フラスコの中のこびと
1
「――今日ね。僕の所属してる部署で、忘年会があったよ」
時代遅れの石炭ストーブに火を入れながら。
気弱そうな男――的場誠二が、デスクに振り返った。
どこの廃校から持ち出されたのだろう。という、とても古くなった木目のテーブルだった。
『あら。誠二さん、お酒は苦手なのではなくて?』
どこからか、上品な声が答える。
鈴の音を鳴らしたような。心地よい女性の声だった。
からかっているようだった。
この研究所を模した空間。万年研究員である独身男が、『一人』でふらふらと借家のガレージに帰ってきたものだから。
「苦手だよ。苦手だから、ちゃんと胃薬を持っていった。市販のものを五種類」
『努力の方向性が、違うのではないかしら?』
くすくす。と、笑い声がする。
おかしそうだった。
「――失礼だね。君は。研究には避けては通れない道があるんだ。僕ら製薬研究所も年末はスポンサーが絶えて火の車なように、狭い部署の中でも『先輩』と『後輩』という人間関係がある。こういうのは、断ったらヒビが入るのさ」
『そう。人間は、なんて不自由なのかしら』
「自由じゃないね。確かに」
ズズッ。と。
ようやく温まってきた部屋で、誠二はコーヒーをすする。
――『人間』は、なんて不自由なのかしら。
飲みあけの痛いアタマに、その声が響く。
そう。
誠二が先ほどから話しているのは、人間ではない。
人造人間。
再生医療を志している誠二が、ある夜。数十もの重なった『偶然』から生み出したものだ。
DNAマップ。
再生細胞理論。
そして――決して名前を明らかにできない、その『細胞』を提供してもらった人物。
それらの全ては、あらゆる先進国から渇望される医療の最先端の現場でも、決して公表できるものではなかった。
犯罪だ。目で物を見て、誠二と会話し、自分で考えたり笑うこともできる『人』を一人、この世界に生み出してしまったこと。それは、紛れもなく世界のあらゆる歴史と歩みを冒涜するものだった。
「…………」
『あら? どうしたの?』
チラと、目を向けると。
ビンの中に入った小さな少女が、楽しそうに首を傾げた。
『眠くなったのかしら? 誠二さん』
「眠くないよ」
コーヒーのカップを傾けると、中身はいつの間にか冷えてしまっていた。
雪国の夜は、これだから困る。
今夜も暖を効かせて、毛布にくるまって寝なくてはならない。もちろんビンもストーブの近く――温かな特等席において、『彼女』にも小さいが温かな服を着せねばならない。
「――今年の目標は、ハンテンかな」
『ふふ。誠二さんの裁縫の腕前も、少しずつ上がってきましたね』
「試着に、出てこれないのか」
『残念。私、自分がこの『容器』の中から出ると、死んでしまうことを知っていますから』
――そうか。と。
天井を見上げて、息をついたのはどうしてだろう。
残念さを、彼女に悟らせないためだろうか。
彼女が知ったら、きっとまた誠二を馬鹿にする口実にするだろうから。
「……君が生まれて、三百と六〇日か」
『ええ。あと五日』
そうか。五日か。と。
誠二は意味もなく卓上のカレンダーを確認する。
ホムンクルスは。
いったい、どこから魂を持ってきたのだろう。
いったい、どうすればビンから出られ、自由な空の下を歩けるようになるのだろう。
謎だった。
そして、怖いとも思った。
人知れず生み出され、存在を誰にも知られていない『彼女』が――。もし、誠二の隠している『真実』に気がついたらどうしよう。と。
彼女は、学習を続けている。
人の言葉を。
人との距離の取り方を。笑い、気を遣う方法を。
その、声が。
その、表情が――。
誠二の目には『ある人物』に似てきて、とても怖いのだ。
一年前に彼が罪を犯した、――に。
『――誠二さん。誠二さん。椅子の上でうたた寝は、危ないですよ?』
「…………」
いつの間にか微睡みに引き込まれた彼に。
ビンを内側からコツコツ。と突く彼女は、心配そうに見上げていた。
(……でも、そうですね)
彼女は。
フラスコの中のこびとは、そんな彼の疲れた寝顔を眺めながら、
(もうすぐ。私と『彼女』の記憶が重なるんです……。消えたはずの人と同化すれば、私もこの世界にいられなくなる。だから、少しくらいは自分でベッドに休む習慣をつけておいてくださいね?)
彼女は、彼に寄りそうように背中をつける。
ビンの中のこびとは、人と変わらない表情で、
(――おやすみなさい。『誠二』)
2
後日、彼女は消えた。
なんの比喩でもなく、本当にいなくなったのだ。
雪が溶けたように。
長い夢から醒めたように。
彼女がこの世界に生まれて、三六五日――。ちょうど一年目の朝に、誠二のもとから姿を消してしまった。
あるいは、知っていたのかもしれない。
彼女が、誠二が交通事故で亡くした恋人の細胞を、勝手に使ってホムンクルス化させたことを。
脳にも、細胞があり。
体にも、細胞がある。
最初は子供として泣くだけだった彼女が、やがて体も精神も成熟してきて、彼が愛していた研究所の『雪子』という女性と一体化してしまったのかもしれない。
「…………」
じゃり。と。
十年ぶりに誠二が戻ったガレージは、当時の面影を残したまま、すっかり廃墟になってしまっていた。
ガラスが散り。
片付けられていない破片が、床に散乱している。
誠二が暮らすのに耐えられず出ていったこととは関係なしに、古くなった母屋で火災があったらしい。この荒廃ぶりは、いわゆる管理を破棄された飛び火だった。
「…………――、」
フラスコに。
当時のまま残ったビンに、名前を呼ぼうとした。
でも、呼べなかった。
気づいたのだ。一年間、ずっと一緒に暮らしていた『彼女』に、自分は名前らしい名前をつけていなかったことに。
ひどいヤツだった。
今なら、自分をそう思うことができる。
怖かったに違いない。恋人の名前以外で『彼女』を呼んでしまうと、もう止まらなくなってしまいそうだったから。
果たして、自分が愛したのは。
本当に、恋人の『雪子』だったのか――。
「…………、行ってきます」
誠二は、廃墟を後にした。
今では製薬所のチームリーダーを任されている。人は出世だと憧れるかもしれないが、彼にとっては、そうすることが生み出してしまった『彼女』への償いのような気がしていた。