風葬の金魚
私はその時、一度死んだのだ。
耳が痛くなるほどの静寂である。墨で引いたような闇である。 皮膚を貫くようなひりりとした空気の冷たさである。
「……んん」
何やら柔らかいものに揺り動かされて、私はふと目を覚ました。
確か、私は馴染みの店で酒を飲んでいたはずである。上方の酒が入ったと聞いて、誘われるままに飲んだ。酒精が全身に巡り、ひっくり返ったところから記憶に無い。
痛む頭を押さえながら目を開けると、そこに白い顔があった。
切れ長の黒の瞳がにこりと笑う。目元に朱でも入れているのか、微笑むと赤の光が生まれるようだ。
小さな唇には同じ色の朱が引かれ、高く結い上げた髪は艶やかに黒く、大胆に抜いた襟からは細く白いうなじが寒々と見えた。
それは白すぎて、却って青く見えるほどである。
私はその者の膝に頭を乗せて、悠々眠っていたのである。その者は私の重い頭を苦ともせず、白い指で髪なぞ優しく梳いているのである。
「……先生、どうも、ご無沙汰様」
彼は、男の声でそういった。
その声に、私は今一度はっきりと目を覚ます。
「……アァ、お前さんは」
覚えている。その声を、私は覚えている。
「七之助」
それは、舞台に立てば当世一と称えられた女形である。彼が舞えば花も恥じらい枯れるのだと噂が立った。
しかし、華美に対する規制が始まった頃から、とんと姿を見ぬ。隠れて舞っているのかと、金持ちの旦那達は七之助探しに躍起となった。
「七之助じゃあないか」
私は、彼の古い顔なじみである。狂歌や戯曲を書いて糊口をしのいでいる私は、そのつてで七之助と出会った。出会った時から不思議と妙に気が合った。
その美しい姿に惹かれたのではない。飄々と生きる姿が痛快であったためだ。
彼はこれほど話題を集めながらも、どこか厭世的な空気を纏っていた。
幾度も酒を酌み交わし、私は「きっとお前のために話を書いてやる」などと言った。その矢先、彼は唐突に姿を消した。
「お前、今までどこに。いや……違う。そうじゃない、確かお前は……」
唐土の妲己、京の祇王の生き写しの美しさ……そんな噂名高いこの男が姿を隠して早、数ヶ月後。彼は意外なところで発見された。
「死んだ……と聞いていた」
先日、大雪が降った日のことである。酒屋で飲んだくれる私の元に訃報が届いた。
「……女と、共に死んだと」
彼は寂しい河原の水底、吉原の女と共に沈んでいた。
そこは、夏に金魚売りが金魚を飼っておくための人工的な池である。水は美しいが、深いのだ。沈めばまず助からないとそう噂に聞いた。
私の言葉を聞いて、七之助は寂しげに首を傾げる。
「先生がそう言うのなら、死んだのでしょう、私は」
私は七之助の身体から、そうっと離れる。彼はそれを咎めることもなく、膝をくずして座り直す。着物から漏れた白い足が、まるで生きたものには見えなかった。
「ここはどこだ」
周囲を見れば、そこは狭い部屋である。真ん中に七輪がひとつ、置かれている。そして部屋の隅に巨大な桶が置かれている。それだけだ。
障子の向こうは薄暗い。今は夜であろう。ざわざわと、不思議な風の音だけが響いている。
「どんな噂をお聞きになりました。七之助は、女と情死したと、そういう噂でございますね。それとも先生。死んだ私の身体をその目で御覧になりましたか」
七之助はくすくすと、おかしそうに笑う。その着物の柄を見て、私はぞうっとした。それは、彼が十八番を舞うときに身につける、金魚の柄の着物なのである。
真っ白の下地に赤い金魚が描かれている。長い尾を揺らして泳ぐ金魚の姿だ。まるで雪を映しこんだような白地に赤い金魚。雪に金魚など泳ごうはずがない。しかしその矛盾が、七之助によく似合っていた。
「その着物。お前のいつもの」
「先生、七之助の着物を覚えていらっしゃるとは義理堅い」
そして、それは彼が情死した時にも纏っていた……と、噂に聞いた。
「お前、吉原の太夫と共に死んだと」
「雪の日でございましたね。しんしんと降る、白い雪の」
「情死は当世では、罪だぞ」
「さぁ。その罪のために私はこんなところに居るのかもしれません」
「いや、本当に死んだのか、死んだのであれば、お前は幽霊というのか」
そして私も死んだのか。
呟く声が掠れる。外から聞こえる音が、ざわざわと耳に付いて離れぬ。ざわざわと、それは執拗に煩い。
しかし七之助は音など聞こえていないようだ。七輪の隅にある煙草入れに手を伸ばし、煙管を慣れた様子で口に含む。
小さな唇から白い煙がふうと吐き出された。
甘い、伽羅のような香りが広がる。
「目が覚めればこのような場所に居りました。住めば都と申しますが、幾年過ごしても都には及びませぬ。ただ、共に暮らすものがおりますので、多少の寂しさは紛れてはおります」
彼がそう言って手に持ったのは、部屋の隅に置かれていた桶である。
美しい水がたっぷり詰まった、桶である。
その澄んだ水の中、一匹の金魚が泳いでいる。それはついついと、緩やかに尾鰭を揺らめかせ泳ぐのである。それはまるで、花魁の着物のように見えた。
美しい赤絹のような鰭が揺れる。金魚は冷たい水を緩やかに旋回すると、私を見上げた。
「全くお久しぶりですねぇ。旦那」
金魚が口をきいても、もう私にさほどの驚きは無い。ここは、生きた世ではないのだ。
ただ、胸が締め付けられるように切なくなっただけである。
その声は、聞き覚えがある。ああ、そうだ私はこの声も知っている。
「……七之助、この女だな。この女と共に……」
「ええ。先生もご存じ」
七之助は優しく金魚をつついてみせた。
金魚はまるで私をからかうように、またも口を開いた。
「旦那もご存じ、花の太夫にございます」
「太夫よ、何故そんな姿に」
「さぁ。知りませぬ。分かりませぬ。冷たい川の水の中、果てた花の女のなれの果てでございます」
金魚はぴちり、と水をはね飛ばして旋回する。水滴が輪のように広がって、その中を巡る金魚は美しい。
生きたときから美しい女であった。吉原に二人はないと、そう言われていた女である。
「太夫よ。七之助を愛していたか。七之助よ、太夫をそこまで愛していたか」
「……」
「何故死んだ。何故相談しなかった。何故俺のところに駆けてこなかった。死ぬことはあるまい。俺が、いくらでも骨を折ったではないか。太夫を身請けしたければ、俺がかき集めてでも」
「いえ」
七之助は桶を優しく撫で、ふと微笑んだ。
それは愛おしい女を見て浮かべる笑みではない。
「愛などはありませぬ。ただ、寂しさから」
仏の浮かべる笑みである。
「……互いに手をとり沈みましてございます」
「……ここはどこか」
七之助は桶を手放し立ち上がった。そして音もなく障子に迫る。
彼の手が、障子を開いた。音もない。いや、音はある。煩いほどに。風の泣く声だ。その風が大地を渡る音だ。風が、竹林を揺らす音だ。
「ここは風葬の地」
障子の向こう。開け放ったそこに、深い竹林と無数の石仏があった。
「……これは」
障子を開けた途端、冷たい風が滑りこんできた。
雪の交じった風である。いつか、雪が降り始めたのだろう。
真っ暗な空に、白い物が舞っているのが見える。その向こうには背の高い竹林が広がっている。風の度にざわざわと揺れていたのは、この音であった。
その竹林に守られるように、石仏はある。
見渡す限り、数百……いや、数千。小高い丘にも、目の前の大地にも、竹林の中にも、嗚呼、この部屋の軒先の下にも、全てだ。目の届く限り、全てだ!
大地に落ちた木の葉に埋もれるように、苔の石仏が鎮座する。凄みのある静寂が耳を打った。
月もない。星も無い。あるのはただ、この部屋の薄い灯りと雪の放つ白い光だけである。
そのかすかな光に、石仏がうっすらと浮かび上がっているのだ。
「哀れな無縁仏でございます。ここはかつてより続く、風葬の地。うち捨てられた哀れな魂をこのように、石仏として祈りを捧げてございます」
「……狂いそうだ」
私は畳を掻きむしり、呻く。
石仏は、いずれも古い。笑う顔に祈る顔、宝玉を掲げ持つもの、長い時の流れに顔の欠けたもの、頭の崩れたもの、大地に埋もれ形がないものもある。いずれも顔に身体に苔が這い、その上に降り始めた雪が静かに積もるのである。
そして、いずれも揃ってこちらを見ているのである。うち捨てられた命が、私達を見ているのである。
ごぉん。と、どこかで鐘が鳴った。
その音を聞いて七之助が外へ出た。冷たい大地に降りた素足は小さく哀れなほどである。
「待て、待て。お前はどこへいく」
「お呼びでございます」
「お呼びとは、なんだ七之助……」
「戯れにございますよ。先生は、そこで横にでもなって……着物の袖をこう……持ち上げて、片腕をそっと頭の下に敷き……そう、そう、良く出来ました」
「からかうなよ」
くすくすと笑う七之助は、生きていた頃と変わらない。冗談を言う時、えくぼを作って微笑むのが愛らしくもあった。
「先生も私の舞は久々にございましょう。まぁ、そうして見ておいでなさい。うつし世では当世一と言われた女形の舞も、今では石仏のお慰み」
七之助は結っていた髪を解く。黒い波のように髪は解け、風雪に遊んだ。
「先生に見て貰えるのならば、舞う価値もあろうもの」
白い素足の向かう先は、石仏の見守る小さな舞台。
音もなく立った彼が腕を上げる。静かに、腰が落ちる。着物が風を含んで大きく膨らむ。
緩やかに彼は舞っているのである。身をそらし、震え、腕を広げ、時に大地に腰を落とし、石仏の前で舞っているのである。金魚の柄が揺らめいて、まるで雪の中を金魚が泳ぐかのように見えた。
一つ舞うたび、彼は何かを呟いている。声にならぬ声だ。それは雪の音に消えるほど儚い声だ。
多くの仏を前に、彼は祈るように何事か呟くのである。
石仏はまるで積み上がった石の塊のように、しんと鎮まり七之助を見つめている。
「ここはまるで、賽の河原ではないか」
「その通りです……ここは賽の河原。私達は罪に落ちたのです……いえ、七之助様は罪などない。全て、全て私が悪いのです」
呻く私に応えたのは、金魚となった太夫である。彼女は桶の中で、悔しそうに幾度も身悶えた。
「旦那には、本当のことをお教えしましょう」
「本当のこと……」
「七之助様は私のことなんぞ、愛していやしない。私が七之助様をたぶらかし、互いに離れぬと誓詞まで書かせたのです」
金魚の声は、どんどんとおぞましくなる。般若の声だ。私は数歩、引いた。
「私は心底恐ろしい女です。自分のものにならない七之助様を困らせ引き回し、それに飽き足らず」
金魚の小さな口が、ぱくりと水面に浮かぶ。
「刺しました」
口の奥は闇だ。
「私は、手負いの七之助様を引きずって……そう、いざとなれば女の身で、恐ろしいことができるものでございます。そうして、金魚の池に」
沈んだ。
と、太夫は呟いた。
「最期、見上げた水面に金魚が泳いでおりました。いえ、冬に金魚など、あろう筈がございません。幻です。しかし、私は確かに見たのです、金魚を……思えば散った七之助様の血も、金魚の形であったように思います。そも、七之助様が纏っておりましたのも、金魚の着物でございます。私の姿がこうなったものも、金魚の呪いにございましょう」
何故か恨みの籠もった声で太夫が言う。
そんな時であるのに、私はなぜか彼女の美しい裸体を思い出していた。月明かりさえ弾くような美しい膚であった。
私は彼女を幾度か抱いたが、不思議と男を拒絶する膚であった。想う男があったからだ。男のため、心までは私に開いてみせなかった。
しかし、この玉のような膚を、七之助は抱いてはおるまい……なぜか、そう思った。
「なぜ七之助様が金魚の着物を着て十八番で舞うかご存じ?」
「さ、さあ……」
「あら、旦那様。薄情。お忘れ?」
「お忘れと言われても……」
太夫の声が、いよいよ荒く尖った。
「旦那がお贈りになった着物でしょうに」
「先生」
視線を感じて私は顔を上げる。と、そこには金魚の着物を纏った七之助が立っている。
彼は切なく眉を寄せて、私を見つめた。……が、私には近づかず桶を抱き上げる。
そして水面を泳ぐ太夫を手でそっと包むのである。
太夫は怒るように、その手に幾度も頭をこすりつける。
「旦那は何もご存じないのよ、七之助様の思いも私の妬心も……嗚呼私は旦那が憎い。もし人の身であれば、嗚呼、嗚呼。きっと旦那を刺して殺している。金魚の身でよかった。ねぇ、良かった」
「太夫」
「ええ、ええ、悔し悔し……」
「太夫、落ち着いて」
七之助の声など届かないように、太夫は水を跳ね上げる。
「七之助様。いっそ、この桶を石仏にぶつけてぱりんと割って」
「太夫。私達は、寂しい物同士でありましょう。太夫が逝ってしまえば、私は何を楽しみにこの風葬の地に生きれば良い」
七之助は石仏を見つめてそういった。
数千もの石仏は皆、揃ってこちらを見ている。白い雪は石仏にしんしん積もる。苔の緑と白の雪が混じり合い、それはひどく……そう、不思議なほどに、美しかった。
よくみれば、皆、微笑んでいるのである。手を合わせ、静かに祈っているのである。恐ろしいことなど何もない。ただ、美しいばかりの風葬の地。
「……七之助」
「先生」
七之助は微笑んだ。線の細い男である。生きていた頃から、あちらの世に足を踏み入れているような儚い美しさを持つ男であった。
彼はそうっと、私の身体を押した。その唇が小さく言葉を結ぶ。それは先ほど、彼が舞っている時にも呟いていた言葉だ。
南無阿弥陀仏。
彼は、そう呟いている。
「七之助」
「先生はまだ、こんな所に来ちゃぁいけません」
そんな男がいよいよ、死んだ。石仏のために舞っている。それを思うと、ひどく胸が締め付けられた。
「俺は、何をしてやれる。お前に、太夫に」
「先生はいつか、私のために物語を書いてくれると……そう仰ってましたね」
しばし悩んだ後、七之助はそう言った。もう太夫は口もきかない。
「心中物の、お話を書いてくださいまし。それを私達の供養と思って」
七之助の目には涙。流れるそれは、白い頬を伝って金魚の桶に沈む。
「綺麗な、それは綺麗なお話を書いてくださいまし」
そう言って、七之助の白い腕が私を押す。気がつけば私の背後は一面の雪。まるで転がり落ちるように冷たいそれに落ちた瞬間、私は目を覚ました。
「やだよ、先生。こんな所で酔って眠ってさ」
はたと耳元で声が聞こえ、同時に私は大いに震えた。
道ばたの道祖神に抱きつくように、私は眠っていたのである。いつの間に降り出したのか、白い雪がしんしんと私の身体に積もっている。
その雪を必死に払ってくれているのは、茶屋の娘である。
まだあどけないが、妙に大人びた目で私を見つめ、くすくすと笑う。
「酔っ払って眠っちゃったのねえ。花街帰りの色男。まだ白粉の匂いが染みついているよ」
まだ酒の残り香が毒のように身体を巡っている。私は痛む頭を押さえて、よろよろと立ち上がった。足の先まで冷え、痛いほどだ。今更、震えが出る。
支えてくれた女の、ふっくらした手を握り、私は呟いた。
「……なあ。知っているか、先日、吉原の太夫と女形の七之助が情死したあの噂」
「ええ、ええ。恐ろしい話です。知ってますか先生。あれは金魚の呪いだと」
照れるように髪などをなでつける女に構わず、私は必死にその先を促す。
「金魚だと?」
「太夫と七之助さんが書いた誓詞。それに血判が押してあるのですが、その模様がどうみても金魚の形。最期、二人が流した血は雪に染みて、それもまた金魚の形」
恐ろしい恐ろしい。と女は言う。言いながらもその口元が妙におかしそうに歪んでいるのが不気味であった。
「あら、やだ。こんなところにも、金魚のような……」
女が私に身を寄せ、戯れるように震えてみせる。指さした先を見れば、雪の中に赤い染みがあった。
見上げれば、そこには柿の木。熟れすぎた柿の実が自重に耐えかね落ちたのである。
ぐしゃりと潰れた柿の実は、雪に泳ぐ金魚の形となっていた。
私は、女の手を振り払い、ふらつく足で歩きはじめた。雪は積もり、歩くたびにぎしぎしと音を立てるのである。
七之助と太夫の暮らすあの地は、いかほど雪が積もったであろうか。
「あら先生。どちらへ」
「帰って話を書く」
「まぁ、先生の新作。どんなお話?」
「心中物だ」
あら。と女が素っ頓狂な声を上げた。
「駄目ですよ。心中物は御禁制。先生、捕まっちゃう」
以前、江戸中の戯曲家が、狂歌師が、浮世絵師が、まるで取り憑かれたように心中物を描いた。
しかし、その物語に惹かれ多くの男女が情死。お上がそれを規制したのはつい先日のことだ。
禁じられたお題は蜜の味だ。何人もの反骨者がそれを無視して描き、捕らえられた。もし捕まればこの時期、牢死するやもしれない。それでも、書かずにはいられない。
「いいんだ」
いいんだ。私は繰り返した。物語は既に頭の中に浮んでいる。まるで別な誰かが物語を編んでいるように。
「恐らく俺も、風葬の地に魅入られて……」
頭の中に、冷たい風が吹く。雪の香りと、甘い甘い煙草の香り。二人の声と雪野に響く鐘の音が、振り払っても振り払っても離れない。
「狂ってしまったのかもしれない」
ごうん。
鐘が聞こえる。
南無阿弥陀仏。
七之助の小さな声が聞こえる。
私は風葬の地に囚われたのかもしれない。いずれ狂ってしまったのかもしれない。
南無阿弥陀仏。
私も気がつけば呟いている。
それは、七之助の声となり太夫の声となり、やがて雪となって大地に積もった。
残ったものは、ただ積雪に続く私の足跡だけである。