第4話 瞳の色と偽物
「畝、完成していたわよ」
茨戯が、どこか視線をそらせながら言う。
「次は種の購入だって」
上層部であり、医務室長ーー修羅も視線を逸らしていた。だがその横顔すら美しく麗しかった。そして体を動かす度に揺れる胸の存在感の何と素晴らしい事か。
修羅は、希少な両性具有の中でも更に希少な男女両方の生殖機能を持った存在だ。体付きは女性よりだが、股間にはしっかりと男性の証がある。だが、中身はどこまでも【男】の彼。例え、見た目は絶世の美少女であり、その蠱惑的な肢体を白衣に包んだ事でよりいっそう淫靡で背徳的な色香が漂わせていようとも、【男】。それもかなり苛烈な部分を持つ修羅にしては珍しく、言葉を詰まらせていた。
「というか、種の購入代はどこから」
「自分の食費を削ってた」
「……」
最下位の妃にあてられる食費。それを果竪はどうやってか削り、そこから種購入の予算を作り出していたのだった。
ズドドドドドドドドドド バタン!!
「お前はアホかっ!」
「私にあてられた予算をどう使おうが勝手です!迷惑かけてないっ」
驚愕の事実が判明するやいなや猛スピードで怒鳴り込んできた明睡の怒声にも負けず、妾妃は言い返してきた。
確かに、決められた予算の中から出している。全く迷惑をかけていない。食費だって削った分で出せる物を作って欲しいと【後宮】の料理神達に頼んだ。
だが、その際の説明で
「最近、太ってきたのでダイエットしたいんです!陛下の御威光を傷付けない様に、自分を美しく磨きたいのです!」
と、最もらしい事を言ったそうだ。
だが、料理神達も馬鹿ではない。いや、そもそも最下位の妾妃のどこに削るべき余分な肉があるのだろう?という疑問にまず行き当たった。
果竪の体型は寸胴だが、余計な肉は一切ついていない。
その状態でダイエットなんて言えば、それこそ自分の体型を正確に理解出来ていない障害が発生しているだろうし、理解出来てそれとなれば単なるダイエット狂だ。
一応、料理神は妾妃達の健康も司っている。医師達が主体となっているが、医食同源という言葉があるように、食事は健康には欠かせない重要なものだ。食事量が減っていないか、嗜好が偏っていないか、体調が悪い時や病気の時の食事はどうするか等、料理神達は日々医師達と協力して妾妃達の健康の為に尽くしている。
そんな優秀過ぎる料理神だ。
ダイエットの必要のない最下位の妾妃のダイエット宣言に疑問を覚えても仕方が無いだろう。それで、何かを企んでいるのでは?という情報が上に上がってきたのだ。
企むと言うのは語弊があるが、その削って出来た予算で一体何をするのかと思った。因みに、削った分の予算をまずその当神が手に出来るのがおかしいのだが、何故か妾妃はちゃっかりとその予算を手にしていた。
「衣装代の足しに」
とか言ったらしいが、絶対に違う。
特に服装に厳しい茨戯は、妾妃が心底衣装や装身具に興味がない事に気づいていた。
おかしくなる前の妾妃は、もう少し衣装や装身具に興味があったと思うのだが。
「マジでふざけるな!何がダイエットだ!!膨らませる所も膨らませないで何を削る気だ!!えぐる気か?!」
「クレーターの何が悪いんですか。むしろ、そこに埋まる隕石は多くのコレクターに大神気なんですからねっ」
「それは隕石だろ!!クレーターは違う!!」
「盛り上がっている所があれば平らなところもえぐれた所もある!!神生だって浮き沈みの起伏があるんですから、大地にあったって不思議じゃ無いです!!」
「何雄大な感じで纏めてんだ!そんなに陛下の為を思うなら、その真っ平らな胸を少しでも膨らませる努力をしろっ」
「宰相様」
果竪は静かに言った。
「どんなに手入れをしても、どうにもならない土地というのはあります」
いや、離宮周囲の荒れ地をしっかりと耕したお前が言うのか?
「でなきゃ、そもそも土地を巡って他国に侵略する国なんて出てきませんっ」
それは確かに言えるがーー。
いや、中には自国の土地を耕すのが面倒くさくて、最初から豊かな土地を奪おうと考える国も居るのであって、うん。
「なので、そんな手入れをしても無駄な土地をどうこうするより、最初から豊かな土地を手に入れるべきです。新規開拓しましょう」
「ちょっ、おまっ!それは、新しい妾妃を【後宮】入りさせろって事か?!」
「その為の【後宮】じゃないですか!妃の居ない【後宮】なんて売り物がない店の様なものですっ」
夢の世界の凪国【後宮】は酷かった。何せ、妃が一神、正妃だけしか居なかった。あれで【後宮】を名乗るのは、かなり失礼である。
まあ、向こうでは若い時の果竪は【後宮】に別の女性が迎えられるかもしれないという話が出るだけで怯え、嘆き悲しみ、鬱々としていたが、今の果竪は違う。
それは、夢の世界の最後らへんで夫に愛されていると分かったからーーと言うよりは
「私が間違っていたわ。正妃なんて……王に愛されるなんて、分不相応。というか、それより国政に関係ない妾妃として好き勝手やっていた方がどれだけ気が楽か」
とんでもない贅沢をせずに、普通に慎み深く暮らしていれば周囲だって文句も言わないだろう。それで三食昼寝付きで、時々王の相手をしていれば良いのだ。子供も他に沢山産まれれた後で産まれれば、王位継承権で揉めないだろうーーと言うのは、夢の世界での従姉妹だった寿那こと津国王妃となった芙蓉のお言葉である。
それに賛同する各国王妃のなんと多かった事か。
果竪も色々と経験するうちに
「地位よりも愛されているという事が大事なのね」
と思う様になった。
とはいえ、流石にこの世界で明燐が萩波の正妃となっているのには、色々と堪えるものがある。だが、果竪にとっては、萩波も明燐もどちらも大切な存在であるのは変わりない。
ただ、それは夢の中での感情がそのまま今の自分に適用されているのかは分からない。何せ、果竪はここで生きてきた記憶がとんと無いのだから。
夢の世界では大切だった。
でも、ここではどうなのだろうか?
もしかしたら……。
そんな風に思う事がないわけでも無かった。けれど、どうせなら萩波と明燐を好きなままの自分で生きていきたい。そう思う自分が居る。
彼らを悲しませたくない。
だからーー。
「はっ!新規開拓は駄目だわ!」
突如、果竪は自分の考えの矛盾に気づき愕然とした。
というのも、現在果竪は【後宮】を卒業、すなわち妾妃を辞める為に頑張っている。それは、明燐を悲しませない為である。やはり、女性と言うものは一番愛されるだけでなく、ただ一神の相手として一番愛されたいものだろう。
だから果竪が【後宮】を卒業する事は、一神無用な妾妃が減り、明燐を悩ませる頭痛の種が減るという事に繋がる。
他の妾妃達の場合は、色々と政治的な部分が関わっている者達も居るから一筋縄ではいかないだろう。もしかしたら、萩波が気に入っている相手も居るかも知れないし。
それに、他の妾妃達は明燐を崇拝している部分もあるし。
そう、百歩譲って今居る妾妃達は減らせないとしても。
そこに新たに加えては駄目だ。
新規開拓と言う事は、新しい女性達を妾妃として【後宮】入りさせる事になる。その中で、もし明燐に対して敵対心を抱く者が居たら?もし明燐に危害を加える者が居たら?もし明燐を悩ませる者が居たら?
「やっぱり新規開拓は辞めましょう。現状の土地でどうにかしましょう」
「あ、ああーーって、妾妃を土地と表すのは辞めろ。お前何気に失礼だぞ」
そう告げた明睡だが
「あ、でも、別に手入れをする必要はありませんね」
「は?」
「だって、基本的にこの国の【後宮】の妾妃達って豊かな胸をしているじゃないですか」
そういえば、挨拶の儀式の時に見た妾妃達はどれもこれも素晴らしい胸をしていた。大きさも形も、服の上可にでも分かる見事すぎる胸だった。
「一番は正妃様ですけどね」
「当たり前だろう!」
と、言い切る明睡。そこは言い切っていいのかどうか疑問だが、果竪は突っ込まなかった。
「というか、正妃様及ぶ妾妃様達全員が素晴らしい豊かな膨らみをお持ちなんですから、もう良いじゃないですか」
「あ?」
「一神ぐらい、えぐれてても」
「……」
「それとも、陛下はご自分の【後宮】に一神であってもえぐれているのは存在しては駄目という事ですか?」
それ、どんだけ狭量な巨乳好きだよーーと、明睡は思うだけに留めた。口に出したらとんだ不敬罪である。
「まあでも、国によっては【後宮】入りの最低条件として巨乳がある所もありますし」
因みに、美しさは言わずもがなな必須条件だろう。
むしろ、美しくもなく強力な後見も無い落ちこぼれの果竪が【後宮】に存在している事がおかしいのだ。
「あ、でもそれなら、私は【後宮】に居る条件を満たしてないって事ですよね?」
ただし、果竪の場合は萩波が同情で【後宮】に置いてくれていて、【後宮】に置く為に妾妃という地位を授けてくれたのだろうから、条件うんぬんはある意味関係ないだろう。
ただ、同情うんぬんで保護するならば、もう少し位の高いーーこれでも一応幼馴染みなので、もっと高位の妾妃でも良いと思うのが一般的かもしれないが、果竪の場合は余りに落ちこぼれすぎてそれも出来なかったのだろう。
というか、周囲が許さないだろう。現在の【後宮】に居る他の妾妃達は、それはそれは美しく聡明な者達が多いと聞く。
いや、それ以外にもきっと理由はある。
例えば、正妃である明燐に心労を与えないように、彼女の心を気遣って、同情で【後宮】に保護されているだけに過ぎない存在など遠くにやってしまおうとーー確かに最下位の妾妃であれば、正妃の視界に入る事は殆ど無いだろう。
明らかに位が違いすぎるし、まず周囲が許さない。
あれ?それにしては、明燐はよく果竪の様子を見に来てくれている。
それって、明燐の心労を増させてしまう行為にならないだろうか?
明燐は優しいから最下位とはいえ、自分の夫の幼馴染みを気遣ってくれているのかもしれない。夢の世界での関係ならまだしもーーそう、夢の世界では友神だった自分達。
だが、ここでの果竪と明燐の関係は妾妃と正妃。確かに大戦時代に同じ軍に居たのかもしれないけれど、きっとずっとずっと夢の世界とは違ってその関係も立場も遠いものだったに違いない。
そもそも、今の果竪の状況を考えれば、そう信じるだけに十分なものがあった。
というか、明燐の周囲は何をしているのだろうか?
敬愛する王妃が健やかに暮らせるように気を配り、配慮し、時には主の間違いを諫めるのが周囲に仕える者達の役目ではないだろうか?
何かを考え込んで黙ってしまった果竪に、明睡は嫌な予感がした。
翌日ーー
「宰相様!どうにかして下さいませ!」
明燐付きの侍女が、宰相の執務室に乗り込んできた。
「一体何なんだ」
とても嫌な予感がしたが、とりあえず明睡は執務の手を止めて聞いた。
曰くーー
「王妃様、いつも箸にも棒にもかからぬ卑小な私の所に来て頂きありがとうございます。王妃様の多大なる慈悲と慈愛の光に照らされ、天にも昇る気持ちでございます。ですがーー」
なんて色々と言っていたらしいが、要約すると、あの最下位の妾妃は
私の所に来るのは王妃様にとって全く為にならないので、来ないで下さい
と言ったらしい。
しかも、言い回しが的確かつ無礼にならない、むしろ思わず聞き惚れる様な素晴らしい言葉遣いで、詩的な表現も盛り込み、それこそ公式の場で十分に通用する様な形で伝えたらしい。
侍女達は、日頃の学習の成果に驚くと共に、にっこりと笑って言外に「帰れ」と言っている妾妃に驚いた。確かに、最下位の妾妃の所に正妃が何度も訪れるのは外聞的にも余り良くないだろう。好意的な見方をすれば、夫の他の妻ーーそれも最下位の妾妃にも優しく接する心優しく広い心を持つ正妃の寛大さを周囲に知らしめる行為である。しかし、中には……いや、かなりの者達が、敬愛する美しい正妃が最下位の妾妃に関わるのを良しとしない。
正妃の隣に立てるのは、陛下だけ。
そして、正妃に近づけるのは、限られた中のごく一部の優秀な選ばれし者達だけなのだーーそう信じてやまない者達も多い。
その中に上層部は当然含まれている。
ただ、上層部側としては、自分達が選ばれし者ーーと認識している者達はどれだけ居るか。むしろ、居ない気もする。
選民選別。
上層部にとっての嫌いな言葉である位だ。
話は逸れたが、とにかくあの妾妃は正妃が自分の所に来る事を拒絶したのだ。
明睡はすぐに時間を作って妾妃の所に行った。
そして、すごすごとーー最早そう言うしかない様子で戻ってきた。
「なんか逆に説得されたんだって」
「正妃様の御威光に傷を付けたらどうするんだって」
「で、明燐は」
「部屋に引きこもってる」
再び部屋に引きこもってしまった明燐に、上層部は頭を悩ました。自分達にとっても大切で大事な愛しい少女なのだ。
中には、明燐を引きこもりにさせた妾妃の所に勇んで説教しに行った者達も居たがーー
「萎れた花だな」
上層部は美男美女揃い。特に、男性陣は大半が男の娘と呼ばれる、そこらの美女が裸足で逃げ出すような絶世の外見は美女美少女揃いである。そんな彼らは花と称される事が多い。
特に勇んで行った者達の大半が男の娘だった。そんな彼らは、しなしなと萎れた花のようにーーそれでも美しく、憔悴した様すら色っぽく、多くの男達を悩殺していったが、それに気づかずに自分達の本拠地に戻ってきた。
そして、こう告げるのだ。
「負けた」
「言い負かされた」
「しかも、熱弁で」
自分は正妃様を心配しているのだ。
正妃様が自分の様な卑小な存在に関わる事でご心痛を増す事だけは許されない。
最下位の妾妃と接する事で、正妃様の御威光が傷ついてしまう。
そもそも、多くの者達に崇拝される正妃様がこの様な場所に足を運ぶのは問題だ。
だからといって、自分が正妃様の所に行くのは非常に恐れ多い事であり、許されない事だ。
と、言う事を切々と告げられたらしい。ぐうの音も出なかったとか。
「では、あの娘についての報告を」
「……はい」
その月の上層部が揃う定例会議。
前回、前々回と回数を重ねるごとに、王に命じられて果竪の事を報告する女官長ーー百合亜の報告に戸惑いと惑い、そして言葉には出来ない色々なものが入り交じる様になった。しっかりと報告はするが、以前の様な打てば響くようなーー感じではなく、どこか恐る恐るといった感じである。
「その、学業の成績の方は相変わらず……「優」です」
普通は喜ばしい事なのにーーなんだろう?この残念感は。普通なら教え子が優秀だと言われて喜ばしい筈の講師役達は、何故か両手で顔を覆っている。
「……そうですか」
相変わらず麗しい萩波の顔には、何とも言えない憂いの表情が浮かんでいた。それがまた非常に艶めかしいが、それを凌駕する残念娘の存在に色香溢れるこの国の統治者の姿を目の当たりにしながら、上層部の顔色はとても暗かった。
「あのーーご報告したい事が」
「大将軍」
「構いません、発言を許可します」
国の大将軍を勤める男の挙手に明睡が咎める様に口を開くが、萩波がそれを制した。発言を許可された大将軍は、口を開いた。
「その妾妃から、先日懇願がありまして」
「はい?」
「畑仕事で必要な体力がついたので、是非とも武芸の授業もお願いしたいと」
礼儀作法や歌舞音曲、その他武芸でも学問的な物は講師が既につけられていた。しかし、今回頼み込んできたのはーー。
「つまり、訓練?」
体を使った訓練の方である。
「はぁ?!何ふざけた事ぬかしてんのよっ!いくら畑仕事をしてたって、そこまで体力なんて」
茨戯が叫ぶが、大将軍の顔色を見て黙った。
「え、……ちょっと」
「素晴らしい二の腕でした」
ほっそりとした手足だが、しっかりと筋肉がついているらしい。
「……筋肉……」
「それは素晴らしかったです」
その時、その場に居た上層部の大半ーー男の娘と呼ばれる者達は、言葉では表しきれない複雑な心境に苛まれた。中には、どんっと床を叩き、壁を叩き、ギリギリとハンカチをかみしめ、ぶつぶつと呟きーーとにかく。
なんで、俺達が欲しくても得られないものをあいつがぁぁぁぁぁああっ!
と、ムキムキなどほど遠い、むしろ筋肉って何?と言わんばかりに雄々しく逞しい筋肉を得られない蠱惑的な肢体を持つ男の娘達は激しく嫉妬した。
「……まあでも」
百合亜が小さな声で呟いた。
「この前、様子を見に行かせた部下の女官の報告では、毎日朝起きたら走り込みをしているそうですし」
え?
「昼前には腹筋、腕立て伏せを数百回こなし」
え?
「その他にも、色々と体を鍛えて」
はいぃぃぃいいいっ?!
「アレは何を目指してんのよっ!」
「ってか、ムキムキ?!ムキムキになるつもりか?!」
「素晴らしい腹直筋だったそうです」
ほんのりと頬を赤らめ、妾妃の引き締まった腹部をうっとりと語る百合亜の側近女官。百合亜の信頼厚い彼女は名高い美女として多くの男達を虜にしながら、数ある求婚を拒み続ける孤高の花。そんな彼女の頬を染めさせる妾妃ーーそれも、以前は箸にも棒にも引っかからぬ落ちこぼれだったと言うのに。到底、彼女が視界に入れる事すらない、存在だったと言うのに。
「それで、その、どうしましょうか?」
妾妃が訓練を受けたい。しかし、そこには萩波の許可が必要となる。本来は陛下の寵愛を得る為に【後宮】にて自分を磨くのが妾妃である。妾妃にとって大切なのは、次代の世継ぎを産む事だ。それこそ、余程の武芸馬鹿な主君でもない限り、妾妃が訓練を受けて喜ぶ男は居ないだろう。
房中術の訓練ならばまだしも。
「……まあ、自分の身を自分で守れるのは良い事でしょう」
「へ、陛下ーー」
青ざめた明睡が止めようとするが、萩波はそれを片手を上げる事で制する。
「ただし、貴方達も忙しいでしょう。講師役は」
その時、一本の腕が上がった。
「ボクがやる」
「朱詩?」
筆頭書記官ーー朱詩の挙手に、上層部がざわめく。
「ボクがやる。それとも、ボクじゃ役不足?これでも、一応一通りの事は学んできてるつもりだけど」
一通りどころの話ではない。
実戦経験も豊富な朱詩は、確かに講師役には最適だろう。
「ーー珍しいですね、貴方がこういう事に首を突っ込むのは」
茨戯と明睡が講師役となりながらも、彼だけは講師役を引き受けなかった。そんな朱詩が、ここに来て自ら講師役に立候補するとは。
萩波の指摘に、朱詩はくすりと笑う。その滴るような色香に、この場に居た上層部が知らず知らずのうちにゴクリと生唾を飲んだ。
自分達も容姿や色香を褒め称えられるが、それでもこれとは違うーー。
たぶん、上層部の中で最も色香があると言われるのは、萩波を除けばこの朱詩だろう。彼が本気になれば、涸れ尽きた瀕死者さえその欲望を掻き立てられるだろう。例え、厳しい修行を乗り越え性欲を切り捨てた神官や巫女達ですら、全てを投げ出し朱詩の足元にひれふするに違いない。
「ねぇ、お願い。もちろん、本業は投げ出さないからさ」
上目遣いで、甘く囁くように主君に懇願する様は、きっと凪国【後宮】に居るどの妾妃達よりも麗しく美しいだろう。
「とても熱いお願いの仕方ですね」
「絶対に手に入れたいからね」
端から見れば、主を誘っている様にしか見えない朱詩の姿に、明睡は溜息をつき、茨戯はやれやれと首を横に振った。他の上層部達はまだ、朱詩の放つ甘やかな色香に動けないで居る。
「分かりました。貴方に任せましょう」
「ありがたき幸せ。ボクの全力を持って、陛下のご聖恩に報いましょう」
そう言って微笑む朱詩の笑みは酷く妖しく艶やかなものだった。
「……」
毎朝四時起き。
朝食前に畑の整備と言う名の雑草抜きに勤しみ、必要とあらば水まき。
その後、朝の走り込みを行い、時間が余れば離宮の周りの掃除。
そうしてようやく、朝食を食べてまた畑仕事をしていた妾妃の姿に、離宮を訪れた朱詩の視線は厳しかった。
「あ、筆頭書記官様」
「……元気そうだね」
「はい!とても毎日が充実してます!」
なんたって、畑仕事が出来る。愛しい大根達が着実に育っているのを間近で見られるこの幸せは、何物にも代えがたい。
「これが、君が育てている畑?」
「そうです!素晴らしいでしょう?!この大根畑!!」
「……他の野菜は」
「え?」
「え?」
どうやら、他の野菜は妾妃の頭の中には無いらしい。
「それで、筆頭書記官様はどうしてここに?」
果竪は朱詩が此処を訪れた事を純粋に驚いていた。
あの日、遭難しかけた果竪の前に現れた朱詩。それから、朱詩は一度として果竪の前には姿を現さなかった。
まあ、こちらの世界での果竪は、所詮同情から【後宮】の片隅に存在する事を許されている最下位の妾妃だ。出世し、王の側近として名高い朱詩がわざわざ会いに来る方が普通ではないのだ。
ーー茨戯や明睡、他の上層部は来てるけど……講師役として。
よくよく考えると、かなり普通ではない日常を送っている事に気づいた果竪だが、頬に風を感じて我に返る。
「……筆頭書記官、様?」
果竪の頬ギリギリに突きつけられたのは、朱詩の持つ刀だった。
「訓練、するんだろう?」
「え、えっと」
「自分で望んだのに、まさかやめたいとか言わないよね?」
「あ」
確かに果竪が望んだ。けれど、いきなり突然ーーいや、それよりも講師が朱詩だなんて。
戸惑う果竪の足元に、刀が音を立てて転がされた。
「拾えよ」
「あ、あの」
「じゃないと、死んじゃうよ?ボクは甘くないから、さぁ」
朱詩が妾妃の頬ギリギリに突きつけていた刀を大きく振り上げる。果竪は弾かれたように、足元に落ちていた刀を手に取り。
鞘から抜かれていない刀を横にし、朱詩の一撃を受け止める。ビリビリと全身に痺れが駆け抜ける。しかし、そのまま押し切られるわけには行かない。果竪は朱詩の隙を突いて受け流すと、そのまま後ろに距離を取った。
「へぇ?やるじゃないか」
「い、いきなり何を!」
「凄い凄い!これなら、ボクが訓練なんてする必要ないよねーーまあ、最初から訓練なんてするつもりもないけど」
「え?」
一瞬その言葉に動きを止めた果竪だが、それが悪かった。朱詩が一気に間合いを詰めてくる。
「ほらほら、しっかり避けないと死んじゃうよ!!」
「っーー」
朱詩が強い事は分かっていた。夢の世界でも朱詩は強い。普段は文官だが、よく軍部で武官達相手に試合をしていたし、実戦経験も豊富だった。ただ、刀は朱詩が苦手な武器の一つでもあった。
しかし、それにも関わらず、これ程ーーいや、夢の中の朱詩と現実の朱詩は違う。
「足が留守だよ!」
朱詩が足元に刀を振るい、果竪はそれを跳躍して交わす。しかし、大きな隙が出来た。
「まだ鞘から刀を抜けないの?はは、遅いよ!」
「い、いきなり、どうしてっ」
「どうして?」
朱詩がその長い足で妾妃の顔面を狙う。それを刀で遮るが、強力な一撃を完全に防ぎきるには至らず、妾妃の体は後ろに吹っ飛ばされた。
「きゃっーー」
けれど体勢を立て直す暇は無かった。
仰向けに倒れた果竪の上に、朱詩が馬乗りになる。その首筋に、刀が突きつけられる。
「チェックメイトーー」
「あ……」
朱詩の艶やかで可憐な顔立ちが、果竪の顔に覆い被さるようにして近づく。
「さて、勝者は欲しいものが得られるよね?」
「……」
相変わらずの淫靡で怠惰な色香を放ちながら、朱詩は楽しそうに笑う。けれど、その笑みに見惚れられる程、果竪は現状に疎くはなれなかった。
先程、自分を切りつけてきた朱詩は本気だった。敵とみなした者にだけ見せる、その笑み。壮絶なまでの色香を放ちながら、冷たいその笑みは、正しく死神のそれ。
「ボクが欲しいのはただ一つ」
朱詩は果竪の耳元を嬲るように囁いた。
「本物のカジュをどうした?この偽物」
あれは全て夢の中での出来事だった。
この世界で、現実で目を覚ます度に、思い出される夢。
いや、もう寝てもあの世界には行く事が出来なかった。
このまま目覚めず、夢の世界で生きていきたい。あの、夢の世界の中に戻りたい。
そう思わなかったと言えば嘘になる。
けれど、今の果竪はこの世界で生きていて、こちらが現実で。
だから、必死で頑張ってきた。
この世界が現実で、生きていく世界なら、ここで生きていくしかない。
ここで頑張るしかないのだ。
夢は甘美だった。
もちろん、大変なことも辛いことも、悲しいことも沢山あった。
だが、それ以上に嬉しい事、楽しい事もあった。
愛する神に愛されて、沢山の友神や仲間達に囲まれて。
本当に幸せだった。
学校での辛い勉強も耐えられた。
今まで沢山迷惑をかけて……だから、学校で頑張って勉強して、いつか、いつかーー。
立派な王妃として凪国に戻ろうと思った。
なのにーーそれらは全て夢だった。
それを思い知らされた時の絶望が他の者達に分かるだろうか?
どれほどの絶望が、自分を打ちのめしたかを。
嘆き悲しみ、叫び罵り、暴れ回って全てを壊したいと願う気持ちを、どれ程の努力で抑えつけたか。
泣かなかったわけではない。
夢を恋しく思わなかったわけではない。
この残酷なる現実を呪わなかったわけではない。
けれど、どんなに夢が恋しくても、夢の中に逃げたくても。
夢はいつか覚める。
あの夢が酷く現実的だったのは、きっとこの世界で生きていた自分が酷くそれを望んでいたからだ。
最下位の妾妃。
夢の中で愛した男性は、現実では果竪にとって大事な友神を正妃として迎えていた。妾妃達だって沢山居る。
上層部との距離も遠く、高い高い壁が存在する。
【後宮】の片隅で、ひっそりと存在する事だけを望まれていた。
教育だって満足に受けていなかった。それぐらい、ここでの自分は落ちこぼれて、周囲から呆れられ見放されてしまう程の駄目駄目さ加減だったのだろう。
何も出来なくて。
誰からも期待されてなくて。
それでも同情から、【後宮】の片隅に置かれて。
目覚めてから、果竪なりにここでの自分の境遇を探った。
それは限られた情報ではあったけれど。
ここでの果竪は酷く孤独な存在だった。
誰からも必要とされず、誰からも愛されず。
友神と呼べる者達も居なかった。
大戦時代ーー軍に所属していた時からお荷物だった。
夢に逃げたくもなるわけだーー。
仲間が居て、友神が居て、愛する神が居てーー。
王妃になりたかったわけではない。
ただ、私は、私はーー。
「『頑張って生きていこうとしているだけなのにっ!』」
果竪は自分に刀を突きつける朱詩を睨み付けた。
「頑張って必死にこの世界で生きていこうとしているだけなのに、どうして偽物呼ばわりされなきゃならないのっ!」
夢の世界にはもう戻れない。
どんなに苦しくたって、この世界で生きていくしかないのだ。
「何も出来ない頃の自分が嫌で、だから頑張ってーーそれだけでどうして偽物呼ばわりされなきゃならないの!私は」
「……はは」
朱詩がクスクスと笑い出す。
「どうして?」
「そ、そうです」
朱詩の笑いに、果竪は頷く。
だってそうでしょう?ただ頑張って、出来るようになっているだけなのに、何故偽物呼ばわりをされなければならないのか。
「じゃあ君は自分を何だと思うの?」
「何って、私は果竪」
「だから偽物のだろう?」
「っ!だから偽物って何ですか?!どう見ても私は本物」
「ほら、やっぱりそうだ」
朱詩が馬鹿にした様に笑い出す。本当におかしくてたまらないと言った様に。
「そうだ、そうだ、そうだ!やっぱりお前はカジュじゃないっ」
「なっ……」
「本物?!あははは、ちゃんちゃらおかしいよ!カジュなら絶対に言わないよ、そんな事!」
言わない?
「だって、カジュ自身が誰よりも分かっている!」
どうしてだろう?
朱詩が果竪の名を呼ぶ度に、違和感を感じる。
「そうーーカジュは理解していた。自分が」
駄目だ、これ以上聞いては。
けれど、耳を塞ごうとする手を押さえられ、その耳元に甘い毒を注がれる。
「偽物だって事を」
偽物?
「ふふ、やっぱりお前はカジュじゃない。ふふ、はは、あははははっ!」
果竪の首筋から刀が離れる。けれど、相変わらず朱詩は果竪の上に馬乗りになったままだった。
「ひ、筆頭書記官、様」
果竪が震える声で呼べば、朱詩はようやく笑うのを止めた。
「ねえ?お前は誰?」
「誰って……」
「お前はカジュじゃない。カジュは自分が偽物だと理解していた。それにーーカジュは何も出来なかった。どれだけ教えても、学ばせても、何にも出来ない落ちこぼれ。ただの穀潰し」
「っ……」
「陛下のご聖恩のおかげで、【後宮】の片隅でひっそりと生きる事を許されただけの存在。大戦時代から、軍に居た時から何にも、何にも出来なかった」
「私、は」
何も出来なかった。
そう……夢の世界でもそうだった。
けれど、夢の世界ではそんな自分が嫌で、必死に頑張って。
夢で出来たのだ。
だから、この世界でも。
この世界でも、きっと変われると信じて。
「まあ君はカジュじゃないから仕方ないけど……でも、もし仮にカジュだとしても、どうして今更こんな事をするんだろうね?」
「今、更?」
「どうせ何をしても無駄なのに」
「む、無駄……」
「そうだよ。思い知ったでしょう?どんなに頑張っても、どんなに努力しても、所詮偽物は偽物なんだって。本物には敵わないんだって」
朱詩は何を言っているのだろう?
いや、偽物と言うなら本物が存在するわけで……。
「思い知って、引きこもって、どうせ自分は出来ないんだってウジウジしてさ……ああ、本当にむかつく、むかつくんだよ。何だよ、その笑顔。いつも泣きそうな顔ばかりして、暗い顔ばかりしていたくせにっ!」
朱詩が胸倉を掴み、果竪を自分に引き寄せる。
「全部自分が偽物だから、所詮は本物になれないって言うのが口癖だったくせに!」
「わ、私ーー」
「ああ、自分を本物と思っている偽物さんには関係ない事だよね。もういいや」
朱詩は果竪の上からどける。
どけて、手を伸ばす。
「っ!」
その手を払いのけ、果竪は走り出した。後ろから制止の声が聞こえるが、それを振り切って果竪は自分が寝泊まりする離宮に駆け込み、鍵をかける。
そしてそのまま、私室として使っている部屋に入る。
「私が……偽物?」
そんな事、ある筈が無い。
自分が偽物なら、今の自分は一体誰だと言うのか?
偽物なんかじゃない。
そうーー顔形も……。
そこで、果竪は気づく。
顔形も何も……よくよく考えれば、果竪は目覚めてから自分の顔を見た事が無かった。私室には鏡が無い。だから、挨拶の儀式に行く時も、身繕いするだけで一苦労だった。
ただ、そういった公式の儀式さえなければ客神も来ないここでは、それ程気合いを入れて身繕いする事も無かったので、そのうち鏡が無くても問題なくなった。
まあ、講師役が来ては居たけれど、勉強に着づらい衣装などは必要ないので、やはり鏡は必要なかった。
ただ、いくら狭い離宮でも、一つも鏡が無いのは確かに気になっては居た。
鏡があった様な形跡はあるのにーー。
そう、丁度壁に鏡がかけられていた様な、跡が。
「ここに逃げ込んでもどうにもならないと思うけど」
背後から響く声に、果竪が弾かれる様に振り返る。
「ふふ、お前も意外と悪足掻きするねーーいや、意外でも何でも無いか」
朱詩の手が伸びる。
それを振り払い、果竪は窓を開け放ち、そこから飛び出した。
「ふふ、鬼ごっこ?!じゃあボクが鬼だね!!」
朱詩の狂った様な笑い声を背に、果竪は走り続けた。
途中で何度も転び、着ている服が木の枝にひっかかっては裂けていく。それでも構わず、走り続けた果竪は、自分があの日目覚めた建物の近くまで来ている事に気づいた。
そうーー全てはあそこで始まった。
果竪はそこに向けて走ろうとして、バランスを崩して転んだ。
「っ……痛い」
だが、そこで気づいてしまった。
いや、転ばなかったら大変だった。
果竪のすぐ目の前には、池が広がっていたのだから。
このまま突っ走っていたら、間違いなく池にはまっていた。
「あ、危なかった……」
自分がいかに混乱していたか分かるぐらいの見落としだ。
その池は、太陽の光に照らされキラキラと輝いていた。それこそ、水面が鏡のようになっていた。周囲の景色を移し込む程の鏡面をのぞき込んだ果竪は、「ひっ」と声を上げた。
「あ、あ、あーー」
なんで……。
まるで鏡の様な水面に映る自分の姿。
顔形は何も変わらない。
ただ一つ。
「わ、私の、目」
そう、瞳。
産まれてからずっと持ち続けていた勿忘草色の瞳。
それは今、美しい菫色をしていた。
「あ……」
まるで萩波の赤い瞳と自分が知る勿忘草色の瞳を混ぜ合わせたかの様なーー色。
「どうして、私の、瞳ーー」
果竪の瞳の色は勿忘草色だった。
そう、勿忘草色だったのに。
「確かに、【本物の果竪】の瞳は、勿忘草色だったって話だよ」
呆然と水面の中の自分を見つめる果竪の後ろに、朱詩が足音を立てて近づいてくる。
「何で……私の、瞳」
「だから、偽物だって言ったでしょう?ってか、どうしてそんなに驚くの?偽物だとしても、成り代わる相手の容姿ぐらい熟知している筈でしょう?ーー凄い顔だね」
朱詩は果竪の顔色を見て小さく舌打ちした。
「まあいいよ。確かにカジュには何度も言っていたけれど、お前には言ってなかったしね。そうーー確かに【果竪】の瞳は勿忘草色だよ。でも、どんなに頑張っても同じ色には出来なかったんだよ。おかしいよね?みんなで頑張ったのにさぁ」
「……」
「修羅も忠望も、みんなで頑張ったんだ。なのに、何度頑張っても絶対に違う色にーー勿忘草色の瞳は創れなかった」
「創、る?」
「それも知らないの?ああ、まあこれは秘密事項ではあるか。ふふ、いいよ。教えてあげる。カジュはーー今現在最下位の妾妃として存在するカジュはボク達が創ったんだ」
ボク達が作った?
「そう。萩波の故郷の村に住まう村神達が殺された時に、本物の果竪は死んだんだ」
え?
本物の果竪が、死んだ?
夢の世界ではーーいや、夢とここは違う。いやでも、それなら今の自分は。
「悲惨なものだったよ。村は焼かれ、殆どの村神達は黒焦げになっていた。それでも、本物の果竪はご両親が守ったんだろうね……黒焦げとなったご両親に抱かれて、少しだけ、少しだけマシな状態だった。けれど、陛下をおかしくさせるには十分過ぎた」
この世界の果竪は死んだと朱詩は言う。
死んだ?
「それでも陛下は軍を率い、軍に所属するボク達を守って下さった。ボク達にとって陛下は大恩ある存在だ。そして、果竪が死んでも投げ出さずに自分の役目を果たそうとされた。だからーーボク達で決めたんだ。秘術を探し出し、死んだ果竪の遺体の一部から取り出した細胞を培養し、【果竪のクローン体】を創った」
クローン?
「それが、カジューーこの国の【後宮】の片隅でひっそりと生きる、最下位の妾妃だよ」
朱詩の告白に、自分の正体を知らされた果竪は、何も言うことが出来なかった。喉が酷く乾いて、引きつる。
「本当に大変だったよ?神一神を神工的に創り出すんだ。まあ、人間界では老化した細胞を使うとそれだけ寿命が短くなるようだけど、神の場合にはそれは適用されない。そうして頑張って創り出したのは、瞳の色だけを除けば、本当に本物にそっくりだった。そう、笑う事すら忘れていた陛下が、思わず微笑む程にーー」
なのにーー
「やっぱり偽物は偽物だった。本物の果竪もそれ程優秀ではなかったようだけど、それ以上にカジュは何にも出来なかった。でも一番許せなかったのは、【本物の果竪】の身代りにすらなれなかった事だよ。本物の代わりとして陛下を慰める存在のくせに、事あるごとに【本物の果竪】との差を見せつけた。陛下を悲しませた。だから、だからーー」
朱詩が苛立たしげに呟く。
「だからって、こんな面倒事にこっちを巻き込むなんてーー」
手を握り締めたかと思うと、その手を伸ばして果竪の肩を掴む。
「もう良いだろう?さっさと、カジュを戻せ」
「あ、わ、私は」
「お前はカジュじゃない!良いからさっさとあの偽物を戻せって言ってんだよっ」
「私はーー」
この世界の果竪が偽物だと言う事。
それを、朱詩達が作った事。
けれど、その偽物は朱詩達の思うようには育たず、萩波を悲しませた事。
そして、その偽物は今の自分とは違うという事。
沢山の情報を叩き込まれ、けれどそれらを処理する果竪はパンクしかけていた。
なんで?どうして?一体?分からない?ならば私は?
この現実世界で、果竪は偽物だと言われた。けれど、ならば朱詩にとっての本物もまた偽物で、本当の本物は既に死んでいて。
分からない
分からない
分からない
ならば、私は一体誰ーー
ごめんなさいーー
混乱する果竪の中に、悲しい声が響く。
ごめんなさい……私の、せいで
急速に果竪の意識が遠のいていく。
全ての音が遮断され、遠くに何かが見える。
こんな事をするつもりはなかったの
聞こえてる声は泣いていた。
貴方を
あの方達から奪うつもりはーー
奪う?
そこは貴方の住まう世界ではない
そこは貴方の生きる世界ではない
どうか、思い出して
夢じゃない
現実は現実ではない
思い出して
貴方の
貴方の生きる本当の世界をーー
遠くに見つけたその相手が。
果竪の良く知る、勿忘草色の瞳を持つ自分が果竪に手を伸ばす。
貴方は……
私はそちらの
【偽物】