第2話 最下位妾妃の奮闘
「私、【後宮】を卒業します!」
アイドル卒業宣言の様なノリだったのは否めない。
ただ、次の日の【後宮】の妾妃達の国王と王妃への挨拶という行事の際に、果竪は力強く宣言した。そはもう、迷いなど一切なく獲物に突っ込む猪も真っ青な勢いだった。
「え?」
「はい?」
なんか国王と王妃が呆然としているが、一・切・問・題・無・し。というか果竪にとってそれは問題ではない。どこまでもゴーイングマイウェイで突き進む果竪だった。
「あ、でもきっと今のままの私なら心配されると思いますから、心配なんて必要ないぐらいになってからですが!」
では心配ないと思う基準はどうするか?どうしたら分かるか?――そこが問題となるだろう。
しかし答えは簡単だ。試験をして貰えば良いのだ。
果竪の事が、この落ちこぼれな幼馴染みの事が心配だから、偉大なるこの国の国王陛下は本来好きな相手が居るにも関わらず、手を出してしまったという責任感と罪悪感から不本意ながらも最下位の妾妃として保護してくれているのだ。だから、妾妃として保護しなくても大丈夫と思ってもらう必要がある。
「えっと」
「ちょ、ちょっと待ーー」
未だに呆然としたままの萩波と明燐を余所に、果竪は頭をフル回転させる。とりあえず、試験日はまだ決められないだろう。だが、できる限り早く卒業しなければならない。
「という事で、陛下にお願いがあります!」
果竪は萩波に懇願した。それはもう、涙目の上目遣いという、夢の中での萩波には絶大な効果をもたらすそれで。
少々どころかかりあざとい上に、それでお願いされた向こうの萩波の反応はこうだった。
「わ、わかりました……果竪の為ならっ」
壁に手を突き頬を赤らめ荒く呼吸を繰り返す夢の世界の萩波は、端から見ればそれは何か悲痛な決意を胸に抱き迫り来る苦難に立ち向かおうとする姫君に見えるらしい、が。
「変態だ」
「変態だよ」
「変態だわ」
「変態ですわ」
向こうの上層部からすると、何故かそういう評価が下った。まあ、鼻息荒く果竪ににじり寄ってもいたのだから、それはある意味仕方の無い事だった。
おかげで、周囲から【残念国王】とかいう渾名もつけられていたりするーー果竪に関してだけだが。
しかし、そこら辺の事は、果竪は記憶から綺麗さっぱり消去しているので今回もそれらについては思い出さなかった、これっぽっちも。
それに、今はそんな事よりも大切な事が沢山ある。
「私が一刻も早く一神立ち出来るよう、学問や武術その他を学べる機会を頂きたいのですっ」
因みにこの様な内容で懇願するのは、ここでの果竪には学べる様な機会がなかった事が大きく関係していた。それは先日の事である。【後宮】の卒業を決めたその日のうちに、そうと決まれば!!と、早速学ぼうとした果竪はその壁にぶち当たった。
「すみませんが、妾妃様には現在講師がいらっしゃいません」
そうーー説明してくれた後宮付き女官は、申し訳なさそうな様子だった。ならば新しく講師を付けて欲しい旨を伝えるも反応が良くない。そんな言葉遊びをする中で、昔は果竪にも文武の講師が居たらしいという事が分かった。ついでに講師は居たらしいのだが、余りにも不出来だった為、今では文武共に講師は居なくなってしまったという。つまり、落ちこぼれ過ぎて見捨てられたという事だ。
それでは、萩波も心配だろう。果竪だって心配だ。
だが、今の果竪は今までの果竪とは違う。なぜなら、夢では超名門校に通い、思い切りスパルタな授業にしがみつき、波瀾万丈な学生生活を営んできたのだから。
しかし、所詮それは夢。現実は最下位の妾妃。しかも落ちこぼれ過ぎて見捨てられた最下位の妾妃が今更講師を頼んだ所で、来てくれる物好きなど居ない。余程素晴らしい何かがーー権力とか身分、後見――あるならばまだしも。それに、まず陛下の許可が無いと言われる。当然だ。
だから果竪は懇願したのだーー直接、陛下に。しかも、上層部が軒並み揃う、普通の妾妃達にとっては心臓が口から飛び出しそうな程緊張する様な場面で。
一応、他の場面ーー妾妃なんだから、夜の国王の訪問の時に言うという手もあったが、明燐という正妃が居るのだし、他にも美しい様々な妾妃達の居る中で、最下位の、しかも落ちこぼれの果竪の所になんてわざわざ来ないだろう。義理で来るとしても、ずっと後になる筈だし、そこまで待ってなどいられない。
とりあえずあたって砕けろ。
まあ砕け散るつもりは全くないが、まず行動を起こさなければどうにも出来ないとして、果竪は萩波に学ぶ機会が欲しいと願い出た。
挨拶をするだけの、とりあえず国王の威光を高め、正妃と妾妃達の立場の違いをはっきりとさせるだけの場だと言うのにーー。
いや、違う。
だって、萩波と明燐はこう声をかけてくれたのだから。
「体調を崩したと聞きましたが、もう顔色も悪くないようで安心しましたよ。ああ、見舞いに行けずに申し訳ありません。何か欲しいものがあれば、後で届けさせましょう。何か欲しいものはありませんか?」
「まあ陛下はなんてお優しい。では、私からも何か届けさせますわ。何が良いかしら?」
と、聞いてくれたのだ。
使えるものは使う。
果竪はどこまでも現実的だった。
あと、本当は大根畑が欲しいと言いたかったけれど、それは無事に妾妃を辞めてから、自分の力で勝ち取っていこうと思う。
「陛下!お願いしますっ」
「え、えっと」
「お、落ち着いて下さいな」
なんだか慌てる明燐はいつもと違ってあどけない愛らしさを含んでいた。そしてそれすらも他者を惹き付ける魅力となっている。
だが、果竪は負けない。
「陛下!どうか、この私を哀れと思うのならば!陛下の御威光に傷を付けるばかりの自分を私は酷く恥じています。出来れば、すぐさま妾妃の地位を返上し、【後宮】から辞すべきでありながら、陛下のご聖恩によって最下位ながらも妃である事を許されている身です。ならば、是非とも陛下のご聖恩に報いるべく、自分を律したいのです!」
言っている事は健気だが、言い換えれば『それが嫌なら妾妃の地位を返上させろ』と言っていろも同然だった。むしろその方が果竪にとっては負担が少ないだろう。
萩波と明燐はお似合いだ。二神仲良く隣り合った玉座に座る姿は、正しく絶景だった。これ程互いに相応しい相手は居ないだろう。
そんな二神の姿を……妾妃を辞めればもう見なくても済む。
萩波も明燐も、果竪にとっては大切な二神だ。けれど、チクチクとした胸の痛みは確かに果竪の中にあった。
二神を好きなままでいられる内に。
黒いものが心を覆わない内に。
離れられるなら、これ程素晴らしい事は無いだろう。
それに、果竪が長く妾妃で居れば居るほど、彼らは苦しむのだ。
いっその事、正面切って妾妃を辞めさせて欲しいと頼み込めば良いかもしれない。けれど、そもそもそれが出来ていれば果竪は今も妾妃なんてやってないだろう。萩波が優しくて、責任感が強くて……いや、それなら最初から果竪に手を出さなければ……いやいや、手を出すしかなかった状況だったのかもしれない。でなければ、そもそも明燐を正妃にした萩波が、たとえ当時は独身だとしても、果竪に手を出したりなんてしない筈だ。
いや待て。
そもそも、果竪に手を出した時の萩波って独身だったのだろうか?もしかしたら、その時点で既に明燐と恋仲か既に夫婦だったって事も……って、結局萩波はこちらでも十二歳の少女に手を出すのか。
果竪は生温かい眼差しを萩波に向けた。
一方、萩波は果竪から向けられる眼差しに落ち着かないのか、彼にしては珍しくどこかオロオロとしていた。陛下の威厳はどこに行った。威光が陰るからもっと堂々として欲しい。
なんて思いつつ、その原因となっているのは自分だったと果竪は心の中で溜息をつく。
まあとにかく……さっさとしないと。
時間が長引けば、果竪の方が不利になる。
ここは短期決戦で行くべきだ。
結果から言う。
勝った。
勝利した。
勝ちをもぎ取った。
その後も怒濤の陛下万歳、陛下称賛、陛下を褒めちぎりつつ、自分の望みをどんどん押しつける形で果竪は見事に学びの場を、講師の派遣を約束させたのだった。
「陛下、ありがとうございます!」
「え、えっと、その」
「私、寝る暇も惜しみ全力で陛下のご聖恩に報いるべく努力したいと思います!」
そして【後宮】を卒業し、妾妃を辞める。
果竪の決意溢れる表明に、その場の光景を目の当たりにした者達は、最後まで最下位の妾妃に国王陛下と王妃陛下は圧倒されっぱなしだったと後に語った。
「勢いは大事よね」
見事に勝利を勝ち取った次の日、果竪は最初の講義を行う講師を自室の椅子に座って待っていた。朝食の前だが、それしかその講師は時間がとれないのだと言う。
まだ顔も知らなければ名も知らない相手が教えるのは、礼儀作法。他にも色々と学ぶ学問はある中で、何故それが一番最初なのかーーもしや、先日の挨拶の儀式での一件の意趣返しだろうか?あんな礼儀知らずな立ち振る舞いは見ていられない、少し勉強しろーーと。
「全く、忙しいのにこんな面倒事を押しつけられるなんて」
「そうですね、神選間違ってるわ」
手荒くウェーブした艶やかな髪をかき上げた相手に、果竪はついそうツッコミを入れた。もちろん怒られたが。
「なんですって?!この小娘!」
確かに怒らせたけれど小娘は無いだろうーー紳士の風上にもおけない、いや、まあ身分的に最下位の妾妃なのでそれもプラスされての言い草なのかもしれない。
というか、ここでも彼――茨戯は陛下お抱えの【影集団 海影】の長だった。当然、忙しい。とっても忙しい。なのに、果竪の講師役になっている。どう考えてもおかしいが、それ以前にどうしてーー。
「普通礼儀作法って、女官長あたりじゃないですか?」
「アンタ、落ちこぼれの分際で忙しい百合亜の貴重な時間を割くつもり?」
気怠げな雰囲気を漂わせながら、その艶やかなウェーブの髪をかき上げる茨戯は本当に色っぽかった。というか、色っぽすぎて淫靡が服を着て歩いているかのようだった。
向こうのーー夢の茨戯よりもずっとずっと色気がダダ漏れである。しかも余りにも退廃的で淫靡過ぎる。歩く公害――と思わず口にしかけたのを止めた自分を褒めて欲しいと果竪は思った。
というか、退廃的、淫靡、気怠げでアンニュイな感じーーこちらの上層部全員、同じ感じだった。
萩波への挨拶の儀式の際に揃った上層部だけを見ても、誰もが夢の世界の彼らよりも妖艶で淫靡で気怠げで……悩ましすぎる程の色香を放っていた。
これからは心の中でだけでも【歩く公害物質】とお呼びするべきか。
「で、無駄な時間は取りたくないの。陛下の命令だから仕方なく来たけれど、ちょっとでもヘマしたらすぐに打ち切るからね」
「分かりました」
望む所だった。
「その勝負、受けて立ちます!」
「いつアタシが勝負を挑んだのよっ!あとアンタ、ちょっとおかしくない?!」
「どこら辺がですか?」
逆に問いかけられた茨戯が、ウッと言葉を詰まらせる。
「そ、それは……前のアンタはもっと大神しくて、ウジウジして暗くてーーと、とにかく!今のアンタみたいにアホすぎるぐらいに底抜けに明るいなんて事は無かったのよ!」
「大丈夫!私、元々振り幅が大きいって言われてるからっ」
「どこが大丈夫よ!あと、誰に言われたのよっ」
夢の世界で、夢の世界に居た茨戯に。
『なんでアンタって極端から極端に走るのかしら……いや、別に良いのよ。何かあってもアタシ達がフォローすれば良いんだし……』
とりあえず、向こうの茨戯は優しかった。
「優しい神にかな」
向こうの茨戯だなんて言えないから、とりあえず印象だけを伝えた。すると、何故か怒られた。
「良い度胸してるわね……くっ!良いから、さっさと終わらせわよ!」
結果だけ言う。
さっさと終わった。
「な、な、なーー」
言葉が上手く出てこない茨戯を余所に、果竪は顎に手を当てて心の中で呟いた。
(意外に簡単……っていうか、夢の中の学校で叩き込まれたのと一緒だったな。まあ、何年も何年も何年もーーってか、何十年も毎日叩き込まれてたからなぁ)
最早体に染みついた礼儀作法の数々は、息する様に自然と果竪に馴染んでいた。苦も無く、流れる様な動作で茨戯の指示した通りに果竪は優雅に礼儀作法の授業を終えた。その中に、一昼夜では決して身につけられない難しい作法の数々もあれば、昔の果竪がどんなに教え込まれても全く上手く出来なかった作法の数々も含まれていた事を果竪は知らない。特に、後者は。
「……ア、アンタ……」
「あ、もうこんな時間だね。茨戯様、ありがとうございました」
向こうが上層部、それも三卿の一神と謳われる国王の側近中の側近である。それに対して、果竪はしがない最下位の妾妃だ。優雅に目上の相手に対する礼を行う果竪を、茨戯はまるで化け物を見るような眼差しを向ける。
「ど、どこかに頭でもぶつけたんじゃないの?!」
「よく言われます」
夢の世界ではよく言われていた。頭をぶつけて、そのまま大根の事を忘れてしまえば良いとも言われた。聞き捨てならなかったので、その後取っ組み合いの大喧嘩をした事は凄く懐かしかった。
「はっ!そういえば、数日前に外で遭難死しかけていたとか……まさか、それで」
「あ、よくありますよね?死にかける事で新しい自分に目覚めるとか」
「ちょっと!笑いごとじゃないわよ!」
青ざめる茨戯を余所に、果竪は苦笑する。まあ、ある意味新しい自分になってしまったのだが。
というか……不思議だなぁと思う。
本来であれば、もっと同様してもおかしくはない。
夢の世界が居心地が良ければ良い程、向こうの世界に留まりたい、今の世界こそが嘘なのだと泣き喚いてもおかしくはなかった。
けれど、そう思う気持ちは確かに心の中にあるのに、同時にどこまでも冷静な自分が居る。例え、どんなに泣き喚いても、夢は夢。ここが現実で、自分はここで生きていかなければならない。泣いている暇も嘆いている暇も無い。そんな時間があるなら、少しでも失った物を取り戻さなければーーという、冷静な自分が居るのだ。
で、礼儀作法勝負ーーいやいや、授業はと言うと。
「お、覚えてなさいよっ!」
そんな捨て台詞と共に、講師が逃げ帰った事で終わりを告げた。
次の日は、歌舞音曲の授業だった。
「って事で、今回は俺が担当だ」
「お仕事は」
「陛下の命令なんだよ!」
相変わらず気怠げで物憂げで、淫靡な色香をこれでもかと放つ凪国宰相ーー明睡が講師としてやってきた。というか、歌舞音曲なら女性が講師かと思ったのだがーー確か得意なのが居たし。舞姫とか歌姫とか謳われている上層部の女性達が。
まあ、一番は明燐だけどね!!
流石に一妾妃、それも最下位の妾妃の講師に正妃がなるわけにはいかないしーーというか、あの侍女達が許さないだろう。それに、正妃と妾妃は国王の寵愛を巡って戦うライバルだ。
ーーはっ!ちょっと待って!!
果竪は大切な事に気づいた。
正妃と妾妃はライバル。
そして、正妃は明燐で、その明燐の兄は明睡だ。彼はとんでもなくシスコンだ。シスコンの中のシスコンだ。シスコン女王と言っても良いぐらいのモノホン、真性だ。
愛する可愛い妹の為なら、何だって出来る。妹を傷付けるもの、妹に害を為そうとするもの、妹の害になるものは容赦なく排除する。
究極のシスコン。
大切な大切な愛する妹は正妃となった。そんな正妃にとって目障りな存在ーーその名を、妾妃と言う。強力な後見を持つ妾妃であれば簡単には排除できないが、最下位でロクな後見なんて持っていない果竪なんて、明睡が指一本動かすだけで首を落とせるだろう。
でなくとも、明睡の信崇者達は多いのだから。
「や、殺られる?!」
「何でだよ。死合ならまだしも」
試合ではなく、死合と言ったよこいつ。
本気でキョトンとした顔は、年齢相応の青年らしさが出ているが、それに惑わされて近づけば確実に首が飛ぶだろう。
「それよりだな」
「は、はい?」
「この俺の指導は厳しいぞ?無駄な時間は取りたくない。陛下の命令だから仕方なく来たが、ちょっとでもヘマしたらすぐに打ち切るからな」
「あ、それ昨日聞いた」
茨戯と同じ事を言っている。
「やっぱり茨戯、様と主従関係だから似たのかな」
「あんな配下なんていらんわっ」
気色悪いーーと叫ぶ明睡に、こっちの明睡も夢の中の明睡に負けず劣らず酷いと思った。いや、こっちの方が酷くは無いだろうか?
まあ、茨戯は明睡の部下ではなく、萩波の直属の部下なので主従関係というのがまず間違っているのだが。けれど、なんだかんだいって、向こうの世界の茨戯と明睡は仲が良かった。
だって二神してよく
『宰相って何だろうな』
『とりあえず、王妃の大根狂いを止める職業ではない事だけは確かよ』
『海影の長もそうだな』
『でも大根の輸入は宰相権限で禁止出来るわ』
『お前、それ後が怖いぞ』
体育座りで政治を語り合っていたし。
うん、仲が良かった。
果竪は一切疑わなかった。
「とりあえず、基礎的な所から行くか」
「あ、茨戯、様より性格良い」
「あ?」
こちらの茨戯は、いきなり上級者コースで来た。それに比べれば、こちらの明睡はとても良心的だ。
「と、とにかく、とっととやるぞ!基本のステップだ」
「受けて立つわっ」
「受け……」
なんだか唖然とする明睡を余所に、果竪は基本のステップとやらをやってみせる事にした。
とりあえず、果竪はとても身軽だった。そして、学校で叩き込まれていた。
「……それはなんだ」
「鳳凰の型」
というか、孔雀が羽を広げた形に似ている気もするが、向こうでの舞の教師がそう言っていたのだから仕方が無い。
明睡に言われたステップどころか、舞を習得する者達が必ず舞う初級の舞を幾つか踊り終えた果竪は、固まっている明睡に呼びかけるのに飽きてそんな事をしていた。
他に龍の型とか白虎の型とか玄武の型とかあったので、それもやってみる。
「……」
それらをやり終えても、まだ明睡は固まっている。なので、他の舞も舞ってみる事にした。足で地面を数回踏みならし、大きく体を反らせる。そして反動を付けて起き上がると、そのまま両手をピンと伸ばし、軽やかにステップを踏んだ。腕に絡ませた薄い羽衣を巧みに靡かせ、手足につけた腕輪と足輪の鈴を鳴らす。一挙事に澄んだ鈴の音が鳴り、手を打ち合わせ、床を踏みならす音が軽快に響く。
速いテンポの舞だが、しなやかで堂々とした動きと心浮き立つ音楽の合わせは王都でも流行の舞の一つとされ、劇場で多くの舞姫が踊っていた。
ただ、それは決して庶民向けの物では無く、王宮でも披露されるレベルの高い舞でもあった。
ともすれば、足が絡まり転んでしまいそうになる複雑なステップを、果竪はものともせずに踏んでいく。
演奏者は居ないが、頭の中に音楽が鳴り響く。何度も聞いて、何度も踊った舞だ。
不安を抱けば、あっという間に動きは萎縮する。間違っても何しても、常に堂々と、きびきびとした動きで踊り切る。
最初はとてもじゃないが見れたものではなかったけれど、案外堂々としていれば間違いも間違いとして認識されない事に気づいた。
世の中、はったりだ。はったりがかなりを占める。
そう……動き出せば、あとは踊るしかない。不安を振り払い、戸惑いを捨て、一つ一つの動きの、指一本の動きにすら神経を尖らせて。
そうして最後のステップを踏み、舞終えた果竪はしばらく呼吸を整える事に専念した。元々舞と言うのは、かなり体力を使う。全力で踊れば、呼吸だって乱れる。
それでも何とか息を整えた果竪は、そこでようやく明睡に視線を戻した。
「……明……宰相様?」
「っーー」
ハッと我に返ったらしい明睡が、頬を赤らめてこちらを睨み付ける。
「お、お前のくせに生意気だっ」
「なんで?」
生意気的な要素があっただろうか?もしかしたら、勝手に違う舞を踊ったのが気にくわなかったのだろうか?
「も、もう舞はいい!他の、歌と楽器に行くぞっ」
「う、うん」
これも結論だけ言う。
歌は好きなので全力で歌ったら、なんでか顔を真っ赤にして怒られた挙げ句
「俺達以外の奴等の前では絶対に歌うなよ!」
と言われた。
で、楽器はと言うとーー
「……」
琴も笛も、その他弦楽器の類いは一通り演奏する事が出来た。学校でのスパルタ教育、万歳。たった数十年の教育だが、それこそ休みなしの徹底教育は、着実に果竪の実になっていたと言える。というか、そのスパルタ教育が夢の中での事なのに、現実世界で実になっているというがまず凄いが。
「……なんで、弾けるんだよ」
「弾けるからだよ」
と言っても、果竪の技術なんてそれ程凄くはない。学校にはもっと出来る子が居たし、夢の中の凪国には沢山の歌姫とか舞姫とかその他素晴らしい演奏家達が居た。
彼ら彼女達に比べれば、果竪の披露するものなどまだまだだ。
それに、明睡の舞や歌は凪国でも名高くあり、妹の明燐と舞う二神舞などは、その美しさから他国の使者達も虜にした。他にも、上層部と呼ばれる者達は軒並み、舞も歌も楽器もレベルが高すぎた。
比べる方が馬鹿だが、それでも思い出すと……実は結構、しょげる。
「なんで……なんで……」
なんか明睡がぶつぶつ言っている。と、果竪は弾き間違えた。
「う~~、いっつも間違えるんだよなぁ、ここ」
「……」
「そういえばこれ、明ーー宰相様が得意だったっけ」
と呟き、果竪は慌てて口を閉じた。得意は得意でも、夢の中の方だ。こっちの明睡の得意曲なんて覚えていない。そこまで考え、本当にこっちの世界での事は何もかも忘れてしまった、覚えていないのだと改めて実感する。
もしや、老化現象によるものだろうか?
いや、そんな事を言えば、全ての同年齢と年上の者達に怒られる。
もう一度事をかき鳴らそうとした果竪の手が、上から押さえられる。
「宰相、様?」
自分の手を上から覆う手に、果竪はその持ち主を見上げる。
「へたくそ」
「うっ」
確かにこの曲は苦手だ。だが、それでもここまで弾けた自分を少しは褒めて欲しい。思わず頬を膨らませた果竪に、明睡は目を瞬かせる。けれど、すぐに忌々しげに視線を逸らし、舌打ちをしながら果竪を追い払うように手を振った。
「どいてろ」
「え?」
果竪を琴の前からどかせると、明睡が果竪の居た場所に座る。そしてーー。
「これは、明睡様の音ですわね」
「相変わらずお美しい事」
「流石は名手と名高いお方ですわ」
後宮の外れーー最下位の妾妃の居る小さな離宮へと足を運んでいた明燐は、前方を歩いていた侍女達の言葉に足を止めた。後ろに続く侍女達も、その音色に足を止めて聞き惚れている。
明燐にとって敬愛する、この世でただ一神の兄。
その兄が奏でる音色は、明燐にとっては馴染み深いものだった。そして、兄ほど上手に奏でられる者が数少ない事を、成長すると共に知った。
「ふふ、とても気合いが入っていますわね」
思わず笑みをこぼし、再びしずしずと足を進める。
そうして、辿り着いたその小さな離宮の一室で、明燐達は思わず息をのんだ。
軽やかに踏まれるステップ。
巧みに、けれど優雅に舞う羽衣。
しなやかに動かされる手足。
兄の、この国の宰相の奏でる琴の音に合わせて舞うのは、最下位の妾妃だった。そして、その妾妃が舞う舞はーー。
見事だった。
「これ、は……」
侍女の一神が、言葉を漏らす。続く言葉を紡げないまま、彼女は他の侍女達と共に、その舞に魅入る。
楽しい
楽しくてたまらない
全身から舞う事が楽しくて嬉しくてたまらないと言う気持ちを沸き立たせ、その小柄な体で舞う妾妃。
その堂々とした動きには、一切の迷いが無い。所々稚拙な部分もあるが、それでも自信に溢れたーーけれど決して傲慢ではない、その動きは、見る者達を惹き付けるには十分過ぎる魅力を放っていた。
思わず兄を見れば、驚いているのが分かった。表情こそ余り変えていないが、妹の明燐には分かってしまった。
こんな……。
自分の、自分達の知る妾妃はこんな風には踊れなかった。
まともにステップさえ踏めなかった。
何度教えても。
何度指導しても、まともに出来なかったと言うのに。
いつもオドオドとし、自信の「じ」の字すら見つける事が出来ない少女だった。
なのにーー。
明燐の前で、軽やかに、優雅に妾妃が舞っていく。
これは、現実だろうか?
これは、こんな、事がーー。
どう、して。
少し前までは、こんな風に踊れなかったのに。
どうして?
どうして?
明燐の中に浮かぶ疑問。けれど、いつしかその舞に見惚れ、疑問は彼方へと押しやられていった。