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Scene 46 くちびるにすべて



 駆け引き、シダイニ、熱。




「っ……!」


 またもや耳に落とされた熱のせいで体が反応して飛び上がった。耳を押さえて逃げ出そうとしても、いつのまにか腕と腰を押さえつけられていて動けなかった。 


 引き寄せられて、また腕の中に落ちて、彼との距離はゼロ。手はつめたいのにくっついた体は熱くて、発火しそうだった。


「きみが夏希と一緒にいるのは腹が立つんだよ」

「や、……っ、」


 彼のあごが肩にのっていて、言葉をつむがれるたびにくすぐったくて身をよじらせた。これは、ぜったいわざとだ。だってその声の音さえなんだか甘ったるい。


 彼のにおいと声に酔った体はくらくらと視界をかすませる。


「きみと夏希が付き合うのは俺にとって喜ばしい事態だというのに、なぜか俺は自分の感情を制御できなくなっているんだ。これは、奈緒のせいだよ」

「そん、なのっ、あたしの、せい、じゃ」

「奈緒がかわいいからいけない」


 あたし、このひとに殺される。


 赤く染まった花が水辺から流れ出して、爪の先まで熱をともしてあたしを染める。一向に止むことのない花雨にさらされて、傘もないまま濡れていく。


 こんなの口から出まかせで、冗談かもしれなくて、まただまされているのかもしれないのに。感情が制御できないのは、あたしのほうだ。


 体の内側で警戒音が鳴りっぱなしなのに。ほだされる前に逃げなくちゃと思うのに。うれしくて、苦しくて、熱くて、めまいがして、どうにかなってしまいそう。


「夏希は未羽のことしか考えていないからやめなさい」

「でも、な、つきは、やさし――、んっ!」

「返事は、はい、しか認めない」


 意地悪どころじゃない。

 このものすごい横暴はいったいなんなの。


 与えられた選択肢はひとつ。しかもまた耳にくちびるが寄せられいく。これじゃ、いやだと言えなくなってしまう。


 完全に体に力が入らなくなって、くたりと骨が抜けたように彼に体重をあずけた。相変わらずあたしの肩にはわずかな重み。そして腰にまわされた腕の温度。


 こんな状態が心地いいなんて、あたしはどこかが病んでいる。

 ぜったいに病気だ。


「返事は」

「……は、い」

「よくできました」


 とたんに彼の腕がゆるんで、肩から重みが引いていった。ぐったりとしていた上半身を何とか起こして、胸に手を当てる。


 つめたい地面に冷やされていく思考と体。息をつくと、彼の笑い声が耳をかすめた。目に染みるのは沈んでいく夕焼けの色とやさしすぎるくらいの視線。


 どうして、そんな目であたしを見るの。どうして、このひとはこんなひどいことをするの。あたしの気持ちを知っておきながら、どうして。


「なんで、こんなこと、するの? 未羽がすき、なんでしょう? なのに、」


 苦しかった。呼吸をするのもつらいと思うほど。

 胸がしぼられて、花からあふれた赤が足もとにしたたるほど。


「あたしのことなんて、どうでもいいんでしょう?」


 奥底で、だれの手も届かない場所で目覚めた花園はいまだに浸水状態。こぼれるものは、彼の指にすくわれていく。


 つめたかったはずの指先はあたしの熱によってあたためられていた。長い指先をつたって落ちていく涙は、空に散る星のようにきらきらとひかりをうけている。


「どうでもよくなんてないよ。ただ、俺はどうしようもなくわがままなんだ」


 伸ばされた手、やわらかく包み込まれる頬。

 この目に見えるものは、彼だけだった。


 落下する赤も、はじまる夜も、駆け上がる月も。

 すべてが消えて、彼だけがあたしに残される。


「未羽が何よりも大事だ。だけど、奈緒も大事なんだ。だれかがきみに触れるのはたえられない」


 飲み込まれていく。彼に、彼の影に、その瞳に。

 ざわめく水に入り込むかすれた声。広がる波紋、浮かぶ花。


「逃げるのなら、全力で俺を引き離してくれ」

「え、」

「そうしないと俺は、きみを捕まえに行ってしまうかもしれない。きみが苦しむのをわかっていて」


 あたしの視界がすべて彼に埋め尽くされた、そのとき。

 くちびるに、熱が落ちた。


「俺は、ひどい男なんだ。知っているだろう?」


 わずかなすきま、与えられた言葉、ゆらゆらと揺れた闇の瞳。

 そしてもう一度、くちびるに熱。


 その背中を追うことができなかったのは――はじめての熱に浮かされていたのと、彼の表情が頭から離れなかったから。


 あたしは彼のすべてにはなれないと、思い知らされたから。


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