第71話 現る
静かに航海を続けていた船の甲板に一つ、また一つ空から雫が落ちてくる。
やがてそれは勢いを増し一斉に雨が降り始めてきた。これまで天候に恵まれていたが、ここに来てついに牙を剥き始めた。
「降ってきたな」
呟くようにポツリと告げた熊八は防雨対策もせずにその身を曝す。あっという間に本降りになった雨は暴風を伴い波をうねらせ、視界を悪くさせる。
まだ太陽が出ている時間だというのに、厚い雲に覆われた一帯は太陽光を遮り、落ちてきそうな暗雲がどこまでも続いていた。
「熊八、中に入らないのか? 危険だぞ」
ロープに掴まり今なお遠くを見つめる熊八は全身ずぶ濡れになりながらも船内に戻る気配はない。雨が降ってからも外に出て警戒しているのは熊八と俺。そしてジュードだけだ。
勢いよく打ち付けてくる横波は壁のような高さで船に襲い掛かり、波に攫われ荒れ狂う海に落ちてしまったら死を覚悟するしかないだろう。
後ろを見ればそれでも付いてくる二隻の船影と船内から漏れる光が確認できる。こうなったら地獄の果てまでも付いてくる気のようだった。
「アラタ。よく聞くんだ。これからこの船は大きな局面を迎える。ここを乗り切ることが出来ればお前さんは見違えるほどに成長するだろう。自分に出来る最大限の努力をしろ。俺との約束を覚えてるな?」
約束。
それは先日、熊八と師弟の契りを交わした際の言葉。この場合、” 死ぬな ”ということだろう。
「ああ、もちろん覚えてるさ。何が何でも生き抜いてみせる。それに、まだ恩返しが済んでないからな」
俺の言葉を聞いた熊八はニカッと笑うと、うんうんと大きく頷いている。
「よし、腹をくくれよアラタ。俺も最高に盛り上がってきたぜ」
激しく打ち付けてくる雨も、轟轟と唸る風も、大きく上下する船も、何もかも条件は最悪だが、傍に熊八がいてくれるだけで何と心強いことか。
きっと、俺一人ならば不安と恐怖で足が震えているはずだ。
師匠の存在が俺に底なしの勇気をくれる。
その熊八は全身から黄金色の湯気のような魔力を滲ませ、今か今かとその時を待っていた。
荒れ狂う海を進む船の先に、何やら蠢く小さな点が数多く見える。遠くからではただの黒い点々だが徐々に近づくとその姿をはっきりと捉えることが出来た。
それは、海鳥が集まってできた鳥山だった。
鳥山とは、小魚を求めた海鳥が海面に集まってできた群れのことを指す。その下にはたくさんの小魚が泳いでいるため、その小魚を狙う大型魚も集まってくるので漁の目安となる現象だ。
本来なら穏やかな海で見られる現象であり、これほど荒れ狂う海に起こる現象ではないのだが眼前では幾多もの鳥たちがひしめきあっていた。
「おい! あの生意気な女に伝えろ! 前方に鳥山を発見したってな!」
唸る風の音に負けないよう大声で叫ぶジュードは俺に向かって命令してくる。何故、俺がお前の命令を聞かなきゃならないんだと文句を言いたくなったが、熊八から「 頼む 」と言われたため、渋々従うことにする。
だが俺が船内に戻る前に再度、ビアンカの能力である【七音の旋律】が発動した。
薄い半透明のピンク色の膜は音速の速さで球体状に拡散し、全てを包み込んでいく。
これによって俺が説明するまでもなくビアンカは鳥山を確認したことだろう。そう思い、踵を返そうとしたその時だった。
船内へと通じる扉が内側から音を立て勢いよく開かれた。
「大変よ!! そぐそばにいるわ!!」
血相を変えたビアンカが雨に濡れることなど構わないほどの慌てぶりで俺たちに向かって叫んだ。
「どこだっ!?」
言葉少なく詳しい情報を求めた熊八の問いに雨で顔に纏わりつく濡れた髪を振り払いながら大声で叫ぶ。
「この船の真下よっ!!」
次の瞬間。
船の真下から海が山のように盛り上がってきたと思ったら、激しく上下していた船の先端が動きを止め、空を見上げたまま大きく傾いた。
船尾のほうへと体が引っ張られるように船が縦になり、しっかり掴まっていないと転げ落ちてしまいそうになる。やがて、ほぼ90度近く船が空を見上げる態勢になると案の定、固定されていなかった木樽や荷物は、あまりの傾斜に耐え切れずゴロゴロと転がり海へと落ちていった。
「急速、回頭ぉぉぉぉぉ!!!」
今日一番の大声で船長の指示が船に響き渡り、すぐさま船を回頭させ転覆しないよう波に逆らわず海面を駆け下りていく。
これまで落ちないよう必死にしがみ付いていたが船が向きを変え、今度は前のめりになる。まるでジェットコースターのような急勾配を繰り返す船はなんとか回頭することに成功し転覆を免れた。
そして、ついにそれが姿を現す。
ザザザザザザザザザッザッッッパァァァァァァァァンンッッッ
盛り上がった海面から凄まじい轟音を鳴らし大量の水飛沫と共に現れたのは、山のように大きな体を持ち、真っ黒な体と相反する真っ白な胸ビレを持った巨大な鯨だった。
その体はゴツゴツとした岩盤のような分厚い鎧を全身に纏わせながらも、規則正しく並んでいる表皮。硬そうな質感を感じさせる見た目と圧倒的なまでの存在感は、まさに探し求めていた鋼鯨そのものだった。
天高く海中から飛び出してきた鋼鯨は<ブリーチング>と呼ばれる大ジャンプを繰り出し、その巨体の半分が海面から出てきている。その高さはゆうに100mを越していることだろう。飛び上がった巨体はやがて勢いを失い両側の胸ビレを広げながら、ゆっくりと背中から海面に打ち付けるように着水した。
落下の衝撃によって、飛び出して来たとき以上の水飛沫と海に大穴を空け、何百リットルもの海水を飲み込んでいく。
そのあまりのスケールの大きさに俺は目を奪われてしまった。
極限まで研ぎ澄まされた感性はスローモーションのようなコマ送りの視界を目に焼き付け、その一部始終を脳裏に刻んだ。
息をするのも忘れるほどの濃密な時間は瞬きを許さず、その全てを余すことなく記憶する。
そして、着水と同時に俺の時間も動き出す。
巻き上がった水飛沫はもはや飛沫と呼ぶにはいささか矮小であり、もはや滝を頭から被っていると言ったほうが適切だろう。
すでに暴風雨でずぶ濡れになっていたためこれ以上濡れることは無いけれど、雨とは違う質量を持った大粒の飛沫は顔に当たると痛い。
鋼鯨が海面に空けた大穴に引っ張られるように進む船は船長の的確な指示のもと、難破することは防がれた。
一瞬で全てを圧巻する自然の奇跡と呼ぶに相応しい現象は甲板にいた熊八、ジュード、そして俺の言葉を容易く奪う。
全員ずぶ濡れになり髪型は崩れ顔に張り付きながらもお互い目を合わせると一時を置いて、とある感情が湧き起おこり、とても抑えることなど出来なかった。
「ガーーーーーハッハッハッハッハッハ!!」
「ワッハハハハハハハハハーーーーーー!!」
「アッハッハッハッハッハッハッハッハ!!」
それは歓喜だった。
心の底から笑わずにはいられないほどに感動し、この瞬間に立ち会えた奇跡に感謝したい。
まるで長年親交がある旧友のように高らかに笑いあい、空を仰ぎながら同じ気持ちを共有した俺達はただただ笑った。
「見たか!! 今の!! ヤバかったな!!」
「ヤバいなんてもんじゃねぇ!! 激ヤバだ!!」
「マジでスゲーよ!! ヒャッホォーーーーー!! 最っっ高だぜーーー!!」
「「「 イェーーーーイ!! 」」」
「「「 ウォォォォォォーーー!! 」」」
お互い超ハイテンションになり自然とハイタッチを何度も交わす。終いには抱き着き、背中を痛いくらいバンバン叩き合っていた。
異常なまでに興奮していた俺達は周りから見たらぶっ飛んだヤバい奴等に見えたことだろうが、そんなことはどうでもいい。今はただ喜びを爆発させたかった。
「 何やってるのよ、あなた達 」
声のするほうを振り向くと船内へと通じる扉を開け、冷ややかな目をしたビアンカが引いている眼差しを俺達に向けながら告げていた。
「何って、そりゃ今のやつだよ! お前さん見てなかったのか!?」
「もったいねーーー!! 一生もんのチャンスを逃しちまったな!」
「生きててよかった……。一回、死んだけど……」
ビアンカの視線など全く気にならない俺達の興奮はまだ冷めない。瞼を閉じれば今しがた起こった現象をありありと思い出せそうだ。間違いなく一生忘れられない出来事になった。
「いや、船内から見てたわよ。確かに凄かったわ。けど、私が言ってるのはあなた達のはしゃぎようよ。頭でも打ったの? 大丈夫?」
本気で心配してくるビアンカの目線と少し時間が経ったおかげか、ゆっくりと素の状態に戻ってくる。
「お前、あれを見てたのによく落ち着いてられるな! 俺はまだ興奮してるっつーのによ!」
ジュードは身振り手振りで大げさに気持ちを伝えようとしているが余計に引いているビアンカには却って逆効果のようだった。
「ジュード、おそらくだが中で見てるのと外にいたのじゃ、迫力が違ったんだろう。もし、ビアンカが外にいたなら俺達と同じ気持ちになったはずだ。な! ビアンカ!」
「熊八さん。こんなこと言いたくないけど、少し黙ってて」
いつになく冷たい態度のビアンカは熊八にまでキツ目の対応だった。
「いい? 興奮するのも分かるけど、あの場面で私が扉を閉めなかったら今頃この船は沈没してるわよ。船内に水が入り込んだらあっという間に海の藻屑となってることでしょうね。そもそもこの天候で外にいる方がおかしいのよ」
鋼鯨の登場で目を奪われていたがビアンカは冷静に扉を閉め、海水の侵入を防ぎ船内から様子を伺っていたようだった。
確かに、言われてみればその通りなのでグッジョブと言わざるを得ない。
「それと、興奮するのも分かるけど私たちは今からあいつを追わなきゃならないのよ。分かったらさっさと動いてちょうだい」
言われた通り、俺たちは行動を開始する。
海に潜った鋼鯨は姿こそ見えなくなったが、この船にビアンカが乗っている以上、見失うことは無い。
船の指針と操舵は任せることにし、俺達は他の仕事に取り掛かる。
「それで、さっきの奴が俺たちが探してる目標で間違いないんだろうな? 実は雄でした、とかやめてくれよ」
落ち着きを取り戻したジュードは訝しむように熊八に尋ね、これからの行動を決める。
「確証はないが妊娠した母鯨で間違いないだろう。そもそも鋼鯨は滅多に現れない生物だから目撃情報のあった出産間際の個体と同じはずだ。問題はいつ出産するかだ」
「ん? 今はまだ出産してないのか? もしかしたら、もう終わった後かもしれないだろ?」
ふとした疑問を熊八に尋ねると明確に答えてくれる。
「それはねぇな。過去にも鋼鯨はミーティア近海に回遊してきて文献に残されているから分かるんだが、出産間際の母鯨は食いが荒くなる。未踏地に比べりゃ餌も少なく栄養も乏しいここいらの海では手あたり次第に餌を求めてんのさ。だからさっきの鳥山、目掛けてあのデカい口で一飲みしたんだろうな」
そういえば、あの出来事以降はたくさんいた鳥たちがいなくなっている。どこかに逃げたのかと思ったが、鯨の腹の中に納まったようだ。いや、本来の目的は鳥山ではなく海中に潜んでいた魚群なのかもしれない。そのおまけとして鳥も捕食したことだろう。
「それに加えて母鯨は出産のストレスによって気性が荒くなっているうえ、出産後も子供を守るため近寄るものは全て攻撃してくる。離れすぎず且つ、近寄りすぎない。そんな距離感を保ちつつ胎盤が剥がれたら即回収、即撤退。母鯨の逆鱗に触れない距離感が俺達の生死を分けることになるな」
「今更だけど、ホントにヤバい任務な気がしてきたよ。つーか、どうやって母鯨の逆鱗に触れない距離を測るんだよ。母鯨と相談して教えてもらうか?」
「まぁ、そんなとこだ」
「へっ?」
皮肉のつもりで言ってみたが、まさかの正解だとは。
「そ。それが私の役目なの」
防雨服である合羽を着たビアンカが長い髪を纏め、フードを被り甲板へと出てきていた。
「新人君に三ツ星の冒険者の腕前見せてあげるわ」
魔力を纏ったビアンカは命綱のロープを腰に巻き付け船へと固定している。
口では勝気な物言いをしていたビアンカだが、その表情は硬く、僅かに手が震えているのを俺は見逃さなかった。