Scene 48 決意の足音
だれにもいえない、あたしだけの。
廊下に落ちた涙、彼の叫び、真白い病室に残された彼女。反射的に身体が動いたのは、痛いくらいの声を残した夏希の方向だった。
未羽には会わないほうがいいような気がした。病室をのぞく勇気もなかったし、自分自身があまりにも揺れていたから。けれど、駆け出そうとした足に歯止めをかけたのはその泣き声だった。
「……あた……しっ、には、……おにいちゃ、ん……し、か」
開け放たれたままのドアからこぼれるひかり。そして、声。
未羽は何度も何度もあのひとのことを呼びつづけていた。
「おに……い、ちゃ……」
苦しかった。息ができなくて、胸が張り裂けそうだと思った。つま先から少しずつ冷えていく感覚がして、そのまま凍りつきそうだった。
あの夜。眠る彼の手を握り締めた彼女、そのしあわせそうな顔。放課後の駅前、しがみついた腕に寄り添って歩いていたその姿。
そして真夜中のキス。だれにもいえない、彼女の秘密。
「おにい、ちゃ、ん……」
あんなに夏希に求められているのに、その想いは重ならない。
夏希の必死な想いは、未羽には届かない。
未羽の想いは、あのひとに届くだろう。たとえそれが許されないものであったとしても、ふたりの想いは重ねることができる。
あたしの花は見えないところで、彼の知らないところで咲きつづけた。水に沈み、桃色に色づき、ときには赤く、燃えるように。
けれどどんなにきれいに咲いたとしても、どんなに甘いにおいを放って彼を呼んだとしても。あたしだけを見てくれる日は、決して来ない。
「……っ、」
聞こえないように、静かに、足を夏希の去ってしまった方向へ向けた。踏み出した先に点々とこぼれ落ちてふるえる水球。
窓の外ににじむ群青はあまりにもつめたすぎた。冷えた指先を強く握り締めて、未羽の泣き声から遠ざかるように足を進めた。
** *
「夏希……」
階段を下りて、病院の出入り口に差しかかるロビーのイスに彼の背中を見つけた。受付の時間はとっくに終わっていて、非常口の緑だけがあわくひかっている。
入り口からこぼれる月明かりと濃紺を背負った夏希は、返事もしなかった。ただ、何かをこらえるように握り締めたこぶしをひたいに当てたままうつむいていた。
「俺、……どうしたら、いいんだろうな」
あたしを見ない目。かすれて、ほとんど音にならない声。力の入りすぎた指が白く、かすかにふるえていて、自分の気持ちをなんとか押し殺しているのが見てわかった。
そんな痛々しい夏希のとなりに腰を下ろして、彼の背中に触れる。いつのまにか自分の頬を伝っていたつめたいものを必死で飲み込んで、くちびるをかみしめて。
届かない。あたしたちの想いは重ならない。
あのひとが、あたしだけを見てくれることはない。
この恋は、報われることはない。
どんなに想っていたとしても、どんなに花を咲かせたとしても。
「無理、だよ。もう、どうしようも、ない、よ」
運命もドラマも、もういらない。水さえ与えなければ、花はいつか枯れていく。その日を待って、あたしはこの胸の花園に鍵をかけよう。
あのひとには、会わない。もう二度と。
逃げるなら全力でと彼がいったように、あたしはここから背を向ける。
「――あたしは、もう、」
おしまいに、するよ。
そう口にした言葉と同時に扉を閉めた。水びだしの、深淵なる花園に重い鍵をかけた。立ち上がったイスが軋んで、ロビーへと反響する。うつむいたままの彼を残して、自動ドアをくぐり抜けた。




