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Scene 20 真白月が見ていた真実




 彼の向こう側に見えたのは、雲間からのぞく色を失ってしまったような真白い月だった。




「か、くにん……?」

「そうだよ。すれ違う電車から見ているだけでは、いまいちわからない部分が多かったからね」


 ホームに着いた電車の中ですれ違うあの瞬間、彼はいつもあたしを見ていた。あたしはいつの日からかその視線に気がつくようになった。


 目が合うようになったのは、いつからだった?

 それすらも、偶然じゃなかったというの?


「きみを見ていたのは、」


 気をとられているうちに、いつのまにか距離が縮まっていた。長身が作り出す影に飲み込まれてしまいそうなのに、足が動かない。


 息を飲んだ。逃げなきゃ――なぜかそう思った。逃げないと決めたはずだったのに、いますぐにでもこの場から離れたくなった。


 怖かった。彼の紡ぐ音が。

 あたしを粉々に壊してしまいそうな、そんな予感がしたから。


「きみがどんな人間なのか知りたかったから」


 飢えた獣の手が伸びてくる。爪をかけられるようにマフラーに触れられた。


「あの子に近づいてもいい人間かどうか。俺は、それを知りたかった」


 乱暴に、力まかせにマフラーを引っ張られて呼吸が止まる。首筋に走る痛みに抵抗したくても逆らうことはできなかった。


「いつも未羽と仲良くしてくれてありがとう。きみは合格だよ」


 甘い言葉を刻んだ彼のくちびるがあたしの耳に触れる。叩き込むように流されたやわらかな事実は脳を揺さぶって、花を揺るがした。


「……っ、ごぼ、っ、……み、はね?」


 マフラーにかけられた指が外されて咳き込む。真白月を背後にした獣は穏やかな表情を浮かべていた。


「昨日の夜、見ていたんだろう? 俺と未羽がここにいるのを」


 追い討ちをかけるような彼の言葉。でも、その意味がわからない。彼はその手を頭上にかざし、あたしの髪を撫でていく。


「俺の名前は藤原紘。奈緒には、この意味がわかるだろう?」


 意地の悪い問いかけは、彼のクセみたいなものなのだろう。聞き覚えのあるセリフに止まっていた思考が少しずつ動き始める。


 フジワラ。彼の名前は、フジワラヒロ。

 凍りついたくちびるで、ゆっくりと彼の言葉を復唱していく。


 音もなく刻んだそのとき――彼女の顔が思い浮かんだ。


「……みは、ねと、同じ」

「そう、俺は藤原未羽の兄なんだよ」


 よくできました、と耳元でささやかれた。


「うちの未羽は素直で純粋で可愛らしいだろう。あの子は昔から変な奴に狙われたり、陰険な女共の標的にされたりと苦労が絶えなくてね」


 彼はあたしの髪をひとすじ摘みあげ、ぱらぱらと宙へ散らす。毛先の向こうに見えるのは愉しそうな表情。


「俺はあの子が心配で仕方なかった。でも小中とは違って離れた高校まで俺の目は届かない。これまで通りに守ってやれなくて困っていたんだよ。……だから、未羽に近い奈緒と仲良くなるつもりだった」


 潜められた声は耳をかすめ、近づいてきたかと思えばマフラーに沈んだ。仲良くなるつもりだった、なんてそんなのもうとっくに越えているくせに。仲良く、なんてすまないところまで引きずり降ろすように仕向けたのは自分のくせに。


「俺の言うとおりに、未羽を監視して守ってくれる人間が欲しかったんだ」


 彼はあたしの首元に顔をうずめて、熱い息を吐き出す。


「このマフラーも、鞄の中の手袋も、あの子が俺のために選んでくれた。青い色がよく似合うといってくれたから、俺は青の似合う男になった」


 このマフラーは彼によく似合っていた。離れた電車の窓越しでも目を奪われてしまうほどに。


 ゆっくりと背中に腕が回されて、静かに体を引き寄せられた。頬ずりをするようにマフラーに顔を押し当てられて息が詰まる。抱きしめられているのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。その理由は自分でもわかっていた。いま、彼の腕の中にいるのはあたしじゃない。


「あの子が寂しい思いをしないように、携帯も持った。家にも早く帰るようにしている」


 この手を手袋といって握ってくれた夜。本当はあのときカバンの中の手袋を使いたかったんだろう。未羽が選んでくれた、お似合いの青を。


 長い魔法にかけられていたのは、あたし。そんなことにも気がつかずにマフラーを巻いて喜んでいたのはばかなあたしだ。

 

 鐘の音なんて聞こえないのに、彼の手によって魔法がとけていく。ボロボロになっていく姿はきっと醜いものに違いない。


「奈緒の名前もずっと前から知っていたよ。未羽がはじめて俺に話した友達の名前だからね。こうして話していて、きみこそ未羽に相応しい友達だと確信したよ」

「ふさわ、しい、ともだち……」


 崩れてしまいそうになりながら、壊れた人形のように言葉を繰り返した。とたん、彼の腕に力が入って呼吸が奪われていく。


 このひとが本当に抱きしめたいのは。

 こうやってマフラーに顔をうずめてささやきたいのは、だれ。


「どうか俺の代わりにあの子を学校で守ってやって欲しい。そのためだったら、何でもする」


 それは、静かなる彼の願い。


「これが、答えだよ」


 切ない響きを持った声色は、想いの深さを知らしめた。じんわりと底からにじみだした水が花をひたしていく。そんな音が、聞こえた。


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