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第15話

 小梅の好きな花は、白梅だ。

 それは既にリサーチ済みだったし、向こうの世界でも同様だった。

 だが、今は残念ながらその花は咲いてはいない。

 ならばどうするか?


「そういえば、余りよく眠れてないって言ってたなぁ」


 果竪は安眠効果のある香りを持つ花があった筈だ。

 薄い紫色の花ーーラベンダー。

 苦手な神も居るが、世間ではそう言われている。


 それに、向こうの世界の小梅はラベンダーは苦手では無かった。もちろん、それをそのままこちらの世界に当てはめるのは短絡だが、逆に言えばそこで改めて好きかどうかが分かる良い機会でもある。


 【徒花園】には実に様々な花が咲き乱れていた。

 美しく整えられた庭園が幾つもあり、そこにラベンダー畑がーー美しい紫色の絨毯となって果竪の目に飛び込んでくる。


 ラベンダー畑を管理する管理神に許可を貰った果竪は早速


「すいません、せめて花切り鋏とか」


 鎌で切り取ろうとした果竪に、片手で顔を覆った管理神が懇願した。いや、確かにそれでも切り取れるけど。


「情緒とか情緒とか情緒とか」

「……なんか分からないけど、既に農婦姿の私にそれを求めるのもなんていうか」


 どこをどう見ても、完全防備の農婦姿の果竪。日差し避けの帽子、虫除けの長袖長ズボン、足は土の上でも大丈夫な長靴だし、手袋も装備万全。

 農婦として見ると、これ以上ない位に情緒が溢れている。


「花摘みとしては完璧なんだけど」


 果竪の呟きに、管理神は自分と彼女の思考に言いようのない解離が発生している事を確信した。


 普通、いくら最下位の妾妃だろうと、こう妃という名の付く存在が花を摘むというのは、なんというか、こう情緒に溢れ、思わず見る者がうっとりとする様な嫋やかさが溢れる絶景で。

 美しい衣の裾と袖をヒラヒラさせながら、一輪ずつ、その白魚のような指で摘まんでいく。


 あの明燐でさえ、皇妃の名にふさわしい情緒溢れる様で、正しく絶景と言わんばかりの光景を造りだしてくれた。

 美しい衣を身に纏い、それ以上に美しい美貌と、思わず溜息が零れる程の気品と可憐さを纏いながら花を摘む姿は、それだけで万金に値した。


 だが、今の最下位の妾妃の姿は完全に農作業に全力投球する農婦姿だ。


「違う!違うんだ!!俺が求めているのはそういう姿じゃなくって!!」


 これでも、恋に夢見るお年頃の管理神。

 自分の美しすぎる女性的な美貌が災いし、今も彼女すら作れない悲しき男は、思わず地面に四つん這いになり、拳で固い土を叩いた。


 その間も、果竪はせっせと鎌でラベンダーを刈り取っていく。そして、両手で抱えられるだけの量を詰むと、果竪は管理神にお礼を言ってその場を後にした。


「あ、どうせだから綺麗なリボンで纏めてみようかなぁ」


 リボンは、女官の誰かに頼めば用意してくれるだろう。果竪の部屋から持ってきても良いが、残念な事に果竪の部屋には装飾品の類いは殆ど無い。最低限の衣服があるのみだ。

 流石にそれは最下位の妾妃と言えども少なすぎるのだが、果竪からすれば使わない物を大量に揃えられても困る。元々の自分の体の持ち主がそうでないならまだしも、この体の持ち主が住んでいた【後宮】の外れにある離宮も質素な物だった。

 衣服は最低限で、装飾品の類いも殆ど無かった。


 良く言えば慎ましく、悪く言えば地味で質素だった。


 だが、果竪からすればむしろ好感を持てる。過ぎたる物を持っていても、それらが全てタンスの肥やしになっているなら作ってくれた相手に失礼だ。


 それに、この体の持ち主は公式の場に出る事も少なかったと言う。離宮に籠もりきりの最下位の妾妃。もし公式に相応しい衣装を幾つか持っていても、それらは使われなかった可能性が高い。


 因みに、公式の場には皇帝の正妃たる皇妃は必ず出席するが、その他の側室達も出席するのだという。もちろん、皇妃と違い、公式の場全てに出席とはならないが、王の権威を示す為にその参加出来る場は意外に多いらしい。


 向こうの世界ではーー果竪の居た世界では、残念ながら妃は果竪だけだったし、寵姫が居た時はそれどころではなかったし、現在その寵姫は王の妹として日々を悠々自適に過ごしている。流石は萩波の実妹と言うべきか、様々な事を一度見聞きするだけでたいていこなせるのだ。

 萩波も天才だったが、萩波の実妹もそれに次ぐ才能と能力の持ち主として、今や世界に轟く美貌と優秀さを兼ね揃えた美姫として多くの男達に求婚されている。

 ただし、色々と性的な事で嫌な思い出のあるーー欲深き者達に家族を奪われ、手駒にされ、玩具にされて全てを奪われてきた彼女は男嫌いな一面もある。


 兄を除けば、上層部やそれに準ずる者達、また【元寵姫達】とその関係者ぐらいにしか彼女は懐かない。

 と、これだけ言うと多いが、残念ながらその男達は皆、彼女以外の相手を求めているので、彼女の夫となる者は残念ながらそこから選ぶ事は難しいだろう。



『お姉様がオトコナラ、私はトツギます、喜ンデ』



 そんな宣言をされたが、普通そこは「お兄様みたいな相手じゃないと嫌です」ではないだろうか?


 そしていつもその話になると


「果竪は私の妻です。果竪が男になったとしても、果竪は私の妻なのですよ」


 と、妹を自分の娘の様に可愛がり、また妹の方も兄をこれ以上ないぐらい慕っているという良好関係を築いている萩波は、にっこりと妹を窘める。

 だが、妹も負けては居なかった。


「かじゅは、私の物」

「私の妻ですので、確かに貴方の義姉ですね、ただの」

「……」

「……」


 とりあえず、凪国国王と王妹の兄妹喧嘩は凄まじかった。上層部が束になってようやく止まるぐらいだった。


「もし萩波に何かあっても、妹を女王にすれば万事解決だな」


 萩波に次ぐ神力は強大かつ無尽蔵と謳うに相応しく、その頭の回転の速さは明睡でさえ舌を巻いた。明燐に勝るとも劣らぬ気品と品位を極め、それこそ炎水界でも名だたる美しい美姫として名を馳せる始末。


 きっと、今も向こうの世界で多くの男達の視線を奪い、その奇跡のような存在に男達は彼女の姿を見られた事に狂気しているだろう。


 そこに、向こうの世界の凪国王妃の中身が実は違うだなんて、気づく余地などないかもしれない。



 いや、もしかしたら向こうの萩波達も



「あれ?なんかいつもと果竪の様子が違うな」

「なんかおかしな物でも拾い食いしたんじゃない?」

「ああ、あるある」

「というか、この方が静かでも良いかもしれないな」

「あはははは!言えてるっ」



 な~んて言う風になっていて、全然この事態に気づいていないかもしれない。

 というか、今までそこに気づかない、考えつかなかった自分に果竪はハッとさせられた。


 がーー


「ま、いっか」


 もしそうだとしても、果竪が向こうの世界に戻るのは変わりない。それは、それぞれの世界をあるべき姿に戻すというのもあるが、果竪自身が向こうの世界に戻りたいという所が大きい。


 例え、誰もが果竪の帰りを待っていなくても、果竪が産まれ生きてきた世界は向こうで、これからも生きていきたいと願うのも、向こうの世界だ。


 こちらの世界にだって良い所はあるし、向こうの世界にだって悪い所はある。その逆も然り。


 だが、戻るまでにはまだ時間がかかるだろう。


 だから、それまではこの世界で生きるしかない。この体の元の持ち主が無事に戻ってくるまで、果竪が少しでもこの体の持ち主が戻ってた時に生きやすい様にしていくつもりだ。

 それが、既に色々と好き勝手にやらかしてしまった自分の償いだ。



 その後、無事にリボンを女官の一神から譲り受けた果竪は、小梅の寝ている部屋を目指した。一度自分の部屋に戻っていたから遅くなってしまった。小梅の部屋は、この離宮の一番北側にあり、果竪の部屋は南側に位置している。

 自分達が住まう宮殿はそれ程大きくないと小梅は言っていたが、実際にはかなりの広さを誇る事を果竪は既に知っていた。だが、それも当たり前のことだ。此処には、少なくない者達が住んでいる。そして、少なくない者達が働いている。


 途中、廊下掃除で通れない場所もあり、果竪は、少し近道をしようかと、外に面した回廊から中庭へと視線を向けた時だった。


 ーーっ!!

 ーー!!


 何か言い争う声が聞こえてくる。

 若い女性と、それより少し年上の女性の声。



 果竪は気づけば、そちらに向けて足を進めていた。

 回廊を支える柱と柱の間から庭に降り、声のする方へと。





 皇帝陛下の直属となった中で一番経験も少なく年若い同僚の様子に、彼女はもう何度目になるか分からない溜息をついた。

 悪い子ではないのだ。優秀な才能と能力を秘め、皇帝陛下直々に見いだした自分達の期待の星でもある。


 だが、いささかまっすぐ過ぎた。正直過ぎたのだ。もう少し腹芸が出来なければ、皇帝陛下の直属の駒としてはやってはいけない。


 とはいえ、この【徒花園】で働けるぐらいには頭の回転も早く、策略の才能もある。


 【徒花園】は他の場所とは違う。

 厳しい審査を幾つも受け、それをくぐり抜けた者達だけがこの場所で働く事許される。


 それは、【元寵姫達と元神質達】が住まう場所に負けずとも劣らぬ聖域であり、絶対に守るべき場所だからだ。

 その警備の厳重さ、重要さは、【後宮】すらも遙かに凌ぐ。


 皇帝の駒ーー上層部とそれに準ずる者達以外から選ばれ、更にそこから取捨選択の限りを尽くされてようやく選ばれたのが自分達だ。

 それは上層部でもそれに準ずる者達でも無い自分達にとっては、最大の誇りであった。自分達の力で今の地位を勝ち取った。それは、自分達の大きな存在意義にもなっている。


 彼女は貧しい村の出だった。

 美しさ故に、権力者に目を付けられて攫われ、地獄の日々を過ごしていた。そんな彼女が今、こうして皇帝陛下の直属の駒として在るなど、一体誰が想像したか。


 彼女はこの【徒花園】で一神の少女に仕える事を命じられた。

 その方は、今は亡き煉国が王都を侵略しようとした際に、筆頭書記官様を守ろうとして膝から下の両足を失った。

 そんなお方の傍に仕える事に最初は戸惑いもあった。体に大きな傷を負った女性にどう接していいか分からなかったからだ。それに彼女自身は、その美しさから体に傷を付けられたり欠損する事はなかったから。

 だが、今ではその少女に仕えられる事は大きな喜びであり、彼女の足の代わりになれる事が嬉しかった。


 ただ、それでも色々と複雑な思いはある。



 下がれーー



 この【徒花園】に入る事を許された者達の筆頭とも言えるべき存在。

 筆頭書記官として、王の三本の刀の一つと謳われる彼は、自分の主に強い執着を抱き此処に訪れている。いや、ただ訪れているならばまだ良い。


 しかし、大きな傷を負った主たる少女に更なる負担を与えている事に関しては賛成出来ない。少女がそれに心から同意しているならばまだしも。


 縋る様に助けを求めていた少女は、いつしかそれすらも止めてしまった。


 だが、それでも筆頭書記官は少女を求める事をやめない。


 先輩から聞いた、秘密の事情。


 それを耳にした時、彼女はどう動いて良いか分からなかった。何を言えば良いか分からなかった。



 それまで、自分の主である少女は自分の意志を無視してこの【徒花園】に囚われた悲しい犠牲者だと思っていた。いつか、外に出したいと思っていた。


 だが、実際にーー少女をこの【徒花園】に放り込んだ、筆頭書記官の思いを知り、彼女はどうしたら良いか分からなくなってしまった。



 どうしてーー



 そう問いかけられれば良かったのかもしれない。けれど、何かを言う事も許さないと言わんばかりの筆頭書記官に、結局彼女は何も言えずに口を閉ざし続ける。


 思いを伝えられたならばーー



「それが一番だけど、そう簡単に出来る事じゃないんだよ」



 自分に秘密を教えてくれた先輩を見て分かってしまった。彼女もまた、それを伝えようとしては出来ずに居た事を。そんな自分をもどかしく思っている事も。


 自分達では駄目なのだ。

 あの方達がどうにかしなければ。



 それでも、最近体調を崩しやすくなっている主を見ると、心が痛む。そして、そのきっかけの幾つかを作っていく筆頭書記官に腹立たしさを覚える。


 いや、筆頭書記官だけではない。

 他にも、同じ様に相手に多大な負担をかけていく者達は、決して少なくは無い。


 そしていつの間に漏れたのか、いつしかその行為は他にも知れ渡る様になった。【徒花園】の外ーーそこで面白おかしく囁かれ続けているのだ。



 目の前で子供のように地団駄を踏み、悔しげに涙を浮かべる後輩の年若い彼女は、その事が許せないのだ。



「先輩は悔しくないんですか?!この場所がそう呼ばれている事が分かっているのにっ!!」

「それは……」


 確かに最初にそれを耳にした時には愕然とした。だが、否定出来るだけの根拠が無かった。なぜなら、実際に自分の主は、そして多くは無いが、それでも少なくはない者達が実際にそういう仕打ちを受けている。


 仕打ちーーそう、そう言わざるを得ないだろう。そして、それをしている者達もまた、それを理解している。


 守る、保護するーーそう口にしながら、結局は自分達が執着する相手をこの場所に強引に押し込め、ここから出る事を禁じている。そして、自分の主の様に、押し込めた相手にーー。


 そんな彼らの世話をする自分達。

 だが、同時にそれは此処で暮らす者達の監視役である事も重々承知していた。


 自分の主を含めて、外に出さないようにする見張りなのだ。


 自分も、そして目の前に居る後輩も。



「貴方達には、酷な仕事だと思います」



 その仕事を命じた皇帝陛下の眼差しは、厳しくもどこか悲しげだった。



 また彼女は知っている。

 何故彼らが、此処に自分達の執着する相手を押し込めなければならなかったかを。


 だが、知っていても尚、後輩の様に割り切れない者も居た。それは彼女だけでない事も知っている。



「私は許せません!!」

「……」

「噂は酷くなるばかり!!神の噂は七十五日なんていうあれ、絶対に嘘です!!」

「それでも、下手につつけばより酷くなるわ」

「もうどん底ですよ!!だって、【徒花園】は上層部御用達の【妓院】等と呼ばれているのですよ?!」

「黙りなさい!!」


 大声でわめき立てる後輩に、思わず彼女は強い口調で叫んでしまった。

 だが、それ以上言わせてはならない。この後輩の為にも。


「先輩は、先輩は悔しくないんですか?!先輩がお仕えする方だって、口さがない連中に【卑しい娼妓風情】と罵られているんですよ?!」

「っ?!」

「両足を失ったお荷物のくせに、残った下半身だけはいっちょ前の穢らわしい女だって!!どうせなら両手も切り落とせば、さぞや面白い愛玩道具になっただろうって言われてるんですよ?!」


 それは聞くに堪えない忌まわしい言葉だった。


「それに、私がお仕えする葵花様だって、あいつらーー」

「……だからと言って、私達の役目は変わりません。私達は、誠心誠意、それぞれの主にお仕えする事です。それが、陛下からのご命令であり」



 頼みますーー



 陛下からの、頼みだ。

 自分達の様に卑しい者達に、あの方は頭を下げてまだ頼んだのだ。


 ただ、そうやって直々に頭を下げられたのは、初代メンバー達だ。この【徒花園】が建設された当初に、ここに仕える事が決まったのは、当時はたったの二十名ばかりだった。

 それから、少しずつ、少しずつメンバーが増えていった。


 そして、一番最後に加わったのが、この同僚兼後輩である。初代メンバーの一神が妊娠したが経過が思わしくなく、育児休暇と合わせて長く仕事を離れる事が決まり、代わりにこの後輩が葵花様付きの侍女として採用された。


 親友でもあった、その妊娠して仕事から一時的に離れた女性はこの後輩に特に目をかけていた。

 だが、同時に心配もしていた。


「直情型でもあるから……でも、本当に良い子なの」


 幼い葵花に姉の様に慕われていた彼女はそう言っていた。今は、お腹の子供の事だけに意識が集中出来るように、彼女の夫も、また陛下も素晴らしい環境を用意してくれている。

 そんな彼女に、この後輩の様子を伝えるのも自分だった。


 だから、きっとこんな風に後輩がなっているのを知れば、親友はとても心配するだろう。


「悔しい……悔しいんです!!」

「……では、どうしますか?」

「どうするって」

「相手を黙らせに行きますか?どうやって?そういう愚かな者達は、例え死んだって自分達の考えなど変えません。それこそ、それすらも許せず相手の命を自分に仕える侍女に奪わせた主として、貴方の主は酷い謗りを受けるかもしれません。いえ、正式な任務でもなく相手の命を奪ったとなれば、主もまた連座で罪に問 われます」

「っ……」


 彼女は知っている。

 この後輩が、自分の仕える主をそれはそれは大切に思っている事を。

 だからこそ、彼女はこの現実に苦しんでいる。

 彼女の主は、【海影】の長の夜伽はさせられていない。だが、それもいつまでの事やら。まだ子供だと言う事でそういった性的な事は避けられてはいるが、逆に言えばある程度の年齢に達すれば相手をさせられるかもしれないという事だ。


 だから、焦っているのだ。

 いつか自分の主に降りかかる、苦難を。


 思いが通じているなら良い。

 それならば、普通の恋神同士なのだし、いずれは結婚という事にもなる。


 だが、そうではない。

 そうではないから、【妓院】なんて呼ばれ、中に居る者達は【娼妓】や【男娼】と呼ばれているのだ。そして、そういう相手をしている者達は半ば諦めた目をしている。


 そんな主に仕えて何も思わない者達は、ここには居ないだろう。


 それでも行動に移していないのは、自分達が皇帝陛下直属の駒であるという誇り、そして相手側の心情も理解しているからである。


 自分だって悔しいと思った。

 苦しい、辛いと胸を痛めた。


 だが、それでもいつかーー。


 自分達がそうだったのだ。


 どんなに辛くても、苦しくても。


 悩んで悩んで、それでも主に仕えるのだと自分達が決めた様に。

 この後輩もいつかその道を選んでくれるーーそう、彼女は信じていた。


 いまだに自分の気持ちの落としどころが見つけられず、涙を流す後輩の肩を抱き、彼女が声を上げて泣ける場所へと連れて行く。


 そんな彼女は、気づけなかった。

 自分達の会話を盗み聞きしている相手に。






「……【妓院】……【徒花園】が?」



 果竪は、茂みの影に座り込んだまま小さく呟いた。


「【娼妓】?【男娼】?」


 それも


「小梅、ちゃん達、が?」








 自室の窓辺で、この前手に入れたばかりの本を読みながらいつの間にか眠ってしまった小梅は、小さな足音に目を覚ました。

 車椅子のブレーキを外して向きを変えると、部屋の入り口にカジュが立っていた。


「カジュ?どうしたの?」


 いつもなら元気よく部屋に入ってくる彼女は、何故か俯いたままそこから動こうとはしない。その手には

少し萎れたラベンダーの花束があった。


 小梅は車椅子をゆっくりと漕ぎ、カジュの元へと向かう。

 いや、カジュではないーー【別世界の果竪】の元へと。


「どこか具合でも悪いの?」


 心配そうに聞いて、顔をのぞき込む。

 そして、息を呑んだ。


 少しつつけば泣きそうな顔がそこにはあった。


「ど、どうしたの?!誰かに何か」


 いや、この【徒花園】にはそういう者達は居ないーーそれは、ここで長く生活する小梅がよく分かっている。だが、もしも、万が一という言葉がある。


 小梅が現在も生きていられるのは、そのあり得ない筈の仮定が実現したからだ。


 もしも、あの状況を生き延びられたならばーーという。


「果竪ちゃん」

「……違う」

「え?」

「……違うの」


 この世界は自分の生きる世界とは違う。

 だからこそ、慎重な言動が必要となる。

 もう果竪は既に失敗していた。


 自分の体ではない体に憑依する形になって、余りにも好き勝手な事をしてしまった。一度やってしまった事はもう取り返しが付かない。


 だから、今この内に溢れる言葉をぶつけては行けないのだと分かっている。


 それでも、それでも口にしてしまいたくなる。


 それを必死に押さえつけながら、果竪はこぼれ落ちそうになる涙を抑えていた。



 言えない、聞けない



 この【徒花園】が、実は【妓院】と呼ばれ、小梅達が【娼妓】や【男娼】の様な扱いをされているかもしれないなんてーー。

 それを強いているのが、上層部だなんて。


 しかも、【皇宮】内の敷地にあるという事は、皇帝陛下がそれを黙認しているという事だ。国お抱えの、【施設】のようなものだ。


 それを耳にした時、果竪は心の中で叫んでいた。


 違うーー


 だが、果たして本当にそうなのだろうか?


 この世界は向こうの世界によく似ている。

 けれど、同じではない。


 居るべき相手が居ない事もあるし、国だってこちらは帝国と呼ばれている。

 向こうでは王なのに、こちらの世界の萩波は皇帝で。

 萩波の正妃は明燐だ。

 【後宮】には沢山の妃達が居るし、【徒花園】なんてのもある。


 それに、居る筈の無い相手が生きているーー。


 五体満足で向こうの世界で生きている相手が、酷い障害を負っている。その逆もまた然り。



 似ているようだけれど、全然違う世界。


 向こうの世界がそうであるように、この世界もまたそれぞれの流れを紡いでいる。



 自分はそこに突然飛び込んできてしまった異物の様な存在だ。言わば、禁忌の存在である。



 それは、下手すればこの世界の流れを変えてしまうだろうーー良くも悪くも。



 だが、それは良い事だとは思えない。

 現に、自分が好き勝手した事で、色々と問題が起きているのは果竪も理解していた。だから、皇妃が手を出せないこの【徒花園】に保護という名目で移動させられたのだ。


 ただ、自分はまだ良い。

 本来の世界に戻ればそれで済むのだから。

 しかし、この体の持ち主は?持ち主が戻ってきた時に、果竪のやらかした事でこの体の持ち主が酷い扱いを受けたら?【徒花園】から一生出られなかったら?


 果竪はずっと悩んでいた。


 強くなった筈なのに。

 色々な事を学び、経験した筈なのに。

 それなのに、こうして失敗する。

 向こう見ずに突進して、考えているようで実は何にも考えていなくて。


 もっと警戒して動けば良かった。注意して周囲を確認すれば良かった。


 そして結局、こうなった。



 果竪が【徒花園】に退屈を覚えながらも、素直に此処に留まっていた理由の一つには、これ以上周囲に影響を及ぼさない為だ。



 だから、いつも通りにこの中で振る舞う。



 いいわね、貴方には悩みなんてな~んにも無くて



 そうやって嘲笑われながらも、笑顔で接してこれた自分だ。それぐらい、わけない。



 自分が下手に動けばより状況は悪くなる。


 だから、何もせずに、この中で向こうの世界に戻る日を待つ。




 ねぇ、もう一度声を聞かせてーー




 少しでも戻れる日を早くする為に、果竪は何度夢の中で語りかけただろう。けれど、あれ以来、果竪は一度たりともこの体の持ち主と話す事が出来なかった。



 あれは偶然だったのだろうか?



 もしかして、もう自分は二度と向こうには戻れないのだろうか?



 そんな不安を抱き、それでも絶対に戻れると信じる。

 自分に出来るのは、それしかないのだから。



 もし、もう少し上手く最初から動けていたならば話は違っただろう。

 けれど、周囲に違和感を、警戒を抱かせ、混乱させ、これ以上外に居れば取り返しの付かない事になっていた。


 もっと早くにこの世界を、自分の状況を理解していれば、そうすればーー元の世界に帰る方法を探せた筈なのに。



 自分で自分の首を絞めたばかりか、この体の持ち主の命運すらも踏みつぶしている事に気づいてから、ずっとずっと果竪は悩んでいた。


 ノー天気な振りをして、その実、ずっとずっと悩んでいたのだ。



 そこに、小梅達の境遇を知り、ようやく繋がっていたものが切れた。



 それは自分が【妓院】と呼ばれる場所に移動させられた事への驚きよりも、普通そんな所に移動させるか?自分を彼らはどうしようしているのか?という疑問よりも何よりも。



 生きていて、嬉しい筈なのに。

 会えて嬉しかった筈なのに。


 どうして?



 朱詩に問いただしたい。

 朱詩だけではない、皆に問いただしたい。


 だが、それを止める自分が居た。



 この世界にはこの世界なりの流れがある。今まで培ってきた歴史がある。


 物事には理由がある。

 何も理由がなさそうに見えても、こちらが理解出来なくても、理由があるのだ。関係なさそうでも、しっかりと関係づいている。


 それに、誰だって何も知らない相手から五月蠅く言われれば面白くないだろう。



 きっと何か理由があるのだ。


 そうしなければならなかった理由が。

 それはきっと、果竪には到底窺い知れない、いや、予想すら出来ないものだろう。


 そんな予感が果竪の中にはあった。


 向こうの世界とこちらの世界では違うと分かっている。

 例え同じ神物だとしても、向こうとこちらの世界では全てが同じでは無い。第一、朱詩はこっちみたいに怒りっぽくない。明燐だって、向こうの世界では女王様だし、他の皆もーー。


 同じに見えても、違う。


 まるで鏡合わせの様な世界だが、細かい所も、大きな所も違う所が沢山ある。



 自分が口を出すべき事ではない。

 果竪は所詮、この世界ではよそ者なのだ。


 これ以上は駄目だ。

 下手に動けば、もっと酷い状況を作り出す事になる。



 それでも、向こうの世界で大好きだった親友達がそんな風に、もし本当に扱われているならば。

 上層部の慰み者としてここに閉じ込められているならば。


 ああ、駄目だ駄目だ


 だから、この世界に自分はこれ以上関わるべきでは、ひっかきまわしてはーー



「果竪ーー」

「……」


 小梅は果竪の腕を掴むと、ゆっくりと引き寄せた。自然と膝達になる果竪の頭を自分の胸へと誘い抱きしめる。


「大丈夫、何も恐い事はないわ」

「……」

「それとも、誰か酷い事を言う神が居た?私がやっつけてあげるから」

「……みんな優しいよ」

「そう?なら良かった。でも、優しくてもそれが果竪に伝わらないならやっぱり駄目ね」



 伝わらない優しさは優しさではない。



 そう告げる小梅に、果竪はふと向こうの世界の朱詩達を思い出す。


 伝わらない思いがあった。

 すれ違う思いもあった。


 誤解に誤解を重ねて、沢山すれ違って。



 けれど、それでも根底には一つの思いがあった。



 どちらも、優しいが故に相手を思いやって酷い事を言ったり、隠したり。



 全ては相手の為を思ってこそ、キツイ言葉を言ったり、傍目には酷い事をしたり。



 それもまた優しさの一つなのだと、果竪はずっと後になってから気づいた。



 相手を守る為に。

 その心を、体を、未来を守る為に。



 その最も大きなものが、あの大事件だ。

 果竪は沢山酷い事を言われたり、されたりした。


 全ては、果竪を守る為に、血の涙を心の中で流しながら朱詩達はその道を選んだ。



 もっと早くに気づいていれば、何かが違ったかもしれない。

 けれど、色々とウジウジ悩んで考えてばかりで、物事を真っ正面からしか見れない自分は。



 真実は一つ。

 でも、その真実に行き着くまでの道は沢山ある。



 朱詩達は頭が良い。

 この世界の朱詩達もだ。


 そんな彼らはきっと沢山考えただろう。それでも、考えてもどうにもならなくて、道が無くて。


 たった一つ残された道を通って、そうしたのかもしれない。



 今の果竪には何が正しいのか分からない。

 【徒花園】が【妓院】というのも本当かは分からない。そう言われていると言うが、実際に自分で耳にしたり、目にしたわけではない。


 百聞は一見にしかず。

 自分の目で見る事も時には必要になる。


 言葉など、それこそ伝言ゲームになりやすい。

 噂は尾ひれが付くし、歪ませられる事もある。


 だから、果竪はーー。



 ーーそうやって真実を知ってどうするの?



 もう一神の自分が語りかける。



 真実を知って、それでどうするの?

 また物事を引っかき回すの?



 もう一神の自分が語り、諫める。



 そう……知ったとしても、今の果竪には何も出来ない。



 それが分かっているから、苦しくてたまらないのだ。一発朱詩達を殴って、それで済む筈が無い。



 これが向こうの世界だったらもっと違うのに。



 だから元に戻れるまで、目を瞑り、耳を塞ぎ、何も見聞きせずに過ごすのが一番なのだ。なのに、それを拒否しようとする自分が居る。


 そのままならぬ現実に、果竪は苦しんでいた。


「そういえば、果竪はもうご飯は済んだ?また朝から畑仕事をしていたんじゃない?」

「……」

「私も食事はまだなの。一緒に食べない?」

「……食べる」


 すると、小梅はにっこりと笑って、車椅子に備え付けられている鈴を手に取った。それをチリンチリンと鳴らせば、すぐさま侍女が入室してくる。


 その侍女は、果竪が盗み聞きした時にもう一神の侍女と話をしていた女性だった。


「食事の用意をお願いします」

「かしこまりました」

「あ、何かリクエストはある?」


 小梅が果竪に聞くと、果竪は「大根」と答えた。そこだけは全く迷いが無かった。



 そんな果竪に小梅はくすくすと笑い、侍女に伝える。一方、最下位の妾妃における突然の大根狂いを知っている侍女は苦笑しながら退室していった。



 その後、小梅と仲良く大根づくしの食事をする果竪は、自分が今植えている大根の成長具合を小梅に教えた。


 そんな果竪は果たして気づいているだろうか?



 物事を引っかき回す事を恐れていながら、大根畑だけはしっかりと作り、また世界を大根の愛で満たそうと真剣に考えている事もまた、物事を引っかき回す事であると。

 いや、下手したら、下手しなくても【徒花園】について問いただすよりもとんでもない引っかき回し方であり、この世界のバランスを崩しかねないという事を。



 何よりも最大の、余計なお世話になりかねないという事を。



「もっとこの世界が大根への愛に満ちれば良いのに」



 なんて呟く果竪は、全く思っていないのだろう。

 何せ、大根はどんな世界でもアイドルであるーーと固く信じているのだから。



 そうーーそれは最早大根愛を叫ぶ狂信者。



 だが、小梅は大根大根言う果竪を忌避する事もなく、笑顔を浮かべて頷いている。まるで、本当の姉妹のようだった。


 その様子を、小梅付きの侍女は穏やかな笑みを浮かべて見守っていた。



 小梅にとって今まで一番仲の良かった涼雪や葵花の前でも、小梅がここまで安らいでいる姿を見た事が無い。むしろ、小梅は涼雪達を心配していた。今はまだ相手をさせられてはいないが、それでもいつかはーーその心配と恐れが、小梅の心を波立たせていた。


 けれど今の小梅は、心から安らいでいる。


「本当に……良かった」


 例え、一時的にも、少しでも長く主の心が安まるならば、侍女としてこれ以上ない喜びである。最初は最下位の妾妃がこの【徒花園】に来るという事に心から賛成出来なかった自分が居た。

 何かと特殊で、何かと騒ぎの中心になってしまう最下位の妾妃の噂は聞いていた。表面上だけとはいえ、穏やかで平穏な空気の流れるこの【徒花園】に来た事で、どんな影響を与えるかも分からない。


 できる限り、主には穏やかで平穏な時間を過ごして欲しかった。


 そう思うのは、小梅付きの侍女だけでは無い。


 けれど、実際に来てみた最下位の妾妃は、それはそれは凄い事ばかりしてくれては居たがーー。



 【徒花園】に笑い声が響くようになった。


 小梅だけではない。

 涼雪も、葵花も、他の者達も。


 毎日毎日、着実に、この【徒花園】に住まう者達と交流し、関係を深めていく最下位の妾妃。此処で働く者達を驚愕させる事も多いが、それでもいつの間にか自分達も笑い声を上げていた。


 静かに微笑む者達が多かった【徒花園】。


 それが今や、笑い声が響いている。



 良かったーー



 素直にそう思う。


 最初は心配ばかりだったし、出来れば避けたい事態だった。けれど、何事も一度試してみなければ分からないと言うように、こうして最下位の妾妃が来る事で分かった事がある。


 もちろん、良い事ばかりではない。

 それでも、悪い事も全て含めて、彼女が見たかった光景が見られる様になってきた。



 このまま、良い方向に沢山進んでいけば良いのにーー。



 だが、そんな侍女の願いは間もなく、あっけない程に崩れ去っていく。


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