第五話 教室からの視線
士官学校「赤月」三階の廊下。
「フフッ、一人寂しく登校なんて、可哀想ネ?」
そう、くすくすと笑う上品な声が廊下の壁に隠れている人物から聞こえた。
ドイツ系クォーターの絢辻玲愛だ。
「……一人で来いって言ってた奴とは思えないな」
理人は、皮肉混じりに玲愛に告げる。
そして、少し考える。さっき最低な対処をしたのに声をかけてくるのか? 何か訳あって関わろうとしているのか?
そう考えていくが、結論は出ない。
ならば、彼女の言動に注視するのが一番有効な考え方か……。
。
だから、理人はある事を内心で決断する。
この女、絢辻玲愛は今日中に徹底的に素性を調べ上げ、警戒対象にする。
と、そんな事を考えながら太陽の光を反射する廊下を歩く。
その理人に、歩調を合わせて玲愛が左側に並んで、こんな事を笑いながら言う。
「フフッ、ちょっとした悪ふざけみたいなものでしょ? まぁ、それでも言い過ぎちゃったと思ったから、こうやってアナタを待ってたのよ?」
玲愛は、先程より明らかに楽しそうな表情で、はっきりと自身の思いを雰囲気で見せているかのように、言う。
分かりやすく表現するならば、好奇心溢れる子供の顔といったところ。
もし、二人がただの学生なら非常に親しい間柄だと、第三者の目線から見て明らかと言えるだろう。
しかし、この学校は似たような生活をしていながら、「普通」とは違う。
浄伐師候補の軍人に呪術教育を教えていく。つまりは、民間人とは隔絶した軍用施設なのだ。
理人はふと携帯を確認し、逆算する。
午前八時五十五分。
普段の七十パーセントくらいの速度で歩くと、最初の予鈴が鳴る五分前には教室につき、入隊式の準備は終えて担任の教官が来るのを待っているだろう。
長く伸びる、廊下。
その向こうには教室があり、そこには一年三組の名札が備え付けてある。
今日、理人と玲愛の二人が呪術教育を受ける新入生の教室だ。
なので理人は二人から近い、後ろの引き戸を引いた。
そこでポンっと、玲愛に何かが当たった。
中身が入ったペットボトルだった。蓋は開いており、当然中身が溢れて水をかぶってしまう。
それを理人は、横目で玲愛を見る。
「…………」
彼女の前髪がずぶ濡れになり、俯いているのか目元が見えない。
「民間と一緒にいるのは名家であってもネズミだろ!」
「ネズミの女は、民間と並んで、お似合いですねー」
「ネズミって呼ばれたくないなら、民間を踏んでくるんだな!」
その言葉に玲愛が震えているのが、見てとれた。悔しいのか、怒っているのか、震えている。
この民間から来た自分を見限れば、呪術名家として彼らに気分よく持ち上げられ、言いなりのなってくれるだろう……。
だが、彼女――絢辻玲愛は、
「さて、担任が来る前に、自分たちの席に行きますわよ! リヒト!」
そう口火を切った。
まるで、彼らの存在そのものがこの女の視界には映ってないかの如く、自然な様子で言った。
この一言に暴言を吐いた者たちは、まさかという驚愕。信じられないという否定、非難。言葉にならない感情を顔面に貼り付かせる。
その中を玲愛は、靴音を立てながら歩いていく。
だが、その教室の奥に一人だけ違う表情をしている者がいた。
茶色みがかった短い髪に、黒を基調としたブレザー。
それに、取り巻きらしき男子学生が、五人ほど立っている。
しかし茶髪男は、薄く微笑んでいる。
明らかにこちらを見て、微笑んでいる。
もしかしたら、この浄鬼軍の上層部にいる【法呪十三家】の名を持つ者かもしれない。
なぜなら他の学生と違って、異常な空気が座っているにも関わらず感じられる。
すると男は、不意に、右手を顔の隣にまで上げる。
しかし、そこには何も持っていない。
瞬間、その手に小さな稲妻が現れてチリチリという、鳥が鳴いたような音が耳を研ぎ澄ます事で、聞こえる。
それが何なのか、ここにいる奴は全員わかる呪術だ。それも呪符を媒介にしなければ並みの術者では使えない、雷呪の三十三・雷線だ。
この男がかなりの使い手だという事がよく分かる。
何せ、呪術の発動速度が凄まじかった。
雷線は呪力形成の手順の一つでも間違えれば、自身にはね返ってくるの危険な呪術だから、発動にかなりの神経を要するからだ。
そして、その稲妻は理人に向けて放たれた。
稲妻の到達速度はあっという間で、全身に神経が伝わると同時に真横にまで現れる。
だが、それでも『俺なら簡単に、避けられる』と理人はそう判断した。
さらに、その呪術をはね返す事も出来る。
なら、どう動くか?
なら、どういう反応をする?
脳の中で電気信号が繋がり、そんなふうに考え、実際に理人は動く。
まず、左へと目を向ける。稲妻と逆の方向に。まるで、見えていないかのように左隣に落ちているあのペットボトルを見た。
そこで稲妻がバチバチと弾ける。
小さな音が鳴り、全身を駆け抜ける痛みを感じながら、後方へと飛ばされていく。
「ぐぁっ!」
あまりの衝撃に意識が無くなりかける。そして、地面にぶつかるのを認識する。
理人が直撃した廊下の壁に、小さな円形のひび割れが出来る。
呪術の痺れで、身体が動かない。
玲愛が、「リヒト! 大丈夫ですか!」なんて叫んでいるのが分かる。薄く眼を開けると、焦りの表情でこちらに駆け寄って来る。
その玲愛を見つめながら、頭の中を一気に回転させる。
そして、
『今の呪術は、俺のより弱いな』、と。
だが、うっかり避けてこちらの実力を判断される可能性があった、と。
この学校に入る前に力も無く、役立たずの民間を演技していて本当に良かった。
さて、この芝居に気付かれてないだろうか?
それから、
「…………」
あの男の力の底はどれほどだろうか?
そんな事を考えながら、呪術耐性がない民間から来た、浄伐師候補のフリをしておく。
簡単に言えば、全身の痺れが無くなるのを、ワザと待つという事だ。
玲愛が理人の肩に触れて、動揺している。
「ワタシが誰だか分かりますか? 分かるなら二回瞬きをして下さい」
それに、理人が玲愛の目を見ながら言う。
「身体に、胸が当たりそうだ」
「…………」
理人のその言葉に、玲愛は顔をみるみる内に真っ赤に染まり、
「バ、バカなコトを、い、言ってないで早く立ちなさいよ!」
と、一気に舌を捲し立てる。
実際のところは、まだ玲愛の体が水気を帯びているせいだろうか、セーラー服ぐらいしか着ていないので彼女の皮膚にくっつき、肌の色を仄かに浮かばせていて、なんと言うか、目のやり場に困る。それにこちらに来たせいで数滴が、スカートから覗いている白い太ももに垂れているから妙に艶かしい。
まともに彼女に対する調査が出来そうにないので、勘弁して欲しかった。
それに理人は、軽く笑い上半身だけ起き上がりながら、頭を押さえ、
「くそ、一体何が起きたんだ、さっぱり分からん。ドッキリでもしてるのか、この学校……。玲愛は、何が起きたのか分かるか?」
などと玲愛にカマをかけて言ってみる。
あの茶髪男の放った呪術に気付けたのは、一緒にいた取り巻きの五人ぐらいだろう。
玲愛はそれに、一瞬困ったような顔をしてから答える。
「いえ、私も何が何だか……」
などと、少し悲しみをおびた口調で言った。
「……そうか、じゃあ教室に入るか」
と、理人が言うと玲愛はすまなそうに顔で口を開く。
「あ、あの、ワタシ、本当に何も出来なくて……」
「こうやって、話しをしてくれるだけで、十分助かっているよ」
そこに込められた皮肉に、玲愛は気付くよしもない。善良そのものの笑顔で遠慮がちに感謝の言葉を出す。
「…………」
「第一、俺みたいな奴は、ここがどんな場所か分かって入隊してるんだ、自分が悪いような顔をするなよ、玲愛」
二言目は、理人が思っている本心を打ち明ける。
そう言い終わると、何故か玲愛はあわあわした顔になり、忙しなく、
「あ、あの、今からワタシがリヒトの命を守ってあげます、……だから」
「そんなのは必要ない」
「えぇぇ!?」
そこで理人はゆっくり立ち上がり、左右を一度確認してから、そこで初めて教室の奥へと目を向ける。
男はまだ、こちらを見ている。
真っ直ぐこちらを見つめ、そしてまだ笑っている。
すると男は肩をすくめ、踵を返して身体を黒板の方へと動かした。
あの様子だと、こちらの力を見極める為に呪術を使ったのかもしれない。判断する側と思っていたら判断されていた。
この時、警戒すべき対象が一人から二人に増えたので、さすがに少し焦りの表情が表に出そうになった。
理人はその後ろ姿を見てから、言う。
「さて、もうすぐでホームルームだな」
「ですが、顔から傷が……」
「んぁ?」
理人は、自分の顔を上から順に触る。少し煤と血が混じっている。
それを服で擦りながら、
「これで、問題ないだろ?」
と玲愛にそう言ってから立ち上がり、教室に向けて歩き出した。
それに玲愛が文句を言いながら、教室に入っていく。
二人が廊下から教室に向かおうとした時、廊下に静寂と一陣の風が訪れる。
理人は小さな違和感を感じ、外を見る。玲愛もつられるように視線を向けた。
外から吹き込んだ風によって木々がざわめき、蕾をつけたばかりの桜がはらはらと落ちていく。
その光景は、日常でありえるのにどこか、異様であった。
風で落ちていった桜はまた、どこからともなく来た一陣の風によって、空へと舞い上がる。
それを幾度となく繰り返すのである。如何に理人と言えど、その異様さに気付く。
「変な、風だな」
「変なのは風じゃなくて、リヒトじゃない!」
玲愛は軽口で、理人の疑問を面白いように茶化す。
同時に、濡れている自身のセーラー服を黒いスカートのポケットからハンカチを出して、水分を拭き取っていく。
しかしおかしな風を気にはなっても、大きな不安を感じる程ではない。
理人は玲愛より先に教室へと入っていった。
だが、この当たり前の日常が異様な光景のせいで壊れ始めていた事は、一部の人間以外はまだ知らず、分からなかった。