Scene 7 落下するウンメイ
午後の授業を終えて帰りの支度をする。カバンの中にあるマフラーから自分のものではないにおいがした。彼の顔が浮かんで、どうしても頭から離れない。
チャイム、ホームルーム、清掃、そして放課後。
未羽は用事があって先に帰ってしまったから、今日はひとりで電車に揺られていた。
「……マフラー、返さなきゃ」
うっかり漏れてしまったひとり言にあたりを見渡したけれど、誰も気がついていないようだった。あぶない、はずかしい。頬にのぼった熱を散らすために息をつく。
今日はほんとうに疲れた。放課後までずっと追いかけられていたような気がする。
『なーおーちゃーん!』
『一緒帰ろ? 彼氏の話、聞きたいし』
あたしとあのひとはそんな関係じゃないと何度も訴えたのに、まったく効果はなかった。電車ですれ違うだけの子に手を振る男子なんているわけがない。どう考えても気があるんだと何度もいわれた。
百戦錬磨の女子たちを信用していないわけじゃないけど、そんな確証はどこにもない。あるのは、電車すれ違うという偶然。失くした定期を探し出してくれたという確信。ただそれだけなのに。
耳に響くアナウンスと乾いた音。蒸気を吐き出すように開いたドアには群れるひとの波。波が引くのをぼんやりと待っていたら、ドアが閉まる音が耳を突いてあわてて降りた。
発車した車両を横目で追うと流れる窓の向こう側に人影が見えた。向かいのホームにだって電車を待つひとくらいいるだろう。だけど、どうしてか気になって足を止めた。腕に持ったままでいたマフラーが乾燥した風に舞う。わずかに彼のにおいがした。
――ウソ。
赤と紫と群青と夜のはじまりを知らせるグラデーション。
混雑する駅のホームで、向かい側にいるのは。
「奈緒」
名前を呼ばれた気がした。あの声に。
待ち合わせなんてしなかった。連絡先も知らないけれど、マフラーを返すために待ち伏せようとは考えていた。それに、会いたかった。また昨日みたいに会えたらいいと心のどこかで願っていた。
夢を見ていると思った。
だって、こんな偶然がどこにあるの。
『じゃあ、これからなんだね』
未羽の甘ったるい声が反芻する。
会いたかった。そうしたら目の前にいた。顔が熱くて胸が締めつけられた。
ドラマチックな出来事なんて、あたしには起こらないと思っていた。
改札口を抜けたところで視線がぶつかった。正面、通路の先。はめ殺しのガラスを背にして立っているひと。弾け飛びそうなものを押さえて駆け寄れば、彼が手をふって迎えてくれた。
「会えてよかった。もう帰ったかと思って心配していたんだ」
「あ、あの、あたしも待ってるつもりだった、んです。その、マフラー、お返ししなきゃと思って」
腕に抱えたままでいたマフラーを彼に差し出す。彼の首にはあたしが借りたものとは違うマフラーが巻きつけられていた。借りたものよりも色が深くて、夕日が沈んだばかりの夜に似た藍色。それもまた彼によく似合っていた。
「奈緒の、においがする」
差し出したものを受け取った彼は自分の口元によせた。
まるで、キスをするみたいに。
吐き出したばかりの息を飲む。なにもかもが真っ白になって止まる。いつのまにか距離を縮めていた彼があたしへと腕を伸ばしていた。
「……っ、」
目の前を染める青と彼のにおい。その指先が首筋にわずかに触れて体が反応する。ゆるく巻きつけられていくマフラーに、抱きしめられるような錯覚を起こしてきつく目を閉じた。
「奈緒、目をあけて」
こわごわと目を開いた先に見えたのは、離れていく彼の指先。
「いまから、俺とデートしようか」
「で……、え? はあ!?」
「デート。タイムリミットは九時まで。じゃないと俺の魔法がとけてしまうんだ」
ここは笑うところなのだろうか、どうやら彼はシンデレラだったらしい。反応らしい反応も返せず、声を出すこともままならず、彼は答えを聞く前に左手をつかんで歩き出した。
「行こうか。馬車も魔法使いもいないけれど」
握られた手は昨日と同じように、もしかしたらそれ以上に冷たく感じた。このひとはどのくらいあのホームに立っていたのだろう。約束なんてなにもなかったのに。
「あ、あの、紘さん」
「呼び捨てでいいよ。で、なんでしょうか。用事でもあった?」
呼び捨てになんてできるわけがないし、用事はないけれどどうしてこんな流れになってしまったのかわけがわからない。握られた手は冷たいのに汗をかいてきて、顔が火を吹いてしまいそうなほど熱くてしかたない。だけど。
「あ、あの、手袋を買いにいきませんか」
「ほしいの?」
「いえ、その、定期を拾ってくれたお礼です。手が、その、いつもつめたいから」
なんだろうこの気持ち。もうなにもかもわけがわからないのにこの距離が、彼といっしょにいることがこんなにもうれしい。知らなかったもので満たされていく感覚。言葉じゃうまく説明できない。知らなかった、こんな気持ちが自分の中にあるということを。
もしかしたら気がつかなかっただけなのかもしれない。これまでくだらないと思っていたことはあたしが知らなかっただけで、本当は誰もが一度はこんな気持ちを味わっているのかもしれない。
教室で迫ってきたあのコたちも、この駅を行き来するひとたちも。
誰も彼も、みんな。
「あの、なんでもいい、んです。ほしいもので、かまわないです、から」
困らせただろうか、調子に乗りすぎただろうか。だけどどうしてもこの冷たい手が気になってしかたなかった。答えが怖くて逃げ出したくなった。
いっそこのまま自分から離してしまおうかと考えた矢先、この手は強く引き寄せられていた。
「じゃあ手袋は奈緒が選んで。俺のために」
駅に響く靴音、同時に跳ねる心音、彼の隣を歩いている自分。
知らなかっただけだった。くだらなくない、だってこんなにもどきどきする。
この気持ちは、いったいなに。