Crank in プロローグ
だれにもいえない、あたしだけの秘密。
いつもの時間、いつもの電車の、いつもの車両。
白くかすんだ向こう側。窓の外、反対のホーム。
動きはじめたあたしの乗っている電車と、動き出そうとする対向列車。
何気に、けれど確信を持って視線を向ければ、いつものようにあの目と重なった。
「また、いた……」
小さなつぶやきは、動き出した車輪の音にかき消された。
いつも電車ですれ違うひとがいた。ほんの数秒、わずか数秒の、たったそれだけの出来事だった。いつからなんていうのはもう覚えてないけど、いつからかあのひとを目で追うようになっていた。
某有名進学高校の制服と青いマフラー。視線の先にはあの目があって、ぶつかって重なっては離れていく。そんな日常。
運命とか奇跡とか、ましてや一目惚れなんてありえない。桃色な妄想に花を咲かせるほどバカじゃない。ドラマチックな展開を待つよりも、自分の足で立って向かっていく。あたしはそんな人間のつもりだった。
けれどはじまりは音もなく、降るように突然だった。
「あの、定期届いてませんか」
「落としたの?」
「……はい」
気がついたのは昨日の夜。カバンのポケットにあるはずのパスケースが入っていなかった。翌朝の本日、あわてて駅に来たものの、分かったのはどこかで落としたという事実だけ。
「あの、届いたら連絡いただけますか?」
「もちろんだよ。見つかるといいね」
連絡先を駅員さんに伝えても一向に回復しないこのココロ。買ったばかりの定期は三か月分。値段のことを考えたら、親に言うなんて絶対にできない。
改札にある時計を見れば、遅刻まであと一時間半。ラッシュはすでに始まっていて、目の前に広がるのはひとの群れの波。このまま落ち込んでいてもしかたない。あきらめきれないなら、探すのみ。
「よし……!」
握りしめたてのひらに決意と根気を叩き込んで、一歩踏み出した。
駅の入り口、階段、切符売り場。ベンチ、自販機の周り、改札周辺。遅刻から三十分が経過して、それでもまだ駅でしゃがみこんでいた。体力も気力もいいかげんピークに達してきて、もうふらふらだった。
それにしてもない。時間を追うごとに不安が頭をもたげてくる。もしかしたら、だれかが持っていってしまったのかもしれない。
「はあ……」
もうあきらめてしまおうか――そんな考えが頭をかすめた、そのとき。
「おーい! きみ!」
窓口から小走りで駆け寄ってきた駅員さんに呼び止められた。
「あったよ、きみの定期。三波奈緒さんで間違いないかい?」
「え? あ、は、はい!」
差し出されたのは見覚えのあるパスケース。よかったねえと声をかけられて、思わずこみあげてきたものをぐっと飲み込む。
「これ、どうして」
「ついさっき、落し物として届いたんだよ。よかったねえ」
「あの、どなたが届けてくれたんですか? ぜひ、お礼を……」
「かっこいい男の子だよ。あの有名進学校の制服を着ていたなあ。連絡関係で名前を聞こうと思ったんだけど、気にしないでくださいと断られてしまったんだ」
返ってきた答えに呼吸が止まった。あざやかなマフラーのあの青が記憶をかすめて通り抜ける。まさか。あのひとのはずがない。いつも電車ですれ違うだけで、ほんとうにただそれだけなのに。
「さっきここを通り過ぎていったばっかりだよ。青いマフラーしていたから、すぐに分かるんじゃないかな」
鼓動がはやくなって加速していく。体の奥の奥、遠いどこかで激しく鳴り響く。
有名進学校の制服に青いマフラー。思い浮かぶのは、毎朝すれ違う反対車両のあのひとの姿。
「あ、あの、ありがとうございました!」
駅員さんへのお礼もそこそこに、足が勝手に走り出していた。改札を抜けて、ホームへつづく階段を一段抜かしで駆け上る。
どうして。どうして、どうして。
彼はすれ違うだけの、ただそれだけのひとのはずだった。
階段を抜けた先に広がるホームに吹きつけるつめたい風。鈍色の線路。青を区切る電線。見慣れた対面のホーム。灰色のコンクリートに浮かぶようになびく青いマフラー。そこに、あのひとが立っていた。
向けた視線がぶつかって、重なる。
その瞬間、笑いかけられたような気がした。
「あ、あの……!」
気がつけば大きな声を張り上げていた。頭の中はめまいを起こすばかりだったけれど、声を上げずにはいられなかった。
「ありがとう、ございました!」
そう言い切って振り落ろすように頭を下げたあと、またたく間に顔に血が上った。ホームにはそれなりに人がいて、その視線は間違いなくこっちに集中している。はずかしすぎる。勢いがついたとはいえ、あたしはなにをしているんだろう。
思わずその場から逃げ出そうとした背中に響いたのは、耳慣れたアナウンス。
警笛とともにホームに入ってきたそれは、目の前のひとの姿をあっというまに隠してしまった。
「……なに、してるんだろ。あたし、」
ぼんやりと声に出したそのときだった。いつもの車両のいつもの位置。向かい側にいるあのひとが、小さく手を振っているのが見えた。
こみ上げてくるものにめまいがひどくなる。熱い頬が、全身を染め上げていく。手を振りかえすことなんてできなくて、立っているのがせいいっぱいだった。ゆっくりと動き出す電車が遠のいていくのを、ただ見ていた。
「なんで……」
運命とか奇跡とか、ましてや、一目惚れなんてありえない。
だけど、何かが動き出してしまったことだけはわかった。