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第16話 徒花園への襲撃

 その警報が鳴り響いたのは真夜中の事だった。

 突然のとつぜんの大音響が、【徒花園】の静寂な夜を打ち破っていく。



「何が起きたのさ?!」


 今夜は徹夜で仕事をしていた朱詩は、【徒花園】の異変にいち早く気づいた。彼が持つアラームがけたたましく鳴り響いたのだ。


 こんな事は今までにはあり得ない。


 一瞬、果竪の姿が脳裏によぎった。知ってか知らずかして、【徒花園】の警報が鳴り響く様な事をしでかしたのか。


 いや、違う。

 この警報は外から中に侵入する際のものだ。

 中から外に出た場合は違うアラームの音が鳴り響く。


「皇妃派か?」


 そう呟くが、すぐに馬鹿な事をーーと言うように首を横に振る。あの皇妃派がそんな事をする筈が無い。例えしたとしても、警報が鳴り響かない様にして行なうだろう。こんな風に間抜けにアラームを鳴り響かせる筈が無いのだ。


 だとすれば、それとは別の者達ーー純粋に【徒花園】を邪魔に思っている者達の仕業だ。そもそも、【徒花園】を邪魔に思っている者達は、皇妃派を筆頭に多く居る。

 その中の誰かが暴走したとしてもおかしくはない。

 ただ今までは侵入どころか近づく事すら出来なかった筈なのに、今回は警報が鳴り響いている。つまり、侵入に成功したという事だ。


 警報に気づき、すぐに警備が駆けつけて捕えられれば問題は無い。



 だがーー



 朱詩は絶対という言葉を嫌う。この世に、絶対なんてものは無いからだ。どんなに完璧を誇っていても、ちょっとした事からその完璧さは崩れる。

 起きない事が起きる。あり得る筈のない事が起きる。


 そうやって、カジュを喪った朱詩は絶対なんて言葉は信じない。


 朱詩は執務机に両手をついたまま数秒だけ目を閉じる。そして再び目を開けた後、椅子から立ち上がった。


「玲珠、柳」


 朱詩が配下の名前を呼べば、彼らは音も無く朱詩の前に現れた。


 美しいーー煉国の【元寵姫達】である彼らは、女性と見まがう美しく麗しい容姿を持つ青年達だった。女物の衣装を身につけていなくとも、その麗しさは着飾った美姫すら足元にも及ばないだろう。


「後は頼むよ」


 【元寵姫達】を纏める幹部でもある彼らは、主の命にうっとりした様に頷いて頭を下げた。






 警報は果竪の耳にも当然入っていた。

 普段であればいの一番に飛び出していく果竪だが、警報が鳴り響いてから今まで窓辺に立ち尽くしたままとなっていた。


 動くのは簡単だ。

 けれど、ここでまた下手に動いて失敗したら?


 この体の持ち主が普通はしない事をしたら?



 この体の持ち主は引きこもりだと聞いていた。何か外で起きても関係ない。

 そして、落ちこぼれの無能で、外に出すのも烏滸がましいと。


 教師達からも見捨てられ、【後宮】の片隅にある離宮でひっそりと暮らしていた、【この体の持ち主】。


 そんな相手ならば、こんな警報が鳴り響いている真夜中に、のこのこ危険な場所になんて行かないだろう。きっと、部屋に引き籠もり事が収まるまで待っている可能性が高い。



 けれどーー。



 あの夢の中で、果竪に自分達の現状を教えてくれた優しい眼差しをしたこの体の持ち主を思い出す。慈愛と慈悲に満ちたーー果竪では決して持てない様な、優しい包み込むような温かさを放つ少女。


 それこそ、引き籠もっていたなんて信じられない。

 無能だろうと、落ちこぼれだろうと、きっと彼女はーー。


 駄目だーー



 それでも、果竪は動けない。動かない。



 例え自分が彼女をどう評価しようとも、この世界の者達の中では既に評価されている。



 地味で鈍間で、落ちこぼれて無能な最下位の妾妃。

 皇帝陛下の温情で【後宮】の片隅に住まう事を許されている厄介者。


 引き籠もってくれていた方が、余程周囲の為になるとーー。



 昔の自分が思い出されていく。



 果竪もそうだった。

 無能で落ちこぼれ。

 萩波達の厄介者。

 王の温情で、その優しさにつけ込んで王妃になった忌むべき存在。



 だが、仕方が無いのだ。

 周囲がそうやって嫉妬し怒り狂うぐらい、萩波達は凄い神達だった。

 そんな萩波達の傍に居るには、それなりの努力が必要となる。


 果竪は頑張った。


 彼らの傍に居ると決めてからは、がむしゃらにーー。

 そういう風に心を決めるまでにかなりの時間がかかったけれど。


 決めたからには、果竪は頑張り続けた。



 もう、逃げたくないーー



 そうやって、立ち向かう事を決め、ひたすら邁進してきた。



「私も落ちこぼれなの」


 そう口にしながらも、一神で頑張る親友の顔が蘇る。

 自分よりもずっとずっと由緒正しい家に産まれたお姫様。けれど、完璧で世界に愛され居る双子の妹に何もかもが敵わぬ自分に悩んで、妹を憎んでしまいそうな自分をどうにかしたくて。


 彼女は、外へと飛び出した。



 決して平坦な道では無かった筈だ。



 なのに、強く生きる親友はとても美しいと思った。

 自分よりずっとずっと幼いのに、全身から溢れ漲るそれに思わず魅入られた。



 あんな風になりたい。



 泣いても、怒っても、沈んでも、自己嫌悪に陥っても。

 それでも、何度つまずいて転んでも立ち上がり、前を向いて歩き続ける彼女みたいに。

 時折後ろを振り返っても、また前を向いて歩き続ける勇気を持った彼女みたいに。



 自己嫌悪に陥ったり、磁心を無くしてウジウジしたり、ジメジメしたりしても。



 強くなりたい。

 自分に出来る事をしたい。



 今、果竪に出来る事はーーこれ以上この世界を引っかき回さない事だ。この体の持ち主が戻ってきた時に、大きな負担をかけたくない。


 それでも、未だに鳴り止まない警報に、果竪の中で警笛が鳴らされる。



 まだ状況は良くなってはいない。



 既に事は終わっていて、ただ単純に警報だけが鳴り続いているならばまだ良い。しかし、果竪の中で鳴らされる警笛はそれをはっきり違うと否定していた。


 まだ、状況は好転していない。



 この警報が何のために鳴らされているのか?



 果竪の中に一つの答えが浮かぶ。



 一番確率が高いのは、【侵入者】ーー。



 そう考えれば、全ての説明が付く。そもそも、警報は中に居る者達に自分の身に気をつけろという警告も兼ねている。どんなに警報の発端をどうにかするべく誰かが走っても、その近くに居る者達が無防備では駄目だ。


 だから、直接警告出来なくても、遠くに居る者達に一瞬にして報せる為に警報というものはある。耳にして不快な、それでいて震え上がるような嫌な音だとしても。


「……」


 今、こうしている間にもこの【徒花園】に居る者達が危険な目に遭っては居ないだろうか?


 果竪はこの【徒花園】に来てから出会った者達の顔を思い出す。突然現れ、そしてこの体の持ち主がやらなさそうな事ばかりする自分に戸惑いながら、それでも笑顔で受け入れてくれる優しい神達。


 そんな彼らがもし、今この時も危険な目に遭っていたらーー。



 その時だった。



 爆発音が響く。



 ビリビリとガラスが振動し、パラパラと天井から小さな欠片が降ってくる。



「ーーっ!!」



 果竪は思わず外に飛び出そうとした。

 だが、あと一歩の所で足を止める。



 行って何になる?

 自分が行けばもっと大変な事になるのではないか?

 もっと、この体の持ち主の行動とは違う行動をーー



 その時、また遠くで爆発音が鳴り響いた。



 果竪は唇を噛み締めると、外へとの出入り口に繋がる扉を開け放つ。



 動かないで後悔するより、動いて後悔しようーー



 それは、いつかの自分の言葉だ。

 動かないで後悔した事なんて沢山ある。

 どちらでも後悔するなら、それなら、出来るだけの事をやって後悔した方が楽だーー。



 最終的にその考えに行き着き、実行してきた。



 ああ、何を迷っているのか。


 確かにこの世界を必要以上に引っかき回すのは駄目だ。けれど、そうやって躊躇して誰かが怪我をしたり、死んだりしたらーー。


 きっと、この体の持ち主だって同じ事をする筈だ。



 それは確信とも言える様な強い思いだった。



 もしかしたら自分に都合の良い様に、自分の罪悪感を少しでも減らす様に都合良く考えているのかもしれない。だが、もうそれで構わなかった。


 近づいていくに連れて、少しずつ聞こえてくる悲鳴。

 刀を交える音と、怒声、罵倒。



 果竪は足を止める。

 足元に転がっていたモップを手に取る。

 その近くには、既に事切れた見知らぬ男と、この離宮で掃除の仕事をしている青年が怪我を負っている姿が見えた。

 ここで戦闘があったのだろう。

 両足に傷を負ったが、何とか刺客を仕留めたらしい。


 ただ、そこで動けなくなった。


「……誰、だ」


 額から顎へと伝う血。

 それが邪魔をしてよく見えていないのだろう。


「侵入者、ですか」


 それが最下位の妾妃の物であると気づいた、掃除の仕事をしながらこの【徒花園】を警備する青年は叫ぶように言った。


「すぐに部屋に、いや、避難場所に行け!!」


 どうして最下位の妾妃が此処に居るのかが分からなかった。いや、もしかしたら怯えて逃げてきたかもしれない。ならば、すぐに安全な場所へと連れて行かなければ。


 この前代未聞の状況の中では、絶対的な安全など無い。


 だが、青年が連れていくには、彼は傷を負いすぎていた。



 皇帝陛下の駒として任務を遂行する自分でも、そこに転がっている侵入者に手こずらされたのだ。しかも侵入者は一神では無い。


 刀を握る手からは力が抜けており、自分の愛刀は悲しげに床に転がっている。こんな所を侵入者に見られたら、嘲笑を浮かべながらトドメを刺されるだろう。


 死ぬ事は恐くは無い。


 皇帝陛下に仕える事を決めた時、この身も心も陛下に捧げたのだから。陛下が自分という道具をどう使うかなんて関係なかった。

 ただ、時が来れば陛下の為に命すら捨てる覚悟だった。


 だから、例えトドメを刺される事になっても、それは近づく侵入者を始末する絶好の機会で、それで死ねるなら本望だった。


 そうーー死すら利用する筈だった。



 なのにーー



「その避難場所はどこですか?」


 自分よりも小柄な最下位の妾妃は、青年の手を自分の肩に回して立ち上がる。身長差があるのでかなりキツイ体勢だが、それでも簡単に立ち上がってしまった自分に青年は思わず目を瞬かせた。


「え、あ?」

「避難場所に行きます。そこでなら手当てをして貰える」


 きっとそこには、他の負傷者達も居るだろう。負傷者が居るという事は手当をする者達も居るという事だ。


 青年は強いーー果竪は見抜いていた。そんな青年がこんな状態にさせられるのだ。他の者達だって無事かどうかは分からない。

 いや、武芸を嗜んでいる者達がそうなら、障害を負い静かに暮らしている者達はーー。


 果竪は考えたくない事を考え、思わず舌打ちをした。





 警報のアラームは、皇帝の執務室にも届いていた。


「現在、我らが長が確認に走っています」


 そうやって頭を下げるのは、【海影】が第二位の地位を誇る青年だった。美しく艶やかな髪が、頭を垂れる事でさらりと艶めかしく揺れる。


「【徒花園】が襲われたーー」

「陛下……」


 ぽつりと呟く皇帝に、【海影】の青年の神形の様に整いすぎた顔から血の気が引いていく。普段は顔色一つ変える事のない青年にとっては珍しい事だが、逆に言えば彼もまた混乱しているのだろう。


「外からは破る事の出来ないシステムを作り上げていたのですが……となると、中からですか」


 【徒花園】の結界は、皇帝陛下直々に練り上げた特殊なものだ。もちろん、他にも幾つか数種類の結界を、皇帝陛下が直々に任命した少数の上層部が造りあげ、複雑に練り合わせさせた。だが、それらが解呪されたとしても、皇帝陛下の結界がある限りは、【徒花園】は外からの侵入を拒み続けるだろう。


 しかし、それは外からのみの攻撃に対してである。

 強力な結界である分、どうしたって弱い部分や隙が出来る。


 今回はそこを付かれた様なものだ。


 だが、そうするには中からのアクションが必要となる。それが、今回行なわれたという事だ。


 内通者、裏切り者ーー


 幾つもの表現があるが、結局はそういう事だろう。


 萩波は結界を通して伝わってくる、【徒花園】の状況に目を閉じた。中で起きている事の全てが見通せてしまう。


「陛下ーー【徒花園】は我らにお任せ下さい」

「……既に怪我神が出ているようですがーー警備の者達に」

「警備はそれが職務です。今大切なのは、彼らが守るべき相手を守り切る事です。絶対に、我らが長は間に合いますーー誰一神、死なせたりなどしません」

「ーー侵入者は五十名」

「……」

「手練れが揃っています。それに、本来であれば自動修復される筈の結界の動きが悪い。何かで自動修復が阻まれているのでしょうね」

「陛下の、結界が、阻まれる?」

「それに伴い、【徒花園】内での神力使用が可能になっているようですよ」


 神力の使用ーーそれは、それだけ被害が大きくなる可能性があると言う事だ。



「それで、襲撃は【徒花園】のみですか?」

「そ、それは……」



 新たに伝えられた場所を耳にした萩波は、小さく溜息をついた。



「さて、どちらが囮で本命なのやら」



 そう呟きながら、萩波は椅子に座ったまま結界に意識を集中させた。



 この帝国の皇帝は、常に幾つもの術を常時使用している。

 【皇宮】を包み込む結界、【皇宮】内にあるそれぞれの区域や建物を守る結界、そして帝国全土を守る結界ーー。


 それらは途方もない力を要し、普段はそれぞれ媒体を利用して皇帝が放つ力を倍増させて強力な結界とする。ただ、もしそれらの媒体が何らかの理由により使用出来なくなった場合も、皇帝ただ一神でそれらの結界をしばらくの間維持しなければならない。逆に言えば、それも皇帝として君臨する為の必須事項だった。


 誰よりも強い力ーーそれは無いよりあった方が良い。


 そして途方も無い力を使用しながらも、息切れ一つ起こさない萩波は、それだけ凄まじく強大な神力の持ち主だと言えるだろう。また、その力を暴走させずに支配下に置く、その精神力。


 更に、もしここで敵に襲われたとしても、萩波であれば幾つもの結界を発動させた状態のまま、数多の強大な術を連発出来るだけの余力はしっかりと残っていた。


 正しく、皇帝の名に相応しい。



 【海影】の青年は、その強大な力を内包する、震えるような威厳とカリスマ性を持つ皇帝陛下に向かって頭を下げ続ける。


 偉大なる主。

 自分達が誇りとする皇帝陛下。

 自分達がただ一神、忠誠を誓った【王】。



「事態の早急なる解決に努めなさい」



 皇帝の言葉に、青年は深く頭を下げた。


 本来であれば、すぐさま駆けつけたい気持ちを抑えて、配下達に全てを任せる皇帝。その気持ちに報いる為に、そしてーー。


「必ずや、吉報をお持ちいたします」


 自分達の為にもーー。



 あの穏やかな空気の流れる【徒花園】に、再び平穏をもたらす為に。







 激しい爆発音が鳴り響く。

 その音に鼓膜が激しく振動する。

 痛みすら覚えるその大音響と共に、何かが焼ける音が聞こえる。

 息苦しささえ覚える煙に巻かれながら、涼雪は必死に手探りで外へと歩いていた。


 目が見えなくても、何度も行き来した場所だ。だから、外には出られる筈だーー何事もなければ。


「くっ……」


 だが、まるで追いかけてくる様に背後から迫る熱風と煙に巻かれ、涼雪の体力は確実に削られていく。


 このままでは、外に出るまで間に合わないかもしれない。


 激しく咳き込みながら、涼雪は必死に歩き続けた。


 他の子達はどうしただろうか?


 無事に逃げられたなら良いがーー。



 そうして、あと少しという所で涼雪は後ろから強い衝撃を受けて床に倒れた。





 葵花は焦っていた。

 爆発音が鳴り響いて間もなく、葵花は涼雪や小梅の所に行こうとした。けれど、彼女達の所に行く道は既に炎に包まれていた。


 それに驚く間もなく、新たな爆発音が響き、葵花の体は宮殿の外へと放り出された。



 宮殿は燃えていた。



「…………っ!!」



 声が出ていたら絶叫していただろう。しかし、どれだけ叫んでも、傷ついた喉は音を生み出さない。気づけば涙が溢れて頬を滑り落ちていた。


 近づこうにも、炎の勢いが強すぎる。



 離宮は、本殿である中央を中心に、渡り廊下で繋がった離宮が東西南北それぞれ建っていた。今の所、一番炎が酷いのは北ーー小梅や涼雪達が居た場所だ。


 あちこちから悲鳴が上がっている。

 どこかで激しく戦う音も聞こえてきた。


 その音は少しずつ、葵花に迫ってくる。


「……」


 このままでは、葵花の身も危険になるだろう。

 一番は、少しでも早く安全な場所に逃げ延びる事だ。


 それが、満足に戦えない葵花にとって出来る最善の手段である。



 しかし、葵花は気づいてしまった。



「……っ……あ……」



 葵花の視界の隅に積もったがれきの下でうめく、知り合いの姿を。彼は、この【徒花園】で共に暮らした青年だ。片腕を失い、それ以降はこの【徒花園】で暮らしてきた。


 彼は両膝から下をがれきに挟まれうめいている。

 そのすぐ近くには火が迫っていた。


「ーーっ!!」


 葵花は叫んでいた。

 駄目だ、このままでは火に飲み込まれる。


 ともすればすくみそうになる足を必死に動かし、葵花は彼の元へと駆けつけた。


「あ……葵花?どうして、ここに」

「……」

「……いいから、逃げるんだ……は、やく」


 酷い痛みに悩まされながらも、自分を逃がそうとする青年を押さえつけているがれきに葵花は手をかける。だが、既に熱を持っているそれは、葵花の手を焼こうとした。


「っーー!!」

「葵花、はや、く、にげ、ろっ!」


 ゴホゴホと咳込みながら、彼は叫ぶ。正に血を吐く様な叫びだった。


 自分に縋り付こうとする葵花を、自由にならない体で青年は突き飛ばす。しかし、その度に葵花は何度も、何度でも立ち上がり、青年の足をどうにかがれきから引き抜こうとする。


「やめ、ろ!もう……まにあわ……お前まで、死んだら」


 既に火はそこまで迫っていた。その灼熱の熱さと煙に、これ以上留まれば葵花も確実に巻き込まれる。


 だが、それがどうした?



 葵花は叫んでいた。



 葵花は逃げられる。

 けれど、彼は逃げられない。


 逃げられず、炎が迫る恐怖と苦痛にのたうちながら、待つしかないのだ。

 自分が生きながら焼かれる時を。


 体が炎に包まれても、どれだけ苦しくて辛くても、動けないまま、自分の体が焼けていくのを待つしかないのだ。


 葵花が逃げた後、その体の全てが燃え尽きるまでその恐怖を味わうしかない。



 もちろん、葵花が残ったって出来る事はたいして無い。

 今も、がれき一つ動かせずに葵花は自分の無力さを痛感するばかりだ。


 だがーー



「葵、花」

「……」


 葵花は諦めない。

 諦めない。

 でも、きっと頑張っても頑張ってもどうにもならなくて……だから、最後まで頑張ってもどうにもならない時はーー。



 ワ タ シ ガ イ ッ シ ョ ニ イ テ ア ゲ ル



 口パクのそれを、青年は正確に読み取った。



「……馬鹿、だなぁ」



 声にならない声を。


 恐怖に震えながらも、必死に葵花を逃がそうとしていた青年の瞳から涙がこぼれ落ちる。



 恐かった。

 苦しかった。

 辛かった。



 それでも、目の前の少女を巻き込みたくないという気持ちを何とか奮い立たせた自分を、葵花は抱きしめてくれる。



 ああ、無力な自分が恨めしい。



 火の粉が葵花の上に降り注ぐ。



「葵花!払えっ」


 火の粉が、葵花の体に落ちていく。このままでは、直に彼女も火に包まれるだろう。なのに、葵花はひたすら自分をがれきから逃がそうとする。


 もういい、もういいからーー



 青年は叫び続けた。



 ああ、誰か



 誰か助けて



 せめて、葵花だけでも助かる様に祈るーー



 神である自分が祈る



 人は神に祈る



 ては、神は果たして誰に祈るのかーー





 そして神の願いは、叶うものなのか?






 綺麗に弧を描く軌跡。

 見事な動きで、目の前に立ちはだかる相手の横っ面を、果竪は手にしたモップでなぎ倒した。


「ぐ、あっ」


 地面に倒れた男に、果竪はトドメの一撃とばかりにその顔面を踏みつけた。そして完全に昏倒した男に見向きもせず、離れた場所に待機させていた青年の元へと走る。


「大丈夫?」

「……あ、はい」


 この宮殿の掃除をしながら警備も担当する、宮殿仕えの青年は最下位の妾妃の質問にそう答えた。だが、その心は混乱していた。


 確かに、確かに自分達が良く知る最下位の妾妃と違っているとは聞いたがーー。



 落ちこぼれの無能と名高かった筈の最下位の妾妃が、ここに来るまでに見せた姿の数々に彼は酷く混乱していた。



 まず、最下位の妾妃に連れられて歩き出してすぐに、侵入者と思わしき者達に襲われた。けれど、最下位の妾妃は襲いかかる男達を全て、そのモップでなぎ払ってしまった。

 その動きは、元武官として軍部に所属していた彼から見ても、熟練したものだった。しかも、手練れである侵入者達の動きについて行けるどころか、それを上回る速さで相手をしていくのだ。


 そしてあっという間に、五名の侵入者は最下位の妾妃によって気絶させられ、更に遅れてやってきた侵入者一神がたった今、横っ面をモップで張り倒されて昏倒した。


「外に出るね」

「え?あ」


 外に出るーーだが、外に向かうにしても前と後ろは既に煙が立ちこめ、更には炎も迫っていた。進むも地獄、戻るも地獄の状態だった。


 だが、最下位の妾妃はモップをくるくると回してその場所に立つ。目の前は、壁だった。

 確かに、その壁の向こうには外が広がっているが。


「どうせここまで焼けたなら、新しく建て直した方が良いですしね」


 そう言うと、最下位の妾妃はモップを下から上に斜め切りの様に素早く一閃させた。更に今度は逆から一閃。丁度、バツの字になる様に動かされたモップの奇跡は、そのまま壁に切り込みを入れていく。


 声を出す間もなく、壁は崩れ落ち、ぽっかりとそこに外に繋がる穴が開いた。



「出るよ!!」

「え?!」



 果竪は青年を引っ張り外に転がり出る。

 だか、思った様な爆発は起きなかった。


「バックドラフトが起きるかと思ったけど……間に合ったみたい」



 確かにまだ中には空気があったので、その可能性は高くは無いと思ったが、実際にはやってみなければ分からないものだ。


 だが、風穴を開けた事で減っていた酸素がこれで再び供給されてしまった事になる。火は酸素がなければ燃えないが、果竪のやった事は火を燃やす為のエネルギーを与えてしまったと言えるだろう。


 このままでは、中の者達が危険になる。



「……あ……あ、今の、は」



 警備の青年が呆然とこちらを凝視している。

 言いたい事は分かっていた。



 果竪が手にしているのは、普通のモップだ。

 それで、分厚い壁を切り裂いた事が余程不思議でならないのだろう。


「ふふ、私の必殺技です」


 果竪はクスクスと笑いながら、「我ながら誤魔化しが下手だわ」なんて心の中で呟く。確かに必殺技だろう。これを獲得するまで、果竪は何度も死ぬような思いをした。

 それでも、一度体得すればかなり使える技であり、果竪は何度もこれに助けられてきた。


「まず消火をしないと」


 果竪は、宮殿にある水源ーー水道管の類いを徹底的に壊すかと考える。それが一番簡単でリスクが少ない。あ、その後の水道管の補修工事とか、【皇宮】の水が止まってしまうとか、そういうマイナス面はあるが、今は神命が最優先だ。

 偉大なる皇帝陛下が居るのだからきっと大丈夫。


 そう思い、果竪はモップを再び振り上げた。

 丁度良い所に、果竪のすぐ前に水道管が埋まっている。



 しかし、それが振り下ろされる寸前に、果竪は血を吐く様な叫びを聞いた。




 誰か 葵花を  助けて   !!!!!!




 それは、警備の青年にも聞こえたようだ。

 思わず傷ついた体を忘れて動いた青年が、痛みに膝を突く。


「ーー向こうか」


 声のした方は、果竪達が居た場所の向こう側ーー果竪が打ち破った壁とは逆の壁の向こう。そこに行こうにも、既に果竪達が出てきた出口は火に包まれていた。

 そこを突破するのは難しい。



「……」



 果竪は火が放つ朱色の光に照らされながら、モップを片手に炎に包まれた先を見つめた。



「回り込んでいる時間は、なさそうね」



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