第79話 腑を喰らうもの
それは誰もが予想だにしない出来事であった。
二匹目の鋼鯨の赤ちゃんが死産に終わり船内は悲しみに包まれたが、先輩冒険者たちの指導もあって俺は反省し悲しみを乗り越えることができた。
あとは、やがて剥がれ落ちる胎盤を回収すればトラブルの連続だった任務は終了する。
はずだった──。
しかし、プカプカと浮かんでいる赤ちゃん鯨の死体の内側から陥没するかのように穴が空いたと思ったら、穴をこじ開け広げるように蠢くものが姿を現した。
それは二つの手を鋼鯨の血で赤く染めながら肉をぐちゃぐちゃと掻き分け、分厚い表皮を引き裂いていく。
やがて自らの体が通れるほどに穴が広がったのか、海面から浮き出ている赤ちゃん鯨の死体を足場にして二本足で立ち上がった。
その姿はまるで人間と蜥蜴が融合したかのようなフォルムをしており、全身が鱗に覆われている。身長は180cmほどで、長い首と全身が黄丹色の斑模様をしていた。
臀部からは爬虫類のように細長く身長よりも長い尻尾をゆらゆらと左右に振り、手や足の先からは刃物のような鋭利な爪を覗かせている。
腹が減っているのか屈むと赤ちゃん鯨の死体を手の爪を器用に使って切り裂き、鰐のように大きな口にせっせと肉を運んでは咀嚼していた。時折、蜥蜴のような青紫色をした長い舌をギザギザの歯の間から伸ばして口周りに付着した血を舐めとっている。
眼は黄色い眼球の中に真っ黒な瞳孔が縦長に伸び、ギョロギョロと絶えず動き回っており気味が悪い。体温を感じさせないかのような冷たい瞳は見ているだけで不安感を煽られるようで直視していたくない。
遠目から眺めていてもその異様な光景は見ている者、全ての視線を釘付けにした。
「……なんだよ、あれは。……体内から出てきたぞ? 鋼鯨は腹ん中にあんな不気味な生物を飼ってるってのか?」
そんな訳がないことは百も承知だが尋ねられずにはいられない。
そして、それ以上に圧倒されていた。
奴はヤバい……。危険すぎる…!!
俺の生物としての本能が五月蠅いほどに警鐘を鳴らしている。
決して近づいてはいけない。今すぐ離れるべきだ。戦うなんて以ての外。願わくば奴の好奇の対象になる前にこの海域を離脱するんだ。
魔力を開放したばかりの俺でさえも肌で感じることが出来るほどに禍々しい魔力を放ちながら足元の死肉を貪っている。
見れば見るほどに決定的な力の差を突き付けられ、じっとりとした嫌な汗が全身から噴き出し悪寒で足が震えてしまう。恐怖で歯はカチカチと音を鳴らし全身を石のように硬直させ、心臓が高鳴りドッドッドッと動悸が激しく五月蠅い。
ダメだ……。これ以上は耐えれられない……。
「 逃げるぞ、奴は異生物だ 」
静かにそう告げたのは熊八であった。
「異生物?」
聞き慣れない言葉につい反応してしまう。
「俺が未踏地に行ったときに奴と同じ種族を見たことがある。その性格は恐ろしく凶暴で残忍。生き物の腹の中で育つから、俺たちは腹潜って呼んでた。あいつをミーティアに上陸させるわけにはいかねぇ」
険しい顔で一時も奴から視線を外さない熊八は船長に撤退の指示を出す。
俺達はまだ鋼鯨の涙を採取してはいなかったが誰もその意見に反対するものはいなかった。
任務は失敗に終わるが、命には代えられない。
それは俺だけではない。
ここにいる熊八以外の人間が恐怖に全身を支配され、危険を感じ取っている。
静かに、ゆっくりと、けれど迅速に。
なるべく奴を刺激しないようこの場を離れる。そろそろと動き出す漁夫は船の向きを反転させようとした。
──その時だった。
腹潜が俺たちの乗る船にグルリと顔を向けた。
「ッ!!!」
ヤバい!! 意識を向けられた!!
「急げっ!! 逃げろ!!」
もはや隠密行動を取る必要がなくなり熊八が叫ぶと急いで舵を反対へと向けさせる。
指示を受けた漁夫はバタバタと覚束ない足取りでそれでも可能な限り素早く行動する。
言うことを聞かない足腰は視線を向けられたことでより一層ガタガタと震えだし、漁夫の手には力が入っていないようだった。
それほどまでに不吉でどす黒い魔力を纏っている。
腹潜はしばしこちらを見つめた後、死肉を引きちぎる手を止めぼーっと、佇む。
何を考えているかは知りたくもないが、そのまま動かなければ僥倖。
「ベンジャミン!!」
大きな声で叫んだ熊八は船内にいる執事のベンジャミンを呼ぶ。
ゆっくりと開いた扉の奥に白い手袋を嵌めたままのベンジャミンがこちらを伺っている。その顔には焦燥の色が滲み、初めて額に汗していた。
「御呼びでしょうか? 熊八様」
それでも執事のプライドがそうさせるのか、丁寧な言葉遣いは今なお健在だった。
「俺とお前さんで船が離れるまで奴を近付かせないようにする。手伝ってくれ」
熊八は一度も視線を奴から逸らすことはなく後ろにいるベンジャミンに告げている。
おそらく熊八の中で戦力になり得ると判断したのはジュードでも、ビアンカでも、俺でもなく、ベンジャミンだけなのだろう。
だからこそ力を貸してくれと頼んでいるのだ。
「熊八様は私に死ねと仰っているのですか?」
抑揚なく発せられた言葉は、期待には沿えないとハッキリと断られてしまった。
「なら、船を守ってくれ。船を破壊されちまったら元も子もねぇ。それまでは俺がなんとかする」
「畏まりました」
すでに現状は俺の計り知れない域まで到達し、先日、圧倒的な武力を見せつけたベンジャミンでさえも奴には勝てないと断言している。
俺にとっては熊八も強く、ベンジャミンも強く、新たに現れた腹潜も強い。
俺のちんけな物差しでは、もはや相手の力量を正確に測ることは不可能であり、ただ強いということしか認識出来なかった。
「待てよ、俺は戦うぜ」
赤い魔力を滾らせているジュードは精一杯、虚勢を張っているのが見え見えで不安を自ら発した強い言葉で押し殺している。
「ダメだ。ジュードは船内にビアンカを連れて行って皆を守るんだ」
そんな思いも虚しくバッサリと熊八に拒否されてしまう。
決して言葉にはしないが、ジュードにとっては「足手まといだから手を出すな」と言われたも同然だろう。
「ッ!! ……ああ、分かったよ」
言葉を噛み殺し、己の未熟さをなんとか飲み込み指示に従う。
「頼んだぞ。アラタも中に入るんだ」
「……約束は師匠も守るもんだからな」
俺の言葉の意味を理解したのか、少しだけ口角の上がった熊八は力強く答えた。
「おう! 任せろ!」
と、次の瞬間。
先ほどまで鋼鯨の死体があった付近で大きな水柱が上がった。それは驚異的な脚力で死体を足場にしてこちらにジャンプした際に起こったものだった。
その原因を作った奴は、轟音と同時に猛スピードでこちらに向かってくる。
大きく跳躍した腹潜は悠遊と船までの距離を半分、一っ跳びするとパシャ、パシャッと軽やかに片足づつで海面を跳ね、勢いが衰えると海面に頭から潜り込む。
そのまま手足を揃え、身体を波のようにくねらせグングン泳いでくる。
奴はすぐそこまで近づいていた。
「ハッ!!」
発声と共に黄色い魔力を纏った熊八は迎え撃つ準備が整ったのか拳を握り構えている。今まで感じたことがないほど濃密な魔力を練り上げ全力で戦う気だ。
そして、パシャッと小さく水音が聞こえたと思ったらすでに奴は船に乗り込んできていた。
腹潜は帆柱の先端にしがみつくように乗船してきており、大きな眼をギョロギョロと動かして次なる獲物を値踏みしているかのようだった。
「う、うわぁぁあぁぁーー」
あまりの恐怖に悲鳴をあげた漁夫は持ち場を離れ、我先に逃げようとビアンカに肩を貸すジュードを払いのけ船内へと続く扉へと走った。
動く者に真っ先に反応したのか、カッと口を開け甲板にいる漁夫に向け襲い掛かる。
バヂィィッンン
しかし、弾けるような音と共に熊八の渾身の右ストレートが腹潜の脇腹にヒットしていた。
生き物を殴った音とは思えない重厚な衝撃音を鳴らし、噛み付く寸前で軌道を強制的に変える。奴のスピードも桁違いに素早かったが熊八もまた化け物じみている。
あまりの威力に帆船から吹き飛んでいった奴は空中で体をくねらせながらも勢いは衰えない。
通常の生き物ならば原型を留めていられない殴打でも腹潜は形状を保っており、何度か海面を水切りのように跳ねたあと海に沈んでいった。
「あれぐらいじゃ奴はビクともしねぇ。俺が時間を稼ぐ。今のうちに逃げるんだ。そして議会に……いや、GGG団長のニコルに報告するんだ」
「くまh……」
俺が「熊八はどうするんだ?」と言いかけた時にはすでに遅く、バチッという音を残して熊八の姿は消えていた。
「言われた通りにするぞ。お前も弟子なら師匠の言いつけは守れ。お前一人の我儘で全員の命を危険に晒す気か」
俺が意を唱えるのを見越してか、口を開く前にジュードが釘を刺してくる。
反論したくとも何一つ言い返すことが出来ない俺は黙っていることしか出来ない。
沖合では晴れにも関わらず、激しい雷鳴が轟いていた。