾妃ですし、誰がどう利用しようとしてくるか分かりませんから」


 少なくとも、妾妃という地位に居るなら、最低限度の自己防衛手段は確保しなければ。しかし、明燐は相変わらず麗しい笑みを浮かべたまま。


「大丈夫ですわ。それは利用価値がある場合の話ですもの」


 素晴らしいボディーブローだ。

 この体の持ち主に、利用価値など無いと言い切られた。


「ですから、危険な事はしないで下さいな。わざわざ、痛い思いはしたくはないでしょう?」

「……」


 まるで聞き分けの無い子供を諭すような明燐の笑みに、果竪は不快感を覚えた。確かに、明燐の言う通りなのかもしれない。けれど、最初から何をやっても駄目と決めつける、その態度に、果竪は怒りを覚えた。


「正妃様のご心配、痛み入ります。ですが、利用価値うんぬんを差し置いても、最低限自分の身は自分で守れなければならないと思います。それに、怪我を心配されていますが、流石に大きな怪我は筆頭書記官様もさせないかと」


 利用価値が無くても、最下位でも妾妃だしーー。

 いや、後ろ盾の無い下位の妃が【後宮】内で密かに葬られると言った話がないわけでもない。あれ?危ない?いやいや、朱詩はこの体の持ち主の魂を連れ戻したいのだから、体を死なせるような事はしないだろう。


「あ、でもなるべく怪我はしないように致します。ですから、どうか武芸を続けさせて下さい」


 ペコリと頭を下げた。




『ねーさま、ねーさま、ごめんなさい、私強くなるから。だから、だからーー』



 ちがう



『ごめんね、ねーさま、よわくて』



 ちがう



『あのね!!試験に合格したの!!これで少しは』



 違う



『あ……か、カジュ様は、騒ぎの起きている場所に向かわれて。他の武官達が近くに居なくて、それですぐにカジュ様が向かわれてしまって』

『だ、大丈夫ですよ!!カジュ様は正妃様達の特訓を受けておられますし、それに正妃様達はまだまだと言われますが、実際には結構な強さに』



 なら、どうして



『ねー……さま……めん……ね……がん……ば……あの、子……だいじょう……』




 違う!!


 大量の血が流れて、冷たくなっていく体を抱きしめる。


 どうしてそんな、満足そうに笑うの?


 違う


 笑わないで


 そんな顔をしないで


 私は、私は


 こんな、こんな風にさせる為に私はーー




「正妃様……」


 明燐の腹心とも言える侍女の声に、明燐はくすりと笑った。


「本当に健気ですわね」

「正妃様」


 健気と言われた果竪はきょとんとする。むしろ我が儘な気もするが。というか、この世界は果竪が本来生きる世界ではない。だから、ここで必要以上に頑張らず、戻る事だけを考えていれば良い。けれど、学校で叩き込まれた「日々勉強、日々鍛錬、絶対に怠けるな」という言葉は、勝手に果竪の体を動かしていく。


 まあ、それぐらいしないと、不出来で落ちこぼれな果竪など、到底あの学校に通い続けられなかっただろう。


 だから、色々と学ぼうとするのは、もはや今の果竪にとっては息をする様に自然な事だった。だが、それは本来の世界で生きているならば、特に問題は無いだろう。それか、向こうの世界の肉体をもってこの世界に存在しているのならば。


 だが、今の果竪はこちらの世界に生きる別の存在の肉体を借りている状態だ。周囲からみれば、自分達がよく知っている存在が突然別神になった様な衝撃を抱くだろう。


 そうーーそうだ。

 それを忘れていた。


 今のこの体は、果竪のものではない。


 そして、その事について知っているのは朱詩だけだ。

 朱詩から他の者達に伝えられた可能性もあるが……それならば、そういう話が真っ先になされているだろう。いや、もしかして事情を知っていてわざと今まで通りに振る舞っているのだろうか?


 明燐は相変わらず麗しく微笑んでいた。


 うん、全然分からない。


 ただ、もし事情を知らないとすれば、自分達の知る存在がおかしくなったと思われる可能性だってある。この体の持ち主は、離宮に引きこもり気味だったようだし、それこそ現在は講師も満足に付かないうち捨てられた様な状態だったと言うし。


 まあ、勉強したいと言うだけなら、突然一念発起したと思えば良いのかもしれないが……。


「そうですか……では、仕方ありませんわね」


 明燐は溜息をついた。

 その前に、新しいお茶が差し出される。

 果竪の前に置かれたお茶も取り替えられた。


「本当に困った子なのですから」


 茶器を手に取り、明燐はそれを一口口に含む。本当に困り嘆いている明燐に気づき、果竪は気まずげに自分もお茶を飲もうとした。


 その手が、茶器を口に付ける寸前で止まる。




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