そのにじゅうきゅう
それが偶然ならば、なんて神様は残酷なんだろう。
古賀君が支払っている間、少し後ろで待っていると、数人の男女が入ってきた。満席だった所為か、ウエイターのお兄さんが少々お待ちください、と声を掛けるのを何となく見ていて、血の気が引いた。
ひょっとしたら、どこかですれ違うかも知れない…どこか、別の場所で出会うかもしれない。
そんな期待が、全く無いわけじゃなかった。
くらり、と視界が揺れる。一番逢いたくて、一番逢いたくなかった存在がそこにいた。
「桐子?」
支払いを済ませた古賀君が、そんな私に気が付いて声を掛けると、反応したのは、その人物ではなく、別の青年だった。
「…ひょっとして…人違いなら申し訳ないけれど。桐子?佐野 桐子?」
何、ナンパしてるんだよ、とからかう声が聞こえた。もう、その声音を忘れて久しい…聞いた途端、フラッシュバックする出来事に思わず自分の身体を抱きしめる。
「桐子」
ゆっくりと肩に手が回され、抱き寄せられる感蝕に我に返った。目の前に古賀君の顔が映る。うわ、ドアップ、じゃなくて。
「…ごめん。大丈夫」
笑って見せて、腕から抜け出そうとして出来なかった。加えられる力に苦笑いする。傍から見れば、いい加減バカップルだ。
「隆也さん、ですよね?はい、お久しぶりです、桐子です」
無理矢理に笑顔を作る、というか、身体をしゃん、と立たせると方に回された力が少し緩んだ。
「やっぱり…名前を聞いて、もしかして、と思ったんだ。…元気か?」
「ありがとうございます。おじさま、おばさまはお変わりありませんか」
「ああ…おばさんも元気だ」
その言葉に、思わず眉を寄せてしまう。丁度その時、席が空いたと店の人が呼びに来た。ナイスタイミングだ、ねーさん。
「顔を見えて良かったよ…元気で」
「隆也さんもお元気で」
頭を下げると、古賀君の腕に力が込められるのがわかった。そのまま店を出ると、大きく息を吐く。
「大丈夫か?」
気遣う柔らかな声。「うん」と頷いて離れようとしても、強い力がそれをさせない。
「古賀君?」
ふと気づく、微かに香る煙草の匂い。
「…吸ってるわね、未成年」
「突っ込むところは、そこか」
力が緩んだ隙に、身体を離す。少し眉を寄せた表情に笑って返す。
車の中の音はカーステレオだけ。こんな無言の空間でも居心地は悪くない。…そういう時間と関係を築き上げてきたのだと改めて思う。
「家の両親ね、再婚なの」
窓の外に映る夜景に視線を向けたまま、やっぱり説明は必要でしょう。
「話したくないなら」
ううん、と首を振って運転席を見た。一瞬気遣わしげな視線がぶつかる。すぐに前を向いたけど、いや、そうしていただかないと怖いですから、はい。
「連れ子同士の再婚…でもね、兄貴とは半分だけど血が繋がっているのよ」
それを意味することが分からないほど、古賀君は馬鹿じゃない。一瞬息を飲んで「そうか」とだけ呟いた。
「さっき出会ったのは実の母方の従兄。我ながら良く分かっちゃったって思ったわよ」
ごめんね、たっくん。――そう、呼んでいた『場所』に想いを馳せながら、心の中で謝る。今回だけは、悪者にさせてもらうね。
「実母の事は嫌いじゃないのよ。でもね、母に家を出させたのは私、かもしれない」
「桐子」
咎める響き。大丈夫だからと笑って見せて、視線を再び窓の外に移す。
「今の家が大事なの。義母と兄と弟と…ああ、忘れちゃ駄目よね、父も」
影が薄いなぁ、お父さん。まぁ、子供3人と奥さん養わなきゃいけないから、いくらバブル全開のこの時代とはいえ、大変だよね。
シートに身体を預け目を閉じる。薄れ掛けていた思い出が、昨日の様に思い出される。今のこの身体が記憶したものでは無いはずなのに…不思議だと思う。一体「記憶」とは何なのだろう。
「だから、逢いたくなかった」――『彼に』との言葉を飲み込む。逢いたくなかったのは、たっくんではない他の男性。
視界の隅に映った何も知らず屈託無く笑う彼と、彼に寄りそう女性。
ふと、その時心の中を過ぎった違和感。
ウインカーの音がして、車が駐車場に入っていく。海の見える駐車場。何時の間にこんな所に来ていたんだ?
流石に、季節はずれなのと平日の夜だからか、車は殆ど無かった。全くって訳じゃないけれど。
頬に手が置かれる感蝕がして、振り返ると古賀君の指がそっと目尻をなぞっていた。何時の間にか泣いていたらしい。
「ごめんね」
慌てて鞄からハンカチを取り出そうとして、止められる。
ゆっくりと降りてきた彼の唇に、私は動くことが出来なかった。




