人暦2823年
そこはとある街の郊外、その一角に張られた遊民達の幕屋の一つ……
その中へと担ぎ込まれた一人の女性がいた。彼女は大きなお腹を抱え、苦痛で額に汗を滲ませていた。そう、彼女は臨月の妊婦であった。
すぐさま彼女に続いて、幾人かの年配の女性達がその幕屋に駆け込んで行く。幕屋の中で忙しく動き回る女性達は、時に幕屋から顔を出し、周囲で狼狽える男達に声をかけ、指示を飛ばしている。その様子から出産が間近なことは遠目にも窺えた。
幕屋の中は慌しさに満ちていた。担ぎ込まれた妊婦の出産は難産になりそうな気配を見せ始めていたからだ。生みの苦しみに悶える彼女の中で、女性達の顔には微かな不安の翳りが射し始める。何故なら、彼女達が頼みとする方が今朝方から姿を見せていなかったからだ。
その方が不意に姿を消すこと事態がない訳ではなかったが、この緊急の時に姿を消すとは思っていなかっただけに、彼女達の心中は焦りの色合いがより漂うこととなっていた。
そんな騒然とした幕屋の帳が開けられた。幕屋を開けたのは灰色の頭巾と長衣を纏ったものであった。帳を押し上げたその手は、くすんだ灰色がかった黒い鱗に覆われていた。それは、老いを迎えた黒鱗の民特有の色合いである。そして、頭巾の中に隠された顔は、竜人族のそれである。それは"彼女"であった。遊民とともに人間の国々を渡り歩き、六百年余りの時が流れ、人間よりも長命な……いや、竜人族の内でも長命である半竜の"彼女"の身にも老いの翳りが色濃く降り積もっていた。
「……お婆様!」
「……今まで何処に!?」
駆け寄る女性達に"彼女"は、軽く手を上げて言葉を制した。そして、"彼女"は自身を見詰める女性達の間を縫う様に歩みながら、言葉を返していく。
「何ね・・・星の巡りで、今日がこの日と分かっていたからね。少しこれを採りに行っていたんだよ。」
そう言って"彼女"は懐から幾枚かの摘んだばかりらしい薬草を取り出す。
「さ、これをこの子には噛ませて、産湯の準備は出来ているのかい? ……それから…………」
近寄って来た女性達に薬草を手渡しながら、"彼女"は幾つかの指示を飛ばす。
"彼女"の指示の元、ようやく妊婦の出産が始められようとしていた。
この時の出産は、予想通りに難産となった。その中にあって、"彼女"の適切な指示によって、幾つかの危機を脱しながら、母子ともに無事で出産を終えることが出来た。
そうして、取り上げた赤子を抱き、"彼女"は赤子の産声を愛しげに聞いていた。
「……よく元気に生まれてくれた…………おや……これは……」
一頻り産声を上げた赤子が目を開き、抱き上げている"彼女"を見上げた時・・・その瞳を見た"彼女"は驚きの声を漏らした。その声に出産に立ち会っていた女性達が集まってきた。
「……お婆様、どうなさったのです……?」
「……これは……!」
「まぁ……珍しい。これは……?」
赤子のその瞳は、虹彩が金色に輝き、その瞳孔は針の如き細いものであった。その異形の瞳に驚く女性達の中で、懐かしそうに言葉を紡ぐ者――"彼女"の姿があった。
「……"竜瞳"…………そうだった。この子は、あの子の裔であったんだねぇ……」
慈しみに満ちた瞳で、赤子を見詰める"彼女"は、この赤子にかつての養い子の名を与えることを思い描いていた。