人暦2179年
"麗夕姫"によって、有鱗の民からの追放を言い渡されてから九年余りの時が流れた。
"彼女"はその間、あてもなく人間の地――かつてアティス王国と呼ばれた地――を放浪し続けていた。
その姿は、かつての美しくも勇ましき黒鱗の竜戦士のそれではない。長き黒髪に浅黒き肌を持つ人間の女性の姿をしていた。この頃の"彼女"は、神竜魔法の「人化」の術を用いて人間の姿に変じていた。だが、"彼女"の髪は梳られることもなく、その浅黒き顔には覇気――いや、気力と言ったものは映し出してはいなかった。
そんな"彼女"は、国を失い寄る辺なき難民達に混じって各地を放浪していた。竜や亜竜によって住む町を破壊され、親族・知人を殺された人々の中にあって、"彼女"は孤独であった。
そんな日々の中で、"彼女"は打ち捨てられた小都市の廃墟に宿を求めた。
その地は最近、多くの有鱗の民――竜や亜竜、それに竜人族――によって破壊され、住人も虐殺されたらしいことが、瓦礫の切断面やその場に漂う血臭から窺い知れた。
それ故にか、放浪を続ける人々も、この地へ足を運ぶことを躊躇う者が多かった。そんな中で、"彼女"がその地に足を運んだのは、人間と比して有鱗の民を恐れる心が薄かったからやも知れぬが、実の所は"彼女"は測り切れてはいなかった。
"彼女"は瓦礫の積もる街路を彷徨い歩き、とある屋敷の一つに足を踏み入れた。そこは、他の廃屋と比して原形を留めており、宿としての用を果たせそうに見えた。
内部は閑散としていたが、その屋敷に踏み込んだ"彼女"は、そんな中で奇妙な血臭を嗅ぎ取った。どこがどう奇妙なのか理解出来ぬまま、"彼女"はその血臭の元を辿って歩を進めて行った。玄関から屋敷の奥、屋敷の奥から階段……そして、階段を上がって二階、それもその奥の一室に、その血臭の源があった。
そこにあったのは、血塗れの二つの死体……いや、瀕死の二人の姿だった。
一人は女性、その耳は鳥の翼の如き羽翼の形を取り、その四肢は鳥のそれの如く鱗に覆われた鍵爪状の形をなしていた。その姿を目にして、"彼女"は何処かで聞いた話を思い出していた。その者は、北方の大陸に棲む知識神の眷属たる亜人――トート族の女性だった。
そしてもう一人は、その女性が掻き抱く幼子であった。乳飲み子と言う程ではないにしろ、物心の付かぬ年頃であろう男の子で、その羽翼状の耳が女性との関係を窺わせた。
「!! …………もし、大丈夫ですか?」
部屋の惨状に一瞬目を見張った"彼女"は、次の瞬間には二人の元に駆け寄っていた。
近付いて見るとよく分かるのだが、女性の身体には幾重にも裂傷が走っていた。
それは竜人族の爪牙による物であることが察せられた。一部のトート族が、ユロシア帝国と称された人間の国と交流があったらしいことは、放浪の間に聞き知っていたこともあり、おそらくは都市の住人の一人として、過激な有鱗の民の戦士によって襲われたのであろうことが察せられた。
そして、女性の抱える幼子に目を落とした時、"彼女"の目は再度驚きに見開かれた。幼子の服は胸元――心臓があるであろう位置――に大きく裂けた跡があり、その箇所を中心として幼子の全身に渡り、血で"彼女"の知らぬ文字がびっしりと描かれていた。その血文字は光の加減もあってか、微かに緑味がかった燐光を明滅させている様に見えた。
その血文字を目にして、"彼女"は理解した。"彼女"が感じた奇妙な血臭の正体は、この血文字であったのだ。
駆け寄り声をかけた"彼女"の声を、半拍置いて翼耳の女性は気が付いた。ゆったりした動きで――それでいて全力を傾けていることが分かる動きで――彼女は、黒髪の"彼女"の方を振り返った。
「…………あ、貴女は…………」
「大丈夫ですか? ……血を拭って手当てを……」
切れ切れの声で言葉を紡ぐ翼耳の女性の声を制し、"彼女"は拙いながらも手当てを行おうと手持ちの品に目を落とそうとした時、意外な程の力で"彼女"は袖が引かれた。
「……私のことは……私のことは良いのです…………この子を……私の子のことを……どうか……やっと、やっと蘇らせることが出来たのです。この子……リュッセルのこと……どうか……お願い……しま…………」
女性は言うべき言葉を紡ぎきれぬまま、その瞳に命の光を失い、袖を掴む力も抜けていた。
"彼女"はその言葉を聞き、トート族について聞いた話のある一節を思い出していた。トート族は、自らの血を媒介に、自身の寿命や命を削ることで、他者の蘇生を行う能力を有すると言う話を……
翌朝、息絶えた女性を屋敷近くの地に葬ると、"彼女"はその忘れ形見である幼子を旅の道連れとした。
リュッセルと呼ばれた幼子は、幼いながらも母の死を受け入れ、その死目を看取った"彼女"に懐くようになっていった。
"彼女"を見上げる幼子の瞳は、銀色をした竜のそれに似た瞳をしていた。それは、トート族の者に稀に現れる"竜瞳"と呼ばれるもので、精霊や魔力の流れを感じ取り、ある程度制御する力を持つと言うことを、後に"彼女"は知ることとなる。
ともあれ、幼子のその瞳は、"彼女"の心に深く降り積もった孤独を少しずつだが癒して行った。