第18話 小梅の罪
ここまでするつもりでは無かった。
こんな筈では無かった。
燃え上がる宮殿。
逃げ惑う神々。
【魔獣】が飛び交い、侵入者達と警備の者達が刃を交える中で、彼女はただ大切な存在を探して走り続けた。
こんな筈では無かった。
こんな風にするつもりじゃなかった。
「……葵花、様」
がれきに埋もれた青年を庇い、今にも炎に飲まれそうになっている主を遠くに見つけた彼女はボロボロと涙をこぼした。
気がついた時には外は火の海だった。
部屋に侵入してきた煙に気づいた小梅は、扉の熱さにそこからの脱出を諦めた。だが、他の脱出口は窓しか無い。しかし、その窓も地面からの高さは三階分に位置しており、車椅子で動くのがようやくな小梅に使える脱出路では無かった。
しかも、地面を行き来する【魔獣】というあり得ない光景に、窓から逃げられたとしても助からない未来が簡単に予想できた。
絶望に染まる心を余所に、迫り来る煙と熱は増え続ける。このままでは、確実に死んでしまう。
そう思った時、ふと自分の中のもう一神が囁いた。
貴方は元々死にたかったのでしょう?
何を絶望する事があるのかーーと嘲笑う。
ああ、そうだ。
私は、ずっと。
醜く生き延びてしまったあの時から。
あの子を犠牲にして生き延びてしまった時から。
どうして、ーーじゃなかったんだよ
その言葉は、小梅の心を切り裂いた。
分かっていた。
本当なら死ぬ筈だった自分が生き延びた時から。
自分はきっと、誰かを犠牲にして生き延びたのだと。
嘆き悲しむ朱詩を見ていられず、小梅は彼の傍から離れようとした。
「あーー」
しかし、そんな動きすら、小梅には出来なかった。
無くなった両足。
代わりの車椅子を小梅は上手く操作できずに、地面へと転がり落ちた。
「小梅!!」
朱詩の後ろで立ち尽くしていた明睡が、小梅の異変に気づいて駆け寄ってきた。そして地面に座り込む小梅を抱え起こす。
「怪我はないか?ああ、この車椅子は小梅には大きすぎるなーーすまない」
「い、いえ、私がちょっとドジをしただけで」
痛みは無い。
萩波が施してくれた治癒の術によって、既に傷は塞がっていたから。しかし、無くなった筈の膝から下の違和感が残っている。
そうーー無い筈なのに、そこに両足が揃っている様な気がするのだ。
「痛むか?」
「あ、いえ……」
黙ってしまった自分を気遣う明睡の目も赤い。ああ、自分のせいで彼は静かに悲しむ時間すら無い。
「あの、車椅子に座らせてくれたらそれで良いから……」
しかし、明睡は小梅を車椅子に座らせずに抱えたままだった。そのまま、朱詩の元へと歩いて行く。
「朱詩、少し離れる」
明睡は小梅をゆっくりさせられる場所に連れて行こうとしているのだろう。それは良いからと断ろうとするが、上手く言葉が出ない。
そして朱詩も何も言わなかった。
いや、カジュにしがみついたまま呟き続けている。
何故、どうして、ーーじゃなかったのかーーと
「小梅、やはり痛むんじゃないか?」
「え?」
自分を抱えながら歩く明睡に小梅は彼の顔を見上げた。
「いや、痛んで当然だな。そもそも、お前の足がそうなってからまだ一日も経過していないんだから」
「……」
そう、まだこの足になって二十四時間すら経過していない。
この両足を失う出来事が起きたのは、もうずっと前の様に思えると言うのに。
それでも、良いでは無いかーー
だって私は
「良かった」
「え?」
「お前は……死ななくて」
静まりかえった長い回廊を歩き辿り着いたのは、来客用の客間だった。
王宮もあちこちが壊れ、また避難民で溢れかえっている。
その中で、少しでも外の騒ぎから遠い場所をと通された部屋の寝台に降ろされた小梅に、明睡はしがみつく。端から見れば誤解されそうだが、その体が震えている事に小梅は気づいていた。
「明睡……」
「……なあ、知っているか?」
「……」
「今回の犠牲者ーーあの子だけなんだ」
煉国の襲撃は、下手すれば大勢の犠牲者が出るようなものだった。けれど、上層部とそれに準ずる者達、また彼らの意を受けた者達が駆けずり回り、また王都の者達の日頃からの避難訓練の成果が生かされ、犠牲者はいなかった。
唯一の犠牲者になりかけた小梅も生き延びた。
「お前も生きてくれた」
「……」
「だから、だからーー」
物語で言えばハッピーエンド。
誰も死ななかったのだから。
両足を失っても、小梅は死ななかった。
他の者達もだ。
生きているだけ良いではないか。
生きているだけ幸せではないか。
そう、生きていればーー。
これからも長く続く神生は続いていく。
その時、小梅は心臓が掴まれる様なゾクリとした物を感じた。それが何なのかは分からない。ただ、言いようのない恐怖を覚えた。
「……なんで」
「……」
「喜んで良い筈なんだ。誰も、誰も死なずに済んだ。為政者として、民を誰一神死なせる事なく事態を収束させられた。そう、為政者としてはこれ以上ない、解決を」
ああ、箍が外れる。
宰相としての仮面が剥がれ落ちる。
明睡が何故自分をここまで連れて来たのかが分かった。
彼は、仮面を外したかったのだ。
冷静沈着な宰相としての仮面を外し、そしてーー。
涼雪の前では泣けないから。
この、強がりでプライドの高い仲間は、好きな少女の前では【強く美しく冷静沈着な男】で居たがる。誰もが称賛する【宰相】で居ようとする。
「……ごめん」
それは何に対しての物だっただろう?
宰相の仮面を脱ぎ捨て、自分の思いを吐露して涙を流した明睡は、それから暫くしてようやくいつもの彼に戻った。
そして投げ捨てた仮面を拾い上げ、静かに着ける。
「いいの。私も、誰も居ない所で泣きたかったから」
「……そうか」
あの時、あの場所に留まった者と去った者が居た。
留まった者はその場で泣き崩れ、去った者達もーー。
鉄扇は涙を流しながら走り去り、修羅は崩れそうになる百合亜を抱えてその場を去った。他の者達もそれぞれ行動したが……唯一共通するのは、その悲しみという感情を持っていたという事だ。
その中でも、一番の激情を表したのは、朱詩だった。
事切れたカジュに縋り付いていた朱詩。きっと今も、彼はそこから離れていないだろう。
今までーーカジュが死ぬ度に、小梅は朱詩の傍に居た。今回が初めてだった……こんな風に離れるのは。
それに気づいた私は、また違和感を感じた。
カジュは美しい衣装を身に纏っていた。
この後、その体は火葬される。
最後だと言っていた。
そう、最後ーー。
もう、【カジュ】が造られる事は無い。
思い知ってしまったから。
元々、【前回のカジュ】で最後だったのだ。
それを、朱詩が強引に説得して生み出したーー。
「ボクは間違っているのかもしれない。けれど、それでも叶えたいんだよ」
そんな朱詩を、小梅は抱きしめた。
例え、世界の全てが間違っていると言っても、小梅だけは正しいと言い続けようと決めた。
「大丈夫。出来るよ。今度こそ、絶対にーー」
「……ありがとう、小梅」
小梅も願っていた。
今度こそ、幸せにーー。
幸せになれないなんて絶対に無い
あの娘は幸せになれる。
生まれた小さなカジュを抱き上げ、小梅は柔らかな頬に頬ずりした。
今までのカジュ達と同じ笑顔。
けれど、それでも今までのカジュ達とは違う、新しい存在。
体を構成するその細胞は、【本物の果竪】と【今までのカジュ達】から造られては居るがーーそれでも、この子は世界にただ一神だ。
伸ばされる小さな手が、小梅の指を握りしめる。
【本物の果竪】の代わりに
【今までのカジュ達】の代わりに
彼女達の分までーー
その願いは、いつしかこの子が幸せになってくれるならに変わっていった。
そう……いつだってそうだった筈だ。
いつしか忘れていた願い。
抱いていた思い。
今まで生まれてきた沢山のカジュ達に対して、その都度思ってきた
この子がこの子らしくある事が幸せなのだと。
たとえ、【本物の果竪】と【今までのカジュ達】と違う風に育ったとしても。
この子が元気で幸せになるならそれで良いーー
まるで我が子の様だった。
その娘を喪った時に、小梅の中の何かも死んだ。
しかも、一番安全な場所に居た筈なのに。
一番死ぬ可能性の高かった小梅が生き延びて、死なない場所に居たカジュが死んだ。
その事もまた、小梅の中で消える事のないしこりを残した。
「どうして……」
たった一神、小梅は泣いた。
多くの者達がカジュの死を悼んだ。
そうして、火葬を明日に控えたその夜にーー小梅は一神、カジュの棺のある場所へとやってきた。そして、泣いた。
「なんで、なんで、なんでぇぇぇぇええええっ!!」
静まりかえった室内に絶叫が響き渡る。
「私が、私が、死ぬのは私だった筈なのに!どうして、なんで、カジュが、貴方が死ぬのよっ!!」
小梅は頭を激しく振り、両手で棺を叩いた。その手が真っ赤に腫れ上がるのも気にせず、激情のままに泣き叫んだ。
本当はあの時にしたかった事だ。
けれど、自分よりも先に泣き叫ぶ朱詩を前に、小梅の中に渦巻きかけた全てが引き波の様に引いていった。それは、朱詩の様子に引いたわけでも、悲しみがどこかに飛んでいってしまったからでもない。
ただ、今は泣けないと思ったのだ。
自分には泣く資格なんて無いとーー思ったのだ。
なんで?どうして?
分からない
違う、本当は分かっていた
だって、私はーー
カジュが火葬されてから、間もなくの事だった。
「ねぇ知ってる?」
「ええ、そうよね」
まだまだ慣れない車椅子を操作しながら回廊を進んでいた小梅の耳に、それは届いた。
「どう考えてもおかしいわよ!だって、小梅様は溶岩流の中に飛び込んだんでしょう?!」
「だから、両足が溶けた所で爆発が起きて安全地帯まで吹っ飛ばされたって」
「それが信じられないって言ってるのよ!普通、そんな奇跡がある筈がないわよ!」
「あり得ないから奇跡なんでしょう?」
王宮勤めの下級女官達の声に、小梅は車椅子を止めた。
その曲がり角の向こうから聞こえてくる声は、若々しく生気に満ち溢れていた。そして、年頃の少女らしく噂話に興じていた。
その若さに眩しさを覚え、いつの間にか枯れ果てている自分に溜息をついた小梅の耳にそれは飛び込んできた。
「だから絶対に、カジュ様は身代りになったのよ!!」
身代り?
その言葉に、小梅は心臓がドクンと脈打つ。
「身代りって」
「じゃなきゃ説明が付かないわ!!だって、カジュ様は安全な場所に居たのでしょう?なのに、突然死んでしまったなんて普通はあり得ないもの!で、代わりに確実に死ぬ筈だった小梅様が生き延びた。これは絶対に小梅様の身代りになったのよ、カジュ様は!!」
「それって、カジュ様が自分の命を小梅様を助ける為に差し出したって事?」
「それは分からないわ。でも、死ぬ筈だった神が生き延びて、死なない筈だった神が死ぬなんて、まるで互いの運命を入れ替えたみたいじゃない?」
「それ、あまり大声で言わない方が良いわよ?誰が聞いてるかも分からないし」
女官の一神がそう言えば、声高に語っていた女官が反論する。
「何よ!みんなだってそう思ってるでしょう?!」
「そ、それは……」
「でも、だからって」
「けど確かに一理あるわね」
同意する女官達も居た。
「もしかしたら、小梅様が何かしたのかもしれないわよ?」
「え?」
「ちょ、ちょっと」
「死にそうになって、死にたくなくて誰でも良いから自分の代わりに死ねば良いってーーあら?誰だって死にたくはないもの。それも仕方ないわよ」
「けど、それでカジュ様が死んだとしたら、本当に酷いわね、小梅様も」
「それに、朱詩様がカジュ様が亡くなって悲しんでいた時に、自分はさっさと宰相閣下と居なくなったそうよ。怪我神のくせして、何をしているのかしら」
「やだ!朱詩様だけじゃなく、宰相閣下にも色目を使ってるの?!」
「ちょっと色目って、そもそも小梅様程度の容姿でそれは無理があるんじゃない?」
「あんたも酷いわよ!」
笑い声が幾つも響く。
「まあ、真相は近いかもね。それに、小梅様が死にかけた時とカジュ様が亡くなった時刻もほぼ同じぐらいって話だし。あ~あ、カジュ様もお可哀想にね。身代りにされて」
死んでしまうなんてーー
笑い声が遠ざかっていく。
そうして聞こえなくなっても、小梅はその場を動けなかった。
身代り
自分が
自分が生き延びたから
自分が死にかけた時刻と、カジュが死んだ時刻が一緒だと言っていた。それは、小梅の知らない話だった。いや、もしかしたら周りが気遣ってそれを耳に入れなかっただけかもしれない。
小梅はそれから、自分が耳にした【時刻の話】についてそれとなく情報を集めた。そして、それが真実だと知った。
「……私の、せいで」
あの時、小梅は心のどこかで願ってしまっていたのだろう。
生きたい
死にたくないーーと
そして、それは恐ろしい妄執となって小梅の体から放たれ、犠牲とする命を探しに行った
で、その犠牲とされてしまったのが、カジュだった
そうだ、その通りだ
そうでなければ説明がつかない
絶対に死ぬ筈だった小梅が生き延びて
死なずに生き延びる筈だったカジュが死んで
もしかしたら、朱詩はそれに気づいていたのかもしれない
小梅は両手で口を覆った。
そうでなければ叫びだしていたかもしれない。
だから、朱詩は言ったのだ。
どうして、ーーじゃなかったのかと。
ああ、分かってしまった。
朱詩は不思議でならなかったのだ。
どうして、死ぬのがカジュだったか。
どうして、小梅が死なずに生き残ったのか。
どうして、小梅が死ななかったのか。
誰でも分かる事だ。
誰もが不思議だった筈だ。
「私は、死ぬべきだったのよ」
そう、未練がましく生き延びたりせずに。
途端に、この身が酷く穢らわしいものに思えてしまう。
今息をする体を打ちのめし、拍動する心臓をえぐり出したくなる。
私の存在全てが罪だ。
私が、私がーー
「あ、あ、ああぁぁぁああああっ!!」
私が、殺したのだ
あの子を
自分の娘同然の存在を
それから、私は全てがどうでも良くなった。
息をする事すら穢らわしくてならない。
小梅が生きた事で、大切な者達全てを不幸にしてしまった
娘の様に愛しかったあの子を、小梅は殺してしまった
誰か私を殺してーー
両足を失い生きるだけでは生ぬるい
食事も満足に取らなくなった小梅を、周囲は心配した。
涼雪や葵花も、生きる事を放棄した小梅の所に来ては世話をしようとした。
「何やってんのさ!」
朱詩が忌々しげに小梅を叱咤する。
「この忙しい時に、煩わせないでよね?!」
凪国を襲撃した煉国への報復。
それを先頭に立って計画立て、既に実行し始めている朱詩は忙しくて眠る暇も無い筈だった。
色々と情報を集め、煉国を徹底的に潰す事が決定された事で朱詩は自分の与えられた仕事に全力を尽くしていた。まるで、カジュを喪った悲しみを紛らわせるかの様に、朱詩はそれにのめり込んでいく。
いつもは五月蠅いぐらいだったのに、小梅の所にも殆ど来なかった。それに少しだけ寂しさを感じていたけれど、今ではそれも当然だと分かっていた。
こんな最低最悪な相手の所になんて来たくはないだろう。
朱詩にとって何よりも大事で大切だった存在を、殺した相手の所になんてーー
「ちょっと、何か言ったらどうなのさっ!!」
「……ごめんなさい」
小梅は頭を下げた。
そうすると、朱詩の顔が見えなくなった。
その事で少しだけ安堵する自分を穢らわしく思った。
結局、謝罪も自分が楽になりたいが為にしているのだ。
本当に醜くて穢らわしい。
「な、なんだよ……いつもの小梅らしくないし」
いつもの……いつもの自分とはどういうものだろうか?
元気?明るい?勝ち気?
「……その、もしかして、どこか、痛いの?」
「……」
先程の怒気はどこへやら。
恐る恐る質問する朱詩に、小梅は静かに頭を横に振った。
「どこも……」
どこも痛くない。
そう、痛みなんてない。
あるのは、生きている自分への激しい憎悪だ。
「……それなら良いけど」
「……」
「まあ、今色々とごたごたしてるけど、それも直に収まるよ。そうしたらさ、少し休みがとれるんだ。そうしたらさ」
その後、朱詩は何か言っていたがよく聞こえない。
憎い
憎悪が心を埋め尽くす
憎い、憎い、憎い
自分の存在全てが憎い
消えてなくなれば良いのに
こんな役立たず
カジュの命を食らって生き延びた死に損ないなど
けれど、簡単には死ねなかった。
いや、ただ死ぬ事すら烏滸がましい。
もっともっと苦しんで、苦しんで死ぬべきなのだ。
カジュはもっと苦しかった筈だ。
「せめてもの救いは、苦しまずに逝った事ですーー」
違う
萩波がカジュの亡骸を見つめながらそう言う中で、小梅は叫んでいた。
カジュは苦しんだ筈だ。
そもそも、死ぬ事なんてこれっぽっちも考えて居なかったのに死んだのだ。
苦しんで、苦しんで、苦しんで。
恐くて、辛くて、悲しくて。
あの子は死ななくても良かったのだ。
あの子は死ぬべきでは無かったのだ。
あの子は生きていなければならなかった。
あの子が生きていてくれるなら、なんだってやった。
動けない体で、それでも慰めとして大図書庫に通う日々の中で小梅はそれを見つけた。
代償を必要とする禁忌の神術。
亡くなった死者を蘇らせる技。
その神術の代償はーー命。
小梅は天啓を受けた愚者の様に喜んだ。
ああ、これであの子を生き返らせられる。
小梅は信じて疑わなかった。
なぜなら、既に小梅はあり得る筈のない奇跡によって今を生きている。カジュの命を代償に。
自分が代償で生き延びたのだ。
ならば、カジュだって蘇らせられる筈だ。
蘇生には、多くの魂を必要とすると書かれていた。
だが、それとは別に特殊な魂であれば一つでも事足りる。
奇跡で生き伸びた小梅の魂であれば、その条件にも当てはまるはずだ。
いや、小梅はカジュの魂を食らって生き延びたのだ。魂が一つである筈がない。
小梅はカジュの魂を糧に生き延びた。
だから、今度はカジュの魂の糧になろう。
「もう少しだ、もう少しで、あの国を滅ぼせる!!」
煉国を滅ぼす為に、自分の身すら道具として扱う朱詩は酷く痛ましかった。
朱詩だけではない。
他の者達もそうだった。
いつしか、周囲から笑顔は消え、殺伐とした空気が漂っていた。
退廃的で淫靡なそれが色濃くなり、命のやりとりすら楽しむ様な彼らに小梅は胸を痛めた。
カジュが生きていた時には、外ではそうであっても、カジュの前ではそんな自分達を見せなかった。けれど、もうそれもしない。
見せないようにしていた相手が居ないのだから。
そしてもう二度と、そんな相手が生まれないのだから。
小梅のせいでーー
だが、それももう少しの辛抱だ。
「大丈夫、きっと全てが上手く行く」
捨て鉢になりかけている彼らを救えるのは、カジュだけだ。
きっと、カジュが蘇れば全てが上手く行くのだ。
だから恐くなんてない。
「貴方はこの世界に必要な存在なの」
小梅は黄泉路へと去ったカジュへと語りかける。
貴方は大切な存在。
貴方は特別な存在。
こんな風に居なくなって良いわけがない。
皆が悲しんでいる。
悲しんで、悲しみを紛らわせるように、より退廃的に、淫靡に、狡猾に、冷酷になってしまった彼ら。
彼らが唯一優しく振る舞っていた少女の存在は、本当に本当にかけがえのない存在だったのだ。
喪われて良い筈が無い。
こんな風に、喪われて良い筈が。
取り戻す、絶対に。
小梅は、小刀を振り上げる。
それを首にあて、一気に引き裂いた。
「なんだよ、これ」
煉国に入る前夜の事だった。
知らせを聞いて、朱詩はその場に駆けつけた。
そんな朱詩が扉を壊す勢いで開け放てば、部屋の中は騒然としていた。
「いやぁぁぁぁぁああっ!!」
「おい、早くしろっ!!修羅はどうしたっ」
後ろから、「邪魔だよ!!」と勢いよく突き飛ばされる。そのまま床に倒れれば、その横を走り去る修羅の背が見えた。
「小梅、どうしてっ」
「血が出すぎてるっ!脈が弱いっ」
「良いから止血するよ!!それと、輸血っ」
「なんで、どうしてこんなっ」
どうして、どうして、どうしてーー
ああ、どうしてなんだよ、これは
朱詩は床に座り込んだまま、呆然とそれを見ていた。
力なく垂れ下がる小梅の手だけが、朱詩の視界に映った。
一体、何故?
朱詩はずっと考えていた。
けれど、時は待ってくれない。
煉国を滅ぼす為に、朱詩は煉国に足を踏み入れる。
ただ、それでも考え続けていた。
煉国国王に取り入り、その息子に取り入り、彼らに殺し合いをさせて自滅に追い込んで。
【後宮】に囚われていた寵姫達を助け出し、地下牢に閉じ込められていた神質達を助ける間も。
煉国に協力していた、幾つかの大々的な奴隷商神達の組織と、彼らに協力する盗賊の類いを捕縛していく間も。
何度も、何度も、考えた。
そうして、三ヶ月で事態を収束させて帰ってきた朱詩は、報告が終わると共に小梅の所に駆けつけようとした。そんな朱詩を、茨戯が止めた。
「一体何の用さ」
「……これ」
茨戯が差し出したのは、一冊の本だった。
いや、それは禁書と呼ばれる類いのものだ。
朱詩も過去に見た事がある。
【本物の果竪】を、蘇らせようとした時に。
しかし結局は無理だった。
代償を必要とする所もそうだが、それ以上にそれは至る所が欠陥だらけの術だった。到底危なくて使えたものではない。
それに蘇らせるといっても、それだけでは中途半端な蘇生にしかならない。良くて、ゾンビの出来上がりである。
なのに、朱詩は驚く事を聞いた。
小梅がその本に書かれている事を実行しようとしたのだと。
しかも、その代償として自分の命を捧げるつもりだったのだと。
結局、欠陥だらけの術は発動せず、それが幸いして小梅は一命を取り留めた。しかし、書物に書かれていた事が欠陥だらけだと知った小梅はそれ以来ふさぎ込んでしまっているという。
それに憐憫の情がわかなかったわけではない。ただ、それ以上に怒りがこみ上げた。
蘇らせようとしたのが、カジュだったと知っても、怒りは収まらなかった。
むしろ、馬鹿じゃないかと思った。
カジュを蘇らせる?
そんな事、出来るならとっくに自分がやっている。
それが出来ないから、だからーー。
それに、そうやって小梅の命を代償に蘇ったらカジュがどう思うかをあの馬鹿は予測出来なかったのか?
「小梅、ずっと悩んでいたみたいなのよ。それで、その」
いつも堂々とした茨戯にしては、珍しくオドオドとしていた。あの大輪の薔薇の様な男がオドオド?笑えてくる。
「悩んで……こんな、馬鹿な事をしたの?しかも、煉国に入る前の緊張感漂うあんな日に?」
「……」
「馬鹿だよ、本当に馬鹿、馬鹿過ぎて笑えてくる」
ああ、馬鹿だ馬鹿だ。
本当に馬鹿過ぎて、眩暈がしてくる。
「小梅のとこに行くよ」
「朱詩!!」
「何だよ。ボク疲れてんだけど?ここ三ヶ月ずっと休み無く働いていたんだし。あ、それはお前もか」
「……小梅がやらなくても、他の誰かがやったわ」
「何を?蘇生を?禁忌を犯した事?ああ、そうだね!!というか、今更じゃない?そんなの。カジュを造った時点でボク達は皆禁忌を犯している」
「そ、それは」
「だけど、ボクが怒ってるのは禁忌を犯したとかじゃないよ。自分一神で突っ走って、勝手に自分の命を代償にしようとした事だよ!!」
「……」
「小梅は何も分かってない!そんな風にして蘇らせられて、カジュがどう思うか!!」
朱詩の甲高い笑い声に、茨戯は唇を噛み締めた。
後悔した。
何故小梅のやらかした事を、この男に話してしまったのか。
いや、どうせ内緒にした所でいつかはバレただろう。そうすれば、もっと厄介な事になる恐れもある。
だが、茨戯の口からそれを伝えても、結局はこうなった。
「ふふ、大丈夫。小梅はボクがきちんとお仕置きするからさ」
「アタシ達は何とも思ってないわ。小梅が生き延びただけで……それだけで十分よ」
「そうだよ。だから、もう二度とそんな事をしないようにしっかりと教え込まないとね」
そう言って朱詩は笑いながら歩き出した。後ろから戸惑う茨戯の気配を感じたが、気にしなかった。
「小梅の馬鹿馬鹿馬鹿」
ああ、小梅は馬鹿だ。
本当に馬鹿で愚かな子だ。
「しっかりとお仕置きしないとね」
そうして、久しぶりに小梅と再会した朱詩は
「私は生きたくなんてなかった!!どうして私を助けたのよ!!」
泣き叫ぶ小梅に、朱詩は愕然とした。
どうして?
その問いが違った意味を持って朱詩の中に木霊する。
「どうして死なせてくれなかったの?!どうして、どうして私を助けたの?!信じられない、おかしい、理解出来ないっ」
朱詩はギリッと唇を噛み締める。
あの時、血にまみれた小梅を助けようとしてどれだけの者達が動いたか。
どれだけの者達が、意識の戻らない小梅の安否に恐怖に苛まれたか。
そして、小梅の安否が分からないまま煉国で一歩間違えれば身の破滅という大仕事をこなさなければならなかったか。
なのに、こいつはーー。
「私は、死ぬべきだったのよ」
ならば、殺してやろうかーーそんな思いが朱詩の中によぎった。だが、すぐにその考えを打ち消す。いや、んな考えが浮かんだ自分に愕然とした。
自分は小梅を殺したいのか?
違う、違う、違うーー
朱詩は心の中で叫んだ。
違う、殺したいんじゃない。
ただ、ショックだっただけだ。
死にたいと願う小梅。
なんで、どうしてーー
「……なんで、そんな事を言うんだよ。お前は……そんなに簡単に命を捨てようとするんだよっ」
命は一度喪われたらもう戻らない。
それを、朱詩は今では痛いほどに知っていた。
どんなに取り戻したくても、喪われたらそれで終わりなのだ。
「生きてるのに、生きていられるのに、なんでそんな事を言うのさ!!」
許せないと思った。
そんな風に命を簡単に捨てようとする小梅が。
生きたくても生きられなかった者達を知っているくせにーー。
「カジュは生きたくても生きられなかったのに!!」
その言葉が、小梅の心を粉々にするなんて朱詩には分からなかった。
「……そうよ」
小梅は静かに告げた。
「小梅?」
「……そうよ。カジュは生きたくても生きられなかった。生きなければならなかったのに死んでしまった。だから、私は、私は」
小梅がぶつぶつと呟く。いつもの小梅と違うと気づいたが、朱詩にはどうする事も出来なかった。
「カジュは生きなきゃ駄目なの。だから、その為には私はどんな事だってするわ」
そう言って、小梅は微笑んだ。
その白い歯が赤い舌の上にのっている事に気づいた朱詩は、小梅に飛びかかった。
小梅は自分の舌をかみ切ろうとした。
陣も何も無しに、それを行なおうとしたのだ。
ああ、なんて馬鹿な小梅。
いや、そもそも神力使用制限中だと言うのに。
神力使用制限中にそんな大規模な術を使えば、周囲もただではすまない。
「馬鹿な事はやめろ!!」
「私の命をあげる!!だから、カジュを」
泣きながらカジュの蘇生を願う小梅は、それからも何度も死のうとした。
ああ、小梅は狂ってしまったーー
自分の下で泣き叫ぶ小梅は、もう朱詩を見ていなかった。
ただ、喪ってしまったカジュを思い泣き続ける。
小梅の中から自分が完全に消えた事に愕然とした。そして、激しい怒りを覚える。
小梅の中から自分が消えた事。
小梅が自分の命を捨ててカジュを取り戻そうとしている事。
その為には、小梅は全てを捨てても構わない。
周りの者達の事も、朱詩の事も。
「許さない、お前を絶対に許さない」
気づけば、そう叫んでいた。
驚き恐怖に怯える小梅を押さえつけて、強引に服を引き裂いて。
全てが終わった後に感じたのは、虚しさだった。
自分のものにすれば何かが変わると思ったのか。
死なずに居てくれるとでも思ったのか。
結局、小梅はその後も自分の命を絶とうとするのを止めなかった。けれど厳しい監視がそれを邪魔する。
「死なせて、死なせてよっ!!」
小梅の泣き顔しか見なくなった頃、朱詩は完成したそこを萩波から譲り受けた。
本来は傷ついた者達が周囲の喧噪を気にする事なくゆっくりと体を休める場所として解放される筈だった。
【ーーー】
今はもう呼ばれる事のない、その名前。
後に【徒花園】と呼ばれるそこは、元はカジュの為に造られた。
【皇宮】の外に出られないカジュの為に、少しでも彼女が心安らかに過ごせる様にーー。
中央に位置する宮殿と、渡り廊下で繋がる四つの宮からなる建物が中央に位置し、周囲には沢山の自然が溢れている。
他にも、宮殿に仕える者達が住み込みで生活する建物が有り、その他に必要な建造物が建てられていた。
敷地内の総面積だけで言えば、中くらいの村がまるまる入る。
結局、カジュはそこを使う事は無かったけれど……。
そこに朱詩は小梅を入れた。
もちろん、それだけで小梅が死ぬのを止めようとはしなかった。
だからーー
「そんなに死にたいなら、死ねば良いよ。ただし、一神だと寂しいでしょう?だから」
ああ、なんてタイミングの良いーー
死にかけた葵花の命を取引に使った。
「この子も一緒に連れていくと良いよ」
それで、黙った。