第68話 船上での戦い 前編
早朝、港を出てから航海を続けすでに一日が経過した。
太陽はとうに沈み、二つの月が夜空を青白く照らし月明りだけでも十分、周りを見通せる穏やかな夜。
乗組員の漁夫に操舵を任せ、雇われの身である俺たちはハンモックで睡眠をとっていた。朝には目的地付近に到着するとのことなので、寝れるときに寝ておかなければ。
目撃情報のあった海域に着いたとしても、いつ目標が現れるかは分からない。なにせ相手はこの広い海原に潜む鯨なのだから。これだけ多くの船が出ていても見つけるだけで大変なことだろう。
波に揺れる船と寝息を立てる音以外に何も聞こえてこない船内は嵐の前の静けさの様相を醸し出しているかのようであった。
波による自然の揺り籠に揺られ、意識は深く深くへと落ちていく。
そんな、平和な船に不穏な影が近づいているとも知らずに──。
「お~い、交代の時間だぞ」
これまで見張り台で見張りをしていた漁夫に、交代のため上ってきたもう一人の漁夫が話しかける。
「おっ、ありがてぇ。寝むくて仕方なかったから助かるぜ」
「おいおい、ちゃんと見張ってたんだろうな?」
「大丈夫、大丈夫。これだけ月明りがあるんだ。異変があればすぐわかる」
「まぁな。何か変わったことは?」
「な~んもねぇ。穏やかなもんさ」
「そりゃいい。あとは任せてゆっくり寝な」
「ああ、そうさてもらうぜ」
見張りを交代した漁夫は梯子を伝って、甲板へと降りていく。漁夫の言う通り、今夜は雲も少なく視界も良好。
しかし、何事もなく航海を続けている中、着実に魔の手は忍び寄っていた。
(ふ~。はやく時間過ぎね~かな~。見張りってつまらないんだよな~)
交代したばかりの漁夫は辺りを見つつ大きな欠伸をかいていた。
次の瞬間。
「ぐっ!!」
ブシュゥゥゥ
見張りをしていた漁夫の背後から何者かによって一瞬で口を塞がれ、喉をナイフで真一文字にかっ切られた。勢いよく引かれたナイフは喉の奥まで到達し、すでに首は半分しか体と繋がっておらず壊れた蛇口のように鮮血が辺りに飛び散る。
見張りの漁夫に全く気付かれることなく乗船し、更には一切物音を立てず背後に忍び寄り一撃で殺す。
その手口は相当手慣れたもので侵入者の存在を伝える間もなく漁夫は絶命した。
肉塊へと化した漁夫をゆっくりと床に寝かせ音を立てないよう注意を払う。
漁夫を殺した人物は全身黒づくめの服と頭巾とマスクをつけており、闇夜に紛れている。ただ、右手に持っている小刀だけが月明りに反射し怪しく光っていた。
見張りは船首、船尾、マストの上と三人態勢で行っていたが、すでに全員が音もなく殺されていた。
まさに暗殺者である。
その存在に全く気付くことのないまま侵入者を許してしまった船は窮地に陥っているなどこの時、誰も知らなかった。
しかし、突如鳴り響く高い鐘の音。
カーン、カーン、カーン、カーン、カーン
「敵襲ーー! 敵襲だーー! 起きろ野郎どもーーー! 総員戦闘準備ーー!!」
静かな夜を劈くように鳴る鐘の音と、野太い男の声。
皆が起き、何事だとバタバタと騒がしくなった船内は蜂の巣を突いたように五月蠅くなる。
騒ぎで目を覚ました俺も急いで甲板へ出るとすでに熊八やジュード、ビアンカも起きていた。
ジュードの視線の先にはつい先ほどまで生きていた漁夫の姿がある。
「おい、見ろ。見張りがやられてる」
「こっちもよ。喉を切り裂かれてたわ」
「ふざけた真似してくれるじゃねーの。どこのどいつだ? こんなことしやがったのは?」
「あそこよ! マストの見張り台にいる!」
真っ先に気付いたビアンカの言葉に全員が上を見ると、全身黒づくめの人物がこちらを見下ろすように立ち夜風になびいた服が揺れている。
おそらく月明りが無ければ見つけることも難しい恰好はプロの手口であることを物語っていた。
「やったのはお前か。どう落とし前つけてくれんだよ。あぁ!? ただで済むと思うなよこらぁ!!」
ジュードがいきり立ち、怒号を飛ばしている。
仲間を三人も失った漁夫や船長も激高しておりマストに立つ人物を殺さんばかりに睨みつけ怒鳴っていた。
「あいつ、結構やるぞ。気を付けろ」
静かにそう告げた熊八は鋭い目つきで黒衣を纏う人物を見定め相手の力量を推し量っていた。
皆の視線を一身に受ける人物は腰につけていたポーチの中に手を入れると小さい筒のようなものを取り出し、空へと向け放り投げる。
筒は放物線を描きながら飛んでいき空中で轟音とともに爆発すると、それは花火のように夜空を彩りこの場にそぐわない景色を作り出す。
音と光が強力なそれは閃光弾のようだった。
爆発の火花が消えると、一瞬の静けさのあと再び船上はやかましくなる。
「てめぇ、なんのつもりだ!?」
「降りてこいゴラァ!! 引きずり下ろすぞ!!」
「んなもんでビビるとでも思ってんのか!!」
怒りの収まらない漁夫は口々に罵り、全く怯む気配はなく殺気立っている。
だが、事の真意を理解しているものはすでに周りの海面を警戒していた。
「バカ野郎! あれは目眩ましじゃねー! 応援を呼んだんだよ!」
ジュードの叫ぶ言葉通り、海中には魚雷のような物凄い速さで近づいてくるものが全方位から押し寄せてきている。
とても人間には出せないスピードで迫りくるもの達は海面を跳ねると、凄まじいジャンプ力で船に乗り込んできた。
その数8体。
その姿は全身を鱗に覆われ、背中にヒレのような被膜と指の間には水かき。大きな口から覗くギザギザに尖った白く鋭い牙。魚類のような大きな目をギョロギョロ動かし手には長い爪が生えている。
それはまさに” サハギン ”であった。
海水で濡れた身体は個体によって緑濃色や深い藍色をしており、月夜のもとでは黒く見える。その中でも三又の槍を持っている者や両手に短剣を持ち武装しているものまでいた。
「どうやら、やっこさんは殺る気満々みてぇだな。最初から狩られるつもりはないようだ」
構える熊八は俺の前に立つと魔力を纏い始める。
「アラタはそこで見ていろ。こいつらプロだ」
俺の出る幕ではないと判断し言われた通り指示に従う。
すると、これまで存在感を示さなかった執事のベンジャミンが前に出る。
「皆様には御主人様の依頼を優先して頂くため、無用な戦闘は避けて頂きます。ここは私にお任せください」
これだけの騒ぎがあったにも関わらず冷静沈着なベンジャミンはコツコツと革靴の足音を響かせながらサハギンに向かって歩いていく。
「私の仕事は皆様のサポート。対象を粛清します」
♢ ♢ ♢
それからのことを俺はよく覚えていない。
いや、覚えていないというのは言葉として適切ではないか。
見えなかった。
うん。こちらのほうがしっくりくるだろう。
執事がいたはずの場所の影が消えたと思ったら次々とサハギンが倒れていく。
影だ。
影が移動したと思ったら終わっている。
俺が立ち尽くしている間にベンジャミンは事も無げに対象を粛清した。
圧倒的な武力。
熊八もジュードもビアンカもただ見ているだけで動こうとはしなかった。
動く必要がなかったのだ。
俺が再びベンジャミンの姿を捉えた時にはサハギンで息をしている者はいなくなっていた。
サハギンの血で汚れた手袋を脱ぎ捨て、新しい手袋をポケットから取り出し装着する。
「さ、後は一人ですね」
執事の顔は醜く歪んだ笑みをしていた。