ウソツキの上にもツキは昇る
月夜の森を肥えた羊が跳ねていく。
跳ねた羊は首を伸ばして、キリンに変わって月を飲み込む。
キリンの腹はきらきら光って、弾けて星をばらまいた。
星はわさわさ降り注いで、海の中へと消えてった。
「…が、由賀っ」
「敵襲か!?」
腹に喰らった衝撃に錯乱して、枕元の刀に手を伸ばす。
けれど、その手が刀に触れる前に、額がかちわれた。
と思うくらいの衝撃に、その手は額を押さえていた。
「っ!!」
「由賀、起きたか?」
「…へ?」
耳慣れた声に目を開けると覗き込むようにそこにいたのは、
「ひぃ様!?」
「騒がしいぞ」
なんでもないと云った様子で、齢10にもみたない娘に目を細められ、慌てて居住まいを正す。
ひぃ様こと、沙也姫様は、由賀の仕える主の娘だ。
そして、ここは由賀の部屋。
「ど、どうして此処に?」
「何を云っている。今日は外に連れていけとゆうた」
「あ」
忘れていたけれど、確かに約束した。
「よぉ、由賀坊。ようやっと起きたんか」
「え、端多さん?」
がらりと開いた襖の向こうに立つのは、大きな酒徳利を持つ黒い袈裟掛けの有髪和尚。
「おぉ、端多。父様から許可がでたのか?」
「ばっちりってもんよ、姫さん」
酒徳利を傾けて、端多はごくごくと喉を鳴らした。
朝から酩酊も良いところだ。
二升は入ろうかという徳利から最後の一滴を飲み干して、端多が顔をあげる。
「ぼんやりしてんなぁ、坊。日がくれちまうぜ?」
「よく、そんな状態でお目見えが敵いましたね」
「そらぁ、俺様の人徳ってもんだ」
けけけと悪戯っ子のように笑って、端多はひょいと徳利を置くと、由賀の布団の上の沙也姫を拾い上げた。
仏教には五戒と云う教えがある。
不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒。
それをあっさり破っているのだから、端多は和尚とは名ばかりの生臭坊主である。
しかし、覚えは目覚ましい。
悪名と云うべきか。
こと戦術にかけては右に出るものがいないと云われる程だった。
「む、何をするのだ。端多」
「姫さんがそこにいたら、着替えられんでしょう」
先に玄関で待ってましょうや-とんと下に降ろされると、沙也は仕方ないとばかりに息をつく。
「由賀、三分後だぞ」
「は、はい」
すたすたと部屋を出ていく女童を見送って、由賀は小さく溜息を零した。
「えらく気に入られてんな、由賀坊」
「何ででしょうかね?」
至極楽しそうな端多を困惑気味に見上げる。
由賀は22。
部屋を与えられているのは、深夜番という役回り故で、下っ端も下っ端だ。
歳が近いという意味ならば、古くからこの屋敷に仕える佐々木の子息は18だし、昨年からいるという奉公人の須玉は15である。
けれど沙也が訪れるのは、決まって由賀の処だ。
そのうち飽きるかと思ったのに、ちっともそれは訪れない。
「さぁてな。ほれ、早く支度しないと、姫さんが待ちくたびれるぞ」
「あ、はい」
この蓬莱国には七宝珠があるという。
それは富と名声の象徴で、ひとつでも手に入れることが、貴族達の専らの関心事である。
由賀の仕える主も同様で、そのために雇われたのが由賀であり、端多だ。
尤も、主はもうすでに一つ宝珠を手にしているから、それを護ると云う理由もあるのだろう。
「いい天気だなっ」
「あの、ひぃ様」
「ん?」
率先して歩く沙也に続くのは、由賀と端多の二人だけ。
本来、主が出歩くにしても、沙也が出歩くにしても、何人かのお付きがつくのだと云うのに。
「菱丸様達は?」
沙也のボディーガードの筆頭をあげると、途端に沙也はにこりと笑う。
「今日は休みだ。ぞろぞろつかれては、面倒で敵わんからな」
「え?」
「端多に、父様を説得してもらったのだ」
ぎょっとして端多を振り返れば、いつものようにけけけと笑うだけだ。
由賀は小さく息を零して、沙也に向き直る。
「…ひぃ様、外は危ないのですよ?菱丸様達なしで街歩きなど」
「由賀がいるではないか」
「…は?」
至極当然と云った言葉に、由賀は一瞬動きを止めた。
「由賀がいるから平気だ。さぁ、いくぞ」
ぶはっと堪え切れなくなった様子で端多が吹き出す。
「端多さん、あの」
「坊。お前自身より、姫さんのがお前の刀を信じてるな」
「過大に信じられても、困るんですけど」
「過大ではないぞ。由賀が振るう刀は雲を切るではないか」
あの青空を忘れないのだ-屈託なく笑う沙也に虚を突かれて、由賀は言葉を失った。
由賀が沙也の屋敷に雇われたのは、至極単純な理由だ。
暴漢に襲われていた沙也達を助けた。
その腕を見込まれたのだ。
菱丸達が苦戦していた相手を、いとも簡単に。
と云われているが、由賀に云わせればそれは得物の問題だ。
二本差しで飛び道具も使える由賀と、曲弓刀の菱丸では対応策も違う。
襲撃者達が菱丸対応の攻撃を仕掛けていたのだから、由賀が対処できたのはそのせいである。
因みに云うなら、最後まで立っていた男に居合を放った時に裂けるように空が晴れたのは偶然としか云いようがない。
再三違うと伝えても、沙也はそれを信じてはくれないのだけれど。
「いいじゃねぇの」
嬉々として歩く沙也の後ろで、端多がけけけと悪戯っぽく笑う。
「良くないですよ。端多さん酔っ払いだし、ひぃ様は危機感ないし」
「運やツキも実力のうちだ、由賀坊。少なくともお前さんは良く知ってるんじゃねぇの」
ふわりと混ぜ込まれた鋭い言葉に、由賀は反射的に跳ね上がりそうになる手を押さえた。
込められた殺気。
その烈しさに思わず。
「端多さん、貴方は」
沙也の屋敷に雇われて出逢った。
付き合いはまだ半年にも満たない。
過去を、仄めかせた覚えもないのに、彼は多分。
いや、確かに、知っている。
「この程度の殺気で地が出てどうすんだ、坊。嘘つきのままでいるつもりなんだろ?」
「この程度、ですか」
視線だけで、言葉だけで、人を壊せそうな威力を持っているのに何を云うのか。
端多はいつものようにけけけと軽く笑った。
「坊が嘘つきでいるうちは、この程度ってことだ」
「心しておきます」
「由賀!端多!早くこんかっ」
弾けるような沙也の声に、端多と視線を合わせて肩を竦める。
「はい、ただいま。ひぃ様」
「はいよ、姫さん」
雇われならず者をやっていたのは、随分と長い時間だった気もするが、考えてみればほんの一瞬だった気もする。
二本差しの逆毛銀羊。
知らぬ者がいないほど知れ渡った名は、影者すらも脅かした。
由賀であって由賀でない者。
由賀(羊)の皮を被った化物(銀狼)だ。
羊のように穏やかな姿で、狼のような獰猛さを併せ持つ。
由賀に憑く無邪気で残酷な獣。
由賀の生まれた村には小さな小さな祠があって、その祠の中で眠っていたのが飯綱だった。
飯綱狐、ともいわれるそれは、憑き物筋。
鉄砲水に見舞われた村を救う代わりに、器を寄越せと宣った飯綱は、今は由賀の奥底で眠っている。
久しぶりに外へ出て、はしゃぎ回ったせいだろう。
器にされた由賀には、もう帰る場所はないが、飯綱のことを考えるその時だけ、郷愁の想いが胸を過ぎる。
『七宝珠を集めな。それで俺の身体が作れる。そしたらお前から抜けてやんよ』
飯綱が囁いた言葉を思い出して、由賀は青空を仰いだ。
出来るならもう少し、小さなお姫様と変わった和尚と暮らしてみたい気もするが、きっと飯綱が目覚めれば、嬉々として端多に挑むだろう。
でも、まぁ、それもきっともう少し先だ。
飯綱は呑気な夢を見ている。
それになにより
「運もツキも実力のうち、だそうだから」
「うん?何が云ったか?由賀」
きょとんと顔をあげた沙也ににこりと笑う。
「今日も良い夢が見られそうです」
「そうか。明日も遊ぶぞ。由賀、端多」
「解りました」
「はは。姫さんの仰せのままに」
青空を背泳ぐ桃色の熊。
雲の波間を潜った先で、赤いライオンぐわりと吠える。
鬣に住む家守が三匹。
カメレオンの舌に搦め捕られて、小石に変わって泉に沈む。
水の底には小さな祠。
祠で眠る無邪気な獣。
まだまだ夢底。
目覚めは遠い。
【三題噺】酩酊、青空、郷愁