第82話 熊八 vs 腹潜 後編
♢ ミーティア海域沖合 熊八 ♢
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俺と相対する腹潜は咥えていた人間の手首を口を開けぬらりと落とすと禍々しい魔力を向けてくる。
産まれたての害獣が遊びで命を奪ってんじゃねぇぞ。
不逞を働き、人間に仇成す存在は俺が始末してやる。
手首が甲板に落ちる音と同時に奴が真っ向から突進してくる。かなりのスピードだ。
だがっ! 遅ぇ!!
俺は纏っていた魔力を瞬時に電気へと変換し、全身の筋肉へと伝達する。
能力を使用中の俺からすれば奴の動きなど幼児ほどの速さに見える。スピードに特化した俺だからこそ体感することのできる世界。
しかし、他の人間ならば止まって見える動きも奴の驚異的な移動速度のおかげでこれほどの速さなのだ。
奴は剃刀のように鋭く鉈のように分厚い右手の爪を俺に向け振りかざしている。
魔力を使わなければこの一撃を避けることができず、瀕死の重傷を負っていたはずだ。だからこそ訓練を積んだ騎士団の躯を瞬く間に築き上げた。
奴の息の根を止めるまで一瞬たりとも魔力は切れねぇ。
魔力が底を着く前に決める!!
「ぅオラァッ!!」
俺は奴の右爪を躱し、がら空きの顔面に握りしめた左右の拳で殴打を浴びせる。
ドドドドドドッッ
左右の拳で6発も殴りつけたが、顔を振るばかりで大して利いてねぇ。
顎を砕くつもりで殴ったはずなのに分厚い表皮と柔軟性を兼ね備えた筋肉にパワーが殺されている。
生まれながらの化け物め。
殴られたことなど気にも留めず左の爪を一点に揃え、俺の体に突き刺すように突いてくる。
距離が近いため、一度後ろへ跳び攻撃を躱す。
空を切る爪は空振りしたにもかかわらず不吉な幻想を孕んだイメージを植え付けてくる。
絶対に一発たりとも受けちゃいけねぇ。もし、喰らったならばその時は俺が負けるとき。全魔力を以って躱しきる!!
スピードは俺の勝ち。
だが攻撃力と防御力・スタミナと魔力量は断然、奴に分がある。
更に、俺は自分の起こした電気で感電しないように放出する電気以上の魔力で体を防御しなければならない。そのため、どうしても攻撃だけに魔力を集中させることが出来ず魔力の消費も激しい。
さて……。
お前はあと何発殴れば死ぬのかな?
それまで俺の魔力が保ってくれるか……。
勝負っ!!
奴は俺の速さについて行くことが出来ず、苛立っているのか真っ直ぐ睨みつけ口を開け喉をグルルと鳴らして威嚇してくる。
……ったく、恐ろしいな。
殺気剥き出しの眼光は俺を殺すことだけを考えているのが手に取るように感じられる。
それでも逃げるわけにはいかねぇ。
この海域で奴と戦えるのは俺以外に誰もいない。つまりそれは、俺の敗北=全船団の死に繋がる。
今は膠着状態が続いているが、それでいい。時間が稼げれば、たとえ俺がやられたとしても仲間たちがお前を殺す。
どちらにせよお前の寿命は短いんだよ。
睨みあっていた俺と腹潜は、痺れを切らした奴から動き出し、再度真っ向から突っ込んでくる。
こうして馬鹿正直に猛進してくるならば安全圏だ。
いくら奴の爪と牙が鋭くとも当たらなければ意味がない。そして、俺には躱すだけの速さがある。所詮、赤子の蜥蜴の知能はそれほどということか。
しかし、奴は直前で別の行動を取った。
口を大きく開けると喉を上下に動かし、先ほど食べたばかりの人肉や鋼鯨の赤黒く胃酸混じりの肉片を盛大に吐き出しやがった。
「ッ!! 汚ねぇな!!」
広範囲で向かってくる吐瀉物は視界を遮り、俺に迫る。
普通の獣の腸内の酸でも不用意に触ってはかぶれてしまうため防御は出来ない。ましてや奴の胃酸など、どんな作用を起こすか分かったものではなく触れる訳にはいかない。
俺は咄嗟にジャンプして吐瀉物を躱す。
だが、それは悪手であった。
腹潜は俺が躱すことを見抜いておりすでに覆い被さるように跳び上がっていた。
奴の目は完全に俺を捉えて大きく両手を広げ逃がしてくれそうにない。
「この野郎! 蜥蜴のクセに浅知恵使いやがって! 舐めんなっ!!」
回避することは不可能と判断し攻撃に打って出る。
奴の爪が迫る中、右手を奴の身体に向け一気に電気を放電した。それは先ほど海上でやって見せた雷と同じものを今度は横に放出する。
バヂィィッッンンン
雷光は瞬時に奴にヒットし全身を駆け巡る。
纏っている魔力を電力に変換して攻撃しただけに威力は十分。電撃を受けた奴の身体は弾けるように後ろへと吹き飛んだ。
が、思いもよらぬ異変が。
吹き飛ぶ奴の体に引っ張られるように何故か俺の身体も引っ張られていく。
その原因は右足首にいつの間にか巻き付いていた腹潜の尻尾であった。
身長以上に細長い尻尾を伸ばし、俺を逃がさないよう初めから狙っていたのだ。
腹潜は船の中央にある帆柱に背中から激突すると、その勢いによりバキバキと音をたてて帆柱がへし折られていく。
それでも全くダメージを受けていない様子の奴は逃がさないとばかりに魔力を練りあげ、獰猛な眼つきで俺を待ち構えていた。
「馬鹿がっ! 逃げられねぇのはお前のほうだ!!」
体に触れているということは直接電気を浴びせられるということ。
お前が狙っていたように俺にとっても好都合!!
うまくやったつもりだろうが、地獄に連れてってやるぜ!!
瞬時にして細胞一つ一つから全魔力を練り上げ、一気に電気へと変換させる。
最大級の電撃を与えるために自らの身を守る魔力も極力少なくする。
そして引っ張られるまま奴の体に激突するようにぶつかり大きく口を開けた奴が噛み付いてくる。この距離では避けきることは出来そうにないので、左腕を犠牲にした。
噛み付かれやすいようにあえて左腕を差し出し、狙い通り噛み付いてくる。
「っぐ!! ううおおおおお!!」
鋭利で無数に生えた牙は左腕に深く食い込み、激痛が走る。
俺の腕を食い千切るのにそう時間はかからないことだろう。だが、その前にこちらも攻撃にでる。
噛み付かれるのとほぼ同時に電撃を放ち、渾身の一発をお見舞いする。
その攻撃は諸刃の剣となり壮絶な痛みを伴うがダメージは俺の比じゃねぇはずだ。
さぁ……、我慢比べといこうか!!
「ぅうおおらぁぁぁぁぁっっ!!!」
あまりの高圧電流に船が発光しているかと見紛うほどに強い光を放ち電撃を放出する。
眩い発光の後に晴天の霹靂の如く、海上に雷鳴が轟く。
白一色の船上では瞼を閉じていても明るいほどの光を放ち、全ての闇を照らしていった。
「ぐうぅぅぅぉおおおおおおおぉぉぉ!!」
肌が焼けるように痛み刺すような刺激が全身を駆け巡る。次第に熱を持ち始め、あちこちに火傷を負ってしまう。
もはや痛みしか感じない触覚は煩わしいだけでこの時だけは消え去ってほしい。
バヂヂヂヂヂヂヂィィンンン
発せられる音を聞くだけで危険と判断できる電気を尚も放ち続ける。
どれだけ電撃を放出しただろうか。
痛覚しか感じることのできない脳内では他のことなど考える余裕などなく、腹潜がどうなっているのか分からない。
ありったけの魔力を開放し意識を保てる限界近くまで電撃を浴びせ続けた。
辺りに毛が燃えた際に発生する不快な焦げ臭さが漂い、刺激的な硫黄臭によって鼻が曲がりそうだった。
「へへ……。どうだ。流石のお前も生きちゃいられねぇだろ……」
あまりの発光によってぼやける視界は左腕に噛み付いている黒い物体を映し出す。
パチパチと瞬きを繰り返し、徐々に回復してきた視力で前を見ると黒焦げになった腹潜の顔があった。
全身が真っ黒に焦げており、所々から強い臭いを放ち白煙を上げている。
それでも離さなかった顎を無理やり剥がし、なんとか繋がったままの左腕をだらんと垂らしてドサッと尻餅をつく。
ピクリとも動かない奴は背中を帆柱にもたれ掛かるように座り込み、死んでいるようだった。
「終わった……。やったぞ……。俺は……、生きてるぜ……。ガハハ」
全身に火傷を負い、左腕は使い物にならず、魔力は底をつきかけていたため、まだ動くようなら覚悟を決めるしかない。
だが、奴を見る限りその心配もなさそうであった。
ピシッ
その音を聞くまでは──。
乾いた音の発生源に目をやると、目の前で黒焦げになっていた腹潜から発せられていた。
ピシッ、ピシ、ピキキキ
次第に音は多くなり、奴の体に亀裂が走っていく。
「おいおい、嘘だろ……」
目の前の奴の顔が罅だらけになり崩れ落ちたと思ったら、その内側から白っぽく薄い色素に覆われた腹潜の顔が覗いていた。
その眼は変わらず黄色の眼球に縦長の黒い瞳孔。
ぎこちなく動き出し、全身の焦げた体を服を脱ぐかのようにボロボロと落としていく。
腹潜は脱皮していた。
おそらく奴は電撃を受けた際に魔力を防御に集中させ、電撃が止んだあと脱皮に魔力を注いだのだろう。
それほどまで追い込むことに成功したものの黙って見ていればいずれ脱皮を終え、新しい皮膚は空気に触れみるみる硬く堅牢になっていくはずだ。
今はまだ電撃による後遺症のため自由がきかず攻撃してくる気配はないが、すでに半分ほど真新しい皮膚が現れ脱皮し終えれば今度こそ殺される。
その前に息の根を止めなければ……。
「ぐっ!! クソッ……、いってぇ……」
しかし、すでに俺も満身創痍。
身を切るような自滅覚悟で攻撃しただけに反動が大きく身体が動かない。
ピクリとでも動かすと痺れるような激痛が走り苦痛で顔を顰める。
もはや電撃は使えそうにない。せめて、一発だけでもいいから攻撃しなければ……。脱皮中の今なら柔らかい皮膚の為、稚拙な攻撃でも大ダメージを与えられるはずだ。
「ぅうう、ああっ……」
けれども体が言うことを聞いてくれない。
絶好の機会を前に何もすることが出来ないなんて……。こんな時、誰かいてくれたら助かるが騎士団の船には息絶えた騎士団の死体とグリフォンの亡骸のみ。
辛くも空に逃げた騎士団も助けを求めてアラタたちの乗る船に向かったはず。その船の行き先もミーティアに向け進んでいることだろう。
万事急す。八方塞がりだな。
「俺もここまでか……。まぁ、時間は稼げたしいっか……。あぁ、腹減ったな……」
前を見やると腹潜は口を開閉し時折、長い舌で眼球を舐め渇きを潤している。
時間をかけ奴が回復し俺に触れれるほど近づいたのならおそらく喰われるだろう。脱皮をしたばかりの奴は相当腹が減っているはずだ。
逆に喰ってやりたいが、この状態ではそれも叶いそうにない。
しかし、俺は失念していた。
まだ、腹潜を倒せる存在がいたことを──。
海の覇者の存在を──。
ブゥオオオオオォォォォオォォォオオォォオオオオォォォォォオオオオォオォオオオオッッッ
出産を終えたばかりの鋼鯨の母親がいつの間にか船のすぐ近くまで近寄っており咆哮をあげる。
そして、まるで船を覗き込むかのように巨躯に似合わない小さな瞳で見下ろし、座り込む俺達を見ている。
残された我が子を守るためか。
今は亡き我が子の弔いか。
理由は分からなかったが一度海に潜った鋼鯨はすぐさま切り立つ崖のような黒い尻尾を大量の水飛沫と共に海面からもたげると、超重量の特大の尻尾を船に叩きつけてきた。
母の一撃はいとも容易くガレオン船を砕いた。