第1話 目覚めればそこは
長い裾を蹴散らすようにして廊下を走りながら後ろから迫る複数神の足音を耳にすれば、思わず舌を鋭く打ち鳴らしてしまう。
「しつこいっ!」
動きにくい長袖長裾のヒラヒラな衣装を着せられてはいるが、果竪はそれを物ともせずに走った。だが、多勢に無勢。気づけば行き止まりに追い詰められていた。
ただし、そこで諦める果竪ではない。果竪は素早く周囲の状況を判断し。
「のほほほほっ!大根の為に鍛え抜いたこの脚力、見るが良いっ!」
果竪は迷わず地を蹴った。
「ひぃぃっ!」
「うわぁぁぁっ」
「ちょっ!」
そこは三階部分。手すりの向こうーー美しい輝きを放つ巨大なシャンデリアへと、果竪は見事に飛び移った。
「ふ、つまらぬものを掘ってしまった」みたいな決めぜりふとポーズも付けて見た。意外とのんきでマイペースだったが、実際には下手すりゃ死ぬ。運動神経がかなり良くなければ距離のあるシャンデリアへと飛び移れないし、むしろ飛び移った所でその先どうするのか?と問いたいぐらい、完全などん詰まりなその状況。
しかし、果竪はその場に留まるぐらいなら、奴等に捕まるぐらいなら、そこは迷わずシャンデリアの上で八方塞がりの道を選ぶ。
「いざとなったら、バンジーで」
果竪は自分の腰に巻かれた帯の端を手に呟いた、その時だった。
「お前は何をしているっ」
下から響く甲高い叫び声が、この国の宰相ーー明睡のものであると気づいた果竪は、それでもシャンデリアの上から動こうとしなかった。
実は頑丈な造りのそれは、果竪が飛び乗った事で大きく揺れたものの、それで落ちる様な無様な真似はしなかった。流石はこの国の有数たる技術者達の技術の結晶たるシャンデリアである。
なんて現実逃避をしていたら。
「そこを動くなボケ娘!」
目をつり上げ、それでも麗しい宰相がなんか叫んでいるが、無視だ無視。果竪は全てを聞かなかった事にした。
とりあえず、いくら宰相でもすぐにはたどり着けないだろう。そして、先程果竪が居た場所で泡を食ってこちらに何か叫んでいる者達もすぐには手出しは出来ない筈だ。
その時間はたとえ少しでも、果竪にとってはかけがえのない時間だ。
というのも。
「……とりあえず、状況整理だよね」
果竪は磨かれたシャンデリアのガラス部分に映る、自分の顔を見つめた。うり二つなのに、それでも確実に違うそれ。
その瞳の色。
それは、偽物の証と呼ばれるもの。
本来は勿忘草色であるそれは、美しい菫色に染まっていた。
果竪はその瞳の色を見つめながら、これまでの経緯を振り返っていくーー。
湿度というものが憎らしい夏。
それも真夏の夜の暑さは、なかなかに厳しいものがあった。エアコンをつければ良いが、果竪が持つ元からの貧乏性がそれを良しとしない。国に帰っている時ぐらい付けてくれと周りから懇願されても断固拒否。それで去年は熱中症で倒れて医務室長――修羅に泣かれたにも関わらず、その日も果竪は寝苦しい夜に真っ向から男らしく勝負を挑んでいた。
寝てやる。
何としても寝てやる。
そして堂々と輝く朝日を浴びてやるのだ。
だが、いつの間にか眠りに落ちた果竪が目覚めた時「勝った!」という喜びでは無かった。それもそうだろう。
目覚めた時、果竪は見知らぬ場所に居た。
寝る前に確かに横たわった大きな寝台は冷たい床に変わり、天井は美しい鳳凰とか龍とか花とかーーなんか色々と絵が描かれた天蓋のそれから、無機質極まりないコンクリートに変わっていたのだ。
しかも、とんでもなく寒い。
別にコンクリートが肌寒さを演出しているとかそういうのではなく、実際に全身が寒さを訴えていた。
なんだここは?
一体ここはどこだ?
もしや夢遊病の気が?!
なんて愕然とした果竪だが、それにしても寒い。しかも、身につけている服も寝る前に着ていた寝間着とも違った。だが、それもきっと夢遊病によるものだと思い、とりあえず現在の状況を確認する事にした。そして何気なく、閉められた窓を開けた果竪は、あんぐりと口を開けたまま固まった。
「こ、ここ、どこ?」
いや、場所よりも大事な事があるだろう。というか、場所的には見覚えがある。確か、凪国王宮の北側の城壁近くにあるーー空き地だった気がする。
そう、空き地。建物などは建っていなかった筈だ。
しかし、今目の前に広がる光景は、本来無い筈の建物が建っている事よりも重要な事を果竪に教えていた。
「なんで……雪が積もってるの?」
凪国には四季がある。当然、冬もある。そして凪国の冬には雪が降り積もる。どう見ても、その積雪量は冬まっただ中だった。
そりゃ寒い筈である。
この一面の雪景色の白が大根だったら良かったのにーーと、現実逃避が神によっては違う方面への頭皮に思える様な事を考えながら、果竪は窓を閉めた。
とりあえず、外に出てみよう。
窓から出ないできちんと扉から出る事に決め、それから間もなく寒空の中で降り積もった雪をこぎながら、果竪は白い息を吐く。
寒い
とんでもなく寒い
なのに、どうして自分はこんな薄着で居るのか?
夢遊病とは外気温とか体温とかそういうものを超越するのだろうか?
あと、いくらなんでも自分が寝泊まりした場所から此処は遠すぎでは無いだろうか?
そして何故だろう?
少ししかラッセルしてないのに、既に息が上がっているのは。
おかしい
昔ならいざしらず、学校でサバイバル技術をたたき込まれた今は、この程度の進軍などでへこたれる事などない筈なのに。
それでも、体の方は正直で、果竪はついにその場に崩れ落ちた。
「って、ここで倒れたら確実に凍死コースだよ」
この白いのが全て大根であれば、幸福の余り苦痛なく逝けるたろうがーーいや、死なない、死んでなるものか。愛する大根達の胸に顔を埋められる幸せの中で、死んでなどいられない。
生き物が遭難し低体温症とか色々なると、幻覚とか幻聴とか色々とあるらしい。果竪も端から見れば絶対に幻覚が見えているとか、思考がおかしくなっていると思われるだろうが、残念な事に彼女の思考は通常運転のままだった。
愛する大根の事を思い浮かべ、彼女はどこまでも冷静になった。
冷静という言葉の定義を辞書で調べ直したいぐらいだが、とにかく果竪は冷静だった。
ただ、体の方は意志について行かず、果竪の足はとうとう力が抜けてその場に座り込んでしまった。このままでは凍傷になる。
それどころか、凍死コースだ。
違う、愛する艶めかしい大根の胸に抱かれての昇天コース。
「ああ、幸せ」
果竪はぱたりと雪の中に倒れたが、数秒で我に返った。その根性をどうして他の場所で発揮しないのかと言われる事も多いが、そこは気にしないでいるし、これから先もきっと気にしない。
「し、死ねない……今年植えた愛する艶めかしい大根達の成長を見届けるまではっ!」
生に必死にしがみつこうとする姿は壮絶の一言だが、その崖っぷちに死神が居れば全力で蹴落としたくなるだろうーー関わり合いになりたくなくて。とにかく、冥府まで先導も同行も出来ればご遠慮したい魂だ。
そうこうするうちに、果竪は今度こそしっかり、確実に、パッタリと雪の中に倒れた。決意表明までしたのに、この体たらく。
ああ、このまま死ぬのかーー。
というか、まさか凪国王宮の敷地内で遭難するとは思わなかった。
いや、遭難するぐらい広い敷地は確かに持っていた。
そもそも、王宮そのものが他では、中規模の国の王都並の広さを有している。王宮自体が一つの街の様なものなのだ。
建物だって沢山建っているし、敷地内は【乗り物】で移動するのが普通だった。【路面電車】や【バス】もあるぐらいだ。
一応、凪国王妃として敷地内の地理や地図については頭の中に入っているが、だからといって何の準備もなしに、しかも冬のまっただ中、降雪量も多い中を徒歩で彷徨く事はいくら果竪でもしない。
白き麗しの大根達が積もっているならばまだしも。
特に、こんな風に真冬の中でこんな軽装で彷徨くなんて事はーー。
というか、なんで雪なんか積もっているのだろう?
それは、今の季節が冬だからだ。
だが、眠る前は夏だった筈だ。それも、寝苦しい真夏の夜だった。
なのに、今は一面雪景色の真冬だ。
おかしい
おかしいのに
けれど、いつの間にか寒さよりも眠気が強くなってきた体は、果竪の意志に反して意識を眠りに落とそうとする。
絶対に、周囲に怒られるな……
なんとなく、そんな事を思った果竪の意識が眠りの沼に引きずり込まれようとした、その時だった。
「ああ、こんな所に居たんだ」
ゾクリとする程の色香が声に含まれている。と同時に、溢れんばかりの呆れが声から滲み出ていた。眠くて眠くて半目になりながら、それでも何とか相手を確認した果竪の目に、その相手は映り込んだ。
「……朱詩」
凪国筆頭書記官ーー朱詩。
愛らしく可憐でありながら、全身から滴り落ちるような妖艶な色香を放つ果竪の友神。けれど、果竪はどこか違和感を覚えた。果竪が知る朱詩よりも、そこに居る朱詩はどこか気怠げで淫靡な空気を纏っていた。そもそも通常運転で恐ろしく色っぽく麗しい美貌の持ち主だったが、それ以上に妖艶な婀娜っぽさがある。
昨日まではそんな事は無かった筈だが、そもそも朱詩は細胞レベルで男を惑わす【天性の男狂い】だ。一日で元々臨界突破していた色香が、更に何かの限界点を突破したのかもしれない。朱詩ならあり得る。いや、あの上層部なら全員あり得る。
そしてたいてい、それに対する被害をいつも食らうのが果竪だった。
「色気ぐらい気合いで隠せぇ!」
一度、本気で切れて怒鳴った事もあるが、それで隠せるならば今まで苦労なんてしてこない。むしろ朱詩は泣くし明睡は無言で涙ぐむし明燐は危ない思考に入るし、他の者達もなんだか悲壮たる決意をし始めて結局余計に果竪は大変になった。
分かっている。
誰にだって苦手な事はある。
それがダダもれな色気とか魅力で、それで果竪が被害を被っても仕方の無い事なのだ。そもそも、その色気と魅力に理性を飛ばして襲いかかる獣達に問題があるのであって。
果竪はそうやって自分を律する事で大神の階段を上ったのである。
なんて現実逃避をしていた果竪だがーーやはり、何かおかしい。
毎回毎回その色香が原因の騒動に果竪を巻き込んでくれる朱詩ではあるが、いつもなら果竪がとんでもない事になっていればギャアギャア騒ぎながら即座に駆け寄っててくるのに、何故か今の朱詩はそのまま突っ立っていた。
あれか?怒りすぎて動けなくなっているのだろうか?
まあ、自国の王妃が王宮の敷地内で遭難死しかけているとなれば、普通は驚くだろうな。
しかも普通に部屋で寝ていた筈の王妃が、こんな敷地の外れに居るなんてそりゃあ動けないぐらい驚いても仕方が無い。
絶対に後でお説教をされると思いつつ、ただ寝る前と起きてから季節が思い切り変わっているのは何でだろうという疑問が浮かぶ。だが、それ以上に速度を増して襲い来る眠気を果竪は必死に振り払うのに忙しかった。
というか、そろそろ本格的にまずい。
「馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど、こんな季節にそんな軽装でこんな場所に居るなんて馬鹿?ああ、分かってるよ。聞かなくてもそもそも君はとんだ大馬鹿ものだもんね?」
確かに馬鹿だけど、そこまで馬鹿馬鹿言わないで欲しい。
そんな事を思いながら、果竪の意識はフェードアウトした。
そして再びフェードインした果竪は、幸いな事に現在位置が三途の川でも冥府でもなく、最初に目覚めた時よりも余程マシな状況の中にいた。
なんといっても、寝台の上で目覚めたのだから。
ただ、その寝台は簡素なもので、到底王妃の私室にあるものとは比べられないものだった。しかも、部屋も果竪が使用している王妃の私室に比べれば、そこは狭くて質素な造りをしていた。
まあ、元々貧乏性で自分が与えられている私室が常々豪華すぎだと思っていた果竪からすれば、このぐらいが使いやすくて良いかもしれない。
後は、大根グッズを並べれば完璧だった。問題など何も無い。
だが、そう思いつつ、王妃の私室ではなく別室に通された事に疑問も覚えていた。普段であれば、王妃の私室に戻される筈だと言うのに。
しかし、それから間もなく、果竪は衝撃の事実を知ることとなった。
「本当に心配しましたのよ?」
間もなく扉が開き、部屋に入ってきたのは明燐だった。だが、いつもの明燐とは違う。その美しい絶世の美姫たる美貌はそのままだが、美しく髪を結い上げ、清楚華麗なる衣装に身を包み、数神の侍女達を引き連れたその姿は、正しく王妃そのものだった。
普段から、明燐こそが王妃だとか、どうして明燐が凪国の王妃ではないのかと言われてきたがーー。
何故か、今目の前に居る明燐は、本当に凪国の王妃らしい。だって、陛下の正妃様のお出ましですうんちゃらとお付きの侍女達が言っていたし。
という事は、明燐の兄の明睡と凪国国王の萩波は義兄弟?明睡が義兄?
どこからどう見ても完璧な王妃である明燐は、果竪の手を取り優しく微笑んだ。
「陛下も心配していますわ。本当に、どうしてあんな外れに居ましたの?しかも、軽装で下手すれば遭難していたかもしれないと言うではありませんか」
していたかもではなく、既に遭難していましたーーと心の中だけで果竪は呟く。というか、色々と衝撃的過ぎて頭がパンクしそうだった。
いや、そもそもこれが普通の事なのかもしれない。
元々、建国前からもそうだが、建国してからずっとずっとずーーーーっと、明燐が王妃でない事がおかしいと言われてきた。誰だって、誰もが、例え明燐が侍女長の衣装を身に纏っていたとしても、彼女が王妃だと思っていた。むしろ明燐が王妃でない方がおかしいと誰もが心から信じていた。
果竪なんかよりもずっとずっと凪国の、大国の王妃に相応しかった明燐。萩波の隣に相応しかった麗しき宰相閣下の妹姫。その美貌だけではなく、聡明さも全てが王の隣に相応しい存在。
それが何をどう間違ってか、落ちこぼれ王妃の侍女長になんてなってしまった。それは誰が見ても屈辱的な光景だっただろう。
だから、こうして明燐が王妃であるというのはごく自然なことでーー。
いや、でも、とりあえず眠る前までの凪国王妃は果竪だった筈だ。にも関わらず、ここでは明燐が王妃で、侍女達も明燐が王妃だと言う。
では、果竪は一体何なのだろうか?
というか、これは現実なのだろうか?
いや、そもそもなんでこういう状況に陥っているのか?
眠る前までは果竪が良く知る世界で……もしかして、今こうしているのは夢なのだろうか?
「とにかく、これ以上とんでもない事はしないで下さいませ。貴方も、陛下の妃の一神なのです。陛下の御威光に傷を付ける様な事は」
「妃の一神?」
「ええ?そうですわよ、当たり前ではないですか。貴方は陛下の妾妃ですわ。確かに地位としては、最下位にあたりますが、それでもこの大国たる凪国国王陛下の妃の一神なのですから、どうか浅慮な事は」
そうか、妾妃で、しかも最下位であればこの部屋の狭さと質素さは理解出来る。果竪はここが妾妃である自分に与えられた私室であるのだと理解した。
ってか、妾妃?
「……えっと、正妃は、明燐、様で」
呼び捨てにしたら怒られる事は肌で理解していた。明燐よりも、侍女達に。彼女達は正しく明燐命ですと全身で叫んでいた。眠る前は、明燐付きの配下として、果竪の侍女もしてくれた彼女達だが。
「私が、妾妃……」
「ええ。妾妃の一神ですわ」
妾妃の、一神?
って事は、他にも妾妃は居るって事だろうか?
明燐という完璧な正妃が居るのになんて贅沢なのだろう。
「その、他の妾妃は」
果竪の質問に、明燐は首を傾げながらも答えてくれた。
凪国王宮には【後宮】がある。それも、正常に機能している普通の【後宮】が。そこには、有力貴族や豪商、民間、また他国や戦利品として差し出された美しい三百六十五の花々が咲き誇っているのだと言う。
そうか、萩波もとうとう立派な国王になってしまったのかーー英雄色を好むとか言うし。
ってか、これって夢?夢なのだろうか?
それともーー
果竪の中が、ヒヤリと冷えた。
眠る前の、よく知る日常が夢なのだろうか?
実は果竪が正妃なんてのは果竪の甘く愚かな夢で、本当は【後宮】の最下位の妃としてお情けで住まわせて貰っている穀潰し……。
向こうでは、同情から萩波が果竪を王妃にしてくれた。いや、その後に色々とあって相思相愛だと理解した。けれど、本当は相思相愛なんてなくて、一から十まで全て同情で、それもまあ最低限度生活出来ればというぐらいで、お情けで最下位の妃として【後宮】に置いてくれるぐらいの。
きっとこの世界の萩波も優しいのだろう。
優しくて……でも、ここの萩波は賢明だ。落ちこぼれの果竪ではなく、美しく聡明で誰もが認める明燐を王妃にしたのだから。いや、そこには確固とした愛情が存在していたのかもしれない。それも、恋愛という男女の愛情が。
果竪は萩波が好きだった。
小さい頃から、ずっと好きだった、愛していた。
そして明燐の事も好きだった。
だから、自分ではなく萩波が明燐を選んで正妃とし、自分は同情から生活の保障の為に妾妃の一神としてくれた時に、叶わぬ愚かな夢を見てしまったのかもしれない。
そう……自分が、正妃だという、夢を。
「カジュ?」
「あ、なんでも……ん?」
なんだろう?今、自分の名前を呼んだ時の明燐の声に、少し違和感があった気がする。けれど、上手く説明出来なくて、結局それを口にする事はなかった。
「ーーそれでは、私はお暇いたしますわ。今日はゆっくり休んで下さいね」
「あ、はい」
正妃が退室する。それより下位の妃は当然見送るのが礼儀だ。果竪は素早く立ち上がると、学校で叩き込まれた礼儀作法を披露した。
え?なんで向こうでは正妃なのに下位の妃の礼儀作法を習得しているかって?
それはもちろん、いつどこでどんな礼儀作法が必要になるか分からないからと、それぞれの地位や身分の礼儀作法を叩き込まれたからだ。
ーーと、その礼に明燐だけではなく、侍女達も息をのむ。
あれ?何かおかしかっただろうか?
「この度は、礼儀をわきまえぬ不作法をしでかした私めの為に正妃様自ら足を運んで頂き恐悦至極に存じます。今回の事はしかと肝に銘じ、この様な失態を演じる事のないよう、また陛下の御威光を傷付けぬ様に自らを律していきたいと思います。色々と至らぬ身ではありますが、どうぞこれからも正妃様の慈悲と慈愛を頂きとうございます」
なめらかに言葉を紡ぎ、流れる様に頭を下げる。そうして再び顔を上げた果竪は、目をパチクリさせた。
「……正妃、様?」
「え?あ、あのーーす、素晴らしい口上ですわ。沢山学ばれたのですわね」
そう言われ、果竪は「うん、学校で」とは言わずに「ありがとうございます」とだけ無難に答えておいた。
うんーー例え、向こうの、正妃として生きていた果竪が夢の中の出来事だとしても、そこで学んだ事は今の果竪の中にしっかりと根付いて生きている。
長い長い夢ーーだったとしても、一部ではとても実りのある夢だったと思う。
ーー夢の中で学んだ事が全て間違いでなければ……だが。
「ーーこれからも、精進し陛下を支えていくように」
「御意」
と言っても、果たして果竪にどこまで出来るだろうか?元々、正妃であった時もたいした事は出来なかったのだ。それ程たいした事が出来るとは思えない。
というか、それよりも色々と突っ込む事があるだろう。
妾妃ーー。
果竪はここでの自分の立ち位置を思う。
妾妃……それも、三百六十五名もの妾妃達の中での最下位の妾妃である。萩波の同情から【後宮】の隅に何とか置いて貰えるだけのしがない存在だ。
そして、正妃は明燐だ。
向こうでは、侍女長だった明燐は、こちらでは宰相の妹姫であり萩波の正妻という地位に就いている。誰からも望まれ、祝福されて王妃となった事だろう。
向こうでは自分の友神が、こちらでは自分の夫の正妻となっている。
普通なら、とんでもなく気持ち的に複雑だろう。実際複雑だった。だが、心のどこかで納得している部分もあった。そもそも、明燐が王妃だと信じる者達の気持ちは理解出来たし、納得も出来た。
その方が現実的なのだ。
そう……自分と萩波が相思相愛だなんていう方が、むしろ夢だろう。
羨ましいという気持ちがある。
苦しいという気持ちも、ある。
同情で何とか最下位の妾妃でいる事が許されて……明燐が正妃という事に、悲しいとか、悔しいとか、そういう気持ちもある。
でも、これこそが真実なのかもしれない。
長い長い夢を見るぐらい、そちらが真実だと思うぐらいに幸せを感じていたとしても。
夢というものは、いつか覚める。
そして今は、きっとその夢が覚めてしまったのだろう。
少しずつ、向こうでの……目を覚ます前の、眠る前の記憶が、正妃として生きていた記憶に、霞がかかっていく。きっと時間が経つに連れて、その夢を忘れていくのだろう。
それに気づいた果竪の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
明燐が、果竪の頬へと指を伸ばしてそれをぬぐう。それは流れる様に美しく嫋やかだったけれど、その顔を見ると酷く戸惑っている様子なのが分かった。
「……ごめんなさい、もう大丈夫です」
これが、今が果竪にとっての現実ならば……それは酷く辛いものになるだろう。それ程に、夢は甘美だった。その夢の中では色々あったけれど……ああ、失ってから気づくものなのだ、と果竪は泣きたくなった。
けれど、泣いてもどうしようもない。
これが現実ならば、果竪はここで生きていかなければならない。
覚めない夢は無い。
夢が夢だと分かってしまったならば、もう昔と同じにはなれない。
「……それではゆっくりとお休みなさい」
明燐が侍女達を連れて立ち去った後、果竪は寝台の上に横たわった。今は全てを忘れて眠ってしまいたい。けれど、例え眠っても、もう果竪が幸せだと感じた夢の世界には行けない。
そう、あれは夢。
夢なのだ。
そして今、これこそが現実。
だがーー
「本当に……凄く幸せな夢だったんだね……幸せすぎて、こっちの事を、全部忘れてしまうぐらいに」
自分がこの世界で萩波の最下位の妾妃である事も忘れていれば、明燐が正妃である事も覚えていなかった。【後宮】に沢山の花々が咲き誇っている事も教えられるまで知らなかった。
最下位の妾妃の住まうこの部屋ーー妾妃となった時に与えられたこの部屋にも見覚えはないし、今までどんな風に生活してきたのかも全く分からない。大戦時代に家族と故郷を失い、萩波に保護され、大戦時代に萩波の軍に所属し……そして、凪国が建国された所はきっと夢と同じな筈だーーいや、もしかしたら細かい所が違うかもしれない。
向こうでは、大戦時代に萩波の妻にされたけれど、こっちでは果たしてどうだろうか?
「いや、でももし大戦時代に襲われて妻にされたにも関わらず、建国したらさっさと別の女性ーーこの場合は明燐だけど正妃にして、襲った幼馴染みは最下位の妾妃にして、その他に沢山の妾妃達を【後宮】に迎えたって事?」
それって、男として最悪ではないだろうか?
最下位の妾妃にするなら、というか正妃を別に娶るならそもそも手を出さなければ良かったのではないだろうか?
いや、もしかして最初は正妃にするつもりで?ーーなんて事はないか。
果竪はうんうんと自分の疑問に対してばっさりと心の中で切り捨てた。
もしかしたら、手を出さなければならない何かがあっただけで、それが済んだけれど手を出したからにはとりあえず責任をとって最低限度の保証をーーという萩波なりの優しさと同情があったのかもしれない。
実は本当は明燐の事が好きで愛していたけれど、幼馴染みの事も見捨てられなくて、それで仕方なく……でも本当は明燐だけを妻にしたくて、でも果竪を妾妃にしてしまったから、もしかしたらそれでそこをつけ込まれて他の妾妃達も【後宮】入りさせなければならない羽目となりーー。
「あれ?もしかして、【後宮】がこれだけ大きくなったのって、果竪が原因?」
果竪が居なければ明燐だけを妻に出来て、妾妃とう立場が居ないから、他に妾妃をとつけ込まれる隙も無くてーー。
果竪は項垂れた。
私はどんだけ余所様に迷惑をかけているのかーーっ!!
しかも、大事な幼馴染みーー愛する相手と、大切な友神に対して。ああ、きっとシスコンの明睡は大激怒だし、萩波に心酔する上層部は怒り心頭だろう。下手すれば憎まれているかもーー。
あ、分かった。だから、朱詩がもの凄く冷たかったのだ。思い切り罵詈雑言を吐かれ、罵倒の限りを尽くされたーー普通、遭難死寸前の相手にする仕打ちではないだろう。
「……私、私……」
どうにかしなければ。
とりあえず、自分を心配して食いっぱぐれない様にと責任を感じて最下位の妾妃に萩波がしてくれたと言うなら、萩波をまず安心させないとならない。安心させて、もう妾妃でなくても果竪は一神でやっていける、後宮から卒業出来ると思って貰う必要があるだろう。
そうすれば、果竪が妾妃を辞められるし、萩波達もお荷物が減って負担が減る。そして果竪という妾妃が居なくなれば、他の妾妃達もーーいやいや、もしかして既にお気に入りが居たらその相手を残すかもしれない。いや、明燐という完璧な正妃が居るのに、果たして他の女性に目が行くだろうか?
「いや、とにかく大事なのはまず自分の事よ!」
果竪は決意した。
そして、宣言した。