第10話 不思議な夢
ゴボゴボと水音が聞こえる。
それはまだ良いのだが、それに混じって少しずつ大きくなってくる金属音。
ノイズ混じりのそれは、酷く不快だった。
その音がうるさくて、両手で耳を塞ごうとするが上手くいかない。
代わりに、ゆっくりと目を開けると遠くに何かが見えた。
けれどそれは酷く歪んでいて分からない。
ただ、水の中に自分が居る事だけは分かった。
遠くから声が聞こえる。
…………………っ!!
けれど、結局それが何かを理解する前に声も、そして五月蠅い水音も聞こえなくなった。
というのも、ドンっと体を打ち付ける痛みと音が果竪を襲ったからである。
「あ~~、久しぶりだよ、ベッドから落ちるのは」
果竪は寝台から布団ごと落ちたままそんな事を呟いた。そしてそのまま、しばらく床に寝っ転がったままで居る。
向こうの世界であれば即座に物音を聞きつけて侍女が飛び込んできて叫び声を上げるが、ここではーー。
扉がノックされ、室内に侍女が入ってくる。
「すいません、今凄い音がーーきゃぁぁぁぁあっ」
忘れてた。
ここは、最下位の妾妃に与えられた小さな離宮ではなく、【徒花園】の離宮だった。
最下位の妾妃に与えられた離宮には、勤めている者達は居ない。しかし、この【徒花園】には多くの者達が勤めていた。
当然ながら物音を聞きつけて誰かが来てもおかしくは無かった。
「い、一体何が!」
どう見ても寝台から落ちただけだ。
「はっ!まさか何者かが侵入してっ」
それならこんな風に寝っ転がってはいられないだろう。確実に殺られる。パニックになる侍女を宥めようと果竪は起き上がった。
「ああ!お怪我はありませんかっ?!」
「大丈夫」
思い切り頭をぶつけたけれど、何とかなるだろう。ただし、この件はまず間違いなく後見役となっている朱詩に伝えられる。
きっと後で
「てめぇぇぇ……またその体を傷付けやがったなぁ?あぁ?!」
とか言ってくるだろう。
果竪としても借り物の体を傷付けたいわけではないが、こう、不可抗力というものはあるもので。
「ってか、何気にこの体の持ち主大好きだよね、この世界の朱詩って」
それはそれは小さな声での呟きだったから、冷やす物を持ってこようと部屋を出て行く侍女には聞こえなかったようだ。
果竪は侍女を見送ると、立ち上がって寝台の上に座り直す。
「にしても……変な夢だったなぁ」
色々と五月蠅かったけれど、水の中を漂っていた様な感覚は酷く心地が良かった。その心地よさを壊す騒音がなければ、いつまでも、いつまでも眠っていたいと思える程に。
まるで、羊水で満たされた母胎の中で微睡む赤子になった様だった。
「良い夢……なのかな?」
言い切るには、あの音が五月蠅かったけれどーー。
それから間もなく、冷やす物と一緒に食事が運ばれてくる。
食事を運んできたのは先程果竪の無事を確認した侍女ではなく、涼雪と葵花だった。
「私が作った物なので味の保証は出来ませんが」
そう恥ずかしそうに涼雪が話しながら差し出してきたのは、美味しそうな料理の数々だった。
塩おむすびに漬け物、根菜類で作られた煮物に、新鮮な葉物サラダ、具だくさんの汁物に、鶏肉の唐揚げ。
「頂きます~」
果竪は行儀良く挨拶すると、具だくさんの汁物に手を付けた。ネギ、タマネギ、卵に油揚、ニンジン、キノコと沢山の具が入ったそれは、しっかりとダシが取られていた。味噌も手作りの物だと言い、それはそれは美味しいものだった。
「凄く美味しい!!」
「良かった、そう言ってくれて」
にっこりと微笑む涼雪の隣で、葵花が冷たいお茶をコップについでくれる。
「お昼ご飯は、炊き込みご飯に豚汁、漬け物と煮魚、野菜炒めになる予定なの。嫌いな食べ物はありませんか?」
「なんでも食べる!」
「それはとても健康的で素晴らしいです」
果竪は塩おにぎりをパクつきながら、にこにこと笑う彼女達を見た。
「そういえば、今日はどうしたんですか?」
本来、食事の用意などは侍女が行なう。果竪もここに滞在するという事で、侍女が付けられた。それは、先程果竪の様子に絶叫していた侍女だ。
彼女は凪皇帝直属にあたる。
一応、基本的にこの場所に仕える者達は皆、皇帝陛下直属の者達だ。彼らは他の上層部に仕える者達と様々な面で一線を画しているという。
上層部やそれに準ずる者達には敵わずとも、そこに準ずる事の出来る能力の持ち主達と言ったら良いか。そして、大抵の事では焦らぬ強靱な精神力を持つ。
とはいえ、仕えるべき相手が寝台から落ちたともなれば、流石にそれは焦るだろう。彼女には悪い事をしてしまった。
「実はですね、小梅ちゃんの所に行くのにお誘いしたいなと」
「小梅ちゃんの所ですか?」
「ええ。まだ熱が下がらないようで、お見舞いに行こうかと」
「え?!」
小梅の熱が下がらないと聞いてから、今日で一週間経過していた。なのにまだ下がっていないのか?!
「あ、もうだいぶ下がった様です。ただ、まだ微熱が少しあって」
「……」
葵花が果竪を宥める様にその背を撫でる。
「大変……すぐに解熱用の大根を!って、まだ出来てないし!!」
果竪はがっくりと食卓用テーブルに突っ伏した。
「なんたる事……これはすぐに大根乞いの儀式をしないとっ」
「え?」
「……」
果竪は強い決意を胸に、その場を飛び出した。
「ねぇ、あれはなんだろうねぇ?」
「……」
この帝国の医療を司る者達の中では、まず間違いなくトップクラスに入る技術と経験、地位と身分を持つ帝国医務室長ーー修羅は隣を歩いていた自分の副官たる鉄線に質問した。
その鉄線は、口から魂が飛び出しかけていた。
強靱な精神力と肉体を持ち、一見すれば美しく玲瓏な美青年だがーー実は、鉄線は女だった。幼い頃から跡継ぎとして男のように鍛えられてはいたが、体は完全な女のそれ。胸は晒しで潰しているがきちんとあるし、これで女性らしい繊細さと艶めかしさも持ち合わせている。
ただ、男として育てられた部分から男としての【凜々しさ】と【逞しさ】、【頼もしさ】も持ち合わせており、何よりも【紳士】だった。女性に優しくあれという父の教えを固く守り、そこらの男よりもよほど女性の理想的な男性像をそのまま具現化した様な鉄線は、それこそ麗しの美少女という外見を持つ修羅を並べ ば正にお似合いの二神。
美男美女のカップル、いや、夫婦だった。
実際、彼らは出来ていると信じている者達も多い。
だが実際には、鉄線は修羅に対して友情と主君への忠誠しか持ち合わせてはおらず、修羅もまた可愛い配下という愛情と友情しか持ち合わせていない。そもそも、修羅は女官長の百合亜を愛している。
とはいえ、顔色の悪い鉄線を見た修羅は、この可愛い異性の配下の精神面をとても心配した。
「……戻ろうか?」
美しい美しいーー滴るような男としての色と艶を振りまく玲瓏なる美青年の容姿を持つ鉄線。けれど、頼もしさと凜々しさと逞しさを同時に持つ彼女は、寸での所で修羅の申し出を断った。
「い、いや、大丈夫だ」
「全然大丈夫じゃないよ」
その顔色を見て大丈夫と判断する医者は即刻仕事を辞めるべきだ、と修羅は思う。だが、それ以上にアホな事をしている相手はさっさと診察を受けるべきだと思った。
「全く、あの子は病み上がりなのに何をしてるのやら」
寝台から落ちて頭を打ったと聞き、先日の傷の診察も兼ねて医師としてやってきた修羅は、遠くに見える光景に大きな溜息をついた。
その光景の主は、今日も絶好調だった。
「にょほほほほほほほほっ!!」
鍬片手に畑の整備を終えた果竪は、そこから今日一番の大切な仕事に励んでいた。すなわち、大根乞いの儀式を。
くるくると畑の周りを回りながら、手や足を振り回す姿は、どう見ても狂信者の不気味な踊りにしか見えなかった。いや、狂信者にすら失礼な地獄絵図だった。
体をガクガクさせながら、まるでゾンビダンスの様な踊りをする様に、それを間近で見させられていた涼雪と葵花は。
「一体何が起きているのかしら?」
涼雪は目が見えないので分からないが、それでも何か不穏な気配だけは感じていた。そして葵花は恐怖に怯えていたが、残念な事に傷ついた喉は悲鳴一つ漏らす事が出来なかった。
「ほわっちゃぁぁぁ!」
「……」
「きゃほぉぉぉぉっ!」
「……」
涼雪にしがみつく葵花の姿は、誰がどう見ても哀れとしか言いようが無かった。
「てぃっ!」
そこから空中三回転を行ない、残す所は最後の舞ーーという所で、果竪は修羅が投げつけてきたカルテのファイルを見事顔面で受け止めた。
丁度空中二回転目だった体は動きを止め、そのまま地面に落下した。
「ぐぇっ!」
畑は、畑だけは守らないとーーと思い何とか体を畑の外に向けたおかげで畑は無事だった。代わりに、畑ではない固い地面に果竪は体を強かに打ち付けた。顔面からだったのがある意味悲劇だった。
「アホな事止めてくれる?傷口が開いたらどうするの?」
「たった今、傷口が開きかけたよ!!」
自分を攻撃した修羅に言い返しながら、果竪はそばに落ちたファイルを拾い上げた。
「しかも、今ので儀式が失敗しちゃったじゃない!!」
「そんな不気味な儀式なんて失敗してしまえ。あと、何召喚する気だったんだよ」
「もちろん、大根」
「鉄線、ガソリン」
え?と青ざめる鉄線を余所に、果竪が悲鳴を上げた。
「私の愛する大根達をどうするの?!大根に何をする気?!」
「きっと素敵な焼き大根になるよ」
「いやぁぁぁぁ!まだその白い裸体をお披露目すらしてないのにやめてよっ」
「ほら僕は医師だろう?国民の体だけじゃなくて心の健康も守る義務があるからさ」
だから燃やすーーと言う修羅に果竪は飛びかかった。だが、すんなりとかわされる。
「鉄線!この諸悪の根源を燃やすよっ」
「燃やさせるかぁぁぁぁ!!」
今度は果竪は修羅に飛びつく事に成功する。だが、果竪の顔はその修羅の豊満で形良い胸に埋まった。ぷるんと弾力はあるが柔らかな胸に顔を埋めるという、男からすればそれは魅惑の所行を為した果竪だったが。
「……」
そこから顔を引き抜くと、地面に座り込み
ベシベシ
バシバシ
ゲシゲシ
思い切り地面を叩いた。
「私だって私だって私だって」
ぶつぶつと呟きながら、ひたすら地面を叩き続ける果竪の後ろ姿はある意味恐怖だった。だが、鉄線と葵花はともかく、涼雪はやっぱりそれが見えなかった。
一方、胸に顔を埋められた修羅はその事については全く何とも思わなかった。元々、周囲からイヤらしい目で見られてくる事が多かった修羅からすれば、胸を触られたり揉まれたりする事も珍しくなかったし、わざとそうさせる事もあった。
涎をたらさんばかりに顔を埋めてくる変態達も多かった。
それに比べれば、この最下位の妾妃なんて可愛い物だった。だが、相手からすればかなり不本意だったらしい。
「私だって大根を詰めれば」
「どこにだよ」
不本意どころか、おかしな方に考えが飛び抜けかけていた。
「今に見てなさい!大根を詰めた私の胸に恐れを成して平伏すればいいんだっ」
「いや、それ固いだろ。あと腐るだろそれ」
「大根は腐らないわ!!」
「それもう大根じゃないだろ!!大根の干物か?!」
世の中には、切干大根というものがある。
「大根は干物でも魅力的よ」
「どや顔で言うな」
ふんぞり返って偉そうな果竪の額にデコピン一つ加え、修羅は大きな溜息をついた。
「それより、アホな事してないでさっさと診察ーー」
額から白い煙を出して仰向けに倒れている最下位の妾妃に気づいた。
「へ?」
「今の音は何ですか?!」
隕石が地面に落下した様な音がしたと涼雪が叫ぶ。葵花は口をぱくぱくさせているが、似た様な事を言っているのだろう。
「え、あの、ちょっ」
「修羅、貴方は一体何をしているんだっ」
「え?!」
鉄線がカンカンになっていた。どうやら、修羅のせいらしい。
「今のデコピンだよ!!いつも言ってるだろう?!手加減しろとっ」
「え?あ」
修羅は自分の指と最下位の妾妃を交互に見た。
修羅の美貌ははっきりいって、清楚可憐で嫋やかな容姿だ。白百合とか白真珠とか言われる程の美少女である。外見だけであれば、誰が見たってか弱いと思うだろう。
しかし、両性具有だろうと、体の大半が女性よりだろうと、力だけはちゃっかり【成神男性】のそれ。いや、日々鍛えているのでそこらの【成神男性】より余程強い力を持ってしまっている。
林檎を片手で握りつぶせる握力と長椅子を片手が持ち上げられる腕力持ちなのだ。その指の力だって凄いのは当然の事である。
そして修羅は、先程の最下位の妾妃との言い合いでついつい力の制御を忘れた。
鉄線は最下位の妾妃の脈を取った。
「……残念ながら」
殺ってしまったか?!
「完全に意識飛んでるな」
「むしろそれで済んでる方が凄くない?」
と思わず言ってしまったもんだから。
「反省しろ!!」
と怒られてしまった。いつもながら、手厳しい副官である。だが、とりあえず殺らなくて良かった。
あと朱詩が居なくて良かった。
な~んて思った修羅だが、甘かった。
遅れる事、少し。配下からその報告を受けた彼はと言うとーー
「あぁ?!」
語尾が完全に尻上がり。
それだけで、聞いた者全てを威圧する凄まじい迫力だった。
そんな威圧感を醸し出しているのは、凪帝国でも絶世の美貌の持ち主の、しかも美少女顔の一神である朱詩である。
美しさもさる事ながら、たぶん凪帝国皇帝を除けばこの国で一番色香に富んでいるのは朱詩その神だろう。だが、その麗しく可憐な美貌は今、凶悪に歪みきっていた。
だが、それでも美しさを周囲に感じさせるのだから、朱詩の美貌は本当に美しいものだと言える。
が、今はそんな主の美貌に魅入っている場合では無かった。
配下の女性は、とりあえずこの殺気立つ主を宥める事にした。だが、上手くいかなかった。
「あんの……ボケナス医師がっ」
「わ、我が君、どうかお怒りをお鎮め下さい!」
「このボクとキャラ被りしてるくせに、余計な事ばかりしやがって」
え?今それ重要?
ってか、やっぱり気にしてたんだ。
朱詩と修羅はまるで兄弟かと思える程似ている部分がある。ただし、本神達は全力拒否だが。
「それで、あの馬鹿は最下位の妾妃を殺ったのか?」
「いえ、生きてます。ばっちり生きてます。少ししてから意識を取り戻しましたし」
「そう……なら半殺しで許してやるか」
ボキバキと両手を組んで鳴らす朱詩はとても恐ろしかった。その艶やかな笑みさえ言葉にならない凄みに満ちていた。
「いえ、その、修羅様を半殺しにされると、凪帝国皇宮の医療が停止するというか、国全体の大半の医療職達が大反乱を起こすというか」
「良い機会だ。医療改革の時期に来てるだけだよ」
「すいませんごめんなさいお願いですから止めて下さい!!」
この前、診療報酬改定したばかりなのに、医療界のドンを殺ったらとんでもない大騒ぎになる。
「しゅ、修羅様もわざとじゃないんですっ」
「わざとじゃないから始末が悪いんだよ!!」
朱詩は修羅が起こしたあ~んな事やこ~んな事を思い出していった。
『ほら、高い高い~』
ゴンっ!!
『あ、カジュが天井にめり込んだ』
『お風呂に入れるなんて簡単だよ!!』
バシャっ!!
『カジュが水没した』
『カジュは可愛いね~、えいっ』
ビシッ!!
『頭蓋骨の前頭部にヒビが』
「てめぇ!もうカジュに触んじゃねぇよ!!」
「はぁ?!カジュを一神占めしようったってそうは行かないんだからね!!」
「馬鹿なの?!お前にカジュを任せたら死ぬって言ってんだよ!!きちんと子守も出来ないくせして触ろうとするな!!」
「はぁ?!国中の育児書を読み漁ったこの僕への言葉とは思えないね!」
「育児書片手に育児する母親達に謝れ!!」
朱詩と修羅は取っ組み合いをした。
そこから少し離れた所で、カジュは泣いていた。その両頬は赤くなっていた。
「医療行為は完璧なのにね」
「どうして私事に関してはこう駄目なのかしら?」
「しかも、力の加減が上手くいかないって」
「いや、普通の子女に対しては力加減は完璧だぞ」
「ならどうしてカジュに対しては」
あれだろうーーと、萩波はカジュを抱っこしなから言った。
「可愛さ余ってついつい力を入れてしまったんでしょうね」
「……」
「……」
「……」
誰もが黙る中。
未だに萩波の腕の中で泣き続けるカジュに指を伸ばした鉄線は、その人差し指をギュッと小さな手が掴んだ事に感動していた。
「このボケナス医師!!」
「五月蠅いこの悪徳筆頭書記官!!」
「どっちもどっちだろ」
「基本的にアタシ達って赤ん坊は育てた事ないからね」
溜息をつく茨戯に、頷いた者達は多かった。
育てた者達が皆無なわけではないが、そういう者達は現在自分の子供の子育てで手一杯だった。だから、結果としてカジュを育てるのはこちらの役目となる。
「とりあえず、まずは力の加減からね」
「そんなの育児書に書いてないわ」
書かなくても分かる基本だからーーと、心優しい萩波は言わないでおいた。
そうして、一番力加減が下手だった修羅は
「お前!そんなんじゃ百合亜と結婚したって一生子供は持てないんだからね!!」
という衝撃的過ぎる未来を宣告された事と、自分の力加減の下手さの犠牲になって泣くカジュの姿に必死になって力加減を学んだ。
その甲斐あって、それからはまあ完璧ではないが、カジュの体が赤く変色する事もなかったと言うのに。
朱詩は深すぎる溜息をついた。
「そのうちあいつ、手術中に患者の臓器を握り潰すんじゃないの?」
「その前に鉄線様に叩き出されるかと」
優秀な副官は、敬愛する主の医療ミスは全力で阻止するだろう。
朱詩はガリガリと頭をかきながら、椅子から立ち上がった。
「我が君?」
「【徒花園】に向かう」
「え?デスマッチ?」
「やるなら【徒花園】から出てきた所で殺る」
そんな決意表明されても困りますーーという配下の心の声は、残念ながら主に届く事は無かった。
「大根百神分で手を打つよ!!」
最下位の妾妃は胸を張って言った。
それは、大根百本の事を言っているのか、百神の神が満足するだけの大根の本数を言っているのか分からない。
ただ、未だに最下位の妾妃の真っ赤になった額からシュゥゥウと出る煙に、修羅は苦虫を噛み潰したかの様な顔をしつつ頷いた。
「分かったから、手当させてね」
「私より、小梅ちゃんの診察が先だよ」
「そう。どうせなら大根三百神分にしてあげようかと思ったのに」
「小梅ちゃんの体には代えられないもん」
そう言い切った最下位の妾妃に、葵花と涼雪が胸をキュンとさせていた。あと鉄線も胸を鷲づかみにされたらしい。
そんな中、思わず吹き出す様に笑う声が聞こえた。
「ふふ、あはははははっ!」
寝台の上で体を丸めて笑うのは、この部屋の主である小梅だった。
あの後ーー最下位の妾妃にデコピンをさせて気絶させた修羅は、とりあえず鉄線達を連れて自分が作りだした犠牲者を小梅の部屋へと連れていった。
そもそも、今日の本来の目的は小梅の診察で、そこに突如割り込む形となったのが最下位の妾妃の診察だった。まあ、別に最下位の妾妃の部屋に投げ込んでから診察して小梅の所に行くという手もあったがーー。
「ごめんね、あまりにアホすぎる娘で」
「だから、なんでみんなそんなに私に手厳しいのよ」
あまりにアホ過ぎるので、心配で置いてこれなかった、自分の目の届く範囲で監視しないと心配でたまらないーーと、のうのうと宣う修羅に果竪は鋭く突っ込みを入れた。
「言っとくけど、小梅には迷惑かけないでよね。小梅は君と違ってお淑やかの純粋培養なんだから」
「無菌室にでも居ない限りは無理だよ」
「何細菌感染する前提で言ってんだよ!!」
なんでこうぶっ飛んだ事を言うのかーー。
以前の最下位の妾妃とは大違いである。
そもそも、以前の妾妃は大根にはたいした興味など持っていなかった。
なのに今は大根大根とーー変態じゃないだろうか?
「あ、小梅ちゃん。これ大根がまだ栽培出来てないから、代わりに持ってきたの」
最下位の妾妃の腕には、大きな大根のぬいぐるみが抱かれていた。緑の葉っぱーー最下位の妾妃は緑のふさふさの髪と言い張るがーーが目に優しく、白いその体は何故かとても眩しかった。フェルトで作られていると言うのに。
「これが父親の【大根男爵】でこれが母親の【大根男爵夫神】、そしてこれが長男の【大根次郎】」
長男なのに次郎かよ。
いや、そこはたいした問題ではない。それに名前なんて自由につけても良いではないか。
「そしてこれが長女の【大根リーヌ】」
「ちょっと待て!なんでそこで突然洋名になった!!兄が次郎なのにおかしいだろっ」
「ハーフなの!!」
「どう見ても全部同じ青首大根だろ!!」
「違うよ!!この【大根男爵夫神】は元はずんぐりむっくりな大根だったの!!それが愛しい【大根男爵】に恋をして必死にダイエットをしてボンッキュッボンになったセクシー大根なの!!元公爵の一神娘なの!!」
最下位の妾妃は力強く宣言した。そこには一点の迷いも無かった。まるで世界の王が下々に命令を下すかの様に厳かに、威厳溢れた宣言だったが。
「何気に奥さんの方が身分が上なの?!」
「そうよ!【大根伯爵】の所に元々嫁ぐ予定だったんだけど、ほら、今は女性から積極的っていうのが時代の主流じゃない?だから、下位の【大根男爵】をかっ攫って逃げたの!!」
「【大根伯爵】が?」
「一応ノーマルカップリングで考えてたんだけど」
でもそれも面白いかもしれないね~と笑う最下位の妾妃に、小梅は堪えきれずに爆笑した。
「アホすぎて泣けてくる」
「そうよね!やっぱり大根を語るには涙無くして語れないよね!!」
「ねぇ、一度検査しよう?きっと前頭葉辺りがやられてるんだと思う。あそこやられると色々と社会的なものに問題が起きるらしいんだ」
「むしろ社会的なものより想像の方じゃないか?」
鉄線の指摘に、修羅は両手で顔を覆った。
「言われなくても分かってるよ!!ああもう!なんでこんなお馬鹿になっちゃったの?!確かに前も不出来で落ちこぼれて無能だったけれど、もうこれ完全にぶっ飛んでるじゃん!全く軌道修正出来ないじゃん!むしろどこから手をつけたら良いか分からないよっ!!」
「世の中、諦めが肝心って言葉もあるよ」
「偉大なる凪帝国が皇帝陛下の妾妃がぶっ飛びすぎてたら笑えないだろ!!周辺国への恥さらしだろ?!」
「大丈夫だよ。ほら、いつもパフェ食べてたらかつ丼が食べたくなる心理と同じだよ!!珍しいものに手を出したんですね~って温かく見守られるだけだって」
果竪はカラカラと笑う。
「それで済む話じゃないって!!とんだ良い恥さらしだし、そういう妾妃を持ったとして陛下の威厳に傷が付くだろ!!」
「大丈夫!!【後宮】卒業するつもりだしっ」
と言った所で、ハッと気づいた。
あの時【後宮】を卒業すると決めたのは、果竪にとってこの世界が現実だと思っていたからだ。だが実際にはこの世界は果竪が今まで生きてきた世界とは違 い、この体は借り物である。この体の持ち主が【後宮】に留まり続けたいと望んでいた場合、勝手に卒業なんてしたら大変な事になるだろう。
果竪はそこでようやく自分が与える影響ーーというか、暴走気味な自分に気づいた。ここで下手に物事を決めれば、この体の本来の持ち主が戻ってきた時にまずい事になる。果竪の方は向こうに帰ればそれで済むがーーいやいや、落ち着いて考えてみよう。
もし向こうで、果竪の体に入ってしまっているこの体の魂が、果竪の知らぬ間に勝手に色々な物事を決めて周囲と険悪な関係を築き上げていたり、夫と離婚していたり、他の相手と結婚したり、大根畑を焼き払っていたりしたらーー。
うん、特に一番最後は許せない。
自分に置き換えて考えてみて初めて、果竪は自分がかなり綱渡りな事をしている事に気づいた。
思い出して見れば、こが自分が生きる世界と全力で頑張り続けた日々。
そして周囲から変態と言われる日々。
自分がこの体に間借りしている事を知っている者達は別としても、知らない者達からすればまるで神が変わったかの様に見えていた事だろうーーいや、実際見えていた。
そのおかげで周囲は非常に驚き混乱し、もしかしたら関係性が悪くなったなんて事もーー。
いや、悪くなっただろう。
少なくとも、変態呼ばわりされているのだから。
果竪は良いとしても、この体の持ち主にとっては良くない。というか、まさか自分が変態呼ばわりされる事態になっているなんて知らないだろうし、苦労して戻ってきた際に「変態」と言われれば、その心痛はどれ程のものになるだろう。
その痛みを少しでも取り除けるように大根だけは残していくつもりだがーー。
「変態じゃないです」
とりあえず、まずはそこから否定する事に決めた。
「は?」
「せめて【大根愛の伝道師】にして下さい」
物事を更に悪い方向に進めた果竪だった。果竪からすれば変態とは比べものにならない程の褒め言葉だが、ごく通の相手からすれば婉曲的な【変態】だ。
「鉄線どうしよう!!やっぱり僕がデコピンしたせいかな?!」
「完全にそうだろう。なんといたわしい」
鉄線は頭を横に振り、がっくりと項垂れた。
「だよね?!じゃなきゃそもそもあんな白いだけの野菜が」
あ、それ地雷ーーと、何故か思った小梅の目の前で果竪が修羅に飛びかかった。