人暦2304年
その日、天上には幾体もの竜族の姿があった。
明け方に、大陸中に響くかに思える咆哮が轟いた後、次々と竜や飛竜が、東の空目指して飛行する姿を西方大陸中の者が目にしていた。
天幕の影からその状景を見上げていた"彼女"の元に、一人の少年が駆け寄ってきた。少年に優しげな視線を投げかけながら、"彼女"は問いかける。
「……どうしたんだい、トリアス?」
「婆様! ……竜が東の方に飛んで行くよ。」
「そうだねぇ……飛んでゆくねぇ……」
灰色の目深な頭巾を被り、灰色の長衣を纏った"彼女"の姿は有鱗の者のそれであった。そんな彼女の元に一人の女性が駆け寄ってきた。
「これ、トリアス! ……"黒鱗のお方"様のお休みを邪魔してはいけませんと、あれほど……」
「……ビエナ、妾のことは構わないから……」
「お婆様……そうですか。」
"彼女"の言葉に、女性は"彼女"に一礼をして、少し心配そうな顔で天幕から出て行った。
幼かったリュッセルを連れ、竜戦士の力を持って彼を守る"彼女"の話は、誰が言うとなく広まり、行く宛のない者達が次第に"彼女"達の元へと集まりだした。そして、後の世に「遊民」と称される集団の一角を築いていく。
そして"彼女"は、そうして集まってきた人々から、"黒鱗のお方"、あるいは"黒鱗のお婆"と呼ばれて敬われる存在になっていた。
何処か寂しそうな顔で見上げる"彼女"の横顔を見上げながら、トリアスと呼ばれた少年は問いかける。
「婆様……どうして、竜は東に飛んでいくの?」
少し寂しさの残る、しかし優しさを湛えた瞳で少年を見返した"彼女"は、穏やかな声で答えを返す。
「…………もう、人の世を正し終えたと、偉大なる神竜や竜王の方々がご裁断なさったのだよ……竜や亜竜達は、これから本来帰るべき場所へと帰って行くのだよ。」
そう言って空を仰ぎ見る"彼女"の裾が、不意に引っ張られた。振り返ると真剣な面持ちで言い縋ってきた。
「婆様! ……婆様は、帰ったりしないよね? ……ね!?」
言い縋る少年――トリアスの頭を撫でながら、"彼女"は穏やかな声で答えた。
「妾は帰ったりしないよ……もう、帰ることは出来ないのだから……」
「…………え……!?」
答えを返した"彼女"の表情には、隠しきれぬ寂しさが漂っていた。