Scene 6 彼の青
帰り道。なんだかムズムズして落ち着かなくて、自宅までの道のりを全力で駆け抜けた。翌朝。身支度を整えてすぐに鏡の前であのマフラーを巻いた。
顔をうずめて、思いっきり息を吸い込んだ。彼のにおいが残っていることがうれしかった。
「なおちー、おはよ!」
「今日もさっむいね」
朝の混雑する駅に同じクラスの子たちがいた。こんな早い時間にめずらしいと思いつつ、いっしょに電車へ乗り込む。ふと窓の外に目をやると、向かいのホームに電車が止まったのが見えた。
耳に響く出発の合図。息を吐き出すようにドアが閉まって、ゆっくりと動き出す車輪。向かい側では電車に乗り込むひとたちの群れ。そしてその中に。
「ね、なおちーは、……ん、なにあれ、知り合い? 手ふってるじゃん」
「ちょ、ほんとだし! いつのまに彼氏つくったんだよ!? しかも他校の!」
窓にへばりついたふたりが声を上げた。この目は窓の外に捕らわれたまま身動きがとれない。加速する電車。すれ違う、ほんの数秒。
『おはよう』
あのひとのくちびるがそう刻んだ気がして体温が上がった。離れていく電車、遠ざかる姿。マフラーに残っていた彼のにおいが、さらにこの気持ちを加速させていった。
「おはよう、奈緒」
「……おはよ」
「なんで朝からそんなに疲れてるの?」
「ううん……。そんなこと、ない、よ」
あの後、本当に大変だった。電車の中で乗り合わせたクラスメイトに根掘り葉掘り聞かれた結果。他の乗客に叱られてしまうわ、それでも追求の手は一向に止まないわで朝から疲れてしまった。
『なおちー! いまのだれ!?』
『ちょ、逃げるなって!』
ノーコメントを通して逃げるように教室に駆け込んだものの、このあとが恐ろしい。あたしは今日を無事に過ごすことができるのだろうか。
「ちょっと朝からばたばたしただけで……。あ、そうそうそんなことより英語おしえて、って、未羽?」
今日当たる予定の英語のノートを未羽の前に差し出す。ところが彼女の視線はあたしじゃなくて、スクールバッグのほうに向けられていた。その表情はまるでなにかに驚いたような、凍りついたような複雑なものだった。
「未羽?」
「……あ、ごめんね! ぼーっとしちゃった。奈緒ってばカバン全開だよ? 中身落ちちゃうでしょ」
カバンからはみ出ていた彼のマフラーをしまいこんで閉じる。本当は洗ったほうがいいのかもとかいろいろ悩んだけど、とりあえずそのまま突っ込んでしまっていた。
「こういうところががさつでだめなんだよねー。ということで英語お願いします!」
「だめです! できるくせに奈緒は毎回やってこないんだもん」
「ええ、できないよ! お願いお願い! あ、未羽いいにおいするー」
「ちょ、奈緒!? くすぐ、ったいってば!!」
自分のノートと教科書を未羽が隠すから、その上に覆い被さって細い体を抱きしめた。やわらかな髪から香るものがどこかでかいだことがあるような気がして、なぜか胸をくすぐった。
*** *
「奈緒ちゃん、彼氏紹介して?」
「今度遊ぼうよ。彼氏とその友達とかさあ」
女子高生は日々飢えている。とくに、うちのような女子高では。
「いやいや、彼氏じゃないし」
「またまたあ、恥ずかしがらなくていいんだって」
「大丈夫、取ったりしないから。うちらそういうのわかってるから」
「ただイケメン彼氏のイケメンな友達を紹介してくれるだけでいいから、ね?」
登校してからというもの、妙なウワサに尾ひれがついて大変なことになってしまっていた。あたしと仲良くなると、どうやらもれなくイケメンとお近づきになれるらしい。残念ながらそんなオプションは一切ないのだと大声で叫んでやりたかった。
「未羽、あたしといっしょに逃げて」
「な、奈緒?」
四時間目終了のチャイムが鳴り響くのと同時に未羽の腕を掴んだ。後ろから呼び止める女豹たちの声が聞こえたけど、あえて全力疾走した。目的地は例のごとくあの場所。お昼休み、屋上へ。
「寒い……」
少しでも風除けになればと貯水タンクを影にして席をとる。持ってきたお弁当を膝の上に広げた未羽は、隣でうらめしそうな声を出した。
「知らなかったなあ、奈緒にかっこいい彼氏がいたなんて」
「だから彼氏なんていないって!」
「朝に電車で手を振ってくれる有名進学校の、背が高くて顔は遠くてよくわからなかったけどかっこよかった、多分年上ぽい彼氏ってどんなひと?」
未羽の口から例のやけに具体的なウワサがあふれだす。根も葉もないものだといまいち言い切れないところが本当に恐ろしい。どうしてあの短時間にそこまで観察できたのだろうか。
じと目をしたの未羽があたしを壁際にさらに追い詰める。背後の貯水タンクの温度なのかそれとも冷や汗なのか、制服を通していやな冷気が伝わってくる。
「それは……」
別になんてことはない。未羽は大切な友達だし、クラスの子たちみたいに遊び半分で触れ回ったりなんて絶対しない。そんなことはわかりきっているのに、でも。
何かが胸につっかえる。これはなんだろう。
「それは?」
「よ、よくわかんない」
そもそもあたしが彼について知っている情報なんてほんのわずか。わかっているのは名前と爽やかな外見に隠された意地悪な性格と笑顔。たった、それだけ。
「よくわかんないひとなの。ただ、電車でよくすれ違うっていうだけで……」
言葉にして、形にして、泣きそうになっている自分に気がついた。ばかみたいだ、どうしてこんなに胸が痛いんだろう。何も知らないのは当たり前なのに。
はじめてちゃんと顔をあわせて話をしたのは昨日のこと。しかも数分だけ話したひとのことを全部理解しろというほうが無理だ。そんなのわかっているのに、なのに。
「――ほんとそれだけなのに、ウワサってこわいね! あはは、」
こみあげてきたものをぐっと押さえ込んで顔を作る。上手く笑えている自信はなかったけれど、未羽に余計な心配をかけたくなかった。
「じゃあ、これからなんだね」
未羽が冷たい風にさらわれそうになっている髪を押さえてあたしを見る。細められた目があまりにも優しくて、それ以上笑うことができなくなってしまった。
「これからじゃない。すきになるのも嫌いになるのも。すきなところを見つけるのも、嫌いなところを見つけるのも、なにもかもこれからはじまるんでしょう?」
お弁当箱で跳ねるうさぎりんごをフォークで刺した未羽があたしに差し出して微笑む。返事ができずにそれをくわえれば、満足そうな表情が浮かんだ。
「すきになったら、教えてね?」
どこかで見たような意地悪な笑顔。小さな熱が頬を染めた。