第二話 空からの邪悪なる笑み
【神の瞳】……新潟県神上特区にいた灰宮理人と天夜優姫以下百八十三名の子供を少年兵にしようとした謎の狂った組織。
日時はもう午後三時を回った頃だろうか。
空はほどよく晴れていた。真っ白な雲たちは、ふよふよと漂いながら時折無邪気に、太陽の存在を邪魔している。太陽はそんな雲たちのことなど気にもならないのか、じりじりと地表を照らし続けている。
そんないつもの晴れ空とは裏腹に、地上は煙が立ち込める瓦礫の残骸と化していた。コンクリートで舗装されていた筈の道路は抉れ、地球の肌を露出させていた。家々は崩れ落ち、車は引っ繰り返り瓦礫に潰されている。どこからともなく聞こえてくる赤子の泣き声に、恐慌状態に陥り人に暴力を振るう者、辺りに立ち込める空気は、土と埃が混じり、建物の焼けた焦げ臭さ、大破した車から漏れ出した燃料の臭い。
そんな、壊れてしまった世界を人々は――地獄と呼ぶ。
そして、ほんの一握りの人々は焦りのままに逃げ惑い、恐怖のままに駆けている。隣で誰かが転ぼうが、誰を押し倒そうが気にも留めない。
それほどまでに混乱の極みにあった。原因はただ一つ。
今から遡る事、一時間前。
まずはささやかな変化、とは言っても信じられない光景だった……、空がいきなり真っ黒に染まり、ドーム状に膨らんだ。
そしてものの数分で一気に弾け飛び、そして天から巨大な真っ赤な光の柱が堕ちてきた。
それは街のど真ん中に降り注ぐと、わずか一瞬で凄まじいほどの爆音と熱風が襲ってきた。
突然の襲来に、ここにいた人間は自身を守るため、最小限に屈むしかなかった。
それから数分後。周りの状況を判断するために、辺り一面を見ると、
これからどうすればいいんだろう?
それが少年―――理人が眼前の光景に抱いた思いだった。
あまりにも現実離れした状況に理人は夢を見ているのではないか、という思考に切り替わりつつあった。
気の弱い人間ならば、意識を喪失するほどの事柄だが、それですら幸運の内に入る程、現状は常軌を逸していた。
視覚に入ってくる暴力的な光景とは反対に、聴覚は人の声を捉えず、自分が世界でたった独りきりなってしまったかのような不安を想起させる。
そして嗅覚は、生ごみと錆びた鉄を混ぜ合わせたかのような、不快感を覚える臭いを絶え間なく拾ってしまう。
文字通り全てが瓦礫一つ残さずに消滅していた。
言葉のアヤなんかじゃない。
残されたのは半径十キロほどの巨大なクレーターと、そこから出している黒煙だけ。
だがその災厄を免れた郊外に住む市民達を“ある人間のようなバケモノ”が襲った。
それは災厄を確認に来た警官を一瞬で細切れに引き裂き、集まり始めた野次馬たちをまるでゴミクズのように殺戮した。
“人間のようなバケモノ”の正体……それは民話や伝説などに登場する存在で、生命の根源とも言われる血を吸い、栄養源とする蘇った死人または不死の存在として知られる者―――。
吸血鬼だった。
吸血鬼は街を、村を、都市を。それは瞬く間に灰燼に帰さしめた。町の中にある静かな住宅街。村に広がる豊かな田園。都市に並ぶ高層ビル群。人類の叡智と繁栄の象徴とも呼べるそれを、彼らはいとも容易く破壊し続けた。
そんな悪夢から逃げ続けている二人の子供達がいた。
「はぁっ、はあっ……」
暗闇の中、僕たちは無我夢中で息を切らし、原形がない大通りの道を走り続ける。
夏特有の暑気が全身にまとわりつき、白いシャツが汗でぐっしょりと濡れて、不快感を感じた。
それでもここから逃げないと。 今この瞬間にもあの、死そのものの具現化たるバケモノが、その暴力を自分に振るうかもしれない……。
そう思いながらもゆっくりと歩を進めるが、じりじりと死その物に近づいていると思わずにはいられない、恐怖が全身の筋肉を硬直させ、脚が思うように前に進まない。
足下には細かく砕かれた小さなコンクリートが無数に転がり、足を踏み出す度に、耳障りな音を立てる。
その一瞬の音でさえ、とてつもなく大きな音に聞こえ、心臓を大きく跳ね上げる。
心臓の音は鼓動を上げて体内で暴れ、まるでその音が外に漏れ出てしまっているかのような錯覚を感じてしまう。
静かに、静かに。
あのバケモノに気づかれないように静かに、
走れ!
理人はその事だけを考えて、あの地下施設【神の瞳】から脱出した「親友」の優姫と一緒に走っていた。
「も、もう走れないよ……、理人」
と、右隣にいる自分と同い年で綺麗なオレンジの髪をした少女、優姫が希望を失った顔でそう言った。
まるで、生きるのを諦めたかのように。まるで、自分の死を悟ったかのように。
そんな優姫を見て奮い立たせようとした時、不意に、電柱に設置されているスピーカーから、住民に対してある音声が流れていた。
<……現在、この地区では避難警報が発令されております。住民の皆様は指示に従って山岳へ向かってください。繰り返します……>
「聞いたか、優姫! 山岳まで逃げきれれば助かるんだ!」
理人はそう声を荒げた。
確かに状況は切迫している。だが、生き残れる可能性は微かに残ってはいるのだった。
優姫はそれを聞いて、暗い顔から僅かだか明るさを見せ、うん、と小さく頷いた。
理人は、優姫の表情を見て、少しばかり安堵の表情になった。
何故なら、先ほどまでは目の前の事が信じられずに、無我夢中で懸命に走っていた。
でも今は、自分の言葉を肯定してくれる「親友」がいる。
たったそれだけの事なのに、心が暖かい気持ちになり、絶対に命を賭けてでも助けないと、と思える。
だがそこで、理人は知る事になる。自分達の前に絶望の扉がやっと開こうとしている事に。
しかし、こんな地獄のような世界になったが、ただ殺されるだけの日本ではなかった。
政府上層部は、近隣の航空自衛隊及び陸上自衛隊に、害獣駆除を名目にした災害派遣を命令した。
既に被害が局所的な物とは言え、一時間で死者だけで推定四千名を超えていると考えて、内閣は「特殊生物排除に伴う兵器使用に関する対応策」と言う名の作戦を立案した。
簡単に言えばあのバケモノを掃討する為に、必要な火器の使用を全面的に認め、尚且つ自国の軍事力を他国に見せつけると言う事だった。
命令が下されて十数分後、静寂の空の中、風を切る音が目的地に近づきつつあった。
それは航空自衛隊基地から出撃した七十二機の、国産製戦闘機FJ―7が目的地に向かい飛行している轟音。
だが、その戦闘機のコックピット内に突然、喧しいロックオン・アラートが鳴り響いた。
通常のアラートとは意味が違う事を知っていたパイロットは、一瞬にして恐怖心が体内を駆け巡る。
ヘルメットを揺らしながら視野を一杯に使い索敵すると、機体の三百メートル後ろに小さな物体が一つ見えた。
その物体は、国連軍をたった一年で撤退させた存在にして、この日本を蹂躙しに侵攻して来た吸血鬼である。
パイロットは瞬時に、現在の飛行ポジションから移動する。
急角度に水平旋回しながら、手元にある小さなボタンを押しこむ。
旋回中の機体後部から連続連射音とともにフレアが放出されたが、吸血鬼にはまるで効果が無い。
その吸血鬼は発射後の白煙を通過し、あっという間にパイロットの頭上に現れると、まるで子供が親から欲しかった玩具を貰ったかのように、嬉しそうな笑みを見せた。
……次の瞬間、邪悪な腕がパイロットを襲った。
それは、この戦闘機だけではなく離れたエリアでも同じように、回避機動や機銃を撃っている機影も同様の事態を迎えていた。
同時刻、地獄絵図と化した地上。
「………」
理人にとってそれは、とてつもない絶望だった。
涙を流せないほどの、身体中から感じる虚脱感。
自分では何も変えることも出来ない、人を殺すという技術しか持たない自分ではどうする事も出来ない。
圧倒的な無力感が理人の全身を責め立てる。
だが、絶望は終わらない。
上空から原形がほぼ無くなった燃える一機の戦闘機が、推力を失いながらバラバラと少しずつ分解し、理人と優姫のいる地上に近づいていた。
操縦不能の機体は先端からの墜落ではなく、エンジンを搭載してある後方から落ちて爆発を起こした。
突撃しての爆発であれば、残骸を残すことはなく燃え尽きただろう。
しかし、この墜落は後方からである。爆発と同時に戦闘機の翼などの部品や、安全装置が外れてしまったミサイルが吹き飛び理人が見える街一帯へと、悲劇が振り撒かれた。
その悲劇は、二人にも例外なく襲い出す。
抵抗する間もなく理人たちに襲ったのは凄まじい爆音と衝撃、そして熱風だった。
その爆風で石垣しかない家にぶつかった時、気が付いた理人は簡単に五百メートル程吹き飛ばされ、道路のど真ん中に投げ出されていた。
一瞬の出来事に理人の脳は、処理しきれない。
次に気が付いたのは全身を濡らす雨だった。肌に当たり滴るそれは、独特の滑りと錆びた鉄の臭気、そして赤い色をしていた。
「う、うわぁぁぁ!!」
理人の口から、勝手に悲鳴が飛び出た。
――何だよ!!何が起こったんだよ!!
そう理人が思考を動かし始めた時。
グシャ!
という音と共に誰かの右腕だけが地面を転がって止まる。理人は言い様のない独特の感覚が貫きそして、
それは理人の全身を恐怖で縛り上げ、その身体をその場に釘付けにさせた。
人間のような身体、異常とも言える白い肌、口からは不気味な程に伸びた犬歯。炎のようにギラギラした赤眼が、より強烈に放たれ周囲を舐め尽くすように照らしている。
そして、片手にした人間を殺す事を目的にしたであろう鋭利な剣からは、血を滴ながら光を反射して、テラテラと輝いていた。
ここからでも分かる程に実に楽しそうに口元を歪めて、獲物をじっくりと品定めしている。
その余りの光景に、理人は動くことも声を発することも出来ず、ただただ恐怖に震え呆然とするばかりだった。
だがそこで、理人は知る事になるこのバケモノと戦える日本で唯一の者達【日本浄鬼軍】の存在を。
その時、脳裏にある事を思い出す。
『……理人、また私が危ない目に遭っていたら助けてくれる?』
それは優姫が不安げに、小さな身体を振るわせ、あの地下施設にまだいなかった【あの日】に絞り出した言葉。
それに対して、理人は恐怖に駆られていた気持ちを一蹴する。
……何、自分のことでビビってるんだ――優姫を必ず護ると決めた俺が、こんな事でビビってどうするんだ!!
その時、不意に一つの影ができた。
理人は突然の事で思わず、反射的に見上げてしまう。
そこには、あのバケモノが陽を遮っていた。
手から生えている爪だけで車すら簡単に粉砕できるほど鋭いという事が、漠然的に分かった。
だがこの瞬間に、殺されるとなった今は、ただ単に理人の恐怖心を増大させるものでしかなかった。
「ぁ…………」
理人は情けないほどに小さく声を発する事しか出来なかった。
と、そこで目の前に黒い何かがやって来る。
飛び込んで来たのは、黒い服を身に纏い、腰には日本刀らしきものを差している一人の青年だった。
そして青年は素早く、腰の刀を抜き、
「刻印、発動……」
と、何かの言葉を静かに呼ぶ。すると青年の呼びかけに応えるように、純白の刀が気味が悪い濃い紫色に変わる。
青年は躊躇いもなく、それを振るう。その刀を振るう動きが、自分では見えない。その動きはあきらかに人間の限界を越えていた。
「グギャアアアァァッアア!」
あの人間のようなバケモノが真っ二つになる。痛みによるものか雄叫びを上げるが、それで終わりだった。上半身と下半身がドシャ、という音を立てて地面に倒れる。
そして、飛散した臓物が染み渡るように赤色に変えていく。
一瞬の出来事に理人は動くことさえできなかった。ただ見ていただけ。
青年は刀を手にこちらへと振り返る。
見た目はごく緩やかなウェーブがかかっている黒髪に、少し冷たそうな目つきをしているが、どこか危険な雰囲気を漂わせながら口を開いた。
「少年、お前の名前は何て言うんだ?」
理人はその視線に少し戸惑った後、自分の名前を告げた。
「……灰宮理人って言う名前だ」
それに黒髪の青年は、口元を緩め、再び言葉を紡いだ。
「【終焉の預言】通りだな……、俺の名前は霧生宗介、階級は中佐で【日本浄鬼軍】に所属している。少年、お前を保護してやろう」
理人は宗介の紹介を聞いた後、自分の決意を大きく告げた。
「……俺を、その【日本浄鬼軍】に入れてくれないか?」
理人の言葉に宗介は驚いた。この年の子供ならば、泣きわめくか、大人に助けを求めるものである。
だが、この少年、灰宮理人は軍の入隊を志願したという事に。
その疑問を、
「何故、軍に入りたい? 覚悟が無ければすぐに命を落とすぞ」
宗介は思うままに、理人へと聞いた。
「ここに来るまで、沢山の人達がよく分からないバケモノに、殺された……だから、俺がもう誰も殺されないで済むように皆を守りたい、いや俺が、護るんだ!」
小さな少年、理人は自分の持った感情を大きく爆発させた。
それに納得した宗介は言う。
「お前の覚悟は分かった、お前を俺が軍人にしてやる、だから、これからは自分の言葉に後悔するなよ、灰宮理人」
「ああ、分かった」
理人は怒気混じりで応えた。
災害でもないあのバケモノによって優姫が殺された。
だから、僕が護る……。優姫を護れなかった俺が、皆を、絶対に……。
そして、ここから――世界の混乱と天使、悪魔、邪神そして人間と吸血鬼達の、引き返す事の出来ない酷く悲しい争いが始まった。
これは、一人の少年、灰宮理人が足掻いて、苦しみ、世界を知る物語。
それから三年の月日が、あっという間に流れた。
◯主人公
名前 灰宮理人
性別 男
年齢 八歳→十二歳→十五歳
身長 百六十七センチ(成長途中)
体重 五十九キロ
経歴 市立橘小学校卒業→私立白陽学園中等部卒業
詳細 地下施設で少年兵として教育されていたが、親友と共に脱出。神上特区唯一の生存者(新潟全体で百十一名)になる。
chapter one is ......第一章◇混乱する日常編。